西澤 晋 の 映画日記

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2009年 06月 11日

生きる(1952) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_10223995.jpg監督:黒澤明
脚本:黒澤明
    橋本忍
    小国英雄
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄

出演:志村喬
    小田切みき
    伊藤雄之助

        *        *        *

名作である! 決して映画作りが上手いとはいえないが、至上最高の傑作である。

いつもの黒澤明の映画は、記号的キャラクターとその芝居付けなので、作為性が前面にでてしまい感情移入ができないのである。しかし、この映画は直球勝負のテーマをど真ん中に投げ込む映画なので、見ている人に噛み締めてもらい、「この映画に起きていることは、自分のイベントなのだ」と感じてもらわなければ意味がない、そういう映画なのだ。そそのためには、いつもの記号的演出をやめ、どうしたらそれを見ている人の細胞にしみこませることが出来るのか・・と考えて、このスタイルで映画にすることを選んだのだろう。
映画としてはかなり無茶な構成だ。だが、確かに効果はある。

黒澤は、もっとも大事な部分を物語として語らず、通夜の席の世間話として演出した。だれもが経験のある座談会という形式をとることにより、フィクション(ドラマ)としてこの物語を理解してもらうことを避け、世間によくある内輪話として見ている人に提示した。
この構成は映画としては下の下だと私は思うが、テーマをフィクションとして聞き流されないことを重点においた演出としてはすばらしく効果的だった。映画作りが下手な黒澤ゆえの発想だったと思う。

f0009381_10373753.jpg<あらすじ>
この物語の主人公渡辺勘治(志村喬)は役場の市民課の課長だが、目の前にあることを処理するだけの、そんな毎日を送っていた。その日も〇〇町に下水があふれ出すので、それをなんとかしてくれという苦情をもってその地域の女たちがやってきたが、「土木課」といって責任を転嫁する。そんな彼の仕事振りはまじめだけがとりえで三十年無欠勤といく経歴を持ってたが、次の日初めて欠勤をした。そして彼は最近意の調子がわるいことに気付いており、その診察のために病院へ出かけたのだ。医者は「胃潰瘍ですよ」と言ったが、それは気休めであることを見抜く。自分は胃がんなのだ。それからというもの、彼は初めて自分が生きている意味を考え始める。
自分は息子のために生きているのだ・・と考えてみるが、所詮息子は自分の幸せのために生きている。では自分の幸せは・・・?? 分らない。自分は何のために生きてきたのだ?? 自分の存在意義が分らない。絶望した心のまま街にさまよい出る。

屋台の飲み屋でふと知り合ったのは小説家(伊藤雄之助)だった。彼に「自分はガンだと」告白する。するとその男は、では今晩は私が<メフィスト>を演じようと、渡辺をつれて繁華街へくりだす。パチンコに興じ、新しい帽子も買い、ダンスホールにつれていき、ストリップ劇場にも連れて行った。しかし帰りに気持ちがわるくなり吐いてしまう。渡辺は消費する快楽にむなしさを覚えるだけだった。消費することは誰でもできること。自分でなくても出来ることは自分の存在意義にはならない。

その翌朝、買いたての真新しい帽子をかぶって街をふらついていた勘治は、彼の課の女事務員小田切とよ(小田切みき)とばったり出会った。彼女は辞職願いに渡辺から承認の判をもらうわなければならなかったのだ。彼女にとって役所の仕事は退屈なだけだった。その日は小田切とよと一緒にすごした、おしえてもらったパチンコにいき、お汁粉をたべ、楽しい時間をすごした。彼女の快活さがまぶしく思えた。役場をやめた彼女は町工場で働いてたが、そこにもおしかけ一緒に過ごしてほしいと迫るようになった。そんな渡辺をうっとおしく思い始めた小田切は「これが最後よ」といってしぶしぶ出かけた。どこへいっても面白くない彼女は、ある喫茶店で「なぜこんなことするの?」と尋ねる。自分はガンであると答える渡辺。「自分は生きたい、君のように快活に生きたい。でもどうしたらそう出来るのかわからない」と手をぶるぶる震えさせながら、きらきらした瞳で語る渡辺。
f0009381_10381269.jpg「私はこんな玩具をつくっているだけ」といってウサギの玩具をテーブルの上に出す。「課長さんもなにかつくってみたら?」
「役所で・・? でもどうやって・・・???」
「そうね・・、あそこじゃ無理ね・・」
しかし渡辺ははたと思いつく「いや、出来る。あそこでも。やる気になれば!!」そういって渡辺は小田切とよがもちだしたウサギの玩具を握り締めて店を出て行く。誕生会があったのだろう、階段のまわりで女子高生らが「ハッピバースデートゥーユー」と歌い始める。彼が会談を降りるよこを一人の女子高生がかけあがってくる。

そして数ヵ月後、渡辺は死んだ。
通夜の会場。渡辺に縁のある人たちが焼香をしにやってきては帰っていく。同じ市民課の人と家族の人だけがのこり、酒をのみながら思い出話をはじめる。その話題とは、どうしてあの渡辺さんがあんなに人が変わったように公園作りに一生懸命になったのかという話題だった。
もしかしたらガンのことを知ってたんじゃないのか?と渡辺の息子に聞くが、「父は知らなかったと思います」とこたえる。ではなんでだ・・・? みんなはそのことについて考え始める。
f0009381_1039051.jpgそして一人一人がそれぞれおもいあたるエピソードを語っていく。そこで語られたのは公園をつくるための勇猛なエピソードではなく、ひたすらそれぞれの役職の人が、「やる」というまで頼み続ける、「うん」というまで待ちつづける渡辺の不屈の姿勢だった。土木課の承認が必要なら土木課にいって、頼み続ける。毎日、一度以上はかならず行く。土木課長の判がもらえるまで頼み、まちつづける。課の一人一人に頭をさげてまわる。そのこ課長がしびれをきらして判をおしてくれると、次は環境課、また必要な承認が降りるまで頼みつづける。ナンドでも足を運ぶ。利権関係でヤクザに脅されようが、助役に否定されようが、「うん」と言うまで絶対に引かない。ひたすら待ち続ける・・・そんな姿勢だった。
ひとつひとつ実行していかなければそれが出来ないのなら、ひとつひとつ実行していけばいいだけの話なのだ。それが<成し遂げる人>とやり方なのだ。

通夜の最後にある警官が帽子をもって現れた。彼は告白した。あれは私の職務怠慢だった。私はあの雪の晩、新装なった公園のブランコに渡辺さんがいるのを見かけた。しかし何もしなかった。もしあの時、家まで送っていればあそこで凍死することはなかった・・と。
「・・・・しかし、彼があまりにも楽しそうに、しみじみと詩を唄っておられたから・・・」

渡辺は雪の降るその夜、公園のブランコに揺られながら、「い~のちい、みじ~いかし~、恋せよ~お、おとめ~」と歌っていたという。
ひとつのことをやっと成し遂げた満足感にひたりながら・・・。


どおおおおおおおおおおおおおお、泣けてくる。
これ書いてても泣けてくる。
この映画を見たときは決して泣ける映画ではない。こうして、いつかそれを噛みしめる時間を得たときにあのシーンを思い出すと涙がこぼれそうになる。。。

これは<成し遂げる人>すべてに捧ぐ賛歌だ!

by ssm2438 | 2009-06-11 09:10 | 黒澤 明(1910)


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