西澤 晋 の 映画日記

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2009年 12月 02日

砂の器(1974) ☆☆☆☆☆

f0009381_11572551.jpg監督:野村芳太郎
原作:松本清張、『砂の器』
脚本:橋本忍、山田洋次
撮影:川又昂
作曲・ピアノ演奏:菅野光亮

出演
丹波哲郎 (警部補・今西栄太郎)
森田健作 (刑事・吉村弘)
加藤剛  (音楽家・和賀英良)
島田陽子 (和賀英良の愛人・高木理恵子)
加藤嘉 (本浦千代吉=和賀英良の父)
春日和秀 (本浦秀夫=子供時代の和賀英良)

        *        *        *

松本清張初体験の映画がこれだった。結果として一番初めに一番いいものを見せられたあとがちょっと悲しい・・。この映画をはじめて見たのは二十歳のころで、それまで松本清張の名前は知っていてはいても本の内容は知らず、なんとなくドストエフスキーのような人間ドラマを書く人なのかなって思っていたら・・・サスペンス、刑事ドラマを書く人だったのですね・・。びっくりした。
そしてその緻密さにまたびっくり。それぞれの地域を取材し集めた膨大な資料のなかからドラマを構築しているそのスタイルのストイックさに惚れた。しかしそれはあくまで物語を作るための方法論であり、それ以上にこの人がすごいのは、<愛がある殺人>をつねに描いている姿勢だった。
ほとんどの刑事ドラマは安易な禁欲、性欲、強欲、名誉欲、などが殺人を引き起こすが、松本清張のドラマのでは、それ以上にも愛が重要なポイントになっている。追い詰められて浮き彫りになる人間性こそがその描かれる対象であり、事件はそれを描くための器に過ぎないという物語のスタイルになっている。

そしてそんな物語を音楽にのせて語っていく最後のコンサートと回想。これは野村芳太郎が映画として独自にさしこんだパートらしいが、作り手にも恵まれた作品だ。<台詞なしの回想シーン+ドラマチックな音楽>というのはよくある方法なので映画をつくる人にとっては、<走る主人公+ロッキーのテーマ>と同じくらい効果的な方法だ。演出する側としては、ある種の卑怯さを感じる(もっといい何かはないかと新しい方法を探すことをあきらめたうしろめたさ)を感じるものだが、結果としてはやっぱり効果的なのでこまってしまう(苦笑)。

ただ、この映画に関して言えば、走査の展開は素晴らしいのだが、最初の我賀が最初の殺人を起こす説得力がちょっと弱いかな。物語の根幹をなすべき病、らい病(現代ではハンセン病という呼び方になっている)に関する基礎知識と当時の恐怖感がない今となっては、この部分の偏見がきちんと描かれないと、この殺人事件の説得力もよわそう。子供時代にあれだけ愛情そそいでくれた三木巡査を殺してしまわなければならない。我賀英良の衝動が見ている人にとってはあまり納得できるものではなく、物語全体をムードでもっていかれた感はいなめない。

物語は、国鉄(今のJR関東)蒲田操車場構内に扼殺死体が発見され、警視庁の今西栄太郎今西栄太郎警部補(丹波哲郎)と、西蒲田署の吉村正刑事(森田健作)は聞き込みをはじめる。
・・・ここだけでもうすごい。通常の刑事ドラマでは、東京のどこかで事件がおきるとその所轄の刑事が二人一組で走査をはじめるのだが、あれは嘘。ほんとはこうなのだ。所轄の警察署に警視庁から何人かの刑事や幹部が出向き、走査は警視庁の刑事と地元警察の刑事が二人一組でコンビをつくり、それぞれの担当分野を捜査していく・・というものらしい。

<あらすじ>
やがて二人の刑事は、事件前夜、殺されたその男ともう一人の男が一緒に目撃されたバーにたどりつく。二人の間に強い東北なまりで交わされていた「カメダ」という言葉に注目された。東北各県より六十四名の亀田姓が洗い出されたが、その該当者はなかった。秋田県に亀田という土地名があり、現地に飛ぶが手がかりはなかった。
被害者は三木謙一元巡査と判明、その息子が岡山県江見町から上京してくる。捜査陣の予測とはまるで違う方角にとまどう捜査陣。捜査は岡山に移る被害者の知人にも付近の土地にも「カメダ」は存在しない。しかしそれも今西警部補の執念が、島根県の出雲地方に、東北弁との類似が見られ、その地方に「亀嵩」(カメダケ)なる地名を発見したのだ。しかも出雲弁ではこれが「カメダ」に聞こえる。そして三木謙一はかつて、そこで二十年間、巡査生活をしていたのだ。
一方吉村刑事は、ある新聞記事に目をとめた。中央線塩山付近で夜行列車から一人の女が白い紙吹雪を窓外に散らしていたというその記事・・、もしかしたらそれは紙ではなく、布であり、それは何らかの殺人事件で返り血をあびたその服を処分したところではなかったのか・・と妄想を広げる。それがあの事件のモノかどうかも分らないが、調べずにはいられなくなった吉村刑事は、山梨県塩山付近の線路添いを猟犬のように這い廻って、ついにその紙吹雪の一枚を発見する。それは紙切れではなく布切れで、黒いしみがあり、しらべてみると被害者三木謙一と同じ血液反応があった。

