西澤 晋 の 映画日記

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2009年 11月 19日

ニュー・シネマ・パラダイス(1989) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_1628966.jpg監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
撮影:ブラスコ・ジュラート
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:フィリップ・ノワレ
    ジャック・ペラン
    サルヴァトーレ・カシオ
    マルコ・レオナルディ

     *     *     *

メジャーな映画はあまり取り上げないつもりだったのだけど、やはり一つの記録としてこの映画は語らなくてはならないだろう。公開されるやいなや圧倒的な感動を映画ファンとにわか映画ファンに与えた『ニュー・シネマ・パラダイス』。私も劇場で観て大泣きした一人なのだが、この映画を劇場で観られた事はかなりの幸せものである。
そしてその後、ビデオ/DVDの発展にともない『ニュー・シネマ・パラダイス/完全版』なるまた別の映画が登場してしまった。年が経ち、落ち着いてみれば、これはこれで一つ映画だと理解出来るのだが、公開当時の『ニュー・シネマ・パラダイス』のドラマの流れ、リズム、ノスタルジア、感動があまりに見事に調和していたので悔しいような‥‥この完全版をどう理解するかはかなりやっかいな問題へと発展した。出来る事なら劇場公開版のみでほんとに良かったのだが‥‥、しかし、あったものは仕方がない。


◯ カッティング=編集という作業について

テレビ、映画のフィルムというのはカッティングされているものなのだ。だこのカッティングの作業がなければ全てのテレビ番組が同じ時間枠で放送されるわけがない。1カット、1カットは後に在る程度カッティングされることをふまえて長めに撮ってあり、それを繋いだ後で気持ちのいい長さに調整しつつ、決められた時間内におさめるように編集していくのである。必要ならその尺を延ばす事もある。
創っている監督自身も撮ったフィッルムを全てつなげたから良くなるとはけっして思っていない。もちろん創ってる時は「このカットは必要だ、このシーンは必要だ」って思って創っている。しかし全部を撮り終わった後つなげて客観的にみると「このカットはいらなかったな」「このカットはもう1秒6コマ、短いほうがいいなあ」「このシーンはごっそりないほうがいいだろう」を思う部分はかずかずあるもの。そして必要ないと判断した部分は削り、その反対もうちょっと欲しいなと思う部分は尺を延ばしたりして(その場合はもう一度取り直すことになる)在る程度のトータル尺に収め込むのである。
このカッティングという作業が上手く行けば、見ている人は気持ちよくさらりと観られるし、ぎこちなければなんか見心地のよくない映画になる。

最近私がみた映画で下手なカッティングと言えばソフィア・コッポラ『ロスト・イントランスレーション』。お話的には決して嫌いなタイプの映画ではなかったのだが、カッティグの悪さ、絵の繋ぎ方の悪さはかなり観づらい映画にしてしまっていた。特に下手下手二十丸印は『マルコムX』『モ’ベタブルース』などのスパイク・リー。この監督の映画のどれも見心地の悪さは飛び抜けている。この二人は編集のひどさというよりも監督の絵のツナギの下手さ、見せ方の下手さ、演出の下手さで観づらい映画になっているような感じ。
編集そのものどうしようもなくひどかったのは『ザ・ペーパー』。監督はロン・ハワードでばりばりの娯楽作品メーカーで本来見やすい映画を提供する人なのだけど、『ザ・ペーパー』は他の彼の作品に比べてあまりに見心地が悪かった。編集がもっと気持ちよい切り方をしたらこの映画はもっとテンポよく、気持ちよく観られたはずなのに‥‥。これは監督の力というよりも明らかに編集がド下手、編集のヒドさをチェックするいい映画参考になるかもしれない。

この『ニュー・シネマ・パラダイス』劇場公開版の編集作業ははミラクルである。
あるストーリーの中から不必要なシーンを削るという以上に、根本的な意味合いまで変えるしまう編集になっている。そして見終わった感想はこの編集されているほうが遥かにどどおおおおおおおおおおおっと感動が来るのである。
編集マジックと言おうか‥‥、とにかくすごい奇跡。勇気いった編集だったろうなあって思う。あるいは何も考えてないけど成功してしまったか。


◯ 劇場公開版 vs 完全版

この映画というのは、男がもつ「好き」という能力の讃歌なんだろうって思う。
真剣に好きになる事。その純粋さ。そのひたむきさ。弱さ。かっこ悪さ。好きすぎるからこそ籠ってしまう可能性。それでも好きを肯定する映画なのだろうなあって思う。編集された劇場公開版の映画はそういうスピリットに意味合いを持っていっていたのだ。

