女のみづうみ(1966) ☆☆☆

監督:吉田喜重
原作:川端康成
脚本:石堂淑朗/大野靖子/吉田喜重
撮影:鈴木達夫
音楽:池野成

出演:
岡田茉莉子 (水木宮子)
芦田伸介 (夫・水木有造)
早川保 (宮子の愛人・北野)
露口茂 (桜井銀平)

       *        *        *

露口茂って絶対モロボシ・ダンに似てると思う。

『太陽に吠えろ!』のヤマさん以外にほとんど知らない露口茂の若かりし頃の映画。『ウルトラセブン』のモロボシダンを演じた森次浩司をもうちょっと図太くした感じ。良い役者だとおもうのだけど。個人的にはかなり好きな日本人の役者さんの一人である。

石堂淑朗がシナリオを書いている以上、たとえ原作が川端康成でも、観念論的なものになるのは仕方がない。本人は面白いつもりで書いているが、実は傍から見ると面白くないという典型的な作品。ただ、どうも我々からすこしい上の世代だと、こういう作品が好きらしい(苦笑)。
ただ、「何をもって良しとするのか」・・というビジョンが実は見えてこないので、見終わった後に「だから何?」といいたくなる。ま、これは石堂さんの場合はほとんどそうだといえるのだけど。
おそらく、これは私の勝手な推測なのだが、時代的には左派的話がおおい時期で、どこか作品のコアなる部分がそうなっているのだけど、石堂さん自身が保守派だったこともあり、作品で描かれそうになっている左派的観念をどこか否定して書いてしまうがゆえに、「結局なに?」になってしまうのではないだろうか?

吉田喜重の画面もあいかわらずシュールなのにしっかりしているのでここちよい。この人の画面をみるだけでも、みる価値はある。とくに後半の浜辺での難破船(壊れて放棄された船)のあたりの望遠画面はそれだけで絵になる。しかし、物語は生産性というものがない。ま、これはヌーベルバーグや、アメリカン・ニューシネマの特徴のひとつで、この時代の病気みたいなものなので仕方がないともいえる。なので一般的に楽しめるかといえば疑問である。しかし、映像業界に入る人にとっては、見ておかなければならない人の一人だと思う。

<あらすじ>
某一流デパートの営業課長・水木有造(芦田伸介)と結婚して8年になる妻・宮子(岡田茉莉子)は、彼女の家のリフォーム担当のデザイナーの北野(早川保)と不倫関係にある。しかし、何かにつけて感情を投資しようとしない宮子とのセックスに情熱を感じない北野は、「せめてあなたとの思い出がほしい」という。宮子のヌードを撮らせて欲しいというのだ。特に拒否するわけでもなく、「いいわよ」と答える宮子。
しかしネガが出来ると、自分の裸は最初は自分で見たいとと言い、そのフィルムをバックにしまって返って行く。事件が起きたのはその帰り道だった。何者かにつけられた宮子は、迫ってくる男にそのハンドバッグをたたきつけてなんとか逃げて返った。しかし、そのバックは男の手に渡った。やがて男から電話があった。
宮子は、ネガを取り戻すために、その男と会うことにする。彼は桜井(露口茂)という男だった。
宮子はすでに、男に身体を与えるつもりで来ていた。しかし、厄介なことに、愛人の北野が愛なのか正義感なのかわからないが、追いかけてきてしまった。このあたりから物語がこじれてくる。

物語のポイントは、意外と簡単なのである。
開き直ってしまえば、総てはどうでもいいこと。感情を投資しなければ、どうでもいいこと。それに徹しようとする宮子だが、ぎりぎりのところでその決心はいつも出来ない。それが出来なければ弱みをにぎられてしまう。そうすれば、自分はその男(運命といったほうがいいかもしれない)に支配されてしまう。
そのせめぎあいが何度が物語のなかで繰り返される。


その後、浜辺を歩いていると、映画を撮影している一団のシーンが入る。でも、あれはないほうが良かったなあ。絵もよくなかったし、ちと押し付けがましかったかも。
どこぞの映画スタッフが恋人同士が浜辺で戯れるシーンを撮っているのだけど、主演の女優さんが裸になるシーンでは吹き替え役の人がいて、その人が裸になって海へはいっていく。「あなたは所詮誰かの、何かの代役なのよ」ってことなのだろう。
自分がいなくなれば、世間は困るのではなく、ほとんどの場合は他の代役がいつでもいるものだ。自分がそこにいるのは、そこにいて、自分が居たいからなのだ。しかし、自分をそこに存在させれば、感情も伴う。痛みも屈辱感も伴うことになる。それでもあなたは存在することを選びますか?

あそこの映画撮影スタッフのシーンがなくても、もう一つか二つあとのシーンで、露口茂の台詞にこういうのがある。
「結局、ボクが惚れてたのは、この写真の中の女だった。あなたじゃない」
男が愛するの女というのは、代用可能なのだ。理想の女は常に男の中に在り、実在する女は、その理想の女を投影するための題材でしかない。彼にとって実存する女であることを選ぶなら、彼の求める女になるしかない。代用品の女になるなら、今までのように感情を投資なければいい。
物語のなかで、彼女の旦那にとっても、愛人の北野にとっても、宮子は代用可能な女だったのでしょう。おそらく、代用不可能な女になるために、彼女は桜井に抱かれたのでしょう。

でも最後は断崖から落っことしてしまう。結局総てを捨てるということは出来なかったらしい。そのために殺人を犯してしまった。ホテルに帰ってみると、東京から夫が迎えに来ている。結局ばれちゃったのに・・・。そして帰りの列車にのると・・・、あらら、あんたは生きてたのね・・・ちゃんちゃん。

一応物語のポイントはあるのだ、結局どっちつかずの展開に、波の間でゆらゆらゆらめいただけ・・みたいな話でした。

# by ssm2438 | 2012-01-31 01:04

水で書かれた物語 (1965) ☆☆☆

監督:吉田喜重
脚本:石堂淑郎/吉田喜重/高良留美子
撮影:鈴木達夫
音楽:一柳慧

出演:
入川保則 (松谷静雄)
岡田茉莉子 (母・松谷静香)
山形勲 (橋本伝蔵)
浅丘ルリ子 (娘・橋本ゆみ子)
弓恵子 (芸者・花絵)

       *        *        *

男はみんな、女の息子である。

大島渚篠田正浩らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手と呼ばれたのがっこの吉田喜重。個人的にはこの3人の中では一番好きかもしれない。とはいっても、見始めたのはつい最近だけど(苦笑)。ヌーヴェルヴァーグとかアメリカン・ニューシネマとかが嫌いな私にとっては、ちょっと食わず嫌いのところがあったのですが、『秋津温泉』を境にみはじめてみるとけっこう面白い。ただ、60年代の、それまでの保守的なものにやたらと対抗して変なものだけどに走った感のある時代だけに、諸手をあげて「これは素晴らしい!」と言える物ではないことも重々承知の上で見てるつもりである。

本作のポイントのひとつは脚本家の石堂淑郎さん。作品的には左派的な思想の作品におおくかかわっているので、個人的にはあんまり近づきたくはないなという印象があったのだが、調べてみると、本人は保守派らしい。ただ、時代が左派的映画の脚本を要求してた時代と言えるだろう。
なのでひとつわだかまりがとけた。
石堂淑郎の脚本は、どこかあたまでっかちで、理屈だけをやたらとこねるきらいがある。実相寺昭雄の『無常』『曼陀羅』もこの人の脚本だ。さらにその流れで、フリーの脚本家となってからはテレビでの活動が増え、『マグマ大使』『シルバー仮面』『怪奇大作戦』『帰ってきたウルトラマン』などの特撮ヒーローもの、『必殺仕掛人』『子連れ狼』といった時代劇、SFドラマ『七瀬ふたたび』、銀河テレビ小説の第1回作品『楡家の人びと』などさまざまなジャンルの作品を手がけている。
左派的な流れの作品を描きながら、それに流されないスタンスがあったのだろう。
しかし、考えてみれば、このような人が子供向けの番組をしっかり書いていてくれたことは素晴らしいことだ。その内容も、私もうっすらとしか覚えていないが、子供を子ども扱いしないスタンスで物語を作っていたと思う。そして我々が子供の頃にはそれをみて、「こういう物語はおもしろいんだ!」とどこか納得していたものなのだ。そんな石堂淑郎スピリットが、知らず知らずのうちに心に刻み付けられているのだろう、どこかこういう映画をみると、子供の頃の特撮ものの出来が良かった回を何気に思い出してしまう・・・。

監督は吉田喜重、主演はこの時すでに吉田と結婚をしていた岡田茉莉子。岡田茉莉子には「丸顔のでぶなおばさん」というイメージがあり(申し訳ない!)、それが原因で避けていたこともあったのだが、このころの岡田茉莉子はかなりきれいである。食わず嫌いはするものではないなと思ってしまった。

この物語は、主人公の父親は身体が弱く、早くに他界した。そんな父に付き添う母は、美しい人に見えたが、実はそのころからすでに別の男がいて、その愛人であった。そのことに徐々に気づいていく息子の話。
母回帰ものといっていいのだろうか、「所詮男は、女の子供なのよ」という話かもしれない。母と息子の近親相姦へ転びいそうなにおいは全編にあるのだが、そこにはいかな・・・こともないか、いや、あれはやっぱりそこまでいってるつもりで撮ってるのかもしれない。どっちにせよ母親を「女」とはみとめなくわない、男にとっては壊されると心に痛い概念を描いている根源的なところを描いている映画である。
おそらくアンドレイ・タルコフスキー『鏡』と同じ精神構造の話なのだろう。

画面はすこぶるカッコイイ。
初期の実相寺昭雄みたいな画面と言って良いかもしれない。『曼陀羅』移行は広角レンズの表面的なチャラチャラ感だけに汚染されると見る気がしなくなるのだが、吉田喜重の画面はあの頃のアバンギャルドではあるが、きちんと望遠で、映画の画面として構築されている。
レイアウトで映画を見たい人は、一度はチェックするべき監督さんだと思う。

<あらすじ>
幼い頃、父を心臓病でなくした松谷静雄(入川保則)は美しい母静香(岡田茉莉子)と二人暮しの平凡な銀行マンだった。しかし静雄は、大企業の実業家・橋本伝蔵(山形勲)の娘・ゆみ子(浅丘ルリ子)との結婚がきまっていた。橋本伝蔵は、若い頃から女にことかかないやり手の男だった。自分の娘と結婚しよういう静雄に芸者の花絵(弓恵子)を紹介して抱かせたりもする。
ある日、静雄が机の引き出しをあけると、怪しい封書があった。それには、橋本伝蔵と母の静香が出来ているといういのだ。嫌がらせの手紙をかいた男はすぐに見つかったが、静雄の婚約をねたんだものだった。しかし、過去の記憶をひもといていくおもいあたる筋がある。
成り行きに逆らわぬまま伝蔵の娘と結婚した静雄だが、彼女を心の底から愛する気にはなれない。もしかしたら、自分は父の息子ではなく、橋本伝蔵の息子かもしれない。そうすれば、ゆみ子は、自分の妹かもしれない・・・。しかしそれは差ほど問題ではない。心からにくいのは、自分の人生が橋本伝蔵に所有されていることなのだ。そして伝蔵と母の関係は一次途絶えていたものの、いまだに続いている事を知る静雄。
総てを放棄し、ゆみ子とも別れ、会社も、昇進も捨てた静雄は、母の家を訪ねた・・・。


後半、やたらとイメージ映像つかうようになってからは、今ひとつ退屈なのだけど、前半はけっこう面白い。

余談だが、『男はつらいよ』のりりーさんしかイメージがなかった浅丘ルリ子が、みょうに健全にみえた。あんなにがりがりではなく、この映画の浅丘ルリ子はとても健康的に綺麗である。

# by ssm2438 | 2012-01-30 00:28

花のあと(2009) ☆☆

監督:中西健二
原作:藤沢周平
脚本:長谷川康夫/飯田健三郎
撮影:喜久村徳章
音楽:武部聡志

出演:
北川景子 (以登)
甲本雅裕 (片桐才助)
宮尾俊太郎 (江口孫四郎)

     *      *      *

障子の開け閉めは、部屋の出入り、お辞儀の仕方、みんなこれ見て勉強しよう。

いつもの、藤沢周平ものよりは、画面が綺麗です。「画面が綺麗」というのはちょっと語弊があるかもしれませんが、おそらく、北川景子を綺麗に見せようというのが基本にあり、美術のセットなどを必要以上に汚さないというか、かなり綺麗につくってあるな・・という印象です。兵庫県知事さんには好かれるでしょう(苦笑)。
女性人もかなり現代的なビジュアルの人が集められている印象で、寒さに耐えうるどこかずんぐり系の体形という人はほとんど見られないような気がしました(苦笑)。
そんなわけで、他の藤沢作品より、若者ウケを狙った感はあり、空気感に重さがないかな・・という感じはいなめません。しかし、最後の殺陣に至るまではけっこう楽しめます。
もうひとつ、空気感が弱いのは、方言を使ってないところでしょう。ただ、これは使わないで正解だったとは思います。リアルにしすぎるのがいいってわけではないし、舞台となっている海坂藩の場所が厳密には設定されていないので、強引に方言をしゃべらせる必要もないでしょう。
あとになって思うことだけど、『必死剣・鳥刺し』くらいが良かったな。あれは、言葉は方言をつかわず、美術などは適当にきちんと汚してあって見易さとリアリティのバランスが一番良かった。

最後の殺陣は・・・うむむむ、北川景子はこの作品のなかでけっこう頑張ってるとは思いますが、やっぱりちとキビキビ感が弱かったかな。しかし、それは彼女の責任ではなくカメラが悪かった。
全体を写しすぎてて、殺陣の弱さがごまかしきれなかった。あれを、望遠で部分の描写を多用して撮ってやれば、画面内でのBGの移動も早くなり、カッティング次第で、もうちょっとキビキビ感が出せたのに・・・。
しかし、それをさしおいても、本作の北川景子は充分にきれいです。女性剣士姿も凛々しい。
彼女をみているだけで、充分満足できる映画であることは間違いないです。

ただ・・・・、時代劇に合っているかどうかは微妙。
これは私の勝手な時代劇の空気感を出せるか出せないかのイメージの基準なのだけど、
時代劇にでる女優さんのメイクさんは、「あ、この人はワキ毛をそってるな」って空気感を出さないで欲しい。眉か髪型で、必要以上に無駄毛の処理をされてるようにみえると、時代劇の雰囲気が崩れてしまう。

<あらすじ>
寺井甚左衛門(國村隼)の娘・以登(北川景子)は幼い頃から剣術の修行に励んでいた。そんな彼女は、藩随一の剣士・江口孫四郎(宮尾俊太郎)と試合がしたいと父に頼み込む。以前桜の木の下のであったことのあるその男と、竹刀をまじえる以登。たった一度の勝負であったが、以登は自分の中に湧き上がる熱い恋心を感じた。
しかし、父の甚左衛門は以登に孫四郎と会うことを禁じる。以登には家の定めた片桐才助(甲本雅裕)という婚約者がいた。一方孫四郎にも既にきまった相手がいるらしい。以登は静かに孫四郎への想いを断ち切ろうとしていた。
やがて、数ヵ月後、孫四郎が自ら命を絶ったとの報が舞い込んでくる。孫四郎の妻となった女は、藩の重鎮・藤井勘解由の愛人であったことを知る以登は真相を知りたいと思い、才助に調べをつけるように頼み込む。やがて藤井の策略で孫四郎が自害に追い込まれたことをしった以登は、藤井に果し合いを申し込む・・・。

# by ssm2438 | 2012-01-29 18:27

隠し剣 鬼の爪(2004) ☆☆☆

監督:山田洋次
原作:藤沢周平:『隠し剣鬼ノ爪』『雪明かり』
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:長沼六男
音楽:冨田勲

出演:
永瀬正敏 (片桐宗蔵)
松たか子 (きえ)
吉岡秀隆 (島田左門)
田畑智子 (島田志乃)
小澤征悦 (狭間弥市郎)
高島礼子 (狭間桂)
田中泯 (剣術の師・戸田寛斎)
小林稔侍 (大目付・甲田)
緒形拳 (家老・堀将監)

       *        *        *

松たか子が綺麗でがんす・・。
高島礼子も綺麗でがんす・・・。


舞台はとなるのは、藤沢周平が作り上げた架空の藩、海坂藩(うさかはん)。
藤沢の出身地を治めた庄内藩とその城下町鶴岡がモチーフになっていると考えられている。
時代は江戸時代の後期。東北の海坂藩といえども、江戸から軍術の指導者がおくられてきてイギリス式の鉄砲取り扱いを足軽たちに教えているようは時代。

江戸時代のサラリーマンの哀愁を描く藤沢周平、その短編集秘剣シリーズのなかの『鬼の爪』を基本に、同作者の『雪明かり』をブレンドしてつくられた時代劇。同短編集の中の『必死剣・鳥刺し』もそうであったが、藤沢周平のドラマというのは、武家社会における上司からの命令と、己の正義の相克がテーマである。
不条理な命令なれど、主人からの命令とあっては逆らえない下級武士の悲しい定め。さんざん自分を殺して忠義をまっとうしてきたが「もう許せん」と思った時にプスってやってしまう。
<ストレス溜めるだけ溜めて最後に発散>型の話である。

そして、この物語に色づけしてあるのが、松たか子との恋愛模様。
きよは農家の娘で、主人公の片桐のうちに、子供の頃から奉公にきていたという彼女。武士と農民という身分の違いで、結婚は許されない間柄。しかし彼女も年ごろになると、ある商人の家に嫁いでいくことになる。3年ぶりにあったきよはやつれていた。しかしその商人の家では、ほとんど奴隷扱いでしかなく、きよは病に倒れてしまう。その話をききつけた主人公の片桐はその商人の家にのりこみ、強引にきよを連れ戻しに行く。
本人たちは健全な主人と奉公人の関係だが、周りから見ると、どこかの商い屋の嫁を奪い取った武士ということになる。世間の噂がたつなか、将来のあるきよを自分のもとに留まらせておくわけにもいかない片桐は、きよに、実家に帰るよう話すのだった・・・。

