西澤 晋 の 映画日記

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2009年 06月 25日

ナイロビの蜂(2005) ☆☆☆☆

f0009381_16334317.jpg監督:フェルナンド・メイレレス
脚本:ジェフリー・ケイン
撮影:セザール・シャローン
音楽:アルベルト・イグレシ

出演:レイフ・ファインズ
レイチェル・ワイズ

     *     *     *

アスアカデミー賞の5部門にノミネートされたこの映画、ドキュメンタリーチックは空気のただようすっごく良く出来たポリティカル・サスペンスです。それに夫婦の人間ドラマを加味している感じ。もとのストーリーも映画も技術的にすごく出来ているのでおもしろいのだけど‥‥ある種の嫌なにおいがする映画でもある。
なので、良いほうはみなさんいっぱい書かれてると思うので、その潜在的に臭う嫌な臭いのほうをここでは語ろう。

まずこの映画を見てかんじることは「あれ、これドキュメンタリーじゃないの?」って勘違いさせられること。
その昔ジェームス・ソ-ダスバ-グ『トラフィック』を観た時にけっこう似てる。わざとハンディカメラをつかって手ぶれ効果をだしたりして、かなり意図的にドキュメンタリーぽい画面をつくっている。その時はあまりに映画のテクだけが見えてしまったうさんくさくなって途中で辞めてしまった。実はこの映画も同じうさんくささを感じて途中でやめたのだが、フィクションとしてはすっごく出来てるし、その存在感のあじつけはとってもよくできてるので次の日また見直してなんとか終わりまで言ったのでした。
ドキュメンタリー性ってのはドラマに本物っぽい雰囲気をつくることに関してはとってもいいことなんだけど、自然にとってドキュメンタリーっぽくなりました‥‥っていうのならいいんだけど、意図的にそうされるとなんだか嫌らしさを感じてしまう。作り手の意図が出しゃばりすぎるのである。それがかなり不快感をそそる。
そしてドキュメンタリーってのは、そのフィルム自体はニュートラルなものだけど、それで構成されたフィルムとなるとかなり制作者のプロパガンダ的要素をもってくる。ニュートラルな振りをしてすっごく意図的に思想を押し付けて来る、その卑怯さが嫌い。この映画はこのての悪臭をぷんぷんまき散らしているので作り手として嫌悪感を覚える。

原作者のジョン・ル・カレの原作に関しては『リトル・ドラマー・ガール』『ロシアハウス』は映画でみたことがある。自らもMI6につとめてたりしてスパイ物系のポリティカルサスペンスは得意とするのだけれど、エンターテーメントのフィクションなのだ。

しかし この映画はフェルナンド・メイレレスがかなりアフリカの貧困を全面にだしてきている。どっちかというとドラマをネタにアフリカの問題を提示している感じ。サラダにドレッシングをかけたら、ドレッシングの味しかしない‥‥みたいな。
ジョン・ル・カレには文句はないのだが、どうもこのメイレレスには一言いいたいかな。
ドラマを作る人がひとたび弱い物探しをはじめたどうなる?
それって一番大切なスピリットを失う事になるのではないのか?

私はこの映画のなかに「クジラ保護の法則」を見いだしてしまうのだ。
「クジラ保護の法則」とは、競争が激しい社会に置いて弱者に位置づけられた者が、その環境の外にさらに弱者(この場合クジラを意味してる)を見つけ、クジラに危害を加えるさらなる第3者を攻撃することで自分の本来所属している世界での無力感のうさ晴らしをする行為をもって、精神の安定と自分の存在意義をみいだす‥‥という、一件博愛主事の正しい行いに見えるが、ある種のうさん臭さをもっている思考のこと。

仏陀云うところの『天上天下唯我独尊』は一番の基本だと思うのだ。まず、自分。自分とは何なのか? 何を求めるから自分なのか? その自分こそをもっとも敬わなければならない。そういった自分発見の旅こそが人生の一番大切な部分であると思っている。
しかし<弱い者探し>を始めると、自分ではない部分が自分を支配してきてしまう。トキでもクジラでもアフリカの餓えた子供たちでもいいや、実際今回はその<餓えた子供たち>がかなりプロパガンダとして使われているのだが‥‥、今の自分で弱いものを助けて上げられる部分に自分の存在意義を持っていってしまったら、実は自分でなくても良い人間になってしまう。それは誰かに愛されて、嫌われなくて、必要とされて、誰かに役立って実に気持ちのいいことかもしれないけど、自分自身が心の奥底で「こうしたい!」って思っていた子供の頃の憧れなんかを実は裏切ってしまうことになりかねない。

自分を弱者にみたて、自らを安心させるために、弱者を迫害する者を糾弾するだけならそのへんのころがっている活動家や宗教家にやらせておけばいい。 しかし<ドラマ道>を志すものにとってはそれではアマアマなのだ。その程度の浅瀬で、大衆にこびをうってはいかんのである。
<自分より弱いもの為に‥‥>っていう言い訳をまず排除して、<自分は何を求めているのか?>っていうことをきちんと見つめてやる事。もちろんそれはかなり醜い自分だと思う。が、それでもそれをきちんと認めてあげること。まずそこから歩みださなければ自分を失ってしまう。男性・女性は別にして、少なくともドラマの書き手なら、ここから始めなければならないのではないか??って思うのだ。そしてどれだけ自分をあばけるのか??がドラマの書き手の力となる。

私がこの映画から感じ取るのは、そういった<強者グループの中での弱者に属する者>がもつ強者へのひがみ根性なのだろう。じつはそれこそが全ての進化を浸食するもっとも有害な毒物なのだ。その目に見えない有害物質にこの映画は汚染させている。まるでこの映画なかで描かれた強大医薬品会社提供する新薬のように‥‥。この薬に侵されたものは、知らず知らずのうちに自らを強くする意志と願望を失い、<強さ>を批判する事に酔い、やがて衰弱して死んでいく。


私の基本スピリットは、自分を<弱き者>に設定し、それが自分にとって都合いいか悪いかを考える。もしそれが自分<=弱き者>に都合よく働くならそのシステムは間違っていると判断する事にしている。
弱者が弱者のまま、弱者に都合のいい状態が与えられることは否定する。弱者にとって都合わる環境を否定するよりも、弱者が努力して強くなる精神と可能性を支持する。それしかほんとの意味での救いはないと思っている。だからそういう自分を実行していく自分を見せる。くそ勉強して TOEIC の900点だってとってやる。で、取った。「ほら、こうすれば出来るよ」ってその方法を提示していくこと、その可能性を提示していくことしか私には出来ない。私にとっての弱者救済はそこにいきつく。
結局大切な事は、自分にとって<=弱者にとって>都合の悪い事を否定することではなく、それも許せる事なのだと思う。自分を消費するシステムをも許す事。それを含めて全システムの成長を願うことが<理性>なのかなって思う。

‥‥と、うさん臭い部分は腐るほど在るのだが、それでもかなりの力作である。ドラマの存在感はめちゃめちゃある。この映画のいい面をとらえるなら、これもまた腐るほど書ける。が、ま、これは他の誰かがいっぱい書いてそうなので私はパスしよう。
というわけで、薬物にあまり酔わない程度に節度をもって鑑賞するのがよろしかろう。


PS:この原作者のジョン・ル・カレは、どうやら「その女が私のホームである」が好きらしい。『ロシアハウス』でも同じような台詞をショーン・コネリーに言わせていたような気がする。

by ssm2438 | 2009-06-25 00:11


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