西澤 晋 の 映画日記

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2010年 05月 17日

バベットの晩餐会(1987) ☆☆☆☆☆

f0009381_1443327.jpg監督:ガブリエル・アクセル
脚本:ガブリエル・アクセル
撮影:ヘニング・クリスチャンセン
音楽:ペア・ヌアゴー

出演:ステファーヌ・オードラン
    ビルギッテ・フェダースピール
    ボディル・キュア
    ビビ・アンデショーン

     *     *     *

1980年の後半というのは実に良い映画が連打された。多分映画史のなかでもっとも上質な映画を提供していた時代なんじゃなかろうかと思ってしまう。そのなかの一つがこの『バベットの晩餐会』アカデミー外国語映画賞をとっている。この年(1987年)には私の大好きな『ブロードキャスト・ニュース』『ベルリン・天使の詩』『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』が連打された。『ベルリン・天使の詩』と『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』をはしごしてみた翌年の正月あけはなんと幸せな気持ちになれたことか!
1988年の外国語映画賞は『ペレ』、2年連続デンマーク映画がとってしまった(実はカンヌも制してしまったが個人的には全然良いとは思わなかった)。その次の年、1989年は『ニュー・シネマ・パラダイス』がゲット。この年は『フィールド・オブ・ドリームス』があり、これも正月明けにこの2本をはしごしてしまいもう涙ぼろぼろ2連発。この2本を一日に続けてみてしまうなんてのはもう映画ファンとしてはあり得ない至福の偶然。
このころまでは私もアカデミー賞はまずまず妥当な判断だなって思っていたのだか、90年代にはいってからは「ええ~~、なんでこんなのが??」というのが多くなりイマイチ信用に値する結果を出してくれないのが事実だ。

この映画をみたのは岩波ホール。東京の神保町にあるマニアックな映画をよくやる映画館だ。ハリウッドのエンタテーメント映画ではなく、世界各国のマイナーで実に地味で、映画評論家の先生方がこぞって「良い!」と云う映画を提供してくるかなりレアの映画館。ツーな映画ファンにしか行かないので自分も1ランク上の映画ファンになったような気がしてすこし心が引き締まる思いがする。これがなかなかここちよかったりする(笑)。
このころから日比谷シャンテやシネスイッチ銀座など、銀座が単館上映の良質な映画を提供してくれていた。そしてそのトレンドは徐々にひろがり今では新宿でも単館上映系のマイナー映画が上映されるようになってきた。当時は野方、新井薬師に住んでたので銀座でもなんとか足を伸ばせいたのだが、ここ田無に引っ込んでからはちょっとそこまで出るのはしんどいかな。最後の銀座に出向いてみたのはいったいなんだったのだろう。
ジョン・バダム『迷宮のレンブラント』トム・ハンクス『すべてをあなたに』かどっちかのような気がする。
いかんいかん、また脱線ぎみだ。
『バベットの晩餐会』に話をもどそう。


19 世紀後半デンマークの辺境の小さな漁村。厳格なプロテスタント牧師の美しい娘マーチーネとフィリパは住んでいた。やがてマーチーネには謹慎中の若い士官ローレンスが求愛する、一方フィリッパには休暇中の著名なオペラ歌手アシール・パパンにもとめられるが、二人は父の仕事を生涯手伝ってゆく決心をしそれぞれの申し出をことわることになる。
10年以上の時が流れた。 そんなある嵐の夜、二人のもとにパパンからの紹介状を持ったバベットという女性が訪ねてきた。パリ・コミューンで家族を失い亡命してきた彼女の、無給でよいから働かせてほしいという申し出に、二人は家政婦としてバベットを家におくことにした。

とにかく生活が質素なのである。エンタテーメントなんて言葉はありそうにもないそんな状態。ひたすら退屈な時間がすぎていく。しかし後から思うとこの前半を退屈な時間がしっかりと描けてあるからこ後半のバベットの料理が際立ってくるのだ。
ドラマというのは常にその物語内で比較でしかメリハリがつけられない。
そのドラマのなかで行われている事がどんなにハデで非日常的なものでも、そればっかりが描かれていたら慢性的な当たり前の出来事と理解してしまう。ウルトラマンが30分間フルに戦っていたらどれだけつまらない番組になるか想像してもらえればわかるだろう。ウルトラマンが特別であるためにはそれ以前に、物語の中で特別でないシチュエーションを描いておかなければならない。
ドラマにはこの「反対側をしっかり描いておく!」ことがとっても大切なのである。