こちらのエピソードを平行させることで、主人公の誠実は人となりを描き込んでいけたのだろう。おそらく、『鬼の爪』だけのエピソードでは、主人公に感情移入をおこさせるまでの描きこみが乏しく、このエピソードが書き加えられたのではないかと思う。確かに松たか子からみの話がなければ、主人公の男は忠義にたけた寡黙な男ってだけになってしまう。そこに人間をつけたのがこちらのエピソードだったのだろう。
ただ・・・、本線のストーリーラインとはからんでないので、どこかで絡められなかったものか・・という若干の不満ものこったりする。そうはいっても、結果として松たか子の存在が、主人公が還る最後の場所になるので物語の後味は良いです。

・・・しかし、松たか子は良いです。ピュアな感じがとっても素敵です。彼女が嬉しそうにしろ、悲しそうにしろ涙をながすと、ついついもらい泣きしてしまう。この映画の松たか子の涙は、ま、科学的には塩水なんでしょうけど、なんだか・・・とっても澄んだ清水のようにみえます。美しいです。
世間では『たそがれ清兵衛』の焼き直しといわれているこの作品ですが、個人的には松たか子が美しいだけで充分もととれてます(笑)。

<あらすじ>
幕末の東北、庄内平野に位置する海坂藩では、江戸に送った狭間弥市郎(小澤征悦)が謀反を働いた罪で藩へ送還されてくる。彼の思い描いた理想主義は旧体制には謀反と映ったのである。薄暗い牢におしこめられ、1日一膳の食事しかあたえられない弥市郎は衰弱していった。一方、この狭間弥市郎と共に剣客・戸田寛斎のもとで剣をならった片桐宗蔵(永瀬正敏)は、家老・堀将監(緒形拳)に呼び出され、狭間との関係や、彼の交友関係を問いただされる。たとえ上からの明でも、友を売ることは出来ないと証言を拒否する片桐。
そのころ弥市郎は、藤沢周平伝家の宝刀「死んだ振り」奇襲をかけ、膳を運んできた男の腕を牢内に引き込み締め上げ、牢の鍵を奪う。脱獄に成功した弥市郎は百姓の家に立てこもる。大目付の甲田は片桐宗蔵に討手を命じた・・・。

もちろん、これだけでは、主人公が上司を殺すまでに展開にはならない。そこでもう一つ非道のエピソードを付け加えられる。

明日は嘗ての剣友・弥市郎との果し合い。その夜、弥市郎の妻・桂(高島礼子)が宗蔵の屋敷を訪れる。弥市郎と戦うことになった時は、彼を逃がしてくれというのだ。もし、願いがかなえられるなら、自分の身体は好きにしていい・・と。たとえ彼が勝ったとしても、彼は自害するだろうと答える宗蔵は、聞かなかったことにするという。桂はそのあと家老の家にも行くと言い残し出て行った。
果し合いは宗蔵が勝った。決闘のあと、桂は宗蔵に「なぜ斬ったのか。昨日ご家老が、弥市郎を許すことを約束してくれたのに」と問いただす。

結果がこうなることは解っていても、彼女にとって出来ることは、家老に身体を与えて、なんとか弥市郎の命をつなぎとめておく努力をし尽くすことだった。やがて桂は自害する。

桂の無念を晴らすために、戸田寛斎から受け継いだ秘剣・鬼の爪が家老・堀将監の心臓を貫く。
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# by ssm2438 | 2012-01-28 13:07

野蛮人のように(1985) ☆

監督:川島透
脚本:川島透
撮影:前田米造
音楽:加藤和彦

出演:
薬師丸ひろ子 (有楢川珠子)
柴田恭兵 (中井英二)

       *        *        *

角川映画じゃないのに、角川映画だと思ってた・・(苦笑)。

そんな映画です。
やっぱり薬師丸ひろ子の扱いが、角川映画と変わらないってのが問題かなあ。ま、それで売り出してたのだからそれでいってもいいのだけど、別の環境で作るならもうちょっと差別化してくれたらよかったのに。

この映画で薬師丸ひろ子が演じるには、二十歳の小説家・有栖川珠子。
10代でデビューし、天才少女作家と騒がれ、湘南のコテージで仕事をするといううらやましい生活スタイル。そんな彼女が、六本木でひょんなことから暴力団に追われるチンピラ中井(柴田恭兵)と知り合いになり、突然身に覚えのないヤクザ同士の抗争の渦に巻き込まれていく。
チンピラ風の男にプスと刺される中井。彼は、組長を殺ったのはお前だ言う。珠子は傷ついた中井を車に乗せると、コテージに帰った。警察に知らせないでくれという中井に従い、珠子は医学書を読み、自分で治療した。
夜の街を漂うはぐれ者とインテリ女という奇妙な取り合せの二人は、次第に惹かれていく。
二人が夕食を摂っていると、銃弾が窓を砕いた。組長を殺して二代目になろうとたくらんでいた滝口という男とその仲間だった。中井と珠子は、花火で浜を明るくし、滝口の子分たちを倒していく・・・。滝口はのこった仲間と夜明けとともに、コテージを攻めようとした。そして夜が明ける・・・。

個人的には柴田恭平がNG俳優で、なおかつ映画自体もかなりゆるいつくりのサスペンスなのでほとんど楽しめない。しかし、時折おしゃれそうなシチュエーションを提示してくれる。ただ、ここでも夜のシーンはいい感じで撮られている。
ドラマのとしてのシリアスさはないのだが、画面的にはお洒落な最後の花火大会(↓)。

# by ssm2438 | 2012-01-27 13:27

CHECKERS in TANTAN たぬき(1985) ☆

監督:川島透
脚本:川島透
撮影:前田米造
音楽:芹澤廣明
主題歌:チェッカーズ

出演:チェッカーズ

       *        *        *

夜の撮り方だけは参考になるぞ!

チェッカーズがもっとも勢いのあったころのアイドル映画。狸の国から来た狸が人間の姿に化けてアイドルしてるって話。その秘密を暴こうとするひとがいて、最後は狸に帰っていくって話です。

監督は『チ・ン・ピ・ラ』『竜二』川島透。お話の内容は、チェッカーズのファンの人にしか楽しめない内容だとは思いますが、川島透の夜の撮り方はとっても良いのです。

夜のシーンでは、そのまんま撮ると光量が足りないのでコントラストがつけづらいく、それだけではメリハリの利いたが画面にはなりません。そこで、ライティングを使うわけですが、この使い方がとても参考になるわけです。とくに森の中の夜のシーンの撮り方。
都会のシーンでは適当に光源の言い訳として使えるライトがいくらでもあるのですが、深夜の森というシチュエーションではそれがありません。そのとき、どうやったらわざとらしさをださずに、夜なのに明るさを確保するのか・・というのが問題です。
そんな時、画面の奥にスモークを炊いて、そのスモークにライトを当てて明るさを確保しています。もちろんそこには人工の照明が設置されているわけですが、見ている人には、深夜にたちこめる霧のように見えます。この画面を知っていれば、夜のシーンはばっちりです!

この年作られたもうひとつの映画『野蛮人のように』でも、夜の明るさをどう確保するのか・・ということをテーマにした画面がみられます。内容はともかく、最後の花火の画面はきもちよいです。あれも、花火がよいのではなくて、花火が、そこから発生する煙を照らしているから素敵なのです。

今後、映像業界に進もうという人は、この「煙に光をあてる」という発想を持っておきましょう。

# by ssm2438 | 2012-01-26 18:19

黒い画集 あるサラリーマンの証言(1960) ☆

監督:堀川弘通
原作:松本清張
脚本:橋本忍
撮影:中井朝一
音楽:池野成

出演:
小林桂樹 (石野貞一郎)
原知佐子 (梅谷千恵子)

       *        *        *

美しいものがない松本清張作品なんて・・・

1960年のキネマ旬報ベストテン邦画部門2位の作品である。
しかし・・・、これはサスペンスというより不条理モノのジャンルだね。技術的にはまったく素晴らしい出来だとは思うが、不条理ものの大嫌いは私は、☆ひとつしかあげない。私にはまったく面白くないのである。

要するに、物語がなんのために転がされているのは、ワケが解らない。他の松本清張作品というのは、卑屈な圧迫感の中に「美しいもの」がある。どろどろしたサスペンスのなかで、その純粋さが輝くのである。だからこそ、物語が陰惨なイメージだけでなく、ある種の輝きをもってその受け手に伝わるものだ。
しかし、この映画は、技術的にはかなり精度の高いものだと思うが、「美しいもの」がないので、ただただ物語を不条理にこねくり回しだけでおわってしまったという印象だ。もっとも、こねくっただけの話が好きな人には、とってもいい映画かもしれないが、少なくとも私はその一人ではない。

<あらすじ>
きわめて普通のまじめなサラリーマン・石野貞一郎(小林桂樹)は、同じ課の事務員・梅谷千恵子(原知佐子)と新大久保の彼女のアパートの一室で情事を愉しんでいた。その帰り道、近所の杉山さんと鉢合わせする。軽く挨拶をしてしまったが、そのことが発端になる不倫がばれないかと不安になり、なかったことにする。その杉山が、とある殺人事件の容疑者として逮捕されてしまう。彼は、夜の9時半ごろ、新大久保で石野貞一郎に会ったと証言する。しかし、貞一郎は不倫の事実を暴かれたくない一心で、「会った事実はない、そのころ渋谷の映画館で映画を見ていた」証言してしまう。杉山の「どうして嘘を言うのですか」という絶叫を聞き流すしかなかった。
やがて、千恵子も部長の甥の小松と結婚することになる。貞一郎はすべてを清算する機会だと考えた。しかし、智恵子は同じアパートの学生・松崎と肉体関係をもつようになっていた。柄の悪い連中に借金をしていた松崎は石野と彼女の間柄をタネに脅迫する。石野は三万円で手をうつことにした。約束の日、約束の時間には間があるので、映画を見てそのあと、松崎のアパートへ行ったが、そこには松崎の死体があった。逮捕された石野は、自分の無実を晴らすために、あの夜、杉山に会ったことから話し始める。杉山も釈放された。石野も釈放された。しかし、彼は彼が護ろうとしたもの総て失ってしまった。

# by ssm2438 | 2012-01-24 22:40 | 松本清張(1909)

事故/国道20号線殺人トリック(1982) ☆☆

監督: 富本壮吉
原作: 松本清張
脚本: 猪又憲吾
撮影:浅井宏彦
音楽: 津島利章

出演 :
松原智恵子 (山西勝子)
山口崇 (興信所所長・田中幸雄)
宮下順子 (フリーの調査員・浜田久子)
植木等 (彩田刑事)

       *        *        *

東京都杉並区の住宅街のある邸宅に深夜トラックが突っ込む。その数週間後、そのトラックを運転していたドライバーが山梨県のとあるドライブインの崖下で死体となって発見される。同じ頃、ある興信所の女性調査員の死体も川から引き上げられる。山梨県警の彩田刑事(植木等)は同署の管轄で起きた二つの事件を調査することになる。

テレビ朝日の「土曜ワイド劇場」で放映された2時間ドラマ。
松本清張作品というよりも普通の土曜ワイド劇場でした。

しかし、相変わらず不倫してる者が、秘密保持のために殺人をするという展開なのだけど、この話はちょっとひねりがきいていた。ただ、主演の山口崇の設定にまじめさがないので、松本清張ものの、真剣な追いつめられ感はない。ただ、土曜ワイド劇場としては、アベレージなさ苦品ではないだろうか。
しかし、きちんと作ればトリッキーなストーリーとして成立しそうな話だったので、ややもったいなかったな。

<あらすじ>
東京都杉並区の住宅街に住む小西勝子(松原智恵子)は、夫の浮気調査を田中幸雄(山口崇)が所長をつとめる興信所に依頼する。彼の会社はそれほど大きいわけではなく、社内で調査員を雇っておらず、普段はフリーの調査員に依頼して調査を行っていた。しかし勝子の純粋な美しさに引かれた田中はこの件は自分で調査にあたることにした。
勝子はお嬢様育ちで、夫以外には男を知らなかった。親身になって調査してくれる田中に次第に信頼をよせるようになる。田中も20年の経験を活かして早々と彼女の夫が明美という女と出来ていることを知る。彼は大酒への出張を言い訳に、彼女と2人で箱根のホテルに宿泊している。
現場をおさえた田中は勝子をホテルまで呼寄せる。
「部屋に踏み込みますか?」という田中だが、気が動転してなにも決断できない勝子は、翌朝2人をそのまま発たせてしまう。しかし、その夜勝子は田中に抱かれたのであった。夫以外では、初めての男だった。

それからというもの、勝子は田中との情事に溺れていく。田中の事務所の資金繰りが厳しいときくと、お金を工面することもいとわない。勝子にとっては初めての恋愛だった。
しかし、妻の様子に不信感をもった夫が妻の素行調査を依頼する。それがよりにもよって田中の事務所だった。一瞬驚く田中だが、事の次第は本当に偶然だった。最初は断るつもりだったが、よその会社にこの仕事をまわされると、自分と勝子の浮気が調べられる。だったら・・・いっそうのこと。
田中は、自分の事務所で時々仕事を依頼している浜田久子(宮下順子)にこの調査を依頼する。田中は彼女を見くびっていた。しかし、浜田久子は強靭な忍耐力と執着心の持ち主だった。
浜田久子から調査報告を聞くたびに、確実に男の存在を捕らえていることに恐怖を覚える田中。そして勝子の夫が外国に出張中のある夜、一台のトラックが、小西宅に突っ込む。外での逢瀬に不安を感じた田中を、勝子は自宅に呼寄せていたのである。下着姿で玄関に下りてくる田中の目に、そとでたむろする近所の野次馬と浜田久子の顔が見えた。

・・・・というわけで、2人の不倫を隠蔽するために田中と勝子は、浜田久子とトラック運転手(実は同郷の友人だった)を殺す計画実行していく。

ここで松本清張の<女の健気さ>が本来なら発揮されるところなのだろう。
2人の殺人計画をきかされて、田中を止めようとする勝子だが、
「君はボクのことを愛していなかったんだ。所詮僕らは他人だ」と言われ、傷ついた勝子は、他人ではないことを証明するために、自らも殺人計画に手を染めていく・・という展開でした。

松原智恵子さん、いやあ、びっくりしました。綺麗です。まるで黒木瞳みたい。物語としては、この人をいかに美しく描くかが総てだったのだけど、その点においてはやっぱりちょっと物足りなかったかな。松本清張のドラマは、愛するがゆえに、あるいは愛されたがゆえに死に行く女をいかに純粋に綺麗に描けるかが総てといっていいので、もうちょっと普通の人妻がなんで殺人にまで手を貸してしまったのか・・という初めて覚えた恋の味感を出して欲しかった。

# by ssm2438 | 2012-01-24 01:08 | 松本清張(1909)

内海の輪(1971) ☆☆

監督:斎藤耕一
原作:松本清張
脚本:山田信夫/宮内婦貴子
撮影:竹村博
音楽:服部克久

出演:
岩下志麻 (西田美奈子)
中尾彬 (江村宗三)
三国連太郎 (西田慶太郎)

       *        *        *

蓬莱峡の撮り方に無理がある。その撮り方では見てる人は誰も納得しないぞ・・・。

しかしまずい・・・、松本清張のパターンが見えてきてしまった・・・。パターンが見えてくると神通力が失われ来る・・・。

基本的には『危険な斜面』と同じ構造である。立場のある男が、不義密通をしている間に、女性の側の求めが強くなり、子供が出来てしまい、男は社会的な立場をとるか女を殺すか・・という選択をせまられる。しかし、殺される女は運命をもう悟っていて、「殺されてもいいわよ」って覚悟が出来てるっていうことで感動を呼ぶ・・というパターン。

パターンが見えすぎているのでちとつらい。

逆にこの物語で新鮮なところは、女を殺すつもりで蓬莱峡の昇ったが、出来ないままそこを去った男。しかし、高所恐怖症の彼女はそこから転落してしまい死体として発見された。結果として殺してない男が犯人として警察におわれ、身を滅ぼしていく・・という流れ。不憫だ・・・(苦笑)。

実は、この映画では描かれていないのだが、そこから犯人は誰だったかという犯人探しの展開もある。この物語の場合は、助教授になった江村宗三を愛する女子学生がいて、彼女が江村宗三を愛しているがゆえに行った好意が、犯人が誰であるかというヒントに繋がっていく。
さらに、財産目当てで嫁いだのかどうなのかは不明だが、西田美奈子がと嫁いだ四国松山の呉服の老舗伊予屋の当主慶太郎の、愛の深さもドラマになっている。残念ながらこの部分もこの映画では割愛されてしまっている。
なので、物語は、不倫旅行でた2人が、その旅行の日程を延ばしているうちにどんどんほころびがでてきてしまい、残してきた人たちにバレたり、ばれる可能性におちいったりした結果、殺人を計画してしまう・・というところまで追いつめられる過程の話に終始してしまった。

斎藤耕一の撮り方はすっごく安定しててよかった。さすがに「映画」という画面を提供してくれている。ほんとに最後のクライマックスに至るまでの出来は素晴らしい。
ただ、クライマックスになるはずの蓬莱峡(→)でのやりとりはかなりマヌケに見える。

