西澤 晋 の 映画日記

ssm2438.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2009年 11月 21日

太陽はひとりぼっち(1962) ☆☆☆☆

f0009381_15282959.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エリオ・バルトリーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:モニカ・ヴィッティ、アラン・ドロン

       *       *       *

1962年のカンヌ映画祭審査員特別賞受賞作品。なんとお洒落なタイトルだ。原題はイクリプス=蝕(日蝕)。それを『太陽はひとりぼっち』と題するセンスはすごい。ただ、このタイトルが本編をそれほど象徴化してるとも思えないが・・(苦笑)。

まず、アントニオーニの映画は、何が描かれているのか分らずに見てもただかったるいだけだろう。ほとんどの人はつまんないと判断するはずだ。私が観てもかなりつまんないし、部分部分は飛ばし観るさせてもらった(苦笑)。しかし、おぼろげながら意味がわかって見ると、なかなか味わいのある作品なのである。この映画を語るには「愛の不毛」を語らなければならない。だいたいその意味はなんなのか、それを正確に話した人がいるのだろうか? ・・というわけで、一応これ(以下↓)は私の見解。

まず、理解しなければならない現実がある。それは


     「女に男を愛する能力はない!」


・・ということだ。多分ミケランジェロ・アントニオーニもそのことにあるとき気付いてしまったのだと思う。これをほとんどの人(男も女も)は気付かない。そたまにふらっと感じる時はあるかもしれないが、心のどこかで「いやいやそんなことはない」って否定してしまう。だから本人が心から認識することはない。しかし、ごくごく一部の人だけがそのことを認識してしまっている。『ロリータ』を書いたウラジミール・ナボコフもその一人だろう。

男が気付かないのは、男が女でないからだ。男には女を愛する能力はあるが、女にも同じ能力があると勘違いしてしまうのだ。そして女にもその能力があるというファンタジーを描き続け、その結果としてあまたの小説や映画が生まれた。それを見せ付けられてきた女たちは、「自分たちも、男を愛する能力があるのだ」と勘違いし、そう思い込む。一報女も、自分に愛する能力がないのだから、男がどんなにいいよってきても、そこに真実味を感じない。女に男の思い入れなど分るはずがないのである。
男は一度愛した女は別れても好きだが、女は別れたらその男のことはあっというまに忘れてしまう。あの節操のなさは、男には理解できないものだが、それは「女にも男を愛する能力がある」ということを前提してものを考えるからであり、その基本原則と現実との食い違いが,男には理解しがたい現実になる。しかし「女には男を愛する能力がない」という真実にたどり着けばその訳ははっきりしてくる。

ミケランジェロ・アントニオーニはその真実にたどり着いてしまった一人なのだ。彼が60年代に描き続けた「愛の不毛」のシリーズは、すべてこの法則によるものだ。それはモラルの問題ではなく、女の性として、男を愛する能力がない。しかし、男も女もそれを認めていない。そんな状況のなかで、かれは自分が見つけてしまった悲しい真実を描いていたのだ。
コンクリートの種をまいても芽が出ないように、女をいくら愛情を投資しても、芽はでないのである。それでも永遠に男は夢を見つづづけ、女もその夢に同調する時間をわずかながらもっている。人はそれを『恋愛』と呼ぶのである。

そこまで理解した上でこの映画をみると、
「おおおおおおおおおお、ミケランジェロ・アントニオーニ、すごいぞ!!」ってことに気付く。

by ssm2438 | 2009-11-21 15:20 | M・アントニオーニ(1912)


<< ニキータ(1990) ☆☆☆      ミッドナイト・ラン(1988)... >>