歳月がたち父が亡くなった後も未婚のままその仕事を献身的に続けていた。しかし集会は不幸や嫉妬心によるいさかいの場となっていて、以前のような崇高なる時間はとても臨めない状況になっていた。心を痛めた姉妹は、父の生誕百周年の晩餐を行うことで皆の心を一つにしようと思いつく。
そんな時バベットの宝くじが一万フラン当たった。今まで何一つ文句も云わず、もくもくと献身的にはたらいていたバベットが初めて自分のわがままを申し出るのである。「晩餐会でフランス料理を作らせてほしい」と。姉妹は彼女の初めての頼みを聞いてやることにするが、数日後、彼女が運んできた料理の材料の量と奇抜ささ、生きた海亀やら鴨などを目の当たりにし、質素な生活を旨としてきた姉妹は天罰が下るのではと恐怖を抱くのだった。集会をひらき「何を食べさせられるのか分からない。しかしバベットに辞めろとも云えないし、ここはひとつ晩餐会では料理についてはなにも語らないことにしましょう」と申し合わせをする。
さて晩餐会の夜、将軍となったローレンスも席を連ね。

このローレンス将軍がドラマ的にはとても大事な役割をになうことになる。集まった村の人たちはバベットがだした料理を黙って食べている。どうやら料理やワインやシャンパンなどはおいしいらしいがそれがどれだけのものかは知らないのである。そこでローレンス将軍がいちいちびっくりするのである。
「なんだこのワインは!? ◯◯年もののとってもレアなワインではないか」
「なんだこのスープは? パリのある有名はレストランでしか味わう事が出来ないと云われてたあのソープの味ではないか!?」
「どうしてこんな料理がここに存在するのだ? 誰が作っているのだ??」
彼が料理の説明役になっているのである。ドラマにおいては崇高さを説明する解説者と、それに驚く一般人/アナウンサーが必要なのである。
やがて村人たちもバベットの料理が誰が食べてもとてもおいしいもので、自分たちもそれを食べて「おいしい!」って言っていいんだと思えて来る。そこにローレンスがその価値を語る。
一方厨房ではカメラがバベットの料理の手際を具体的に丹念に描写する。盛りつけの仕方、ソースの掛け方、料理の出し方、客人たちへの気心の配り方。

この具体性というのもとっても大事なポイント。
具体的に正確に描くということはリサーチが必要になりドラマ作りではかなり下準備を要する。できるなら象徴的に処理してしまいたいものだが、ほんとに描きたい時には具体性の連打のほうが見ている人に印象を残す。
たとえばエッチのシーンを描こうと思った時に、さらりと描こうと思えば男と女が裸で抱き合っている姿をOLで繋ぎながらPANしていけばいい。でも、そこにきちんと引っかかりをもたせたいと思うならもっと具体的な表現が必要になって来る。服を脱ぐ時にぎこちなさ。セックスをしてるのときどっかさめた感じ。終ったと性器をティッシュでふく現実性‥‥。そういった物がよりリアルな実感をもたらしてくれるものだ。
演出というのは、そのドラマにかかる以上の時間の物語をその時間内におさめなければならない。故にある部分は象徴的に処理をし、ある部分は具体的に見せなければならない。この象徴性と具体性の割り振りの出し入れは演出業にとってとっても大事な部分になる。

次第に村人たちの心が後方されていき、抑圧していた感情を表現するよになる。おいしい物を「美味しい」って言えるようになる。嬉しい時に「嬉しい」って言えるようになる。いがみあっていた村人たちもなんだか楽しくなってしまうのである。そしてラストメニューを出したときローレンスはこの料理人がパリの伝説の女性シェフ「カフェ・アングレ」のバベットだと知るのである。
二人の姉妹は、晩餐の後バベットはパリへ帰るものと思っていた1万フランの宝くじが当たったのだし、もはやここで貧乏暮らしをする必要などないのだと。みんなが幸せな気持ちで帰っていったと「もうあなたはパリに帰ってもいいのよ。私たちはなんか自分たちでやっていくから」とバベットに伝えるのだが、バベットは今後もここに留まりたいと申し出る。あの1万フランはすべてこの晩餐に費やしていたのだ。それほど高級な料理。
一人のアーティストによる最期の祭り。自分がもてる力と技を表現する最期の時間。それがバベットの晩餐会だったのだ。


今まで2000本くらいの映画は見て来た私の引き出しのなかで、5点満点の5点をつけられる映画は20本あるかどうか。その貴重な20本のうちの一本がこの映画なのだ。そして 『ブロードキャスト・ニュース』『ベルリン・天使の詩』『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』『ニュー・シネマ・パラダイス』『フィールド・オブ・ドリームス』もまたその20本のなかの満点映画なのだ。
これらがこの80年代の終わりに集中的に集まった。映画ファンの私にとって恐ろしいほど幸せな時代だった。

by ssm2438 | 2010-05-17 23:59


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