西澤 晋 の 映画日記

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2009年 05月 26日

エンド・オブ・ザ・ワールド(2000) ☆☆☆☆

f0009381_347796.jpg監督:ラッセル・マルケイ
脚本:デヴィッド・ウィリアムソン
    ビル・カービイ
撮影:マーティン・マクグラス
音楽:クリストファー・ゴードン

出演:アーマンド・アサンテ
    レイチェル・ウォード
    ブライアン・ブラウン

     *     *     *

先日ケーブルテレビをみているとなんだかきちんと人間描写をしてる映画。セットはややチープ。潜水艦がサンフランシスコ湾に入っていく。その上空には崩れたゴールデン・ゲート・ブリッジ。CGとかはややチープな感はあるのだが捉え方はけっこういい。おお!と思わせる絵もちらちら。潜水艦の乗組員が荒廃したサンフランシスコの街をみてる。『復活の日』の冒頭のシチュエーション。なんだか外にでられない状況といえば、細菌兵器かなにかな?? でもなんだか次のおこり展開を妙に予感出て来てる自分。何だろう??この映画はって思ってると、その風景を懐かしんだ一人の船員が潜水艦から飛び出していく。これってもしや‥‥。。。最近そんな映画はリメイクされてたん?? 聞いてないぞ?? でも、その出て行った船員がゴムボートでつりをしてる横に潜望鏡がずずずずっと浮上してくる。もう間違いない。

そのとおりでした。『渚にて』という映画がまだ米ソの冷戦のころ創られた。そのリメイク版がこの『エンド・オブ・ザ・ワールド』。『渚にて』が米ソの核戦争で物語が始まったのに対して本作品は米中の戦争で核戦争が起る設定。でも、この映画核戦争的ドンパチなどはどうでもよくって、その後の死に至る人間の歴史のなかでいかに美しく生きるかということこそがテーマなのだ。ブルース・ジョエル・ルービンがとってもやりたいテーマだと思う。今度何かの機会にこの映画を再度映画化するこ時はぜひとも彼にシナリオをやってもらいたいものだ。

途中からだったのでネットでリメイク版の存在をチェック。どうやらテレビ映画らしい。さすがに予算の関係でCGが多少チープなのは仕方が無さげ。しかし、人間描写は『渚にて』に勝るとも劣らない、とってもきちんとしている描き方をしてた。見た感触的には私はこっちのほうが好きだ。ドラマの展開はほとんど同じなのだけど配役がこっちのほうがいい。
まず主人公のタワーズ艦長、なんとアーマンド・アサンテである。知る人ぞ知る『探偵マイク・ハマ/俺が掟だ』のマイク・ハマーである。おおおおおおおお~~~~~~~!!! チビだし、やたらチンピラみたいだし、当時はなんじゃこいつは??って思ったけど今見るといい親父になってるわ。これは配役ピッタンコにはまってた。この年で今一度マイク・ハマーをやってほしいものだ。
『渚にて』ではグレゴリー・ペックがやってたのだけど、どうしても政治家的な顔(真実を語れない顔)なので芝居が嘘っぽいのである。どんなにロマンチックな役をやっても(『ローマの休日』の新聞記者とか)実に感情が嘘っぽいのである。これがトム・ハンクスなんかがやると感情がかなり本物っぽいので馴染むのだけど。。。そんなわけで、これだけヒューマンなドラマが展開する作品にはあまりあわない。
ヒロインのモイラは、本作がレイチェル・ウォード『シャーキーズ・マシン』の変な顔なんだけど、変に魅力のあるあのおネーちゃんである。『渚にて』ではエヴァ・ガードナー。奇麗な人なんだけど清楚すぎるかなあ。ちょっとあばずれっぽいモイラのキャラクターはレイチェルのほうがあってるような気がした。
モイラのもと旦那でガサツな、見た目無礼な、でも実はとっても人間味のあるオズボーン博士はレイチェル・ウォードの元旦那ブラインア・ブラウン。私生活とダブってなんだか楽しい。
もうひとりメインキャラとしてはピーターというオーストラリアの海軍士官がいる。この人の義理の姉がモイラになるだが、『渚にて』ではなんとアンソニー・サイコ・パーキンスがやっている。ケビン・ベーコンがスクリーンに現れれば誰でも「こいつはホモできっと犯人だ」と思うだろうが、一昔前ならやはりアンソニー・パーキンス。どう考えたって精神異常犯罪者であるべきだ。なのにこの映画ではとってもいい人を演じている。ありえん(苦笑)!!