「紙吹雪の女」は銀座のクラブの高木理恵子(島田陽子)だった。吉村刑事は粗末なアパートに理恵子と音楽家和賀英良(加藤剛)をみつける。和賀は最も期待されている音楽家で、現在『宿命』という大交響楽の創作に取り組んでいた。そしてマスコミでは、前大蔵大臣の令嬢との結婚が噂されている人物だった。妊娠した理恵子は、子供を生ませて欲しいと哀願するが、和賀は冷たく拒否する。

今西警部補は、退職した三木元巡査の殺されるまでの足取りをおってみる。すると三木元巡査は、伊勢の映画館へ二日続けて行っており、その直後に帰宅予定を変更して東京へ行き、蒲田で撲殺される。今西警部補はその映画館を訪ねると、その二日間の映画はタイトルが違う。映画が気に入って2回もみたわけえはないらしい。映画館にはいってみるとそこには公演の時の和賀英良の写真がかざってあった。三木は翌日もう一度それが秀夫であることを確かめにもう一度その映画館にいったのだろう・・。

さらに、亀嵩から三木巡査の在職中の報告書が届く。三木巡査はその在職中に世話をした乞食の親子の存在を知る。その乞食は本浦千代吉(加藤嘉)といい、らい病の為に妻は家を出てしまい、息子とともに故郷の石川県江沼郡大畑村を追われたという。世間の冷たい視線を受けながら、常に追い立てられながら行くあてもなくさまよう二人を三木巡査は保護し、本浦千代吉をらい病専門の療養所に入れ、息子秀夫をひきとり、愛をそそいで養育していたという。しかしその子もいつしか失踪してしまう。その息子本裏秀夫こそ、和賀英良であった。大阪で和賀自転車店の小僧として働いていた本浦秀夫は、戦争での戸籍の焼失に乗じて、死亡した主人の性を自分のものとし、和賀英良と新しい人生を構築していったのだった。

そんな和賀英良は天才音楽家として新しい人生が開花しようとしていた矢先に、本浦秀夫=和賀英良だと知る引退した三木謙一元巡査があらわれたのだ。らい病の父をもつ息子、それも長年にわたり発病した父をともに放浪して生活をしていた過去をしる唯一の人物。
三木謙一元巡査は、誰もが忌み嫌った本浦千代吉と20年間も手紙のやりとりをつづけ、「息子のことをおしえてほしい」という千代吉に「あの子は頭の良い子だから、どこかで生きていて、いつかきっと会いにくるから」となぐさめつづけていたという。そしてその秀夫をみつけてしまった三木謙一元巡査。

自らの運命を音符に変えた和賀英良の渾身の大交響曲『宿命』の演奏が、巨大なホールじはじまる。魂をこめるように鍵盤をたたく和賀英良。それをBGMに、ふるさとを追われた親子二人の放浪の旅が映し出されていく。まだ生存している本浦千代吉に和賀英良の写真をみせる今西警部補。その写真をみた千代吉は涙をいっぱいにためて「知らねえ、そんな子は、みたこともねえ!」と言葉をつまらせながら、はき捨てるように否定する。

魂の演奏をつづける和賀英良をみる、逮捕令嬢をもった今西警部補と吉村刑事。今西警部補の背中に吉村刑事がぼそとつぶやく、「秀夫も父に会いたかったでしょうね・・・」
今にも泣き出しそうな声で突発的に答える今西、「そんなことたあ、決まっとるっ!!」

演奏が終わると会場には怒涛の拍手がこだましていく。


・・・甘さは確かにあるものの、いかにリメイクしようとも、これ以上のものが作れるとは思えない。
間違いなく傑出した名作のひとつだ。

by ssm2438 | 2009-12-02 08:36 | 松本清張(1909)


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