西澤 晋 の 映画日記

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2009年 02月 07日

罪と罰(1970) ☆☆☆

f0009381_052036.jpg監督:レフ・クリジャーノフ
原作:フョードル・ドストエフスキー
脚本:ニコライ・フィグロフスキー
    レフ・クリジャーノフ
撮影:ビャチェスラフ・シュムスキー
音楽:ミハイル・ジーフ

出演:ゲオルギー・タラトルキン
    タチアナ・ベードワ
    ヴィクトリア・フョードロワ
    アレクサンドル・パブロウ

     ×     ×     ×

今回はドストエフスキーの母国、ソ連製のものにしました。『カラマーゾフ兄弟』『白痴』よりも、こっちのほうが映画的には断然洗練されてました。ただ、物語的には『白痴』のほうが好きかな。『罪と罰』はどっちかというとサスペンス性のほうが強くて、ドストエフスキー本来のメンタルどろどろではないから・・。

制作は1970年なんですけど、味をだすため白黒で撮ってる。私自身は“それ、ちょっと狡い”って思っちゃうのですが、それを度外視しても映画的にとってもしっかり出来てるなあって思いました。 イワン・プィリエフの撮った『カラマーゾフ兄弟』なんて画面的・演出的にはほんとに退屈で、原作の濃さだけでなんとかもってるような映画でしたから。たぶん、原作の雰囲気も一番出してるのはクリジャーノフの『罪と罰』なんじゃないかと思ってしまいます。このDVDは買っても損じゃないですね。

ラスコリニコフは自分の書いた『犯罪論』の論文のなかで犯罪者の心理分析、人間は全て凡人と非凡人の二つの範疇に分たれ、前者は世間普通の道徳法律に服従する義務を有し、後者は既成道徳を踏み越えて新しい法律を創造する力を与えられていて、その行動によって歴史に新紀元を画し、人類に無限の貢献をなすものだから凡人に禁じられている行為をも敢行する権利を持っていると論じていた。
彼はペテルブルグの裏街に下宿し、ニヒリズムの影響を受け、郷里の母が僅かな年金の中から送金してくる学費も途絶えがちで、ほとんど飢餓状態で閉じ篭ったまま、敏感で鋭利な頭の中に空想的理論を築いたり崩したりしているうち、以前お金を借りにいった陰湿な質屋の老婆例の老婆を殺して、その財産を有意義に転用したら、と考えた。 彼は庭番の小屋から持ち出した斧を外套の下に隠し行動に出た。その質屋の老婆を殺し、金目のものを急いでしまいこんでいると、外出していた老婆の妹が意外に早く帰宅したため、彼は予期せぬもう一人の犠牲者を作る事になってしまう。無抵抗の、罪もない女を殺したのだ。それからは不安はつきまとわれ、極度の緊張と疑心暗鬼と疲労から数日、昏睡状態に陥った。
犯罪者の常として犯行現場に姿を現わしたラスコリニコフはそこで、居酒屋で偶然知り合ったマルメラードフ老人の死と遭遇する。この哀れな退職官吏は、病妻と子供を飢えさせながら、自分は酒びたりの自堕落な生活を送る男だったが、先妻の娘ソーニャが家計を助けるため、娼婦となっている事だけはさすがに苦しんでいた。 ラスコリニコフは手持ちの母から送られてきたばかりの金を未亡人にそっくりやったりして手を尽くす。 そしてソーニャと会った。澄んだ瞳でブロンドが美しい娘だった。
このソーニャが本編ではドストエフスキーの美しさの象徴になっている。日々ますます狐独を感じるラスコリニコフは思い切ってソーニャを訪れた。世間の常識では最も恥ずべき境遇にあるこの娘の傍にいると、なぜか不安や恐怖が消えるのだ。汚れた泥沼にいて魂の安らぎを持つ彼女が不思議だった。彼はソーニャの足許にひれ伏すと、「君に脆くのじゃない、人類の負っている苦悩にだ。君の大きな苦悩にだ」と叫ぶ。ソーニャが心の支えにしている古びた新約聖書が目にとまった。それは老婆の妹からソーニャが貰ったのだとしると、罪の意識がいっそう深まっていく。 いつくかのエピソードののち、彼はついに犯行を打明けた。ソーニャは悲痛な叫びをあげ、彼を抱きしめ、言った。「貴方が汚した大地に接吻しなさい。人殺しをしたと言うのです。苦しみを受け、自分の罪を贖わなければなりませんわ」。自首するのなら、死刑は逃れられるかも知れない。シベリア送りになるのなら、私もあなたと一緒に付いて行く。ソーニャは彼の不幸をともに分かとうとするのだった。
物語はこれと平行して、ラスコロニコフの妹ドーニャの婚約話が展開され、最終的にその候補の男の1人が、兄ラスコロニコフの罪を知り、それをネタに妹ドーニャに結婚をせまり拒否され自殺。結果 的に、ラスコリニコフを犯人と断定する証拠はなくなってしまう。 そしてラスコロニコフの最後の決断はいかに‥‥。

