西澤 晋 の 映画日記

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2009年 07月 19日

緑色の部屋(1978) ☆☆☆☆

f0009381_24089.jpg監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー
    ジャン・グリュオー
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:モーリス・ジョーベール

出演:フランソワ・トリュフォー
    ナタリー・バイ

     *     *     *

いやああ、これは良い。
見る前にロバート・ワイズ『ふたり』をみて、そこでちらっと出てるナタリー・バイをみると、むくむくと彼女を見たい欲望がわいてきた。ナタリー・バイは『映画に愛をこめて アメリカの夜』でとっても潔い監督補佐をやっていたのだけど、そのキャラクターの性格がとっても好きで、おかげでナタリー・バイのファンになってしまった。ただ、ナタリー・バイが出てる映画なんてほとんどVHSしかないのでどうしようかとおもってたのだが、いいやこのさい買ってしまえとやはりトリュフォーの『緑色の部屋』ロベール・アンリコ『夏に抱かれて』を取り寄せた。まだまだ役にたってしまうVHSデッキですな。

で、みた『緑色の部屋』。トリュフォーの映画なのでそんなに期待はしてなかったのだけど、これは素晴らしい。それまでは『アメリカの夜』が一番いいかなっておもってたのだけど、これは良い! こっちのほうがストーリがあるので『緑色の部屋』感情移入しやすい。
この物語の主人公は過去を保存することに現在を消費することに一生懸命な男、ダヴィンヌ。新しいことにはほとんど興味をもたず、自分の思い出を大事にしている。たぶん女には分かりづらい価値観かもしれないが、男の私にはよく理解できる。別れた男をすぐ忘れることが出来る女の脳と、それが出来ない男の脳はメカニズムが根本時にちがうのだからし方がない。

私も子供の頃は昔からの思い出がつまっているものを大事にするタイプだった。大事につかっていたシャーペンがなくなるだけで何ヶ月もショックだったり、買っていた猫が死のうものならそのショックはなかなか消えない。
ただ・・・、「これではいかん」とあるとき思いたち、そのときからアルバムを増やすのをやめた。私の写真は多分中学生のころから以降はほとんどない。自分で描いた原画やコンテもほとんどのこさない。すぐ捨ててしまう。とにかく過去は保存するべき存在ぜはなく、未来へと進化させていくための素材。今という時間を過去の保存のために使うことは悪くはないが、それよりも今の時間を未来のためにつかうことがもっと大切だと考えることにした。そしてそれを自分自身に強制させるために、過去を集めることをやめた。
この物語の主人公は、かつての自分の価値観をもった男であり、その気持ちは痛いほど理解できる。


映画はこの物語の主人公がダヴェンヌ(フランソワ・トリュフォー)が体験したであろう第一次世界大戦のモノクロ写真から始まる。彼にとってその戦争で死んでいった戦友たちは決して忘れてはいけない存在。そんな彼は妻を若くして亡くしたが、誰とも再婚することなく、家政婦をやとい聾唖の甥と暮らしていた。
そんなある日、友人ジェラールの夫人の葬儀に出かけ、安易な気休めの言葉をかける神父を追いだす。

「今、彼に必要なことは妻を生き返らせることだけだ。それが出来ないならあなたに用はない!」

棺をまえにふたりだけになるとダヴィンヌは
「もし君が彼女のために総てをささげるなら、彼女は永遠に君と一緒だ」

ダヴィンヌの家には彼の死んだ妻の写真や遺品をしきつめた緑色の壁紙を張られた部屋があり、そこは自分以外誰も入れないように鍵がかけられ、いつも一人、彼女の写真を眺めていることで亡き妻の思い出にひたっていた。彼も結婚してまもなく妻をなくしていたのだ。

ある日、亡き妻の実家のヴァランス家の家具や調度品などが競売に出されていることを知ったジュリアンは、妻の思い出の形見を求めてそこに出かけていった。そこで彼は、指輪を探しているのを快く手助けしてくれたセシリア・(ナタリー・バイ)という女性に会った。
やがて数ヶ月がたち、あれほど妻の死になきつずれていた友人ジェラールが新しい妻をつれてダヴィンヌの会社をおとずれる。裏切られた気持ちになるダヴィンヌ。

