西澤 晋 の 映画日記

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2011年 04月 13日

インテリア(1978) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_12381882.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ジェラルディン・ペイジ
    ダイアン・キートン
    メアリー・ベス・ハート
    クリスティン・グリフィス

        *        *        *

ウディ・アレンイングマル・ベルイマン信者であることは誰もが知っていることだが、この映画はアレンが、どうしてもベルイマンを一度やってみたかったのだろう、そしてやってしまった映画。しかし・・・本家に勝るとも劣らない素晴らしい映画に仕上がっている。この分野でエンタテイメント性というのもおかしな話だが、少なくともベルイマンの映画よりはそれはある。ウディ・アレンの中では一番好きな映画である。

ベルイマン映画のなかでは、常に高圧的支配者が登場する。『秋のソナタ』ならイングリットバーグマン演じる母。『沈黙』ではイングリット・チューリン演じる姉。『野いちご』では、やはりイサクの母。『ファニーとアレクサンデル』では義父の神父。そういった支配的環境のなかでいかに自己を守っていくか、あるいは嫌われないために自己を放棄していくか・・、そういったアイデンティティの存続を描けた戦いが描かれている。

ウディ・アレンが作った『インテリア』のなかでは、3姉妹の母がその高圧的な支配者となっていた。その環境下で育った3姉妹が、大人になった時、そしてその母が以前より弱くなっていったとき、彼らがどう対処したか・・それが描かれている。この映画では、支配的な立場いた母の影響力が弱体化してきてるなか、本人はまだそれをもっていたいと思っているが、そうではない現実がある。この状況ではかつて支配者だった母ですらも彼女のアイデンティティの崩壊の危機にたたされている。

そして、人が社会の中で生きていく以上は、被支配的立場と支配的立場の両方を経験することになる。そういう意味ではここに登場する誰にでも感情移入できる部分があるはずだ。あるときは母の立場に・・、あるときは長女レナータの立場に、そしてある時は次女ジョーイの立場に・・・、そしてあるときは、父の立場に・・・。

<あらすじ>
ロングアイランドの海岸ぞいにたつモダンな白い家。富裕な実業家アーサー(E・G・マーシャル)が、インテリア・デザイナーである妻イブ(ジェラルディン・ペイジ)と30年間すごした家である。彼らには3人の美しい娘がいた。長女のレナータ(ダイアン・キートン)は、売れっ子の女流詩人。次女のジョーイ(メアリー・ベス・ハード)姉レナータにライバル意識をもっているが、自分になにがむいているのか分らないで苦しんでいる。三女フリン(クリスティン・グリフィス)は恵まれた容貌と肢体を生かしてとりあえずTV女優として活躍していた。

その日3人の娘のまで父は、妻イブと別居したいと話す。自分なりの美意識と創造力で家庭を支配してきたイブの生き方には耐えられなくなった、というのだ。イブは家を出ていった。イブの生き方は、まさにインテリアデザイナーなのだ。それは家族の人もそのように配置する。「これはこうあるべき」「それはそこがいちばんにあっている」、ゆるぎない完全主義者なのだ。その影響かで育った長女のレナータは、もっとも母の期待にこたえた人だろう。そんな姉にどうしてもかなわなかった次女のジョーイ。彼は常に劣等感を持って生きていた。どんなにがんばっても姉のようにはなれない。母の期待には応えられない・・・。三女のフリンは姉と知能で対決することは避けて美貌で人生を切り開いた。といっても、有名女優には程遠い。

イブは自分の存在意義に自身をうしないガス自殺を企るが、一命はとりとめた。一方、アーサーは既に新しいパートナーを見つけ、彼女と再婚することを娘たちに話す。彼女はパール(モーリン・スティプルトン)といい、母とはまったく正反対のタイプので、ひとことで言えば、「彼女からは劣等感を感じそうにない女性」だった。娘たちは、特にジョーイは強く反対した。
彼女にしてみれば、母は確かに高圧的な人で、姉と比較されればいつも惨めなのは自分だったのだが、一番認めてほしい存在は確かに母だったのだ。しかし、父が連れてきた新しい母になるであろう人には、自分を認めてほしいと思えないのだ。こんな人をなぜ・・!!と思うジョーイ。

父はイブに正式離婚を申したて、パールと結婚した。父の願いを入れて結婚式に列席した3人の娘たちだが、式後のパーティでは空虚しか感じられなかった。その夜、みんなが寝静まったロングアイランドの家にイブがそっとやってきた。ひとり寝付けなかったジョーイが母と話最後の人となった。
ジョーイは、母の期待に応えたくても応えられない、姉と比べられ劣等感と無力さのなかで常に苦しんでいたことを告発する。そんな自分を一度でも理解してくれようとしたのか? 愛すべき母なので、憎くくてしかたがなかったことを・・。
自己満足の為に家族を支配してきたことを痛烈に批判されたイブは絶望し、自己を肯定する要素をすべて失ってしまった。そしてその早朝、一人灰色の海へ入っていくのだった。


この映画は、自己の劣等感と真剣に戦っている人に捧ぐ同士の詩だ。

そして最後にもうひとつ、この映画にはBGMがない。言葉と息づかいだけで物語が進行する。それを氷のフィルターを持つ男=ゴードン・ウィリスが的確な画面としてきりとる。そのレイアウトの完成度の高さはまさにインテリア・デザインを彷彿させる、研ぎ澄まされてバランス感覚の画面だ。このゴードン・ウィリスのカメラなしにこの映画は成り立たなかっただろう。

by ssm2438 | 2011-04-13 11:24 | ゴードン・ウィリス(1931)


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