この『On The Beach』(原題がこれ)といういう作品は『ロミオとジュリエット』みたな理想主義的恋愛ではなく、もっと現実的な人のつながりを描いている。大人になってから見るほうがいいかもしれない。人は仮面をかぶり自分のキャラクターを演じているのだが、その仮面の下の素顔を理解できる人の大切さを語っているようにも見える。

<あらすじ>
アメリカと中国が核兵器を打ち合って北半球がほぼ壊滅。それでも南半球はまた平和な世界がのこっている。タワード艦長の指揮する生き延びたアメリカの潜水艦がメルボルンに入港する。
南下して来る死の灰。そんな状況の中、ある科学者は核戦争が引き起こした異常気象で北半球は低気圧状態になり、死の灰は南下はしないのではないかという希望的観測を打ち出す。その後、アンカレッジから定期的にメールが送られてくる。もしかしたらアンカレッジには人が生きているのかもしれない。調査の為にタワーズの米潜水艦がその任につくことになるが、そのまえにクルーにはしばしの休息が与えられる。それに同行することになったオーストラリアの若い海軍士官ピーターはタワーズを自宅のパーティに招いた。その席にはピーターの妻の姉であるモイラもいた。そしてその彼女と復縁を願っている原子科学者オスボーン人騒がせに登場したりもする。

先の核戦争で妻と子供を亡くしたタワーズ艦長。しかしモイラにひかれるものをおぼえたりもする。この映画は“妻への一途な愛”とか“子供たちへの誠実さ” とかではなく、近くにいて自分を理解して来る人のほうを大事にしていくのだ。正直なところ、若い頃『渚にて』をみた時は“なんかいい加減なグレゴリー・ペックだなあ”と思ったが、タイトル改め『エンド・オブ・ザ・ワールド』といてこの映画をみると納得出来るのである。これは配役がはまっただけではなく。自分の経験値があがったからなのだろう。
がさつだか人を見る目をもっているモイラはタワーズと引かれ合うようになり、オズボーンからフェラーリを調達、別荘でタワーズを一夜をともにすることになる。

やがてアンカレッジに到着。しかし、そこは死の街でありはメールの送り手は既に死んでおり、時たまはいる日の日差しでパソコンのソーラーバッテリーが起動しメールを送信していたのだ。絶望のクルー。彼らの半数近くはサンフランシスコ出身であり帰りに寄ることにするタワーズ。
艦はメルボルンに帰港する。ガソリンはとぼしく蒸気機関車が再び使われているのが嬉しい。オーストラリアの諸都市の人々も吐き気を催し死んでいく。。街では自殺用の薬が配給されている。
そんなかで『渚にて』では自動車レースが開かれ、人々はピクニック気分でそれを観戦してたりする。このエピソードはけっこう好きなんだけど、『エンド・オブ・ザ・ワールド』ではなくなっていた。
ピーターの家族にも病魔は忍び寄っていた。妻や子供の吐き気を催し死期がせまってきている。
部下の看病のために帰ってこないタワーズを待ちきれないモイラは、一人で死ななければ行けない孤独感からすこしでも安らぎを得る為にオズボーンとベットをともにする。しかし、そんなモイラのもとにタワーズは戻って来た。一人で死ななければならなくなったのはオズボーンだった。切ない。他に走る車はない街のなか、そして郊外の道路を愛車のフェラーリを飛ばしまくるオズボーン。カーブを直進し宙をまうフェラーリ。
ピーターは妻とベットに横たわり、子供に自殺剤を注射し、妻とふたりでその錠剤を飲み静かに眠っていく。

タワーズのクルーたちは帰国を決意する。今となってはアメリカはこの船だけだ。どうせ死ぬのならアメリカに戻って死のう‥‥。クルーたちの意をくみタワーズも艦に乗っる。出航する潜水艦を岬から見送るモイラ。ちょっとしたピクニック気分である。白い皿には取り立てのイチゴ。バスケットの中には政府が支給した自殺用の薬。シャンパンをつぎ岬を横切り出て行く潜水艦にグラスをかざす。
「ドワイエ・タワーズ。私が最もいてほしい時に私を裏切った男」。
ふうと大きく息をつくと、坂を上って来るタワーズの姿がみえてくる‥‥。おおおおおおおお。。。

実は『渚にて』では行ってしまうのである。
ここは『エンド・オブ・ザ・ワールド』のオリジナルなのだが私はこちらのほうが好きだ。

ま、好き嫌いはおいといて、トータルして リメイクものがオリジナルの感性を越えた珍しい例のひとつである

by ssm2438 | 2009-05-26 03:42


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