下からザイルもなしに適当な高さまで(地上から20~30メートルくらい)上がれるところまで上がってきていて、結局ビビって殺人をあきらめて、すべるように下っていく中尾彬。そのあと高さに目がくらんで落ちる岩下志麻の人形。・・・でも、30メートルかそこらの高さの斜面をずりおちたからといって死ぬかい?って思ってしまう。
一番高いところまで別のルートで行ったことにして、最後の摂政はその頂でやってもらって、「やっぱりボク殺せません。返ります」って返って行く中尾彬、でめまいで落ちる岩下志麻の人形・・ならまだことの成り行きを納得できたのに・・・。

他にも何回かドラマ化されたこのシーンだけど、どれもこのシーンを説得できる演出にできないままにおわってしまっているので、しいて言うなら、松本清張サスペンスの『内海の輪/大学助教授の不倫の決算・蓬莱峡に消えた死体』のほうがこのシーンの描写もよかったし、物語構成としても全部こみこみで原作の全体構成に近いと思われる。
しかし、岩下志麻の色っぽさはやっぱり見るに足る妖艶さである。
全体のカメラや演出は良いのだがクライマックスが最低なの☆ひとつでもいいかと思ったのだけど、志麻姐さんの色気に免じて☆ひとつおまけ。

<あらすじ>
四国松山の呉服の老舗伊予屋の当主慶太郎の西田美奈子(岩下志麻)は29歳。親子ほどもはなれた西田の家に嫁いだのは財産目当てだろうと地元の人たちはみていた。そんな彼女は、東京3ヶ月に一度反物の買い付けにきていた。しかし彼女には男がいた。大学で考古学を専攻し、まもなく助教授の椅子につく江村宗三(中尾彬)である。
やがて宗三は岡山大学との共同調査のために、瀬戸内海に来ることになる。美奈子は姫路で同窓会があるといって2人の時間を愉しむ。そんな2人の姿を伊予屋の家政婦の政代に見られて西田慶太郎に報告されてしまう。さらに2人は共通の知人である長谷川とばったり伊丹空港で鉢合わせしまい、江村側の人たちにもことの次第が知られそうになる。
既に美奈子は離婚の覚悟をきめていた。西田と分かれて江村宗三の子供を生もう。
しかし宗三の心はそこまでのものではなかった。この不倫が暴露されたら、宗三の輝ける将来も崩れ去るにちがいなかった。しかし、彼女から逃れることも出来そうになかった。宗三は、蓬莱峡にのぼり、事故にみせかけて美奈子を殺そう心に決めた・・・。そして運命の朝が来る・・・。一度は断ったものの、宗三の意図を悟った美奈子は愛した男に殺されるために蓬莱峡に昇っていく。

# by ssm2438 | 2012-01-22 05:14 | 松本清張(1909)

秋津温泉(1962) ☆☆☆☆☆

監督:吉田喜重
脚本:吉田喜重
撮影:成島東一郎
音楽:林光

出演:
岡田茉莉子 (新子)
長門裕之 (河本周作)
日高澄子 (お民)

       *        *        *

おおおおおお、岡田茉莉子が異様に美しい。

この映画が公開されたのが1962年6月15日、私が生まれる25日まえのことだった。

監督の吉田喜重は、後の『煉獄エロイカ』をちらと見たことがあったのですが、やたらと気をてらった画面作りばかりだったので、実相寺昭雄みたいにつまらないものだと思い込んで、そのまま放置プレーしておりました。ヒロインもやたらと奥さんの岡田茉莉子ばかりなので、あえてこの人の映画をみようという気はなかったのですが、このたびみてみたら・・・・・、大変失礼しました。とてつもなく面白かった。
『秋津温泉』・・・、傑作ですね。

この舞台になったのは、岡山県の奥津温泉。映画では「秋津温泉」ということになっているが、このネーミングの響きが素晴らしい。奥津は小学校のバス旅行で人形峠に行った時に通過したことだけは覚えているのだけど、風景がなぜか懐かしい。山の尾根のリズムなのかな・・・。これが不思議と中国地方の山々だと、「自分は思っているヤマの尾根のラインの凸凹はこういうものだ」というのが知らず知らずに根付いていて、その波長が合うのだろう。これは『男はつらいよ・寅次郎恋やつれ』を見たとき、なぜか懐かしい気がした。舞台になったのは島根県の津和野あたりだったのだけど、なぜか風景が懐かしいのである。

そんな奥津を舞台にしたこの映画なのだが、とにかく風景がいい。渓谷の間に立てられた温泉旅館は階段や坂があり、それだけで絵になってしまう。吉井川にかかる橋もまたいい。これらの自然の風景をキレイに切り取ってくれる画面がいい。そしてコントラストもいい。これはでしゃばらないけど、きちんと意図して演出してるライティングのおかげだろう。なにからなにまで好みである。
と同時に不思議なきもした、後の撮ることになる『煉獄エロイカ』などはなんであんなカッコつけただけの画面になってしまったのか・・・。60年後半から70年初頭はアメリカン・ニューシネマだとかヌーヴェルバーグだとか、すぐ旧くなる表面的な奇天烈さに走った糞映画がやたらと多い時代だったが、その影響をはやりうけたのだろう。

しかーし、この映画の素晴らしさは画面の素晴らしさだけではない。そんなものは添え物すぎない。
この映画の素晴らしさは想いの出し入れのタイミングのずれ、そしてそこから発生するもどかしさだろう。恋愛経験がある人なら誰しもわかるだろう。“どうして「うん」といって欲しい時に言ってくれないの”という、あのもどかしさが全編に展開されている。求められて、ついついかわしてしまう。すると自分が求めた時にかわされてしまう。求められた時の全部に「いいよ」と言ってしまえば総てがうまく行ってたかもしれないのに・・・。
この感情のやりとりの切実さに恐ろしくリアリティを感じてしまうのである。

さらに女性原理を見事に描いた傑作だといえる。
男にとって「機能性がある、役に立つ」ということは、自らの存在意義にほかならない。しかし、女性の場合はそうではない。女性の場合は「世話してあげる=必要とされる」ということこそが存在意義になっている。

本来コテコテの恋愛ものというのは、完全無欠のヒーローと完全無欠のヒロインのラブロマンスではない。
ダメ男とそんな彼を世話して上げられる女の物語である。
しかし、この2人をくっつけると物語りは描きたい部分ではなく、経済的なところから破綻していくものだ。
ダメ男と結婚した女はさんざん世話をやくはめになる。作り手にしてみれば、ドラマとしてはもってこいの展開である。しかし、男が甲斐性なしすぎると、経済的に破綻してくるので、そっちの流れもフォローしなければならなくなる。そんなことをしていると、あれよあれよというまに貧困に呑み込まれる2人のドラマになってしまう。
この映画の上手いところは、ダメ男はそのままに、女の経済基盤をそれとは別のところに別けたところにある。その結果、ダメ男をを世話するだけという、女にとっては一番酔えるシチュエーションだけをとりだして、一本のストーリーラインに落とし込むことに成功している。

<あらすじ>
昭和20年の夏、東京の学生だった河本周作(長門裕之)は、岡山の叔母を頼ってやって来たが、空襲でやられていた。結核に冒されていた彼は、親戚のある鳥取に向かう途中病に倒れ、岡山県県北の秋津温泉の“秋津荘”担ぎ込まれる。結核のため離れに床をかりた河本を看病したのが17歳の新子(岡田茉莉子)だった。終戦の時を向かえ新子は泣いた。自暴自棄になっていた河本だったが、心が健康似反応する新子をみていると、なんとなく生きてみようかと思えるようになる。

それから3年、ふたたび河本は秋津を訪れる。作家をめざし地道に活動していた河本だったが、未来が開けない状況に身も心もすさんでいた。「一緒に死んでくれ」と頼む河本に、「私がホントに好きならいいわよ」と心中を決意する。睡眠薬を飲み、お互いの身体を一緒に縛って水に飛び込こむはずだったが、彼女を抱き寄せると、くすぐったいとけたけたと笑い始める新子の屈託のない反応に、自殺するきもさめてしまう河本だった。

そしてまた3年がたち、再び河本が秋津にやってくる。作家仲間の妻の兄・松宮(宇野重吉)が文学賞を受賞したというのだ。自分だけがおいてけぼりになった河本は傷心した心を癒すために秋津を訪れる。傷心の旅に自分を訪れ、元気になって返って行く河本をみるのが好きだった新子だが、女中のお民から河本が結婚していることを聞かされる。

翌年、ふたたび秋津を訪れる河本。2人が出会ってから10年の年月がたっていた。新子は死んだ母をついで“秋津荘”のお上となっていた。今度河本が来たのは、別れを告げるためだった。松宮の紹介で東京の出版社に勤めることになったのだ。その夜二人は初めて肉体の関係を持った。翌朝の新子は幸せに満ちていた。一人でひっそりと帰ろうとする川本に無理やりついていき、津山の鶴山公園で2人の時間をもうすこし愉しむ。しかし、川本の出発時刻が近づくと無口になっていく新子。最終の岡山行きの改札が始まると、おもわず川本を連れ出してしまう。汽車の発車音が聞こえる。「もう帰れない」という河本。2人は駅の近くのホテルに泊まることになる。たしかに引き止めたのは新子だった。しかし、河本の妻のことを考えると罪悪感に襲われ、感情を殺すしかなくなる新子。それでも、河本は新子の身体を求めてくる・・・。

昭和37年、最初の出会いから17年が過ぎていた。河本は作家として大成した松宮の取材旅行の随行員として再び岡山にもどってくる。そして秋津を訪れた。新子は魂の抜け殻のようになっていた。10年前、津山駅の4番ホームでもう戻ってくることはない河本を見送ったとき、新子の生きがいは消滅したのだろう。
新子は“秋津荘”を売り、かつて、結核の河本を介抱したあの離れに住んでいた。その離れも2日後には取り壊されるという。肌を合わせる河本に「一緒に死んで欲しい」という新子。
翌日、強引に河本の見送りについていく新子は、かみそりをとりだし、一緒に死んで欲しいと再び迫る。とりあえずその場を収めた河本は、煩わしいものにはもうかかわりたくないというようなそぶりで、ありきたりの言葉を残し去っていく。その河本の後姿をみながら、新子はかみそりで手首を切るのだった。


PS:確かに音楽はうるさいも・・・、もうちょっと効果的に使えば良いのに。『レザレクション・復活』モーリス・ジャールを思い出した・・(苦笑)。でも、画面作りが異様に確りしているので、それほどの不快感にはならなかった。
あと「ストレプトマイシン」の名前を久々に聞いた(笑)。ああ、そういえば結核の特効薬として世に出た最初に抗生物質だった。この言葉一つで「ああ、戦後なんだ~」と思えてしまうレトロな季語である。

津山駅の待合室なんて、懐かしかったなあ。
もっとも、この映画が撮影されたころは私はまだ受精卵くらいの時で、実態は存在してなかったのですが、子供の頃みた津山駅はあんな感じでした。汽車が出る10分前くらいから改札に駅員さんがたって切符をきるのです。津山線は4番ホームで、SLとディーゼルが併用されてました。SLはC-51だったと記憶してます。

# by ssm2438 | 2012-01-21 17:34

メガ・シャークVSクロコザウルス(2010) ☆

原題:MEGA SHARK VS CROCOSAURUS

監督:クリストファー・レイ
脚本:ナオミ・セルフマン
撮影:アレクサンダー・イェレン
音楽:クリス・ライデンハウア

出演:
ジェイリール・ホワイト (テリー・マコーミック博士)
ゲイリー・ストレッチ (ワニ博士、ニール・パットマン)
サラ・リーヴィング (エージェント・ハッチンソン)

       *        *        *

これらの作品って、パッケージを作ることだけに楽しみを見出してるのではないだろうか・・・。


男との子って、糞映画だと判っていてもついつい見てしまうのが、大きなものとエロもの・・。
しかし、このメガシャークはでかいぞ。その背びれはアメリカの戦艦のブリッジほどもある。その背びれだけみるとおそらく戦艦の5~6倍はあるだろうと思われる。しかし、海からジャンプし、戦艦の上を跳び越しながら尾びれでかわいらしくブリッジをはたいていったりするところは戦艦の1/3~1/4くらいの大きさにしか描かれないあさはかさ・・、「背びれさっきより小さいんですけど~~~」っていいたくもなるがそんなことはお構いなし・・・、統一性がまるでない・・・、あまりにもお子様レベルのCGにびっくりしてしまう。
それに対抗するのが巨大ワニ。いちおうタイトルにも「クロコサウルス」と書かれているので、ただのワニではないのだろうけど、またこれが小さいくなったり大きくなったり・・・。

最後は核ミサイルを搭載した潜水艦を飲み込んだ、メガシャークとクロコサウルスが戦うのだけど、なんで戦うのか良くわからなかった。あまりにくだらないのでチャンネルをかなり廻してたのでその間になにかあったのかもしれないが、この監督らに「この2体の生物がなぜ戦うのか?」などとちうモチベーションを設定しようなんて頭が回るのかは疑問。さらにその戦い方がすごい。お互いの尻尾を噛んで、ネズミ花火のようにくるくるまわりだけ・・・たはははははは・・・。最後は海底火山におびき出されてまとめてドカン・・・。

・・・おい、メガシャークのなかには核ミサイルつんだ潜水艦あったんじゃなかったっけ???


ちなみにこれ(→)はアメリカで販売されてるDVDのパッケージ。
こちらも描いてるひとはかなり愉しんで描いてると思う(笑)。

# by ssm2438 | 2012-01-21 10:58

魔の刻(とき)(1985) ☆☆☆

監督:降旗康男
脚本:田中陽造
撮影:木村大作
音楽:甲斐正人

出演:
岩下志麻 (水尾涼子)
坂上忍 (水尾深)
岡田裕介 (花井)
岡本かおり (葉子)
伊武雅刀 (片貝刑事)

       *        *        *

母と子の距離感を感じさせない芝居づけが、この物語の成功の鍵だな・・・。

ルイ・マル『好奇心』も母とエッチにいたる話だけど、こちらはエッチをしてっしまったあとの話。実はこれは原作のエピソードではなく、降旗康男監督はあえて原作では描かれなかった二人の後日談を作り上げてしまったわけである。

私個人は、ホモ物とか母とエッチする近親相姦物ってのは嫌悪感を感じてしまうのだけど、これは思った以上に見られた。これをそれほど嫌悪感を感じさせないものにしてくれたのは、母と息子の距離感がそこはかとなる在るのである。
たとえば、これが別の物語で、幼い頃は親子が離れて過ごしていて、ある程度の年齢になってから再会し、最初は親子とも思わなかった・・みたいなシチュエーションならそれほど気持ち悪さは感じないのだろう。この映画の二人は、まさにそのような言葉のやりとりや、その芝居付けがされており、どこかさらりとしているのである。

ただ、不思議なのがこの距離感はどこからくるのか?という問題だ。なので原作をしらべてみた。
ところが、原作を調べてみると、そのような展開ではなかったようだ。
原作では父親の圧力から家庭内暴力に走る息子とそれを必死になって受け止めようとする母、そのあたりから結局母と息子が親密な関係になったという展開である。これはある種の必然的な展開だったのかもしれない。映画でも、一応それまで何があったかということは回想する言葉として語られている。社会的にも地位のある父親は、その家系お利巧さんが多くほとんどが東大にはいるという設定。そんな環境下で息子がプレッシャーにまけ、2度の受験失敗、てぐれて結果「もう二人で死のう」的な展開になりその結果、お母ちゃんとエッチするようになるというもの。意外とさらりと語られてしまった。

なので、一般的な人が考えるような息子と母がエッチにいたる映画ではなくなっている。たしかに原作で語られている話なら「よくある話」ということになってしまうのだろが、それを原点にして、その物語からしばし時間をおき、どこか距離感の離れた二人が再びであって求め合うというような映画になっている。
この距離感が、この映画ならでは人工的な要素であり、それが映画としてすこぶる見やすくしてくれている。技術論で観るならすこぶる面白い。

しかし・・・、なににつけても木村大作の望遠画面はいい。
港町と望遠レンズ。なによりすばらしいのが、その港の中に船がひとつ沈みかけてる船があって、そのマストが水面から斜めに突き出ているのがいい。普通に浮かんでいる港のなかで、あれがあるだけで意味もなくときめいてしまう。
海の色もいい。ネストール・アルメンドロスがいうマジックアワーちょっとまえの時間帯を使っており、まだ水平線のうえに太陽は見えるのだけど、光線はかなり弱まり、人間が建てた人工物は逆光で鈍い色におちている。でも水面はサーモンピンクと、オレンジ色の間のような色合いで渋いです。
最近糞画面ばっかりみてたので、時としてこういう映画的なしっかりした画面をみると、それだけできもちよくなってしまう。物語は私好みの話では決してないのだけど、それでも木村大作の画面をみているだけで、ついつい最後まで、気持ちよく見せられてしまった。

そして物語的には隠し味がぴりりと効いている。岡田裕介演じるインテリ崩れの薬局屋のやもめ亭主の哀愁が最後でガツン。この一発がいい感じでドラマ全体を引き締めてくれる。これはあとで語ろう。

<あらすじ>
一流企業に勤める夫・敬一郎に離婚を申し出、1年前に家を出た息子・深(「ふかし」と読む・坂上忍)を探してこの港町にたどり着いた水尾涼子(岩下志麻)は、その日のうちにアパートを探し落ち着くことにする。そんな彼女に声をかけたのが、アパートの向かいの花井薬局の主人・花井(岡田裕介)だった。花井は二年ほど前に妻を心臓マヒでなくし、その1ヵ月後、母親を脳出血で亡くしている。住民もこの相次ぐ死を不審に感じていた。それは警察も同じで、墓を掘りかえして骨壷の骨を鑑識にまわしたこという。
深は直吉丸の娘・葉子(岡本かおり)と一度、寝たことがあり、その事が直吉丸の従業員仲間に知れて、包丁で腹を刺された。涼子は深を花井薬局にかつぎこみ、表沙汰を嫌う深の頼みで、花井は知人の医者・西方に治療を依頼しことなきを得る。それをきっかけに花井薬局で3人の生活がはじまる。
息子の看病に充足感をかんじる涼子。3人の生活は穏やかだった。やがて傷もいえ、葉子が深をつれだし、自分のアパートにもどったことを知った葉子は抑えがたい衝動を覚えて息子を求めて追っていった。近づきすぎると離れたくなる二人。しかし離れるとまた求めてしまう。また二人はお互いをむさぼりあった。
しかし、花井を追っていたカ片貝刑事が、二人の情事をみてしまったことから、二人の話は港町中に知れわたった。

そのあと深はアパートを去るのだが、最後には今一度都合よく現れてくれる(苦笑)。ま、それはいいだろう。
この後の展開ですばらしいのは、あまり関係のなさそうだった花井の秘密が語られることだ。
実は、花井の積まば死んだ時、彼女は医者の西片を情事を重ねていた時だったという。ことが世間にばれるのをおそれて、西片の存在はこのイベントからは消されてしまった。しかし、妻が他の女とエッチしてるときに死んだと聞かされれば心中穏やかではないのだろうが、そこにはもうひとつ秘密があった。
花井は、妻の母と肉体関係があったという。

結局、男と女の関係というのは、理屈では説明のつかないテリトリーであり、なんでもありなのだな・・というエピソードをもうひとつ紹介することで、岩下志麻と坂上忍の親子のエッチ関係も、それほど違和感のあるものとしての印象は沈められ、もうすこし純粋な男女間の営みのように解釈されるようにおちつかせているのである。

# by ssm2438 | 2012-01-19 13:58 | 木村大作(1939)

サンキュー・スモーキング(2006) ☆☆☆☆

原題:THANK YOU FOR SMOKING

監督:ジェイソン・ライトマン
脚本:ジェイソン・ライトマン
撮影:ジェームズ・ウィテカー
音楽:ロルフ・ケント

出演:
アーロン・エッカート (ニック・ネイラー)
キャメロン・ブライト (ニックの息子・ジョーイ)
マリア・ベロ (ポリー・ベイリー)
ロブ・ロウ (ジェフ・マゴール)
ケイティ・ホームズ (ヘザー・ホロウェイ)
ウィリアム・H・メイシー (フィニスター上院議員)
J・K・シモンズ (BR)
ロバート・デュヴァル (ザ・キャプテン)

       *        *        *

そうだ! 多数の意見に属してて何が楽しいんだ!?