ここ数カ月、ドストエフスキーものに触れて思ったのは、ドストエフスキーって、不幸な人しか愛せないのだなあってこと、あるいは、人のなかの不幸/弱さしか愛せないのか‥‥。
この映画にもでてくるソーニャの姿勢、<シベリア矯正労働に付いて行く女の姿>こそがドストエフスキーの最大の愛情表現になるのだろうか。このパターンは『カラマーゾフ兄弟』の最後でも無実の罪を背負ってシベリア送りになるドミトリーに付いて行くグリシェンカという形で終らされている。「ともに落ちて行ってくれる女」、これこそがドストエフスキーのリビドーがもとめる愛する女の理想像なんだろうなあって思った。
では、人の幸せな部分は愛せない?
現実問題、まさにそうなのである。

人の『弱さ』には共感できるけど、『強さ』にはなかなか共鳴できない。それが人間の本質でもある。物語を作る時には、登場人物の『弱さ』を描きつつ、その登場人物に対して観客の心をに感情移入を起させ、登場人物と一体化させ、最終的に勝利をプレゼントして主人公とともに喜んでもらおうって方法がエンタテーメント系のドラマ作りにおいての基本だし‥‥。

しかし、単純な疑問が涌いて来る。 このラスコロニコフという人物、もし彼が殺人を起してなかったら、ソーニャは彼を愛したのだろうか? 私が思うに、人の『弱さ』を愛するのはイージーなのだ。今の自分でその人の役に立つ。必要とされる自分が嬉しい。 もちろん私も、自分の『弱さ』を救ってくれる、あるいは許してくれる人がいれば、安らぎを感じ有り難いと思える。必要なことだ。 でもやっぱりイージーなのだ。 どうも私は難しい方を好んでしまう。
『強さ』愛すること。誰かの『強さ』を利用するんじゃない、これは愛してはいない。 『強さ』を愛するには、自分のなかにある、強くなりたい願望を認めてやらないといけない。強く熟れなかった時の絶望をねじ伏せなければならない。そしてそのために、自分自身を鍛えてやらなければならない。つよくなる自分に憧れなくてはならない。 それが出来てはじめて、他人のなかの『強さ』も愛せるんだろうなあって思う。
ドストエフスキーものに欠けているのはこの点だなあって思った。 たぶん、このあたりがドストエフスキーとニーチェの境界線なのだろう。
ちなみに今、ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んでいるのだけど、ドストエフスキー自身がちょっとグレて自分で書いてますからちょっとばっちいですけど、 自分の中にある『弱さ』を認めなければそれ以上の『進化』はない。この『弱さ』を認める、そして暴く作業を、ドストエフスキーはこの中でしているような気がする。
スピリット的にはその後の実存主義の発展系、ドストエフスキー→キルケゴール→ニーチェのラインにのかってるって感じがしますね。 ああ~~~、ロベール・ブレッソン『白夜』が観たい! 唐突に終る西澤でした。

by ssm2438 | 2009-02-07 02:28


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