西澤 晋 の 映画日記

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2009年 11月 10日

フレンチ・コネクション(1971) ☆☆☆☆☆

f0009381_1635794.jpg監督:ウィリアム・フリードキン
脚本:アーネスト・タイディマン
撮影:オーウェン・ロイズマン
音楽:ドン・エリス

出演:ジーン・ハックマン
    ロイ・シャイダー

     *     *     *

圧倒的なリアリズム! 先の『ブラック・サンデー』が70年代のテロのクライム・サスペンス最高傑作だとしたら、刑事もののクライム・サスペンスの最高傑作はウィリアム・フリードキン『フレンチ・コネクション』だろう。たぶんこれを越える刑事ドラマは今後も出てこないと思う。とにかく『ブラック・サンデー』以上に徹底的にリアリズムにこだわった作りが画面を圧倒する。文句なしのアカデミー賞受賞作品である(この頃のアカデミー賞は納得出来る選択がなされていた。良い時代だった)。

ともすればすればヘタな演出とは「こう描いておけば‥‥」になりがちなものだ。「こう描いておけば尾行してると見ている人は解釈してくれる」「こう描いておけばエッチしてることになる」「こう描いておけば悲しくて泣いてることになる」‥‥になりがちなのだ。象徴的演出に逃げてしまうのである、というか、具体的に描くだけの技量を持たないとも言えるのだけど。
しかしこのフリードキンはジーン・ハックマンロイ・シャイダーが犯人を尾行するだけで圧倒的なリアリズムを出してくれる。
「尾行ってのはこうやって、こうやって、こうやってこうやるんだ!!」って具体的に執拗なまで提示してくれる。尾行のシーンだけではない。ガサ入れのシーンだって、車での追跡のシーンだって、全てのシーンがこのこれでもか!これでもか!!これでもか!!!を連打するのである。スーパーパワーなんかあり得ない。一人の人間が出来る事をこれでもか!これでもか!!これでもか!!!と連打する。とにかく諦めない。結果が出るまでこれでもか!これでもか!!これでもか!!!を延々続ける。で、結果を出してしまう。演出的なことだけでなく、生き方的にも私の師匠的な映画/映画監督さんである。
フリードキンの<これでもか!これでもか!!これでもか!!!>スピリットは『エクソシスト』でも発揮される。
ともすればオカルトものっていうのは、一つのキーを見つけてそれが悪魔さんに有効でそれを起動させたら全てが解決してしまう‥‥というような終り方をするケースが多いが、フリードキンはそんなことしないのである。悪魔を人間の根性で追い出すのである。ひたすら怨霊退散!の念仏と聖水をふりかけるという作業の延々の繰り返しだけで、悪魔をリンダ・ブレアから力づくで引き剥がすのである。『エクソシスト』が他のオカルト映画と根本的に違うのは人間が力づくで悪魔と闘うところなのだ。

出来る事の積み重ねで結果をだす。根性で積み重ねる。
小さなことをひとつひとつ積み重ねて大きな結果をだす!
これがウィリアム・フリードキンであり、ジョン・フランケンハイマーの映画づくりの基本になっているのだ。だからフランケンハイマーの映画ではとにかく走る。場所移動は走るしかない。ぜいぜい息を切らしながら走る。根性の積み重ねの象徴的な絵作りの一つだ。やがてこの続編『フレンチ・コネクション2』はこのジョン・フランケンハイマーがメガホンを撮ることになる。実に良い選択だ(ただ、出来的にはウィリアム・フリードキンのほうが上だった)。
彼等の描く世界には決してミラクルパワーなどない。根性の積み重ねが全てなのだ。しかし、これは生命力のない人には観るのがつらい映画にもなって来る。映画の中にあるどんなオーディーン(試練)も一つのミラクルパワーで解決されるなら、それはファンタジーなのだ。しかし、彼等のように出来る事を根性で積み重ねていくというのは、在る意味それが現実世界で出来る人にしか受け入れられない要素だったりする。現実世界で根性のない人は、実は根性のある人が頑張り抜いてやりきるよりも、ヘタって挫折するシーンを願っていたりするものなのだ。
この映画のフリードキンが描く根性の執拗性はそれのない人には向かない。かなり嫌悪感を抱く怖い映画なのだ。この映画を好きになれる人は、自分自身を意地で強くしようと努力してる人だけだと思う。
観る人間を選ぶ映画なのだ。