で、蛇足といわれた完全版‥‥、こちらはどうなのかというと、この本来もっていた<純粋に好き過ぎるスピリット>にブレーキをかけているのである。きわめて理性的で作り手としては実に理解出来る作りなのだ。過去を好き過ぎてノスタルジアという重力にとらわれて動けなくなってしまうことから無理矢理解放してやる役目こそが、トルナトーレがアルフレードに課した仕事だったのだ。
「おまけは映画オタクになる人ではなく、映画人になる人なんだよ」と無理矢理過去の暖かさを切り取るのである。 けっこう痛い。

私事ながらこんな話がある‥‥、私は中学生の時に買ったシャーペンを高校、大学、そしてアニメーターになった1年目までずっと使っていた。それでないと描けないと思っていた。絶対それでないとダメだと思っていたのだが、そのシャーペンが在る時からなくなってしまった。6年間私の青春を共にしたシャーペンなのだ。ショックはでかかった。もし「あのシャーペンがないからもう描かない」って決意してしまってたら今の私は存在しなかったのだ。
他人からみてれば大した事ではないかもしれないが、私にとっては一代決心だった。「シャーペンなんて他にもあるんだ。あのシャーペンがなくたって‥‥」そう自分に解らせるどれだけエネルギーを使った事か。<好き力>が強すぎる一つの消失から動けなくなるのだ。それからは机の上消しゴムは常に2つ以上。定規も2つ以上持っておく事にした。必要以上に一つの事に好きになることに予防線をはったのかもしれない。私はたぶん‥‥ひとより<好き力>は強いと思う。が、それが暴走し始める、いったん失いでもしたら自分自身を動けなくしてしまうことがある。それを防ぐ処世術を強制的に身につけたのだ。

完全版におけるアルフレードの行動は(トトとエレナをある種の裏切りで引き離したことを含むノスタルジアからの引き離し)、映画の作り手としてはまったもって正しい方向性である。なにも文句がつけようがないほど正しい判断だ。だからこの完全版が存在することにはなんも文句がつけようがない。しかし劇場公開版では、そんな理性的な完全版からこの抑制のがきいたストーリー展開部カットし、<純粋に好き過ぎるスピリット>の映画にしてしまったのだ。
一観客として観るなら、利害抜きで好きになって重力の間に囚われて、それでも好きで没落してもいいじゃない‥‥ってくらいの愛をみたい気がする。それを観られるから見る側としては気持ちよかったりもする。劇場公開版ではそれを編集で実行してしまった。実際この映画ではその生き方をサルバトーレの母が演じている。「いいじゃない、一つの好きににこだわって‥‥、それで社会的に成功しなかったとしても何がいけないの」みたいな一つの<好き>に殉じた生き方。そしてトルナトーレ自身も「それはそれでいいじゃないか‥‥」って描き方をしているように見える。

これが意図的におこなわれたのかどうかは実はかなり疑問である。公開にあたり長過ぎる尺を切るとき「なんでこんなことになるんだ?」って何も考えずに編集する人が切ってしまったとも考えられる。というか、その可能性はかなり高い。
解る人が見れば完全版の意味合いはとても理解できるのだが、感情論でいけば「なんでお前(アルフレード)、そこで伝えない」ってどうしても思ってしまう。実際そう思って正解だとも思うし‥‥。
良くも悪くもいろんな偶然が重なってあれだけ感動する映画になってしまったのだと思う。

これから観る人には、劇場公開版を勧める。とにかく劇場公開版の気持ちよさはミラクルなのだ。歴代の映画でここまでのミラクルはそう出会えない。絶対無敵ミラルク感動ナンバー1である。
それをこなしたあとでどうしても完全版が観たい人はそのあとに観るのがいいと思う。

ただ、私が思うに、この完全版で別の形のストーリーの繋ぎ方があったのでは‥‥?と思う。
物語が始まってアルフレードの死を聞かされ、地元に戻って来てエレナの子供をみて、大人になったエレナを窓越しにみてそこから懐かしい少年時代からの物語に突入。劇場公開版の流れをそのままに、最後にローマに戻って来てからキスシーンをあつめたフィルムをみながら、エレナ(大人)との再会のピソードを断片的にインサート。でひたすら『ニュー・シネマ・パラダイス』愛のテーマをながしまくる‥‥っていうのがよかったのでは???って思う。

あと、どうでもいいことなのだが、大人になったエレナがブリジット・フォッセー(『禁じられた遊び』のあの子だ)なのはちょっとなあ。どうみても、あのエレナが大人になったらシャーロット・ランプリングだろう。

by ssm2438 | 2009-11-19 18:40 | G・トルナトーレ(1956)


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