タバコ天国の日本ではかなりうといことだが、海外でのタバコ事情は、かなり厳しいものでだ。公共の場でタバコを一本なんてのはかなり顰蹙な行為だし、F1だってタバコの広告をだせないのでマルボロのロゴをバーコードにしないと走らせてもらえない国がある。タバコの健康被害を危惧する国際世論の高まり、バッシングの対象となる。クリーンが心情の政府は馬鹿高い税金をかけ、タバコ1箱(20本)の値段は日本と比べ物にならないくらいべらぼうに高い。イギリスでは一箱1000円近いといわれていた。もっともこれは今みたいに超円高になるまえの相場なのだけど。ドイツ、フランスあたりで600~700円。アメリカでは800円ちかかったはず。
そんなタバコ業界のロビーイストがこの映画の主人公。アーロン・エッカートが扮するこの男は口は達者で、ディベート力はきわめて高く、全国からバッシングされるタバコ業界の宣伝マンとしてマスコミに登場し、相手のコメンテイターたちをなぎ倒していく。アメリカ映画でよくあるコミュニケーションの達人である。
シナリオライターとしてみれば、うふぁうふぁな題材だろう。
かっこいい説得力のある言葉がいっぱい書ける!

そんな主人公に、「なんでそんな仕事をしてるんだ?」という問いがなされる。彼は、「モルゲージのためだ」と答える。「モルゲージ: Mortgage」とは「不動産を担保にした貸付」・・くらいの意味だろう。平たく言えば、マンションや家を購入した時の「住宅ローン」である。

「活きる為に稼がないといけないから自分の得意なことをやっているのであって、ポリシーではない。・・・だから、正義やら道徳心やらをかかげて俺をバッシングしないでくれよ」の意味だろう。

・・・・でも、それってホントなのだろうか?
映画の議論とはまったく別のところに踏み込むのだが、たぶん彼は、それが面白いからやってるのだと思う。大多数を相手に、彼らがベースにしている理性の奥にある、本音を刺激するのが楽しいのだと思う。何かしらの力がある人にとっては少数派に属するほうが何かと楽しいでのある。

ビジュアルリーダーやドラマづくりをしている人は、多数の意見に属することは致命的である。自分の意見が多数派だなって思ったときはもう時代に遅れであり致命的だ。それよりも、純粋に面白くない。最近のドラマがどれも面白くないのは、多数の意見に属した馬鹿プロデューサーがドラマの方向性をきめているからだろう。

だからといって、少数派のアイデアがすべて面白いかといわれればそんなことはない。そのほとんどはトラディショナルな法則にさからって一時のパフォーマンスをしているだけである。大切なのは、今は少数派でも、50年後には多数派になるであろう価値観を今のうちから提示することなのだ。すぐ古くなる新しいものではなく、<古くならない新しいもの>を目指すこと、それが大切なのだ。

では古くならない新しいものとは何か? そもそもそれはどこにあるのか?
それは、実はすでに存在している。ただ、より深いところに存在しているので、まだほとんどの人は気づかないだけだ。
「新しいものを作る」ということは、「珍しいものを作る」ということではなく、「まだ発見されてない真実に基づくものを作る」ということなのだ。

「真実」を発見すれば、新しいものは出来る!
たとえば、車のフォルムにしてそうだ。まだ発見されてない、完全なる空力を具現化するものを作れば新しい車のデザインが生まれる。珍しいだけではすぐ滅んでしまう。
これは物理的なことだけではない。精神世界にもいえることだろう。「世間ではこういわれているけど、なにかへんだ」っていうものに出会うときがある。でもその理由はわからない。だから、世間でそういわれているように解釈しておく・・という結果になる。そんなとき、しばし足をとめてその理由を真剣に考えてみる。その時なにか見えてくるかもしれない。

この映画が素敵なのは、世間ではタバコはけしからんって言われてますけど、それに従うことがどこかうさんくさくないですか???っていう問いかけなのだと思う。

「真実」は多数の意見の中にはない。
多数の意見というのは所詮、「真実がわからないから、とりえずこういうことにしておこう」という、世間と個人が折衝したその妥協案にすぎない。ましてや多数の意見というのは、弱者の都合でしかない。それは一時的な人気取りにはなっても、継続的につづくものではない。なぜなら弱者は滅びるようにできているのだから。
自分を弱者とみなすのは、だれでもそうだ。私もそうだ。しかし、弱者にとって都合のいいことを正当化することが正しいことにはならない。


ものづくり業界に居る人は、多数に属さないスピリットをいつも持っていてほしいものだ。
この映画をみて、そのことを言葉にして言いたくなった。
そういう意味で、とてもいい映画だった!

ほんとは☆3つくらいでいいかと思ったのだが、勢いがついたのでもう1つおまけ(笑)。

<あらすじ>
ニック・テイラー(アーロン・エッカート)はタバコ業界を代表する凄腕のロビーイスト。同じ悪評高いロビーイスト仲間であるアルコール業界のポリー・ベイリー(マリア・ベロ)と、銃製造業界のボビー・ジェイ・ブリス(デヴィッド・コークナー)とはいつも3人で飲んでは日ごろの鬱憤を解放している。
そんな彼をうっとおしいと思っているのが、フィニスター上院議員(ウィリアム・H・メイシー)。彼はアメリカ国民の健康を守るために、タバコのパッケージにドクロ・マークを付けようともくろんでいる。しかし、なかなかテイラーを倒すことは出来ない。しかしそんなテイラーも過激派の嫌煙団体に拉致され、体中にニコチンパッドをhられて中毒死寸前までおちいったりする。さらにスクープを狙う女性新聞記者、ヘザー・ホロウェイ(ケイト・ホームズ)の罠にハマってしまい、ベッドであらいざらいしゃべって慕ったことを記事にされ仕事を失う。順風漫歩だった人生はドトボに陥ってしまった。
そんな彼だが、別れた妻との間の息子ジョーイ(キャメロン・ブライト)だけはそれでもニックを尊敬していた。やる気を取り戻したニックは、タバコにドクロマークを張ろうキャンペーンの是非を問う公聴会に出席、上院議員との最後の対決に挑んでいく・・・。


・・・・しかし、輪が麗しのマリア・ベロ嬢、しばらくみない間に、かなり老け込んじゃいました。うううう。

# by ssm2438 | 2012-01-17 12:19

危険な斜面(2000) ☆☆

演出:大岡進
プロデューサー:中川善晴
原作:松本清張
脚本:金子成人

出演:
田中美佐子 (野崎利江)
風間杜夫 (秋場文作)
大滝秀治 (西島卓平)
袴田吉彦 (沼田仁一)
粟田麗 (木島京子)

    *      *      *

1982年の土曜ワイド劇場で放映された『危険な斜面』が見たかった・・・。

今回私がみたのは、2000年に制作されたTBSが制作した松本清張傑作選のなかのひとつ。過去にも何回か制作されていて、82年に土曜ワイド劇場(テレビ朝日)で、90年に火曜サスペンス劇場(日テレ)で制作されている。80年代の土曜ワイド劇場のレベルは恐ろしく高く、絵作りの基本がしっかり出来ていた。
あの頃の2時間ドラマにくらべると、さすがに2000年に制作されたこのドラマは画面的に完全にテレビ仕様。このころになると、テレビの現場の人ばかりなので、まともに映画として画面が作れる人がいなくなっているのだろう。というよりも、その違い(カメラ位置がもたらす画面の違い、レンズの違いがもたらす画面の意味‥など)すら彼らは理解していないのだろう。絵作りの劣化が急速にすすんでいる現状は嘆かわしいばかりだ・・・。
しかし、撮影は最低でもドラマはしっかりしている。
松本清張の精神的な追いつめ方は素晴らしいの一言に尽きる。


物語はこのようにはじまる。
ある夏の日、山口県の山中で白骨死体が見つかった。歯形の調査や所持品から、遺体は半年前に失踪した野崎利江(田中美佐子)と判明。彼女は西島グループの会長・西島卓平(大滝秀治)の愛人であり、捜索願はその西島が出したものだった。数年前から利江は西島の愛人になり、西麻布に豪邸を与えられ、週に一度情事をかさねていた。山口県警からきた2人の刑事は、そのあたりの事情を詳しくしらべていった。

見ている人は、この西島卓平が犯人ではないか・・?と最初に思うところだ。一応私もかんぐってみた。しかしどうやらこの男ではないことが最初の10分くらいのところで判って来る。
刑事と西島の会話のなかで、西麻布の一軒家を用意し彼女を招いたころの話をしていたときに西島がこのような台詞をはく。

「彼女はここが気にいっとった。
 旧い家なんだがね・・・、
 隣を気にしなくていいから落ち着くわ・・と言っとったよ」

この一言で、一気に物語の終着点を予感させてしまった。
そこには昔に、誰かと性交渉があったことがにおわされており、おそらくその人物が愛憎の果てに彼女を殺すしかなかったのではないか・・という想像がうまれる。物語は見事にその流れにそって展開されていく。

物語を構築する時に重要なのは、そうなるにせよ、ならないにせよ、漠然とした方向性を見ている人に提示しておくことが重要になってくる。見ている人は方向性が見えないまま、ドラマを見せられると飽きてきてしまう。「もしかしたら、こうなるのかな?」という感じるか感じないかくらいのヒントを提示しておけば、とりあえずそを求心力として見てもらえるのである。
その昔TBSで人気を博した鎌田敏夫脚本の『男女7人夏物語』の1話を見ると、誰が誰とひっつくのかな・・というヒントは、そこで既に提示されているのである。

犯人と思しき人物は、西島機械に勤める秋場文作(風間杜夫)という男だった。彼は10年前、池袋でホステスをしていた利江と知り合い交際していた。しかし、秋場には既に結婚する相手がきまっており、利江もその時は静かに身を引いた。その2人が再開したのは西島グループの創立60周年を起点するパーティーの会場だった。2人の関係は再び始まった。それからというもの、ほとんどリストラ寸前の立場だった秋場は、会社に残されることが決定され、西島グループの中核である西島電気に転属となった。利江が会長の愛人であることから、秋場への便宜をはたらいてくれたのだった。
秋場は利江を愛しいと思う反面、不安でならなかった。利江は自分を純粋に求めてくれているが、会長と自分以外にもまだ男の影を感じることがあったのだ。

この後の展開は、松本清張ものではよくある展開で、妻と離婚し自分と再婚することをもとめてくるようになる利江が、重たくなり、追いつめられた秋場は利江を殺ししかなくなる・・というもの。

その殺人にいたる謎解き部分は、刑事が担当するのではなく、利江のもう一人の愛人、沼田仁一(袴田吉彦)が調べていくという展開。
警察は、利江の愛人がおそらく犯人だろうと捜査をはじめている。このままでは自分が犯人になってしまうと危機感を覚えた沼田は友人に相談、もう一人いるはずの愛人の男を捜し始める。ある夜ベッドで彼女を抱いていると、彼女は「吉野さん」と間違えて口にしてしまったという。
やがてその吉野というのは秋場の旧姓であることが判明、西村京太郎的な殺人事件当日のアリバイくずしの推理がはじまる。

# by ssm2438 | 2012-01-16 10:22 | 松本清張(1909)

アフロディーテの吐息(1997) ☆

原題:VIVID/LUSCIOUS

監督:イヴァン・ジョルジアデス
製作:ニコラス・スティラディス
脚本:イヴァン・ジョルジアデス
撮影:ルデック・ボグナー

出演:カリ・ウーラー (ビリー・レイノルズ)

       *        *        *

こんなのエイドリアン・ラインに撮らせろ!!

この写真もまったく雰囲気がちがう(→)。
舞台は貧乏アーティストのアトリエなので、こんなゴージャスな部屋はでてこない。

スランプのアーティストと同居してるのだけど、まったく筆が進みそうもない。ヌードのモデルもやってあげてるのに、筆はすすまない。そんななりゆきから、彼女の身体にボディペインティングをほどこして、カンバスのうえで“H”してたらなんとなくアートな模様ができあがってしまい、それからというもの、ペンキをお互いの身体にぬってカンバスの上でセックスをするという話。


たまたま昨日『アナコンダ』をやってるのを見てしまったので、なんとなく思い出してこれも書いてみる。

『アナコンダ』の主役はジェニファー・ロペスですが、そのほかにもアンジェリーナ・ジョリーのとーちゃんジョン・ボイドとか、フィギュアースケーターの青いほうとときどき間違えるオーウェン・ウィルソンとか、けっこいう有名人が出てるのです。そしてこのカリ・ウーラーもその一人。
実は昨日までまったく意識したことがなかったのですが、“あれ、このお姉ーちゃん可愛いじゃん”って調べてみたら、知ってました(苦笑)。そうです、むかしみた、ソフト“H”系の映画に出てました。その映画がこれ。

ま、アーティストのはなしだったのでもしかしたら面白かもと思い借りてきたのですが、いかんせん、本物よりも絵がばっちい。それ以上に身体にぬったペイントがばっちい。そのばっちさといったら兵庫県知事さんがもんくをいったという『平清盛』の比ではありません。せっかくぬぎっぷりのいいカリ・ウーラーのボディも台無しにするだけのただただきたなない色。単色だけならいいのだけど、赤や緑や青や黄色を節操なくまぜるものだからひたすらばっちいドブネズミ色にしかならない。

アートのセンスがない人ってどうしてこんな馬鹿なことするんでしょうね。出来ることが全部アートなら誰にでも出来る。実はアートって、その水面下に<法則>があるもの。もっともそれが理屈なのか、感性なのか、あるいは本人が解っているか、いないかはおいといて・・なのだけど。
この監督はただ、珍しいアバンギャルドなことをしただけで、だからといってそれがアートになるわけがない。ただのアホです。出来上がったものもアートと呼ぶにはほどとおいもの。最近この手のバカがおおすぎる。CGのアフターイフェクトなりなんなりでフィルター使えば適当に目新しいものができるけど、どういう意図なのかを理解してやってるわけではなく、ただ、そこにあるボタンを押した結果目新しかったからそれでいいや・・というのと同じ。バカってのは、珍しさだけにとらわれて、意図するものがないのですよ。最近糞映画がおおいのも、撮影方法や画像処理がおおいので、なんだかんだとクリックしてて無作為にできあがったものを使ってる感じで、まったく意図してそれをやってる感じがしない。おかげで糞画面ばかりが反乱する・・。

アートがアートでないのだがら、全然物語として成立せず、カリ・ウーラーのヌードも台無しにするという、どこもほめるところがないという代物でした・・・・。

しかしカリ・ウーラーは良いです。
彼女のヌード(上)と、ドブネズミ色の糞演出(下)。

# by ssm2438 | 2012-01-14 21:36

グラン・プリ(1966) ☆☆

原題:GRAND PRIX

監督:ジョン・フランケンハイマー
脚本:ロバート・アラン・アーサー
    ウィリアム・ハンリー
撮影:ライオネル・リンドン
音楽:モーリス・ジャール

出演:
ジェームズ・ガーナー (ピート・アーロン)
イヴ・モンタン (ジャン・ピエール・サルティ)
三船敏郎 (ヤムラ)

       *        *        *

HONDAカラーはやっぱり白でしょう!

