監督:デヴィッド・リンチ
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:ピーター・デミング
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング
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さて、これはどう書くべきか・・・、結局きちんとした応えはリンチの中にしかない映画なので、それぞれが勝手な解釈で考えるしかない・・・というまあ、タルコフスキーの『ストーカー』みたいな映画だ。でもそれでは話にならないので私なりの解釈を一応書いておこうか・・。
Aパート(妄想)+接続詞パート+Bパート(現実)
・・・で最後は現実の世界に妄想が入り込んできて自殺・・・ってことだと思う。
<妄想パート>
このリアリティがとてもいい。普通の人が好きな人を思うときというのは、決してスーパーマンみたいになるんじゃなくて、実に現実的な妄想を思い描くもの。
ナオミ・ワッツは、憧れの女優
ローラ・エレナ・ハリングに愛されたいんですよね。で、それを完璧にするシチュエーションで妄想を展開している。記憶を喪失したローラ・エレナ・ハリング。彼女を世話するのは自分だけ。ローラ・エレナ・ハリングが頼れるのは自分のみ。自分だけが絶対的に必要とされてるシチュエーション。そんな赤子のように向くな彼女を守って上げられるのは自分だけど・・。そして懸命に彼女の為に世話をしてている自分の陶酔。そしてセックス。これこそ好きな人を妄想するときにもっとも素敵なシチュエーション。
反面、親戚のおじちゃん、おばちゃんは、心のそこでは自分が都会に出て女優として成功するなどとはちっとも思っていない。いや、失敗こそ望んでいる・・、そんな妄想。
妄想としてのリアリティがすごく上手に表現されてたなあって感心した。
<接続詞パート>
こんな手段使っていいのか? なんか卑怯!って思ったが、露骨にどちらのストーリーにも絡まないパートを入れ込んできたなあ。本来このパートはなしで作る手法を考えるべきだったのでは?っておもうけど、まあこれもありか・・・。
<現実パート>
ここは現実の惨めな自分が描かれている。そして最後は自暴自棄になって妄想パートまでが現実に侵入してきて精神的混乱状態。
・・妄想パートをああいう風に描いたリンチがえらい!