西澤 晋 の 映画日記

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2010年 01月 22日

二十四の瞳(1954) ☆☆☆☆

f0009381_0171311.jpg監督:木下恵介
脚本:木下恵介
撮影:楠田浩之
音楽:木下忠司

出演:高峰秀子 (大石久子先生)

        *        *        *

なんども映画化されたスタンダード。やっぱりウルウル来る。ただ、個人的には反戦映画としてはみておらず(もっとも反戦映画というのは嫌いなので)、人類の生命力をみせられた感じがとても良いのだ。どんな逆境でも、自覚崩壊しそうになったときでも、人にはその悲劇をさらりと受け流す柳の枝のようなしなやかなしたたかさをもっているように思う。悲劇を無感知する機能なのかもしれない。たぶんこの映画の戦時中の状況というのは、そんな感じなのではないかと思う。旦那や、教え子たちが出兵していき、死亡が伝えられる。たぶん心の準備はしているのだろう。そしてそのときには無感動になるようにあらかじめ既にセッティングされているのだろう。
ふと思い出すが、私の父が癌になり、あと半年はもたんじゃろうと電話が来た時、あの時は一番ショックだった。ぞわぞわっとする寒気が背筋を走った。そのとき、いつか父が死ぬのだろうというっ心の準備が出来ていたのだろう。いざ父が死んだ時はそれほど悲しいという感情は不思議なくらいわいて来なかった。
この映画を見ると、そういう人間の悲劇に対するショックアブソーバー的な感性を垣間見ることが出来る。そしてさらり、戦後再び集まった教え子の息子や娘たちの顔。それでも人は命をつむいでいるのだなあと、その秘められた生命力に感動した。悲しみというのはその世代でおしまいなのだ。そして次の世代はそんな悲劇すら体感せずに健やかにそだっていく。
なかなか感慨深い映画だった。

<あらすじ>
1928年の4月、大石久子(高峰秀子)は新任教師として瀬戸内海小豆島の分校へ赴任してきた。彼女が担当したのは一年生で、12人の生徒がいた。しかし自転車に乗り洋服姿で毎日登校するおなご先生は「ハイカラ」であり、当初は村の人達から敬遠されることも多かった。そんな排他的な環境のなかでめげずに教壇にたつ大石先生。そんな折、大石先生は子供たちの作った落とし穴に落ちてしばし自転車にのれなくなってしまう。分教場への通勤ができない先生は、本校へ転任することになるが、子供たちは二里も歩いて訪れてきてくれた。大石先生が子供たちにとってかけがえのない存在である周りの人たちも少しずつ理解していくのだった。
子供たちは5年生になり、本校に通うようになると大石先生と再会、しかし、子供たちのなかには家庭の事情や、病気などでで学校に行けなくなる子供でててくる。子供たちと修学旅行でいった金毘羅さんの思い出は子供たちにも、大石先生にふかく心に刻まれるものとなった。そのころには戦争の足音が聞こえてきていた。子供たちを天皇陛下のために戦う兵士として教育する当時の風潮には従えなかった大石先生は、翌年彼らの卒業とともに、大石先生は結婚して退職する。

そして開戦。夫も出兵し、子供たちも兵隊になると嬉々として語る。
「戦争なんてどうでもえんじゃ、お前たちさえ無事ならな」と言う久子に、子供たちは「そんなんじゃ靖国の母になれんぞ」という。「靖国の母なんかならんでええんじゃ」と無感動にいう久子。しばらくして夫の死亡通知がとどくことになる。
1946年、戦争が終わった。新しい教育が始まる。大石先生はふたたび教壇に復帰する。教壇にたった大石先生が出席をとると子供たちが返事を返してくる。その中に思い出深い生徒たちの子供が何人もいた。子供たちの名前を呼んでいると、懐かしいあの二十四の瞳を思い出す、そして、引き継がれる命の営みを感じる感動があふれてくるのであった。

・・・・引き継がれる命、引き継がれる魂、引き継がれる想い・・・、この手のネタには弱いらしい。
ぼろぼろきてしまう。

by ssm2438 | 2010-01-22 00:17


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