ダヴィンヌは妻の実家の競売の会場にいくとセシリアが出迎えてくれる。
「死者を忘れないことが、生きている人の務めだ」とその友人を非難するダヴィンヌ。
「上手くいえないけど、忘れることも時には大切だわ」とやんわりと否定するセシリア。。
セシリアにしてみれば、ダヴィンヌは幼い頃の憧れの人だったのだ。

ダヴィンヌはもうすでに廃刊されたと勘違いされているような雑誌「クローブ」の編集室ではたらいている。そんな彼は物静でありあまり人付き合いもしない。その出版社の社長もその雑誌社を引き払いたいと思っているらしく、ダヴィンヌにパリに出て他の出版社に勤めてはどうかという話もするが、
「この雑誌を売るのなら私も一緒につけて売ってくれ。私はここに残る」と主張する。死者に殉教する彼にとっては死んだものに忠誠をつくすことが総てなのだ。
そんな彼は死亡記事を書くのが得意であり、ある時ポール・マシーニという政治家の死亡記事をたのまれる。かれは昔同じ記者仲間だったのだが政治家に鞍替えした経歴をもつ。ダヴィンヌにとって許せない男だった。

徐々にひかれていくダヴィンウとセシリア。ダビンヌは墓地の中に廃虚となった古い礼拝堂を見つけ、そこに彼の“緑色の部屋"を死者たちの祭壇として築くために、修復する椎利を買い取った。その礼拝堂には妻だけのものでなく、彼の心に残る死者たちのすべてを集め、ひとりひとりのためにロウソクをともした。
そしてセシリアに
「この礼拝堂の共同管理者になってほしい、そしてこれを完成させてほしい」と。
「完成?」
「私が死んだら、私のロウソクをここにともしてほしい」
わずかにむっとしたような表情で立ち去るセシリア・・、立ち止まって
「私があなたのロウソクを立てるとして、私が死んだ時は、誰が私のロウソクをともしてくれるの?」

やがてダヴィンヌはセシリアがポール・マシーニの愛人だった知ることになる。
「彼が君に死者だったのか・・」絶望するダヴィンヌ、
「彼をここの死者たちと一緒にさせることは出来ない」
「もうお会いすることはありません」と去っていくセシリア。

緑色の部屋に閉じこもってしまうダヴィンヌは衰弱していく。編集社にも顔をださない、電話にもでない。医者も生きる気のないものは救えないとみはなす。しかたなく手紙を書くセシリア。

「あなたは死んだ人たちしか愛さない。イメージの中の死者はやさしいもの。
 あなたに愛されるためには、死んだ女にならないといけないのね・・」

セシリアは手紙で愛を告白する。
その手紙をよんだダヴィンヌは雪のなか倒れそうになりながら礼拝堂にやってくると中ではセシリアがまっていた。ポール・マシーニもこの礼拝堂に受け入れるというダヴィンヌ、「彼のことは忘れて」とお互い譲り合うふたり。あと一本だけロウソクをたててくれ、そうしたらおの礼拝堂は完成する・・と告げて倒れるダヴィンヌ。
セシリアは涙を流しながら祭壇のロウソクの最後の一本に火をともした。そして名前を発した。
「ジュリアン・ダヴェンヌ・・・」


トリュフォーの映画って、どこか記号的に処理するところがあり、この映画でももっと心が納得するまでの「間」をとってほしいと思うところはけっこうあるのだが、考えてみると本人がダヴィンヌを演じている以上なかなかそこまでは気がまわらなかったのかもしれない。。。
ま、それはそれとして、実にひとりの男の業が通された素晴らしい映画だ。これくらい我がままな趣旨の映画はそうないだろう。きっとこれをみた女たちは「男はなんて身勝手な生き物なの!」って憤慨するだろう。それくらいバランスをとらない映画だ。

そしてこの映画のカメラマンは『天国の日々』ネストール・アルメンドロス。玄人好みのカメラマンで姑息なフィルターとかライティングなど使わない自然光での撮影を好むプロフェッショナル。そんなネストール・アルメンドロスがとらが撮るロウソクの光にうつしだされるナタリー・バイはほんとうに美しい。
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by ssm2438 | 2009-07-19 22:05 | F・トリュフォー(1932)


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