この物語の主人公は通称「ポパイ」と呼ばれるドイル刑事(ジーン・ハックマン)。圧倒的な存在感。強引に根性で成し遂げてしまうタイプ。相棒のラソー刑事(ロイ・シェイダー)は。とにかにこのガサ入れのシーンがとてもリアルで怖い。フリードキンの演出力をまざまざと見せつける。この怖いというのは大人の映画の基本である。お子様はこの怖さに耐えられるようになってやっと大人の仲間入りができるのだ。
そして二人はガサ入れの時に近々でかい取引が在ることを知る。

マルセイユではフランスの実業家シャルニエ(フェルナンド・レイ)がテレビ・スターを使って、アメリカの麻薬ルートとのコネクションを図っていた。アメリカに渡って来たシャルニエ。ドイルとラソーは彼を執拗にマークする。またこの尾行シーンがやたらとリアルなのだ。つねに刑事は二人一組で行動し複数のペアが入れ替わり立ち代わりしながら尾行していく。日本尾緩い刑事ドラマではあり得ないハードボイルドな尾行シーン。これだけでの「おお!」って思わせる。
やがてアンリがはるばるフランスから船で運んできたリンカーン車がニューヨークの港に着いた。数日後、ドイルはビルの屋上から何者かに狙撃された。それは殺し屋のニコリだった。狙撃に失敗したニコリは高架線の地下鉄で逃走を図った。ドイルは手近の車を徴発してニコリを追った。これがかの有名なドイル刑事の高架線激走シーンである。高架線の上と下で、暴走する地下鉄と自動車のすさまじい競走が繰り広げられた。またこれが執拗なのだ。なにがあろうと緩まない。とにかく追いつめる。逃がさない。そして数十分後、他の電車に激突した車両から出てきたニコリの体をドイルの執念の銃弾が貫いた。

やがてアンリはその車を人気のない路地へと運び、そのまま置きさるのである。 ひたすら待つドイルとラソー。数時間まっていると怪しい車が数回そこを通り過ぎる。「あの車さっきも通ったぞ‥‥」、待機する警官たちに緊張が走る。やがてその車が止まり中から一人の黒人が現れる。そしてその車に近づいたところで御召し捕り。
車を押収し解体するがドイルたち。シートを裂き、オイルを抜き、バンパーからなにからパーツはことごとく外されていく。必ず在ると信じ込んでて徹底的に解体する。「きっと自動車泥棒だったんだ。なにも出てきやしない」‥‥お手上げのメカニックたち。
“やばいぞ、もし何も出てこなかったらこの車どうするんだ、責任問題だぞ‥‥?”全員にのしかかる重いムード。「いや、絶対この車だ」と言い張るドイル「だったらお前が勝手にやれ」と突っぱねるメカニックたち。誰もが諦めてもドイルは諦めない。
「この車絶対怪しい!」、一人でもまだ探し始める。
一方ラソーは積み荷の重さを記した書類を目に通している。マルセイユ出荷にの車重とニューヨークでの荷揚げ時の 車重がちがうのだ。数キロ分明らかに増えている。それがヘロインの重さのはずだ。「絶対どこかにある!」と確信したドイルはさらに解体していく。そして見つけてしまうのだった。
この根性ってなにかを成し遂げる人たちには絶対必要なものだ。それをまざまざと感じさせるシーン。熱い!

「おたくの車、路上駐車しましたね。自動車泥棒が盗もうとしていたところを巡回中の警官がみつけて犯人を取り押さえました。気をつけてください」ぴっかぴかな一台として復元されたその車はアンリへと返却された。やがてなにもしらないコネクション一派はその車で取引の場へと向かう。
取引の場は警察官たちに包囲され激しい銃撃戦がはじまる。つぎつぎと射殺される犯人たち。主犯のシャルニエは廃墟に逃げ込んだ。かれを追うドイルとラソー。しかし強引なドイルは誤って仲間刑事を1人射ってしまった。うろたえるラソー。さすがにショックのドイル、でもそこは悪びれてでも追跡を続けるしかない。さすがにここでのドイルの行動はある種の嫌悪感を抱かずにはおられない。というか、ドイルに関してはやはり全編を通じて私でもある種に嫌悪感を抱くのだけどね。

結局最後は主犯格のシャルニエを逃がしてしまい、誤射で警官を一人殺してしまったことの責任をとらされ跳ばされてしまうドイル。さすがにこの終り方はいただけないなあって思うのだが、それまでもドイルの執念に圧倒されてしまう。みているものが嫌悪感をいだくまでのドイルの執念。
良くも悪くも、後味がいかに悪くても、男の映画なのである。

by ssm2438 | 2009-11-10 16:00 | W・フリードキン(1939)


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