ジェイソン・バトンルーベンス・バリチェロがドライブしてたホンダRA107は、なにを勘違いしたかアースカラーだとかいって、地球をプリントしたようなカラーリングもってきた。やっぱりホンダは白でないといかんでしょう。

ホンダがF1に参戦したのは1964年のシーズンからである。当時のマシンはホンダRA271で、葉巻の上にコックピットをのせて、その風防のまえに赤い日の丸を配しただけのシンプルな白いマシンだった。『ルパン三世』の1話にF1レースが描かれているが、ちょうどあのころのレーシングカーだと思っていただければよいだろう。このシーズンの最後のレースでホンダは優勝してしまう。じつはタナボタ的な勝利であはあったが、F1デビュー11戦目で優勝してしまったことは特筆するべきことだっただろう。
右も左もわからないF1の世界に突然白いマシンで参加してきたアジアのチーム。欧米人も未知数な力の少なからず興味をもったのかもしれない。
その翌年に制作され、66年に公開されたのがこの『グラン・プリ』という映画。主人公のジェームズ・ガーナーが乗るマシンは、三船敏郎扮するヤムラという日本人オーナーのチーム。明らかにHONDAをイメージしていた。

映画の中では、イブ・モンタンの恋愛事情や、事故から復帰するジョーダンのドライバーの正統な頑張りなどが語られており、ほとんどこれはメロドラマである。しかしレースシーンはしっかり撮られており迫力充分。さすがフランケンハイマー。そしてサーキットの特徴でもあるベルギーのスパサーキットの変わり易い天候やら、けっこうレースのツボは押さえ込んでいる。
ただ・・・、映画が楽しめるレベルの物語ではない。チームの経済事情や、ドライバーの移籍事情など、もっとF1ビジネスのインフラを描いてくれると面白いものになったのに、全体的に大雑把な仕上がりになってしまった。ジョン・フランケンハイマー大好き人間の私だが、申し訳ないが、物語は「つまらなかった」と言わざるを得ない。
音楽は『アラビアのロレンス』モーリス・ジャール、あいかわらずうるさい(笑)。

ちなみに、この映画の最後でイブ・モンタンが死ぬイタリアGPのコースは、バンクのあるオーバルコースも使われている。ジョーダンチームがこのころからあるのは嬉しい。

<あらすじ>
そのシーズンの最初のF1はモナコGPだった。アグレッシブな走りをするブラバムのアメリカ人ドライバー・ピート(ジェームズ・ガーナー)は事故を起こし、地中海に投げ出された。優勝したのは赤いマシンにのるサルティ(イヴ・モンタン)だった。
この事故のためにシートを失い、さらにピートの妻も彼の元を去った。傷心の彼に救いの手をさしのべたのは、日本のマニファクチャ、ヤムラ(三船敏郎)だった。彼はピートのファイトを買い、日本チームへの参加を勧めた。ヤムラのおかげでピートはよみがえり、つぎつぎとレースに優勝していった。
そしてフォーミュラー・ワンの最後のレースであるモンツアのイタリアGPを迎えることになった。レースは白熱化し、異常な興奮をまき起こした。レースではサルティの車はオーバルコースを失踪するマシンがコントロールを失い、宙に待った。チェッカーを受けたのはピートの乗る白いマシンだった。

# by ssm2438 | 2012-01-14 14:54 | J・フランケンハイマー(1930)

幸福の黄色いハンカチ(1977) ☆☆

監督:山田洋次
原作:ピート・ハミル
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:佐藤勝

出演:
高倉健 (島勇作)
倍賞千恵子 (島光枝)
武田鉄矢 (花田欽也)
桃井かおり (小川朱実)

       *        *        *

柱のき~ず~はキリギリス~
5月5日のキリギリス~


1977年の日本アカデミー賞をほとんどとってしまったこの映画、世間ではけっこう褒め称えられているのですが・・・、どうも、私はいまひとつ空振ってしまったようでした。。。

山田洋次といえば誰もが『男はつらいよ』を思い浮かべるものです。そういう私も山田洋次ものは嫌いではなく、なんだかんだといいながらコンプリートしてしまいました(苦笑)。
寅さん映画は1969年封切られたのを最初に、当初は年に3本が制作されています。さすがにマンネリ化を感じたのか、1973から年に2本づつ製作されるようになり、3本目は山田洋次も別の作品に時間をさいていたようです。1977年には3本の映画を監督し、そのうち2本は『男はつらいよ』で、もうひとつがこの『幸福の黄色いハンカチ』でした。ちなみにこの年公開されて2本の寅さん映画は、『男はつらいよ、寅次郎と殿様』『男はつらいよ、寅次郎頑張れ!』でした。
残念ながらこの2本はどちらもパンチにかける作品でした。特に『男はつらいよ、寅次郎頑張れ!』は当時人気の中村雅俊大竹しのぶという、若手人気の俳優人を要したにもかかわらず、今ひとつありきたいの出来になってました。意外と山田洋次にしてみればスランプの年だったのかもしれません。
・・・というか、絶対そうなのだと思います。
最後にはたしかにウルウル来るのはいつものことなのだけど、どうもいまひとつハマらなかったのです。
そのおおいなる原因は、やっぱり高倉健が演じた島勇作という男のキャラクターにあるのでしょう。

そもそも男というのは、女を愛する時に、その女自身を愛しているわけではありません。男が愛しているのは、自分のなかの理想の女性像であり、それだけです。男というのは、それをオーバーラップできる対象に、「ああ、この人こそそういう人なんだ」って思い込むとき、それを愛してると勘違いする生き物なのです。なので、その点においてこの島勇作というキャラクターはかなり男の本性を露呈しているキャラクターだといえるでしょう。しかし、現実ではそんな人はいるはずもなく、現実と妥協してはじめて恋愛というのが成立します。

本作では、島勇作にとって光枝が理想の女性だと思えていた間は、それが機能します。あたかも幸せな恋愛のようにもみえます。しかし、流産を境に、光枝の過去があるていど見えてきて「自分が好きになるはずの女にはこんなことが起きるはずがない」と絶望します。
そんなエピソードをみていると、高倉健が演じるこの男は、終始自分の理想の幻影しか愛していないように思えるのです。
この映画をみて、島勇作は光枝を真っ正直なまでに不器用なまでに愛しているのだ・・と思えたなら、この映画をみて感動できるとは思うのですが、どうも、私にはそう思えなかったのです。。。結局最初から最後まで、光枝自身が確かに愛されてるとはまったく感じられなかったので、この物語にのめりこめなかったのです。
ただ、ある程度ドラマの見方は心得ているので、「一応これでそういう<一途な想い>ということになっているんだな」と理性的に考えて、なんとか物語りについて行ったというのが正直な私の感想でした。ま、それを化膿してくれる山田洋次の上手さもあるのですが・・・。

あとひとつ、やっぱりこの映画は好きになれないのはキャスティングにあるのでしょう。
私はどうも、画面のなかに武田鉄也が出てくるのが生理的にきらいみたいです。さらに桃井かもりもキライみたい。どうも、あのだらしのないしゃべり方がキライで、なおかつ、あの結局は自分に都合のいいことしかよしとしない傲慢なさがキライ。さらに言えば、本音を語っているように聞こえるが、自分の優位性を勝ち取るために相手の弱さを攻撃しているような態度がキライ。

<あらすじ>
失恋してヤケになった花田欽也(武田鉄矢)は、有り金ははたいて真っ赤なファミリアを購入、フェリーに乗り釧路をに上陸する。網走の駅で、一人旅らしい女の子に声をかけ、なんだかんだと誘い文句をならべ、同行してもらうことに成功する。彼女は朱美(桃井かおり)といい、やはり職場で嫌なことがあり、衝動的に北海道に飛び出してきた一人だった。海岸にやってきた2人は、そこで海を眺めていた島勇作(高倉健)に写真を撮ってもらった縁で一緒に旅を始めることになる。
ことのなりゆきで勇作がハンドルを握っていたとき、一斉検問に引っかかり、勇作が無免許運転であったことが判明、無免許の理由を問われ刑務所に入っていたことを話す。最寄の警察署に連行されるが、昔勇作の事件を担当した渡辺係長(渥美清)の温情で事無きを得る。刑務所帰りがばれた勇作は汽車で行くと言うが、結局は3人旅は続いていく。
車の中で勇作は自分の過去を語り出す。スーパーのレジ係だった光枝(倍賞千恵子)との出会い、結婚、そして幸せな新婚生活。しかし光枝は流産をきっかけに光枝の過去を知る。絶望した勇作はヤケになり夜の繁華街に繰り出し、絡んできたチンピラとの喧嘩で相手を死なせてしまう。
それから6年、刑務所から出来てたのが、今の勇作だった。
勇作は網走で葉書きを出したことを告白する。「もし、まだ1人暮らしで待っててくれるなら…黄色いハンカチをぶら下げておいてくれ、もしそれがなかったら俺はそのまま引き返して、二度と夕張には現れない」・・・と。
それを聞いた欽也達は一緒に夕張に行くことを決心する。


・・・・・しかし、最後の再会のシーンはやっぱりよかった。
アップで撮ることなく、横からのアオリ気味のロングで捉え、なにを語ったのかもわからない。

ハンカチを見上げる高倉健。しばしして、うちのほうに向かう。
そのままの状態で顔をおさえる倍賞千恵子。
やがてもどってきて、そっとかたをだいてやる高倉健・・・。

この賠償千恵子の、高倉健の移動下方向をフォローすることなく、そのままの状態でうなだれるところが実に素敵だ。。。。

# by ssm2438 | 2012-01-13 14:42

暖流(1957) ☆☆☆

監督:増村保造
原作:岸田國士
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫

出演:
根上淳 (日匹祐三)
野添ひとみ (志摩啓子)
左幸子 (石渡ぎん)

       *        *        *

愛ってすべっからしになることなの・・・。

原作は岸田國士の同名小説で、とある私立病院における人間のどろどろを描いた作品の、何度目かの映画。世界観的には『白い巨塔』山本薩夫で撮ってほしいところだ。

増村保造は、私の大好きな監督で、ヘビーな作品としては『清作の妻』『赤い天使』<がある。その一方で、それまでドロドロで陰湿になりがちだった日本映画を、からっとあっけらっかあーーーんと描いてしまうような作品もある。野添ひとみ川口ひろしで撮った『くちづけ』などは大成功作品だろう。ほかにも『巨人と玩具』『青空娘』のように、早口・棒読み・あっけらかん路線の映画はある。増村保造はこの映画をこの路線でとってしまった。もしかしたらこの映画以前に、吉村公三郎が撮っているものとの差別化を意識したのかもしれない。ただ・・・、やっぱりこれはダークなグログロ路線撮ってほしい素材である。
今回の映画の増村保造起用はちょっと残念だったが、原作そのものの魅力で☆ひとつおまけ。
後に野村芳太郎岩下志摩で撮られた1966年のほうが見たいところだ。

それでも、志摩啓子・・・いいなああ。『明日のジョー2』白木葉子を重ねて観てしまう・・・。
志摩啓子というのは野添ひとみ演じるこのものがたりのお嬢様ヒロイン。大病院の娘で、何不自由なく暮らしていた。インテリな傲慢なキャラではあるのだが、これが極めて清楚で清らかで、たくましい。しかし感情の表現が苦手で、いつも自分の感情を抑えて生きている。この清らかさとたくましさと、不具合さがきわめて私の好きなタイプである(笑)。
その対角におかれているのが、左幸子演じる石渡ぎん。志摩啓子とは高校の時の同級生らしい。しかし、こちらは、感情をどあああああああっと出すタイプで、幸せな時は「私幸せええええええ」、不幸なときは「私不幸うううううう」、主人公の日匹(ひびき)にかまってほしいときには「かまってえええええええ」とうざいくらいに感情を放出していく。
このふたりの間に根上淳扮する主人公の日匹が存在し、志摩啓子にあこがれながらも、最後は石渡ぎんとひっつくという話。この物語が抜群に面白いのは、この<人並み以上に感情を押し殺す女>と<人並みに感情を制御する男>と<人並み以上に感情を表現する女>の絡み合いが面白いのだ。

日匹祐三に一目ぼれした志摩啓子だが、日匹祐三のあまりに自身のある態度が鼻につき、彼を直接求めることが出来ない。そんな啓子は、志摩病院の若手で有望な医師・笹島と接近、する。しかし、これら全ての行為はどこか日匹祐三への“かまってかまって信号”だったのだろう。笹島から結婚を申し込まれても、どこかうけいれられない啓子。
志摩病院の業務改革を任されいる日匹祐三は、啓子の高潔さに惹かれながらも、内部情報に詳しい看護婦の石渡ぎんとの接点をもつようになる。ぎんは日匹祐三に頼まれて、彼のために働くことに幸せを感じている。

憧れの女性に心奪われながら、一緒にいて居心地のいい女性と行動をともにする。

恋愛ドラマの王道である。
日匹祐三はぎんの存在がうざくなり、さらに笹島に愛人があることが発覚、啓子が彼との婚約を解消すると、自分の心をおさえられなくなり、啓子に結婚を申し込む。しかし啓子はこれを拒否。日匹祐三のあたかも保護者のようにふるまうその態度がどうにも鼻につくのだ。
それからひともんちゃくあり、結局日匹祐三と石渡ぎんがおさまるところにおさまる。物語の最後で、啓子が祐三に自分の心を伝えたときには、すでに祐三の心はそこにはなかった・・・。


しかーし!
このドラマのカッコいいのは、このあとの啓子なのである。
祐三にぶつけた自分の愛情を拒否されてからの去っていく彼女の後姿、そしてそのあと母とかわす一連のやりとり。この啓子をみせるためにいままでの全てがあったといっても過言ではない。それはまさに『風と共に去りぬ』ヴィヴィアン・リーのような気高さである。このシークエンスだけで、この映画は私のなかではとても大事に映画になってしまった!!!!
おおおおおおお、美しい。潔い。志摩啓子、まさに私の大好きなヒロイン像である。

この高潔さを選ばずに左幸子にいってしまう主人公ってアホとしか思えん。
野添さん好きです~~~~~。


<あらすじ>
志摩病院は都内でも屈指の私立病院であるが、莫大な借金を抱えていた。病院を手放せばその借金は返せるのだが、創立者の志摩泰英には耐え難い選択だった。そんな病院の建て直しを任されたのが日疋祐三(根上淳)だった。祐三は孤児であり、志摩家の援助を受けて大学を卒業し、事業家として頭角をあらわしていたのである。
さらに泰英は自分の余命がいくばくもないことを知っていた。そんな彼が気にかけているのが娘の啓子(野添ひとみ)のことである。せめて命のあるうちに啓子に結婚相手がみつかることを願っていた。そしてまもなく院内でも秀才で通る青年医師・笹島と付き合うようになり笹島からプロポーズを受ける。
しかし、啓子にはきになる男がいた。父の泰英から志摩病院と志摩家の資産の正常化と管理を任された日疋祐三である。祐三の強引なまでの経済管理は、院内だけでなく志摩家の生活にも容赦はなかった。しかし、与えられた仕事を無慈悲に成し遂げていく祐三に啓子もすくなからず魅了されていった。
やがて志摩泰英は急逝した。っそれでも病院は祐三によって経営の一新がすすめられいく。泰英の一人息子だが、無能な医師・志摩泰彦(船越英二)も病院から追放され、彼をかついでひそかに病院ののっとりを狙っていた派閥も解体されていく。
周りは敵ばかりの祐三に協力的だったのは看護婦の石渡ぎん(左幸子)だった。しかし祐三は彼女の好意を押し付けがましく感じ始めていた。
一方祐三は、志摩家の財産を守るための一環として、啓子の婚約者・笹島の素行調査を行うが、笹島には女性関係があった。祐三はそれを啓子にありのまま伝えたが、かえって軽蔑されてしまう。笹島の愛人宅をたずねる啓子。そこにはおくすることもない愛人が啓子を迎え入れ、笹島もそこに現れる。しかし、彼もまた、おくすることなく、「自分には愛人がいるが、それでも啓子と結婚したい」と言う。
啓子は笹島との婚約を解消した。
祐三は関西の資本家を動かすことに成功、新院長も決定し、彼の仕事もそろそろ終局に近づいていた。
そしてそれぞれの恋愛事情も結末に向かっていた・・・。
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# by ssm2438 | 2012-01-12 12:42 | 増村保造(1924)

AVP2 エイリアンズVS. プレデター(2007) ☆

原題:ALIENS VS. PREDATOR: REQUIEM

監督:コリン・ストラウス/グレッグ・ストラウス
脚本:シェーン・サレルノ
撮影:ダニエル・C・パール
音楽:ブライアン・タイラー

出演:
レイコ・エイルスワース (ケリー・オブライエン)
クリステン・ヘイガー (ジェシー)

       *        *        *

うむむむむ、シナリオ段階で崩壊してるかも・・・。

AVPというコンセプトになってからは、もう正統は恐怖映画としての価値はなく、ひたすらエンタメ映画になってしまったのは、まあ、そういうことなので仕方がないとしても、今回のこれはひどいなあ・・。面白く作ろうとおもったらいくらでも面白く作れる要素があったのに、最悪な映画として出来上がってしまった。

今回の『AVP2』はシリーズ通して最高に楽しめるシチュエーションだった。つまり、エイリアンが、人間社会に登場したということ。実はこれだけでも、大変面白い映画になるはず。一番スタンダードな最初のやった『エイリアン』とのスタイルで映画を作ってもほとんど大成功になる可能性充分にあった。
なのに才能のない作り手が<足し算の法則>を擁してどうにもとらえようのないものにしてしまった。映画というのは<引き算>で作られれば面白いのだが、<足し算>で作られるとおバカになってくるという法則がある。<引き算>で作られる映画というのは、一番大切なもののために、二番目に大切なものを犠牲にしていく話になる。犠牲にしていく要素が重ければ重いほど、最後の勝利は価値があがるというメカニズムである。
この映画にも、もちろん犠牲になる人のシーンは多数でてくるのだが、引き算ではなく足し算。とりあえずこういう人がいて、またエイリアンにやられました・・ってイベントだけが積み重ねられていく。

