西澤 晋 の 映画日記

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2009年 02月 05日

マッチポイント (2005)  ☆☆

f0009381_2336879.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:レミ・アデファラシン
編集:アリサ・レプセルター

出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ
    スカーレット・ヨハンソン
    エミリー・モーティマー

       *       *       *

ひさびさのウディ・アレンがでないウディ・アレン監督作品。彼の映画は本人が出ないほうが断然良い。かれが画面に出てしまうとどうしてもそこだけ作為性が充満しているのでドラマとしてのリアリティが損なわれてしまう。もっともそれが損なわれてもいい映画というのもあるのでそういう場合は彼が劇中に顔をだしても全然かまわないのだけど。でも出来るならでないでほしい。

今回の映画はニューヨーク派のウディ・アレンしては海外にとびだしてロンドンで撮っている。もしかしてこれがはじめて? イギリスにいくとなんとなくヒッチコックをやりたくなるのかもしれない。そういう私も『ゴルゴ13』の41話がロンドンを舞台にした話で、ちょっと物語が淡白で時間がかなり余りそうだったので『第三の男』をやってみた。出来たお話の舞台がある特定の場所だと、なんとなく昔見た懐かしい映画をなぞってみたくなる。パロディというんじゃなくて・・これを機に、見ている人が昔のいい映画をみてくれたらいいなあって感じ。

ただ・・この物語が面白かったかどうかというとちょっと疑問だ。どうにもにげられない圧迫感が襲ってくるのはウディ・アレンの演出力の賜物だとはおもうのだが、面白いかというとそでもない。
なにがそうさせているのだろうって考える。そしたらもっともある意味<現実的な方向性での解決>・・つまりロマンがない。
二人の間に心がゆれたのなら、<一番好きなもののために二番目を捨てる>ストーリーにしてやればドラマチックなのだ。そのむかしジェームス三木がシナリオの基本的構成についてそのことを語っていたのを思い出した。これだとトレンディドラマになるはずだ。しかし、ウディ・アレンのえいがではそうならない。
このシチュエーションは『重罪と軽罪』の中にもでてきて、そのときも愛人に結婚をせまられ切羽詰った男が、ヤクザな仕事をしてる弟に愛人の殺害を依頼、その弟はさらりとやってのけてしまう。しかし、この映画そうだし『重罪と軽罪』もそうだけど、あのように愛人にせまられるとロマンもへったくれもなくなる。
男というのは夢をみられなくなると死ぬ生き物なのだ。ここでいう夢というのは「可能性」という言葉でおきかえられるかもしれない。どんなにたわいもな想いでも、それが現実になる可能性があれば、男は生きていられるのだが、それがなくなるとただの道具になってしまう。

私は男なのであえてこの物語の主人公を擁護するが、このドラマのなかのこの男を殺人者にしたのは妻と愛人だ。彼女らは男の夢を奪って肥溜めにおとし現実のウンコあびせかけた。

男がああやってしまいたいのは当然だ。それが出来てしまえば夢なのだが、普通の現実の男には出来ない。この物語ではそれをやってしまう。そういう意味では男の自暴自棄になったときにネガティブな夢=願いを実践してくれてた。だからこそウディ・アレンなのだって思った。本来男は・・というや誰も、弱さにまけたくない、無責任な自分になりたくないという正への方向性があるのだが、それを実践していけばいくほど、へたってみたいという憧れを持つ。
この映画のすごいところは、もうがんばるのはいい、へたってみたい、無責任になってみたい・・というネガティブな欲望を開放した映画だからこそ、素敵なのだろう。だからこそ、ほとんどの男性にいたいほど感情移入をおこさせるのだろう。
いやはや、すごいすごい。
つまらない映画として理解していたが、いってこの文章を書きながらその意味がわかった。やっぱ、ウディ・アレンはすごい。

・・でも、やっぱり面白くない映画であることには変わりない。

by ssm2438 | 2009-02-05 22:15 | ウディ・アレン(1935)


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