西澤 晋 の 映画日記

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2009年 08月 04日

自転車泥棒(1948) ☆☆☆☆☆

f0009381_18534433.jpg監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ
    スーゾ・チェッキ・ダミーコ
撮影:カルロ・モンテュオリ
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ

出演:ランベルト・マジョラーニ
    エンツォ・スタヨーラ

        *        *        *

まさに傑作!! すごい。1950年どのキネマ旬報ベストテン1位、それもぶっちぎりであった。今の世代のお子様たちがこの映画をみて面白いと感じるかといえば、そんなことはないだろうが、映画作りをめざす人なら絶対必見映画のひとつになる。

ドラマ作りには、以下のようなシンプルな法則がある。

見ている人が面白いと思う = <目新しいストーリー> X <感情移入>

この2つの要素で、映画・ドラマが見た人の心にどれだけその物語を定着させられるかがきまってくる。ドラマ産業においては、<目新しいストーリー>というのは企画段階の話になってきている今、<感情移入>の構築技術こそが演出する側のすべてだといっていい。どんなに目新しいストーリーを作っても感情移入がないなら、映画館をでたらすぐ忘れてしまう。この『自転車泥棒』ではビットリオ・デ・シーカのその感情移入演出力がいかんなく、恐ろしいまでに発揮されている。

戦後のイタリア映画はイタリアン・ネオ・レアリズムと呼ばれた時代であり、突拍子もない御伽噺のような話を作るのではなく、真実味のある展開の映画がつくられていた。これもそのひとつで、イタリアン・ネオ・レアリズムの代表作。当時のアメリカではセット撮影があたりまえだが、この頃のイタリアにはそんなものをつくってる余裕などなかったのだろう、すべてが実在するものの中で撮られている。それにイタリアの街はどうとっても絵になってしまう。
今なら何処の通りも建物の中も、撮影許可を取るだけで恐ろしいほどの手続きが必要になるだろうが、この時代は戦後まもなくというときなのでそんなまどろっこしい手間はなかったと思われる。いい時代だ(苦笑)。

<あらすじ>
失業者があふれる戦後のローマ。アントニオ(ランベルト・マッジォラーニ)は長い失業のすえ、ようやく映画のポスター貼りの仕事にありつけるが、それには自転車をもっていることが必要条件だった。自転車を質屋から請け出すために彼はシーツを質に入れなんとかお金の工面をつけた。自転車がある生活は夢のようだった。仕事もはかどり、六歳の息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)を車に乗せ、彼はポスターを貼ってまわった。ところがちょっとしたすきに自転車が盗まれてしまった。自転車がなければまた失業だ。アントニオは警察に盗難届けを出すが、毎日何千台という自転車がぬすまれているなか、警察が本気で相手にしてくれわけもない。こうしてアントニオ親子の自転車探しがはじまった。

f0009381_18541938.jpgイタリアの首都ローマで盗まれた自分の自転車を探すなどほとんど不可能に思えるが、それでも彼はやるしかなかった。2人は朝早く古自転車の市場を見に行った。ここで泥棒らしき男に会うが証拠がない。その男と話していた乞食の跡をつけるが、乞食も逃げ出す。余裕がないアントニオはいらいらしてつい息子のブルーノにあたってしまう。この親と子のやりとりがとてもすばらしい。切羽つまっているのだが、子供に接するときはその雰囲気をなんとか隠そうする、しかし、そうはいっても行動には出てしまう。それを見ている息子もそれをかんじとれてしまう。なので父親の気に障らないように健気に努力をしている。
そうこうしているうちに偶然自転車泥棒を発見、後をづけてそいつの家に乗り込む。しかし地域のコミュニティの強いのだろう、近所の連中もよってたかってその泥棒息子を擁護する。この子がそんなことはない、あるなら証拠をみせろ!とせまる。ブルーノの機転で警官が来るが肝心の自転車はない。ただただひきさがるしかないアントニオに、「もうくるんじゃないよ」「とっととうせろ」と罵声をあびれす近所の住人たち。
絶望でうなだれていると、誰かの自転車がぽつりとある。アントニオは息子を先に帰らせると、その自転車にちかづき、乗り逃げしてしまう。・・・が彼がやったときには周りの人が反応、みんなに追われる始末。
どうして俺のが盗まれたときは誰も見向きもしないで、俺が盗んだときには誰もが追ってくるんだ!?って思ったに違いない。もどってきた息子の目のまでみんなに捕まってしまい、ぼこぼこにされているところにブルーノが駆け込んできて涙ながらに懇願する。アントニオに一通りの罵声を浴びせた人々は「息子に感謝するんだな」と彼を解放してやる。悔しさと不条理さと惨めさに涙をながすアントニオ。そんな父の手をとるブルーノ。二人は言葉もなただただ帰路につくのであった。

だああああああああ、心が痛すぎる。悔しすぎる。不条理すぎる。羞恥心全快。こしこれで子供がいなかったらそれほどのこともなかったのだろうが、それを子供にみられてしまうこの屈辱感。・・・すごい。しかしその子供の存在で助けられたのも事実だが、プライドの傷ついたほうがさらなる重症だろう。

by ssm2438 | 2009-08-04 17:55 | V・デ・シーカ(1901)


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