物語の法則的なことで言えばそういうことなのだが、それ以上に、話に節操がない。それぞれの存在の行動意識のなかに美学がない。なのでひたすらばたばたやってるだけ。登場人物の生き方に美学がないなら、それは死人も同じ。
いや、それでもよかったのですよ、それに徹することが出来れば。
地球に繁殖し始めたエイリアンと、その繁殖を食い止めるために送り込まれたプレデターの戦い、彼らにとっては人類がどうなろうとかまわない・・ってシチュエーションに徹することができるなら、それはそれで面白かったかも・・・。ま、これはほとんど、ギャオスと戦うガメラみたいなものですな・・・。

<あらすじ>
エイリアンとの戦いで戦死したプレデターの戦士の中にはエイリアンが巣食っていた。そして飛び出したニュータイプのエイリアン。それは、彼らの宇宙船のプレデターたちを抹殺してしまう。コントロールをうしなったその宇宙船は再び地球軌道に戻り、コロラドの森林に墜落した。この事態を憂慮したプレデターたちは、地球上でのエイリアンを撲滅するために一人の戦士を地球に送る。
しかし、すでにエイリアンは地上に繁殖しはじめていた。彼は宇宙船を爆破し、エイリアンを撲滅すると共に、自らの存在の証拠になりそうなものの消滅させていく。

PS,全然関係ないが、主人公らしい女性を演じたのがレイコ・エイルスワース
名前が「Reiko」ってだけでちょっとときめいた(苦笑)。

# by ssm2438 | 2012-01-09 21:48

リストラ凌辱銀行・キャリアへの復讐(2000) ☆☆☆

監督:坂本太
製作:海津昭彦
企画:望月健二
脚本:佐々木乃武良
撮影:佐藤文男

出演:井上尚子(麻木真由子)

       *        *        *

ゲテモノのなかに咲いた一輪の花。

数あるザコビデオのなかに何か良いものはないかとあさっていたらヒットしました(笑)。話は、リストラされたサ銀行員が、その判断を下した女性上司への復讐するというもので、その話自体はよくある話です。ジャンル的に成人映画のOVAで、アダルトビデオと違って、“H”をしているものではなく、全部芝居です。
しかし、その芝居が余りにしっかりしているのでみていて心地が良いのです。

そもそも、映画というのは嘘で本物を感じさせるものを作るものです。たとえば、映画の主役の人が、適役を殴るカットがあるします。しかし、主役の人は適役の人をほんとに殴っているわけではありません。もし、その撮影中に、間違ってその拳が相手の肌をかすめようものなら、それは人権問題として大問題になります。彼らはそれを芝居としてやるのが仕事で、決して実際に殴っている事実があってはいけないのです。そしてプロの役者なら実際に殴らなくても、出来上がったものでは、実際になぐっているようにみせられるのが当たり前なのです。

そしてこの主役の井上尚子さんの芝居が圧倒的に素敵です。撮影がスゴイ!とか、シナリオが良いとかには敏感は私ですが、芝居が良い!っていうので感動したのは久しぶり。
彼女は、どっちかというとおっとり系の顔で、実は写真集をもっているのですが、それほどカメラ映えする人だとは思ってなかったのです。さらにキャルアウーマン的なのはあまり似合わないようなきもしてたのですが、コレ見る限り、バリバリのキャリアウーマンのきびきびした仕草をきちんと演じてます。顔も、メイクのちからで、おっとり顔がきりり顔に変身。
バスとはかなり大きく、プロポーションも素晴らしい。ただ重力にまけているのがちょっと悲しい。でも外見からは考えられないくらいなにからなにまで真剣そのもの。“H”シーンでの芝居がすごくしっかり出来てる。人工的な物語の展開に、彼女の芝居がリアリティを与えている。物語の作りはかなり大雑把な話なのですが、どんなシーンでも真剣に演じてしまう彼女の潔さにスタッフもキャストも引きずられたような空気感。
ひさびさにまじめの取り組まれた“H”ものOVAというのを見たという想いがしました。すばらしい!!

<あらすじ>
菱友銀行の麻木真由子(井上尚子)は、上司の杉山と不倫関係を結び、着実に地位を固め、新しいプロジェクトの指導的立場を手に入れた。菱友銀行は、多額の不良債権を抱えてた東西銀行吸収合併し、ITバンクとして立ち上げるようとしていたのだ。そのためには、大幅にリストラする必要があった。東西銀行に乗り込んだ真由子と杉山は、辣腕を振るって続々と中堅行員たちに引導を渡していく。
ITバンクへの改装に向けて、連日ハードな業務をこなす真由子。しかし、彼女は常に何者かの視線を感じていた。リニューアルされた東西銀行の開店当日がやってきた。その朝、なぜかコンピューターの梱包が届けられる。その中には全裸のままビニールに包まれ失神した窓口係の仁美(南あみ)がいた。
その事件は真由子に振りかかる忌まわしい復讐の予告に過ぎなかった…。

たまに、こういうの見つけると嬉しいものです。
普通にみたら☆ふたつが妥当でしょうが、井上尚子が素晴らしかったので☆一つおまけしました。

# by ssm2438 | 2012-01-07 12:28

フィールド・オブ・ドリームス(1989) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

原題:FIELD OF DREAMS

監督:フィル・アルデン・ロビンソン
原作:W・P・キンセラ
脚本:フィル・アルデン・ロビンソン
撮影:ジョン・リンドレー
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ケヴィン・コスナー (レイ・キンセラ)
エイミー・マディガン (アニー・キンセラ)
ギャビー・ホフマン (カリン・キンセラ)
レイ・リオッタ (シューレス・ジョー・ジャクソン)
ジェームズ・アール・ジョーンズ (テレンス・マン)
バート・ランカスター (アーチボルド・グレアム)
ドワイヤー・ブラウン (ジョン・キンセラ)

       *        *        *

If you build it, he will come.....

1989年~1990年は映画ファンにとっては夢のような時代だった。
89年の年明け『ベルリン・天使の詩』『ニューシネマ・パラダイス』『恋恋風塵』『バベットの晩餐会』、年をまたいで『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』『フィールド・オブ・ドリームス』『霧の中の風景』『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカーボーイズ』・・・・こんなにスゴイ当たり年はもう二度と訪れないだろうと思う。

『ニューシネマ・パラダイス』で散々泣かされて、もうこれ以上泣ける映画はないだろうっておもってたら翌年のこの『フィールド・オブ・ドリームス』でまたまた爆涙だった。眼がねは涙でくもり、あんまり我慢してたので見終わった時に鼻水がつるーーーーーっとスジを引いた。あんまり涙を我慢してたら鼻から出てくるというのは子の事なんだと知った。

でも、なぜこの映画がここまで泣けるのか・・・不思議な魔力をもっているのか・・・・、謎の深い映画でもある。

If you build it, he will come.....

アイオワに移り住んで農業を営んでいるレイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)が、ある日トウモロコシ畑のなかで、その声を聞く。“If you build it, he will come.....” やがてトウモロコシ畑の一角に野球場のイメージが浮かび上がり、続いてシューレス・ジョーのイメージが一瞬垣間見えた・・・かのように思えた。レイは、妻のアニー(エイミー・マディガン)にそのことをつげる。この時の会話からすでにウルウルきていた。

「私は、彼が老いていくのが許せなかった。
 今の私と同じ年のころには、すでに彼は擦り切れた老人のようにみえた。
 きっと彼は、何一つスポンティーニアス(衝動的)なことはしなかった。
 私も彼と同じようになっていくのかと思ったら怖い。・・・私はきっと狂るってるな」

この奥さんも良く出来た奥さんで、
「そうよ、あなたは狂ってるわ。でも、もし、あなたが、どうしても、ほんとにそうしたいって思うならするべきよ」と言ってくれる。

翌日からレイは育ったトウモロコシを刈り取り、そこに野球場を作っていく。そしてなにもないまま、時は過ぎ、野球場は雪に埋もれ、クリスマスをやり過ごした。そんなある日、妻のアニーは家計は火の車だといつ現実をつきつけられていることをレイに話す。衝動にかまけてまずいことをやってしまったな・・と思ってるレイに、娘のアニーが声をかける。「ああ、うるさい、後で聞くから」と邪険にするレイだが、アニーはしばらくしてまたレイに声をかける、「誰か来てる・・・」。
フィールドには父が憧れた野球選手、シューレス・ジョー・ジャクソンが来ていたのだ。

上手いんだ。
期待させておいて、もうダメかなっと思わせ、ぎりぎりのところですくっていく。

このあとの展開も日本人には在り得ない展開かもしれない。なんと既にこの時点で秘密を家族と共有するのである。おそらく日本のドラマなら、ここは主人公だけの秘密にしておくところだろうが、この物語では家族とシェアする。アメリカ的である。
シューレス・ジョーは、メジャーリーグに在籍したプレーヤーで生涯打率は .356。1911年には147試合出場、なんと打率.408を残している。しかし、シカゴ・ホワイトソックス在籍中のワールドシリーズで八百長試合をしたとして、他の7人のプレーヤーとともに球界追放になってしまった。
詳しい話はこの事件をテーマにした『エイトメン・アウト』参照のこと・・。

そのシューレス・ジョーがレイの野球場に現れる。
どうやらこの場所は、<過去に刺さったトゲ>を浄化する場所らしい。
この映画のツボは、この<過去に刺さったトゲの浄化>にある。人は誰でも1つや2つのトゲが心のどこかにささったままになっているものだ。この物語では、その悔しさを癒してくれるがゆえに、怒涛の涙をさそうのである。

そしてさらなるお告げがレイの耳に届く。
<過去に刺さったトゲ>を浄化しなければならない人は他にもいるらしい。
そしてそれは、自分自身であることに気づいていく。。。
レイは、子供の頃、父のヒーローだった、シューレス・ジョーをののしって家を出たのだった。

I could never respect a man whose hero was a criminal.

シューレス・ジョーが八百長をしたかしなかったかなどもはや意味はない。レイがもっている自責の念は、あの時、父を傷付けることを意図してその言葉を吐いた・・ということだろう。
それはまさに、『普通の人々』のなかで、コンラッドを傷付けるために、悪意をもってフレンチトーストをディスポーザーで処分したメアリー・タイラー・ムーアのようなものだ。

その後コンラッドが若くして死に、あのときに自責の念から自分を解放されないまま、メアリー・タイラー・ムーアが歳をとったとしたらそれは不幸としかいいようがない。そしてもし、その自責の念が解消されたなら・・・sらな誰だって泣くよ・・・。

この映画においては、父とするキャッチボールなんかはどうでもいいのである。アメリカ国民の文化としての野球の賛美なんかどうでもいいのである。この映画のツボは、過去に刺さったとげは、その気になれば自分で浄化できるんだ。・・・確かに、このフィールドにいる人たちは、ここでしか浄化できないかもしれない。でも、君たちは、やろうとおもえばすぐにでも出来るんだ!と語ってくれている。

もっとも感動敵なのはバート・ランカスター扮するアーチボルド・グレアムのエピソードだろう。
かれはジャイアンツで一度だけメジャーリーグのフィールドにたった。勝ってる試合の8回裏、守備固めとして外野の守備についた。たったそれだけが彼のメジャー人生だった。その後再びマイナーリーグに戻され、そして引退した。その後は医者になりすでに余命を全うしていた。そんな彼の望みは「一度でいいからメジャーのバッターボックスに立ってみたかった」というもの。やがてグレアムは、少年の姿でそのフィールドにたち、メジャーのピッチャーを相手に犠牲フライを打ち、貴重な打点を記録する。

そのとき、レイの娘、カリンが観客席から落ちて気をうしなう。そのときアーチー少年は、夢のフィールドを後にしてコチラの世界に踏み入れる。フィールドを出たとたんに医者だった自分にもどり、カリンの危機を救う。サンドイットを喉につまらせていたのだ。。。彼がこの夢のフィールドから出るところから終わりまでもう泣き通しである。

If you build it, he will come.....

彼とは父のことだった。
キャッチャーマスクをとったその男は、まだレイを生む前の若々しい父だった。
自分はあなたの息子だ」とは言わずに自己紹介するレイ。別れ際に「キャッチボールしない、ダッド」というと、その言葉の意味がよくわからないまま、“I 'd like that.”と、戸惑いながらこたえる若い頃の父の言葉をきいて再びどあああああああああああああと涙があふれてくる。
卑怯この上ないね。
きっとあれが、本人の顔をしてたらだめなんだろうな。面とむかって伝えるとどうしても芝居がかかってくる。どこかうそ臭くなる、照れて何もいえない・・・。でも、自分の存在を知らない父になら言える・・・・。
だああああああああああああああ、
ああああああああああああああああああああああああああああああああ、ダメだああ、
これ書いてても泣けるぞ、くそおおおおおおおおおおおおおお。。。

きっと、この映画をみたらベルイマンも泣いただろうなあ。

自分の心のなかに刺さっているいくつかのトゲの、きっといつかは、
こんな風に浄化されるのだろうなあ思うと、やはり泣けてくる。
でも、それは今、浄化されなくていいのけど。
今はもうすこしだけ復讐心をもっていたいと思う。

# by ssm2438 | 2012-01-01 03:25

恋人たちは濡れた (1973) ☆

監督:神代辰巳
脚本:神代辰巳/鴨田好史
撮影:姫田真佐久
編集:井上治
音楽:大江徹

出演:
大江徹 (克)
中川梨絵 (洋子)
絵沢萠子 (よしえ)
薊千露 (幸子)

       *        *        *

若者たちはしらけた・・・。

全共闘世代の成れの果て、生産性の無い青春を描いた神代辰巳(くましろたつみ)の監督作品。日活ロマンポルノの『一条さゆり 濡れた欲情』あたりですこしはメジャーになり、その次の撮ったのはこの作品。
学生運動次代に名残があるひとならすこしは感化されるのかもしれないが、私はその世代ではないのでまったく感情移入するところがないというありさま。無理して「いい映画」だという気にもなれない。

<あらすじ>
5年振りに故郷の漁港町に帰ってきた克(大江徹)は昭和館という映画館のフィルム運びとしてはたきはじめた。昭和館の女主人よしえ(絵沢萠子)は、克の過去に興味を持ちはじめる。
ある日克は、同級生・三浦と岡田に会ったが「自分は克ではない」と言い張り二人に叩きのめされてしまった。そんな克の人生を捨ててしまったような態度に興味を覚えた同級生の光夫と彼のガール・フレンドの洋子(中川梨絵)は、克の母親を連れて来て、対面させた。克は「母親ではない!」と突き放す。
やがて自分の過去を洋子に告白する克。それは東京で起こしてきた殺人のことだった。20万円で人をころしたという。信じかねる洋子。自転車にのってちゃらちゃらしてる克はある男に刺され、そのまま海に沈んでいく。

劇中では説明されていないが、おそらく克の人生は全共闘運動に参加していたのだろう。しかし、時代はその価値観を否定した。浅間山荘事件などでは、彼らは時代のヒーローではなくただの糞赤軍派でしかなかった。結果として自分が信じていたものがなくなった・・・、そんな時代を通り抜けてきた人なのだろう。
でも、まったく面白くも糞もない・・・。

# by ssm2438 | 2012-01-01 01:14

ターミネーター4(2009) ☆☆

原題:TERMINATOR SALVATION

監督:マックG
脚本:ジョン・ブランカトー/マイケル・フェリス
撮影:シェーン・ハールバット
音楽:ダニー・エルフマン

出演:
クリスチャン・ベイル (ジョン・コナー)
サム・ワーシントン (マーカス・ライト)
ムーン・ブラッドグッド (ブレア・ウィリアムズ)
ヘレナ・ボナム=カーター (セレナ・コーガン)

       *        *        *

おおおおおおおおおお、シュワちゃん若い!
・・・そんなことも出来るんだ。


その昔『バットマン』のどれかで、ビルから飛び降りてくるバットマンをCGで作って、カットが変わり地面に着地、そこからすたすたとフレーム外にアウトするというカットがあった。しかし、このカットはボツになったとか。なぜかというと、バットマンが歩いてアウトするカットは俳優が演じても出来るカットで、そこをCGで絵にしてしまうと米国の俳優協会(だったかな?)が文句をいってくるとか。
俳優の権威をまもってるわけです。
今回のシュワちゃんの顔は・・・、もうあの顔は『ターミネーター』という作品に帰属するもので、アーノルド・シュワルツェネッガーに帰属するものではないということでしょうか・・・。ま、確かにもう年齢がいってしまってるので仕方がないとは言えますが、こんなことしてたら、ニコラス・ケイジの頭だって、ケビン・コスナーの頭だって、いつまでもスクリーンの中では頭フサフサですね(笑)。

さて、時代を未来に映して『サラマンダー』クリスチャン・ベールが主人公のジョン・コナーに扮したこの作品。しかし、最近のクリスチャン・ベールは良い感じでヒーローになってきてる。『ダークナイト』といい、これといい、今一番ヒーローキャラとして使いたいのはこの人じゃないだろうか。
映画もトータルしてみると、そんなに悪くはない。少なくとも『ターミネーター3』よりはいい。しかし・・・なんだかもう『ターミネーター』でなくなってきた感じはいなめない。『T3』からの流れで物語をつくるのは若干ん無理になってきてると感じる。このシリーズは『ターミネーター2』で終わらせとくべきだったと思った。
もっとも、今回のイベントを最後に、あとは未来の展開だけなのでなんともでも終わらせることができる段取りだけは完了したということなのだろう。

で、今回の『ターミネーター4』は・・・・、ちょっと感情移入する対象がかなり複数存在しているので、登場人物に想い入れる度合いは分散されてしまい、全体に印象が弱い作品になってきてしまった。

劇中には一番プロトタイプのターミネーターが登場。彼が最後にシュワちゃん型ターミネーターと戦うことになる。このプロトタイプ型のターミネーターは、サイバーダイン社が、死刑囚の身体を献体として受け取り、人間の心をもちながらも身体は機械でできているというかタイプ。物語の中では、自分が機械であることも知らずに未来の荒廃した世界をさまよっているうちに、おねーちゃんと出会い、ちょっとハートフルなロードムービーになるのだが、コナーに引き合わせようとすると、実は彼が機械人間であることが暴露される。自分でもがくぜんとするプロトタイプ君。
コナーたちからはターミネーター扱いされ、殺されかけるのだが、「かれは人間よ」というおねーちゃんに助けられて逃亡、スカイネットに囚われている若き日のマイケル・ビーンを助けにいくことになるという展開。

これが他のSFアクション映画であればそこそこ楽しいよくある映画なのだけど、劇中のシーンもどこかでみたシーンばかりでほとんど新鮮さがなく、最近よくみる映画の一シーンばっかりといいう印象。『ターミネーター』でしかみられない特異性がなくなってるのが悲しい。

監督は映画『チャーリーズ・エンジェル』マックG。ふざけた名前で、先にこなしている映画もお祭り映画なのでどこまでやれるのかわからなかったが、これはこれでけっこう出来てる映画だと思う。なんだ・・おふざけだけじゃないんだってちと感心した。

<あらすじ>
「審判の日」の核戦争を経て、スカイネットに支配されようとしていた2018年の世界。生き残った人類は抵抗軍を組織していた。抵抗軍のリーダーであるジョン・コナー(クリスチャン・ベイル)は、人類の決起を促していた。一方、ターミネーターたちがさまよう荒野をたくましく生き抜く少年カイル(この子が大人になるとマイケル・ビーンとして1980年代に戻ることになる)は、核戦争のことも現在が何年かさえもわからない屈強な男彼の名は、マーカス・ライト(サム・ワーシントン)と出会う。
彼は2003年の死刑囚で、献体の書類にサインし、死刑後は、サイバーダイン社がその身体を受け取った。彼は人間の心を持ちながらも肉体はマシーンという、最も初期型のターミネーターだったのだ。
しかし、人間のこころをもっているマーカスは、コナー達に協力し、捕まったカイルを救い出し、スカイネットの基地を爆破する。その過程で心臓に傷を負ったジョン・コナーのために、マーカスは自身の臓器移植を申し出る・・・。

# by ssm2438 | 2012-01-01 00:21

レザボアドッグス(1991) ☆

監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:アンジェイ・セクラ
編集:サリー・メンケ

出演:
ハーヴェイ・カイテル (Mr.ホワイト)
ティム・ロス (Mr.オレンジ)
クエンティン・タランティーノ (Mr.ブラウン)

       *        *        *

とにかく、生理的に好かん。
生産性全くナシ。

ただ、キャラクターの書き分けはしっかりしてるので、お勉強にはなるかもしれないが・・・好かん。
クエンティン・タランティーノはホモだと思う。<生産性の無さ>と<残虐性>が組み合わさると、その作家はホモであることがおおい。ま、同じ趣味の人だけ愉しんでください・・・。

<あらすじ>
宝石強盗を計画のために集められら6人の男。Mrホワイト(ハーヴェイ・カイテル)、Mrオレンジ(ティム・ロス)、Mrブロンド(マイケル・マドセン)、ピンク(スティーヴ・ブシェーミ)、Mrブルー(エディ・バンカー)、Mrブラウン(クエンティン・タランティーノ)。しかし計画は、襲撃現場に警官が待ち伏せていたため失敗に終る。
集合場所である倉庫にたどり着く面々。仲間の中に裏切者がいるらしい。疑心暗鬼が広がる。
捕まえてきた若い警官を拷問にかけるブラウン。顔をナイフでぎゅるりいいいと裂き、耳を切り落とす。この警官も後にあっさり殺される。オレンジは潜入捜査官だった。

ギャングのボスはオレンジに銃を向ける。
ホワイトはギャングのボスに銃をむける(オレンジは仲間だとまだ信じている)。
ギャングのボスの息子はホワイトに銃を向ける。

当時香港映画でもよく出てきた3すくみの銃の構えあい。ギャングのボスが銃を発射すると皆さん、発砲3人とも倒れる。銃を手にしなかったピンクがひとり生き残り倉庫をあとにして去っていく。
ホワイトが命を懸けて守ったオレンジは、自ら「自分は刑事」と告白する。オレンジを打つホワイト。ホワイトも倉庫に入ってきた警官達に撃たれて終わる。

# by ssm2438 | 2011-12-31 11:05

エア・フォース II (2006) ☆

原題:IN HER LINE OF FIRE

監督:ブライアン・トレンチャード=スミス
脚本:ポーラ・ゴールドバーグ
撮影:ニール・カーヴィン 
音楽:デヴィッド・レイノルズ

出演:
マリエル・ヘミングウェイ (リン・デラニー)
デヴィッド・キース (副大統領ウォーカー)
デヴィッド・ミルバーン (アームストロング)
ジル・ベネット (シャロン・セラーノ)

       *        *        *

まだまだ頑張ってるマリエル・ヘミングウェイ!

「エアフォースⅡ」とは副大統領がのってる専用機のことらしい。でも、実際のそうなのかは不明。ハリスン・フォードの主演した『エアフォース・ワン』とはまったく関係がありません。
しかし、意外なことにTMVではないような感じ。これで劇場公開作品にしようというプロデューサーの心意気には関心します。なので、ちょっと『エアフォース・ワン』のとボックス・オフィスをしらべてみました。
(数字は IMDb:インターネット・ムービーデータベースから抜粋)

『エアフォース・ワン』
Budget: $85,000,000 (estimated)
Opening Weekend: $37,132,505 (USA) (27 July 1997) (2919 Screens)
Gross: $172,956,409 (USA)

『エアフォースⅡ』
Budget: $1,000,000 (estimated)
Opening Weekend: $232 (USA) (23 April 2006) (2 Screens)
Gross: $884 (USA) (4 May 2006)

この数字がどこまで信用できるのか疑問ですが、『エアフォース・ワン』の予算の85分の1の予算とはいえ、総興行収益が$884ってのはすごすぎませんか? 1$=75円で換算すると、$884=6万6300円。

主役のマリエル・ヘミングウェイは文豪アーネスト・ヘミングウェイの孫娘。姉のマーゴ・ヘミングウェイ『リップスティック』などで有名になったけどその後自殺。大柄の美人姉妹だったのですが、さすがに老けましたね。ウディ・アレン『マンハッタン』ボブ・フォッシー『スター80』ピーター・オトゥールと共演した『クリエイター』などでは良い味だしてました。個人的にはかなり好きだった役者さんで、この撮影の時は45歳。年齢の割にはかなり動いてました。いまでは既に50歳の大台に到達されてしまいましたが、まだまだ頑張って欲しいものです。

<あらすじ>
『エアフォースⅡ」というのはアメリカ合衆国の副大統領とそのスタッフが使う専用機のこと。そのエアフォースⅡが南太平洋を飛行中にサンダーストームに遭遇、ソロモン諸島の島付近に不時着水することになる(余談だが、撮影はニュージーランドだったらしい)。
なんとか近くの島にたどり着いた生存者達は、島のゲリラグループに急襲される。彼らはアームストロングというアメリカ人の傭兵グループで、島の独裁政権のために戦っていた。
副大統領のをウォーカー(デビット・キース)は捕まってしまうが、彼が副大統領だとわかると身代金目当てに生かされる。同行していたシークレット・サービスのリン・デラニー(マリエル・ヘミングウェイ)と副大統領報道官のシャロン・セラーノ(ジル・ベネット)は副大統領を救出に向かうが、反対にシャロンも捕まってしまう。なんとか脱出したリンは、持ち前のコンバットスキルと米軍のヘリコプターの支援により2人を救出する。

大まかに書くと、このようなことなのだが、副大統領のウォーカーももと海兵隊ということで、拘束されてなければがしがし戦えるという設定。ただ、個人的にはそんなアクション物にせずに、普通の副大統領という設定で、マリエル・ヘミングウェイだけのアクションものとして成立されたほうが良かったと感じた。
ただ・・・むかし美人だったとはいえ、45歳のヒロインはちときつい。これがアンジェリーナ・ジョリーだとかだったらまだ解るのだけど・・・。

つまり、こういう特殊部隊的な物語というのは、敵の捕虜になれば当然拷問は避けられない。これは英国特殊部隊SASなどの文献を読んでも、当然のようにでてくる。当然女性兵士の場合は陵辱されるリスクはそこにある。ヒロインをつかって物語を展開する以上、この部分は見る側につねに意識させながら(いかがわしい妄想を抱かせながら)、物語をころがしてやればなんとなく緊張感はたもてるものだけど、この作品に関しては、脳内を刺激する要素があまりにも平凡すぎた・・・。

『スター80』のころのマリエル・ヘミングウェイ。キレイでした。

# by ssm2438 | 2011-12-30 09:54

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル(2011) ☆☆☆

監督:ブラッド・バード
脚本:ジョシュ・アッペルバウム/アンドレ・ネメック
編集:ポール・ハーシュ
音楽:マイケル・ジアッキノ

出演:
トム・クルーズ (イーサン・ハント)
ポーラ・パットン (ジェーン・カーター)
サイモン・ペッグ (ベンジー・ダン)
ジェレミー・レナー (ウィリアム・ブラント)
レア・セドゥー (女殺し屋、サビーヌ・モロー)

       *        *        *

脚本を書かないブラッド・バードの監督作品なんて・・・。

実を言うと今日の今日まで、この映画の監督が誰なのかしりませんでした。ま、それだけ興味もへったくれもなかったのですが、今日、突然にこの監督がブラッド・バードだと知り、超特急で劇場に行ってきました(笑)。

・・・・結論からいうと、それなりに面白かったけど、ブラッド・バードの面白さではない。

実は3作目は見ていないのだけど、1、2作目よりは楽しめました。
個人的にはブライアン・画面分割糞デ・パルマは作劇的過ぎるので嫌いだし、ジョン・糞ロープアクション&弾丸のフォローで横から撮るな糞・ウーも漫画っぽいので嫌い。それにくらべてブラッド・バードのアニメは、大人っぽいので大好きだったのだけど・・・、好きなのだけど・・・・・うううう。

他の人が書いたシナリオ段階である程度やるべきことがきまっていて、それをブラッド・バードが監督したという感じ。なので、ブラッド・バードの大人の才能を期待してみるとダメでしょう。・・・・やっぱり、ブラッド・バードは脚本を書いて欲しい。先の作品でみせた自己顕示欲を発揮したくても出来ない大人の哀愁や、ネズミの哀愁がないブラッド・バード作品なんて・・・。

でも、アクション映画としては最初っから最後までアクションてんこ盛りで、楽しく見せていただきましたとさ。

<あらすじ>
ブタペストで、IMF(米国極秘諜報機関)のエージェントが殺され、核兵器発射制御装置の極秘コードを記した書類が盗まれる。IMFは、その書類の奪取のために、モスクワの刑務所に収監されていたイーサン・ハント(トム・クルーズ)を非合法な手段で脱獄させ、核テロを目論むコードネーム“コバルト”という人物の情報を入手させようとする。
彼の情報はクレムリンにあるという。なんぼなんでも、ロシアの政治の中枢であるクレムリンへの潜入は不可能かと思われたがそれを決行するハント。しかし、“コバルト”の情報は既に持ちされていた。そしてその後クレムリンが爆破される。ロシアの警察機構はイーサン・ハントを犯人とみなして捜査を始める。米国大統領は政府の関与を否定するべく“ゴースト・プロトコル”を発令、イーサンとその作戦にかかわったポーラ・パットン (ジェーン・カーター)とサイモン・ペッグ(ベンジー・ダン)をIMFから登録を抹消する決断をくだす。
イーサン・ハントは、IMFからのバックアップを受けることなく、ポーラとサイモン、そして分析官のウィリアム・ブラント(ジェレミー・レナー)とともに、名誉奪回のための作戦行動を開始する・・・。

うむむむ、ブラッド・バードの名誉奪回のための新らたな作戦を立てて欲しいものだ。
その時はきちんと彼に脚本を書かせよう。
こんな脚本では、彼の才能は生かせない。
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# by ssm2438 | 2011-12-29 23:41 | ブラッド・バード(1957)

ヒックとドラゴン(2010) ☆☆☆

原題:HOW TO TRAIN YOUR DRAGON

監督:クリス・サンダース/ディーン・デュボア
脚本:クリス・サンダース
    ディーン・デュボア
    ウィル・デイヴィス
音楽:ジョン・パウエル

声の出演:
ヒック (ジェイ・バルチェル/田谷 隼)
ストイック (ジェラルド・バトラー/田中 正彦)

       *        *        *

・・・そうか、共存というのは調教ということか。

原題にもあるように、この映画のタイトルは『君のドラゴンの調教の仕方』というタイトル。

<あらすじ>
遠い昔、とある島のバイキング達は、日夜自分たちの家畜を襲うドラゴンと戦いをつづけていた。子供たちは幼い頃からドラゴンを倒すための訓練に励み、ドラゴンを倒して初めて一人前のバイキングと認められる。族長の息子のヒックも、いつか自分も認められたいと思いながらも、心が優しすぎる余りフィジカルな戦いにはむいていない。そんな彼が、傷ついて飛べないスーパードラゴンと出会い、徐々に心を通わせていく。

子供にみせるにはちょうどいい物語ではあるが、なんだか大人になるといろいろ想うところがあった。

一つは、「嘘を描く」ことに私が興味をもっていないこと。語るべきは「真実」だと思ってしまう。その昔、確か私が20代の後半だったと思うが、私のところにエホバの証人がきて、さんざん彼らのコンセプトを説いて帰っていった。彼らが配布しているにパンフレットの表紙には草原のなかで、人間とライオンが争うことなどなさそうに仲良く描かれていた。私はちょっと意地悪な質問をしてみたくなった。
「このライオンは何を食っていきてるんですか?」
「この世界ではライオンも草を食べます」

・・・・・残念ながらネコかの動物は確かに草も食べる時はあるが、彼らの身体は草を消化できない。ウンコにまじってそのまま出てしまうらしい。私が育った実家ではネコを飼っていて、ためしにその猫にホウレンソウを食べさせたことがあったのだが・・、不思議なことにおいしそうに食べるのである。・・でも、そういうことなのだ。食べるけど、それを栄養として体内に吸収できない体質になっているらしい。

魚をたべるシーンしかないドラゴンをみてると、ふとそんなことを思い出した。


もうひとつ、この映画をみて思い出したのが『桃太郎・海の神兵』
大日本帝国時代、日本が南方進出をくわだてていたころ、国民にみせる戦意高揚映画としてつくられたフルアニメ。桃太郎が落下傘部隊の訓練をして、特殊任務につき、南方の鬼が島に鬼退治に行く話。颯爽と航空機から飛び降りるスカイダイビングの作画は見事なもの。そして鬼をやっつけたのちは、その島のウサギさんやカメさんや森の熊さんに日本語教育を施すという健全な物語。

少なくとも、戦前の日本にはこの手の映画はあったのである。実は私は、戦意高揚映画というのはキライではなく、高みを目指すための努力、強くなるための努力、支配していくための努力というものを肯定的に描いているので、観ていて気持ちいいのである。お国のために、立派な軍馬を育てていく話で、黒澤明が脚本を書いた『馬』なんてけっこう好きだ。

『桃太郎・海の神兵』は明らかに戦意高揚映画だったのだけど、この『ヒックとドラゴン』は、そんな思想は無いだろう。ただ、作り手のなかに、無意識のうちに摺り込まれてるキリスト教的な概念、もっとも増殖力のつよい思想教育なのかなと感じた。
しかも、そこでもうひとつの摺り込まれているコンセプトが「自分が決して調教される側ではない」という基本コンセプト。大日本帝国を打ち負かし、民主主義を植えつけたアメリカ、フセインを成敗しイラクに民主主義をうけつけようとしているアメリカ。これらを無意識のうちに植えつけることがアメリカ社会ではずっとなされていたのだろうな・・って思った。良いとか悪いといってるのではなく、おそらく思想の広がりというのはこうして広がっていくのが自然の法則なのだろう。


ただ、どこか好かんのが、コミュニケーション・能力で支配していこうとするところなのだろうな。どうもこれを私の魂が嫌っているあたりが理系脳だ。私はあんまり相手に対して働きかけたくない人間なのだ。どうしろ、こうしろとも言いたくないし、言われたくもない。ドラゴンが襲ってくるなら、それを撃つ負かすだけの力をつけとけばいい。襲ってこないなら、ほっとけばいい。
なんでそんなものに対して共存というなの調教をせにゃいかんのだ? 
ああ、わずらわしい。
もっと無機質なもと、たとえば原子力だとかを、自分の知性と努力とで制御できるように努力と勉強したほうがいい。

へん!
どうせ私はやっぱりコミュニケーション能力に乏しい理系脳な人間さ! 


ま、そんなふうに、なにか私には好かん部分のある映画ではあるのですが、物語の演出論としてはとってもスタンダードで効果的な組み方されてます。
自分の擁護したい思想を被害者側にすえて、徐々に、相手思想を侵食してく。
これは、本音主義を被害者おいて物語を展開したカミュの『異邦人』みたいなものだ。上手い!


PS,きっとこの原作者は猫が好きだ。
私も好きだ。共通項がひとつくらいないとね・・・。
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# by ssm2438 | 2011-12-26 13:16

バイオニック・ジェミー スペシャル/蘇えった地上最強の美女(1987) ☆

原題:THE RETURN OF THE SIX-MILLION-DOLLAR MAN AND THE BIONIC WOMAN

監督:アラン・J・レヴィ
脚本:マイケル・スローン/ブルック・チョイ
撮影:マリス・ジャンソンズ
音楽:ビル・コンティ

出演:
リンゼイ・ワグナー (ジェミー・ソマーズ)
リー・メジャース (スティーヴ・オースティン)
リチャード・アンダーソン (OSIゴールドマン局長)
トム・シャンリー (スティーヴの息子・マイケル)

       *        *        *

1970年代に人気を博したテレビドラマ、『600万ドルの男』『地上最強の美女!バイオニック・ジェミー』。私自身は『600万ドルの男』はみてないので、あまり感情移入はできないのだが、『バイオニック・ジェミー』は燃えました。多分日本国内では『バイオニック・ジェミー』のほうが圧倒的に人気があるでしょう。
この作品は、『バイオニック・ジェミー』の放送終了後、10年して同窓会にようにバオイニック・ジェミーとスティーブ・オースティンが集ったTVM。

『600万ドルの男』の物語は、1972年に2時間TVMとして放映され、のちにテレビシリーズになる。宇宙飛行士スティーブ・オースチンがテスト飛行に失敗し片目、右腕、両足を失ってしまうが、政府の援助によりサイボーグとして復活、特殊能力を駆使して活躍する。
『地上最強の美女!バイオニック・ジェミー』はスティーブ・オースティンの恋人役としてゲスト出演したジェミーが、スカイダイビング中の事故で生死の境をさまようことになる。婚約者であるスティーブ・オースティン大佐(600万ドルの男)は、科学情報局(OSI)に頼み込み、彼女に自分と同じバイオニック移植手術を施させた。
両足、右腕、右耳をサイボーグ化された彼女は生命の危機からは脱したものの、移植の拒絶反応から、スティーブのことを含めて全ての記憶を失ってしまう。しかし彼女は、自分を救ったOSIのためにバイオニック・パワーを使った諜報活動を志願するのだった・・。

<あらすじ>
嘗て『600万ドルの男』と呼ばれたスティーブ・オースティン(リー・メジャース)は既に現役を引退して10年がたっていたが、OSIの要請で再び嘗ての恋人ジェミー・ソマーズ(リンゼイ・ワグナー)と組んでテロリストと戦うことになる。しかし、機密事情が空軍学校に通う息子マイケル(トム・シャンリー)との距離を広げていった。そして都合よく事故にあってしまい、彼の生活を護るためには再びオースティンが受けたあのバイオニック手術をうけるしかない。かくして新世代のバイオニック・戦士が誕生する・・・。

『バイオニック・ジェミー』をみて育った私には、再び彼女に会えるというだけで、胸をときめかせてみたのですが・・・・・・、内容は悲惨。とにかくリー・メジャースが歳をとりすぎている。このときほとんど50歳くらだったのだろうが、胴回りも太くなり嘗てのスマートさはなくなり、間違ってもアクション物ヒーローとはいえない体つき。ま、50歳なら、まだジェームス・ボンドでやれるだろうが、その体形では無理である(苦笑)。
ちなみにジェミーを演じたリンゼイ・ワグナーは、リー・メジャースよりも10歳若い。それでも、40前なので、今ひとつ動きは鈍い。
今のアラフォー世代の女優さんとえいば、アンジェリーナ・ジョリーなどのが思い当たるが、ま、彼女はそれなりにエクササイズをしてるようなので体力的にはそれほど無理はなかったのだろうが、以前はあの頃の女優さんで年取ってアクションをしようなんてひとはほとんど居なかった。本来リンゼイ・ワグナーにしても、アクション女優ではないしね・・・。
そんなわけで、この2人の動きはきわめてアクションものとしてみると緩慢で、キビキビ感がまったくなく、おかげで緊張感もない。

・・・・・しかーし、
リンゼイ・ワグナーはそれでも見る価値はある。『バイオニック・ジェミー』は素晴らしい。
先ごろ、ついにDVDボックスも発売されたらしい。正直なところ、ファーストシーズンは今ひとつのんきな感じなのですが、セカンドシーズンになると燃える話が連打されてくる。
特にスティーブも登場する3話連続の「ゴールドマン局長暗殺指令」、2話連続の「ジェミー地球壊滅を救え!」は燃えます。なんと「ゴールドマン局長暗殺指令」では、『ペーパーチェイス』でリンゼイ・ワグナーの父親キングスフィールド教授とジョン・ハウスマンがフェンボットなるアンドロイドを作ってOSIに復讐を企てるという話。
今、シーズン2だけ買おうかどうしようか迷ってます。ま、今見たら今ひとつがっかりするかもしれないのですが、あの頃のリンゼイ・ワグナーを見られるというのはそうないもので、今、心が揺れてます。。。

ちなみに、リメイクの『BIONIC WOMAN バイオニック・ウーマン』(2007)なるものの既に出来てるようですが・・・・、さすがにリンゼイ・ワグナーへの想いが強すぎてみようという気もおこらず放置プレー。

# by ssm2438 | 2011-12-25 17:57

40歳の童貞男(2005) ☆☆

原題:THE 40 YEAR OLD VIRGIN

監督:ジャド・アパトー
脚本:ジャド・アパトー/スティーヴ・カレル
撮影:ジャック・N・グリーン
音楽:ライル・ワークマン

出演:
スティーヴ・カレル (アンディ)
キャサリン・キーナー (トリシュ)

       *        *        *

スティーブ・カレルの除毛シーンはゲラゲラ笑わせてもらった。

アニメ業界にうようよいそうな、童貞で、うちに帰ればフィギュアがいっぱいあって、テレビゲームが好きで、車の免許ももってなくて、彼女居ない暦=その人の年齢という男がついに童貞を失うまでの話。でも、じめじめしたオタクではないので見ていて不快感はない。おまけに、最後はそれまで買い込んでいたフィギュアを全部売って、きちんと実際にむきあうべき女と“H”をするに至る。きわめて健全な終わり方でよかった。

ヒロインはキャサリン・キーナー
前作の『ザ・インタープリター』の次に撮ったのがこの映画のようだ。世間ではキャサリンといえばキャスリーン・ターナー、あるいは、キャサリン・ゼタ・ジョーンズでしょうが、ま、オールドファンならキャサリン・ロスもあるでしょうが、私はけっこうこのキャサリン・キーナー好きなのです。絶世の美女というわけではないんですが、彼女の持つ雰囲気というのがどうも好きらしい。『マルコビッチの穴』の彼女は素敵だった。悔しいかな、作品はあんまりすきではないけど、あのときの彼女に一番ときめいた。この人は、年とってからどんどん魅力がでてきた。どこかダイアン・キートンに似てるところがよいのだけど、権威アル女性を演じるとけっこうかっこいいんだ。かとおもえば、コメディでもなかなか良い味をだしてる。やっぱりダイアン・キートンの空気を持っている人なのである。
ただ、最後、至福の童貞喪失するところで、ブラジャーつけたままの“H”はちょっとどうなんでしょうね? それ以前にどっかの誰かはオッパイだしてたし、出し惜しみするところではないと思ったぞ。ま、出さないというポリシーならそれでもいいんだけど、ブラは外してほしいなあ。多分、こういう作品はみんなで一生懸命おばかをやらないといけないのに、なんかそこで急におばかに徹しられない理性的な部分をみたようでちょっと残念だった。。。
・・・でも、キャサリン・キーナーは魅力的な女優さんである。

<あらすじ>
フィギュアと『エイジア』のプレーム入りのポスターと、テレビゲームに毒された環境で生きている40歳の独身男、アンディ(スティーヴ・カレル)。なかでも『600万ドルの男』のゴールドマン局長(中央→)のフィギュアには特別な想いがある。
そんな彼は、家電量販店で働いているが、仲間の3人に童貞であることを知られてしまう。それをきっかけに、アンディの童貞喪失作戦が展開されていく。ほとんど、その3人の玩具にされているアンディの童貞だが、向かいの店でネット競売の仕事をしているトリシュ(キャサリン・キーナー)がアンディの店にやって来たときから、アンディの心はときめきを覚える。
いろいろドタバタあったすへ、2人は良い感じになり、ついに彼女のうちへ招かれベットイン。どきまぎしながらもなんとかコンドームをはめようとするアンディだが上手くいかない。しかしそこに子供が入ってきてことは終了。それ以降、20回デートするまでは“H”をしないことしようというアグリーメントがなされる。内心ほっとするアンディ。
そしてついにその日がやってきたのだが・・・。

# by ssm2438 | 2011-12-25 02:29

小さな旅館(1981) ☆☆☆☆

監督:齋藤武市
原作:松本清張
脚本:猪又憲吾
撮影:相原義晴
音楽:菅野光亮

主演:
坂口良子 (森田敦子)
田村高廣 (父・修平)
目黒祐樹 (夫・順治)
森田健作 (北原刑事)

    *     *     *

城ケ崎より愛をこめて。

映像に作り手になる人は、子供のころから自分も作り手として映画やアニメをみているものだ。しかしそのころはまだ、情報をインプットしてるにすぎない。ところがあるとき、自分がホントに作る側になって、いろいろ経験してから出会う作品の中に、「これは・・・・! これって自分が作りたいものだ!」と思うものに出会う時がある。ある人にとっては、再び見返してみた『ウルトラマン』かもしれないし『怪奇大作戦』かもしれない。あるいは普段はなにげなく見過ごしていた『水戸黄門』かもしれないし、あるいはその時はやっていたトレンディドラマかもしれない。
私の場合はこの『小さな旅館』だった。

父が犯人だとしって、埼玉県の東松山まで追ってきた坂口良子が、父を橋の上で会うシーン。ここからの一連の画面構成は、芝居付け、それを撮るカメラのポジション。駆け出した坂口良子を延々と撮る望遠。階層のはめ込み方。手前になめるものと入れ方やそのコントラス。音楽の入れ方、電話などの効果音の入れ方・・・、なにから何まで刺激的だった。この後半のシーンだけは何回みたことか・・・。
それが松本清張の物語として作られ、大好きな坂口良子主演で撮られた。
この画面に出会えたことはほんとに幸運だった。私が二十歳のころの話である。

いつか再放送をしないものか期待をかけていたら、昼の時間に今一度再放送することになった。当時、2時間ドラマをVHSで撮って、仕事から帰ってみていたものです。今の2時間ドラマはもあのころの感動もなくなり見るにたえないものばかりになってしまいましたが、当時の2時間ドラマはすごかった。テレ朝では土曜ワイド劇場。日テレでは火曜サスペンス劇場と、ほとんどそのへん転がってる映画以上にしっかししてるものが出来ていた。80年代の2時間ドラマの再放送してほしいものです。

当時の私が、このドラマをみる本当のモチベーションは坂口良子だった。1955年生まれの彼女がこのドラマの撮影をしていたころは・・・・・26歳だろう。若くて、そろそろ女優としてはあぶらののってくるころだ。当時は彼女のでる2時間ドラマはけっこう録画していた。それが私に幸運を運んでくれた。

そして、その相手役のオヤジが田村高廣だったというのも、嬉しいことだった。品のいい60オヤジを演じた彼は、そのむかし増村保造『清作の妻』で清作を演じていた。自分がしらないうちに、のちのち自分のなかで大事になるものがそこに共存していたことも嬉しい偶然だ。
森田健作もいい配役だった。当時の「Mr.青春」といえば森田健作だったが、『砂の器』丹波哲郎と一緒に捜査する若手刑事として爽やかに登場していた。この物語の森田健作の役は原作にはなかったのだが、敦子のことを昔から想い焦がれていた人として描かれ、旦那と父親が居なくなったあとの敦子はこの人と上手くいくのだろうなというポジティブな予感をも残してくれた。

そしてこの物語が自分の胸からはなれなかったのは、そのロケーションだろう。私が始めて東京にきて住み始めた街は西武池袋線の南長崎。そしてその隣の駅が江古田。このドラマの舞台になっている駅だった。このドラマを見始めたときは、おお、あの駅だ!ってそれだけで感動したものだが、しかし、その江古田という地域が、このドラマでは重要な意味をもってくる。その地域の一部が特殊な泥炭層という土の上にできていて、土の分析から犯行が行われた場所を特定していく展開になるのは、資料を調べることの大事さを教えてくれた。

この物語は松本清張の短編で、40歳の大台を越えてからこの小説をよんでみ。はっきりいってあまり面白くなかった(苦笑)。しかし、ドラマというのは、物語の基本設定がしっかりしていて、でも多少おもしろくないくらいのほうが不思議と出来上がりがよくなるものでだ。この物語はまさにそんな感じ。テレビのスタッフの力量に感謝、感謝。これほど的確に小説→2時間ドラマにモディファイドした作品はそうないだろう。
一番もりあがる、シーンは、一番初めにみた、橋の上で、坂口良子に順治の殺人を告白する田村高廣からの一連のシーンだが、実はここは原作にはなく、テレビスタッフが入れ込んだものだった。泣かせどころは、原作の行間をおそろしいまでに適切に盛り上げてくれた。場所に使われたのは、埼玉県東松山の八幡橋だと思われる。ここは時代劇のロケでよく使われる木製の橋がいくつかあるのだが、きっとスタッフの人が「あそこにしよう!」って決めたのだと思う。脚本家や監督の力だった。

だいたい松本清張のドラマというのは、あまりにしっかりとドラマをつくってあって、あまり泣けるということはないものだが、このドラマは泣けた。ドラマ作りをするのなら、こういう仕事をしたい、こういう演出をしたい!と初めて強くおもわせてくれた作品だった。
残念ながら、このドラマはDVDにもVHSにもなっていないので、このページに書くのは長年はばかっていたのだが、このさい書いておこうと思った。

<あらすじ>
山歩きをするような格好の怪しい男が商社から出てきたある男をつけていく。その男は西武池袋線の江古田でおりて女と合流すると、近くの小さな旅館に入っていった。その男の名前は森田順治(目黒祐樹)、そして、順治をつけてきたのは、彼の義父・森田修平(田村高廣)だった。
大学教授の森田修平には、敦子(坂口良子)という娘がいた。早くに妻をなくし、男で一つで育てた愛娘を育てた。孫もできた。しかし順治は徐々に横暴な態度をとるようになった。いつも帰りが遅く、調べてみれば女がいた。自分の家に養子として入ったのも、森田の家の財産が目当てだったことが判って来る。

翌日の食卓で、順治を顔を合わさずぼとと言う修平。箸をとめる順治。
「順治君、今日も遅いのかね・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「僕の帰りが遅いとお父さんになにか迷惑がかかりますか?」
食事を途中でやめた順治が玄関に向かうと敦子もおっていく。いつもの靴は用意してあるがその時は「今日は黒いほうだ」といい、その靴が磨かれてなければその場で磨かせる。急いでいるので靴墨をつけずに磨こうとすると「靴墨! いったいいつになったら一人前のの女房になれるんだ」と、奥で食事をしている修平に聞こえるように言う順治。

修平にとっても、順治にとってもいかに居心地の悪い家なのかはすぐ判る。そんなストレスを表面化しないようにしながらなんとかこの家のものたちはやりすごしていた。そんな状況下で修平は、親から受け継いだ土地の半分を売り、7500万で順治と女が不倫をする小さな旅館を買い受け、順治の殺害計画を実行に移していく。その旅館には椿の花がさいていた。

この原作が書かれたのは1961年のことで、実は私もこの年には生まれていない。まだ、ホテルというのはめずらしく、連れ込み旅館が当たり前の時代だったのだろう。すがに1980年代に旅館というのは不自然ではあるが、このドラマ化にあたっては年代を正確に設定することはせず、ホテルではなく旅館で物語を構成している。そこには、旅館でなければ成立しなかった段取りがあったからだろう。

前もって女性の声で録音しておいた音声で、順治と女を殺すべき部屋に誘導すると、ふすまの向こうから顔を見せずオレンジジュースのサービスをする。旅館のシステムが変わったことにしばし戸惑うふたりだが、差し出されたジュースを飲んだ2人は、泡をふいて倒れる。青酸カリが混入されていた。修平は、満員表示で他の客を旅館内にいれることなく、その部屋の畳をはがし、床をホリ、2人の遺体を埋めた。

やがて相模湖で順治のコートが発見され、敦子が呼び出されて行き、それが順治のものであることを確認する。「自殺ですか」と問う敦子に対して北原刑事(森田健作)は、素人目にはそう見えるかもしれないが、相ではないという。入水自殺をする人でも、最後まで凍えるのはいやらしく、コートは脱がないそうだ。そしてそのコートから低炭層の土と椿の花びらがみつかる。
泥炭層の土があるのは、東京の江古田付近だけで、さらに椿があるところを探し始める刑事たち・・・。
このままでは、見つかるのはすぐだと判断した修平は、財産の土地の名義を敦子に変えて、今日は拓本をさがしてに埼玉県の東松山にいってみる・・と言い残し出て行った。

やがて逮捕礼状をもった北原刑事たちが、敦子をたずねてくる。
「父は、図書館で調べ物をするといって・・」と嘘をつき、子供を近所におばちゃんにあずけ、東松山に向かう敦子・・・・。

それから15年たらずくらいして、『星海の紋章』というアニメで、コンテを何本か描いたのだが、その打ち上げでスタッフの皆さんと伊豆半島にいくことになった。そのコースのひとつに龍ヶ崎がはいっていた。
城ヶ崎は、この『小さな旅館』の最後で、修平が断崖から飛び降りて自殺したところだった。
私の演出道の原点である。どうしてもここは見ておきたいという場所だった。その場所で絵葉書を買い、当時の想いを書き、好きだった女性にその場所から送った。

ロマンチストな西澤であった。。。

# by ssm2438 | 2011-12-23 21:57 | 松本清張(1909)

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