西澤 晋 の 映画日記

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2010年 02月 08日

スウィート・ヒアアフター(1997) ☆☆☆☆☆

f0009381_9213973.jpg監督:アトム・エゴヤン
原作:ラッセル・バンクス
脚本:アトム・エゴヤン
撮影:ポール・サロッシー
音楽:マイケル・ダナ

出演:
イアン・ホルム (ミッチェル)
サラ・ポーリー (ニコル)
ガブリエル・ローズ (バスの運転手ドロレス)
ブルース・グリーン (バスの整備士ビリー)
ステファニー・モルゲンステルン (アリソン)

        *        *        *

行間で語るシナリオ映画の大傑作!

1997年のカンヌで審査員特別賞をとったこの作品、当時オスギがやたらとこの映画をほめていた。この映画は頭のいい人の、あまたのいい人による、あたまのいい人のための映画だそうな・・。最初に見たときは「ええ・・・、なんでこんな映画が・・??」って思った。が、いくつか謎があり、それを解いて行こうと挑んでいくととてつもない隠しダマが隠されていることに気付いた。おおおおおおおおおおおおおおおお!! それが判ってやっとこの映画の意図が判った。
二重構成の映画といえば、『ゴッドファーザー・パート2』もその一つだろう。現代と過去のイベントを一つの映画のなかで織り交ぜながら展開していった。『マルホランド・ドライブ』は妄想と現実を一本の映画のなかで描いていた。『スイミング・プール』では、小説家の現実の話から、小説家の書く話に移り、また現実にもどってきた。そんな二重構成ストーリーがすくなからずあるのだけど、この『スウィート・ヒアアフター』では、裏ストーリーをまったく描かないで、二重構成にしているところがすごい。
そしてさらに厄介なのが、1995年の訴訟のエピソードと1997年のゾーイの女友達アリソンに会う、二つの時系列から構成されている。それがこの映画をさらに分りづらいものにしている。

<表の話>
スクールバス転落事故が起こった小さな町の人々を扇動して、老弁護士ミッチェル・スティーヴンス(イアン・ホルム)が訴訟を起こそうとする話。

その昔『アリー・マイラブ』のなかでリチャードが「人が死ねばお金がもうかる」という暴言を吐いていたが、まさにこの弁護士は、人の不幸につけこんで訴訟を起こし、その裁判で得たお金の成功報酬を得ようというかなりうさんくさい人物である。しかし、この町の人々はその悲劇は忘れたいと思っている。事の真相をあばいたところで子供たちが戻ってくるわけではなく、万年雪のしたに埋もれたままにしておきたいと思っている。この町の人々は、誰にもそれぞれひめたる過ちというものはあり、それを暴かないままに包括的に受け入れることが、コミュニティの安定をたもつための最善の手段だ・・ということを知っているのだ。

もの映画を理解するには、登場人物の立ち位置の整理をしておく必要がある。

老弁護士ミッチェル・ステファンス(イアン・ホルム)
スクールバスの事故で子供を失った家族を扇動し、体力のある相手(バス製造メーカーやバス運営会社)を被告にして、安全管理をの不手際を理由に存在賠償金を獲得、うち1/3を成功報酬として得ようとしている。
しかし、そのためには個人の落ち度が指摘されてはいけない。たとえばバスの運転手や、整備士に落ち度がみつかるということは、企業を相手に裁判が出来なくなる。この弁護士は、「個人に過失はない」という前提で、しかも、“もしあっても暴かない!”というスタンスでこの裁判をすすめていく。

スクールバス運転手ドロレス・ドリスコル(ガブリエル・ローズ)
子供たちが好きで、毎朝嬉々として仕事をしている。子供たちにも好かれ、町の人たちにも好かれていた人らしい。子供のを見送りのために、毎日学校までバスの後ろをついてくるビリーという男が、彼女のいつもの安全運転ぶりを証言してくれるという。しかし「事故の時、どれだけスピードを出していたか」という事実確認にはナーバスな態度をとる。
多分彼女は、そのときも安全速度は守っていたのだろう。しかし、騒いでいる子供たちに気をとられて何らかのミスをしたのかもしれない・・。そこは語られていない。あとは見ている人の想像力で解決するしかない。
彼女の夫は障害者であり、老弁護士に向かってなにかを激しく言い立てるシーンが、その言葉を通訳する彼女は夫の言葉を伝えてはいない。

バスの整備士ビリー・アンセル(ブルース・グリーン)
数年前に妻を亡くし、二人の子供を男手独りで育てている。そしてその二人の子供も事故で失う。子煩悩でスクールバスに子供を乗せたあとも、学校まで車を運転してそのバスの後ろをいつもついて走ってくる。事故のあった日も同じようにバスの後ろをついて走っており、証言をもとめられる。
しかし、そのスクールバスを整備するのは彼の仕事であり、彼は「そのバスは自分が整備し、なにも問題はなかった」と言ってはいるが、訴訟にもっとも反対しているのがこの人で、その姿勢はかなり執拗であり、なにかを隠しているようにみえる。もしかしたら整備をサボって浮気相手と会っていたのかもしれない。それはモーテルを経営するウェンデル・ウォーカーの妻リサ(アルベルタ・ワトソン)であり、彼の素行が調べられることになると、リサとの関係も暴かれるかもしれない。

最後の証言者ニコル・バーナル(サラ・ポーリー)
事故当時、一番前の席(運転席の右側)に乗っていた生存者。事故の前には歌手を目指してステージに上がることもあった。ビリーが用事で子供の面倒をみられない時(たとえばリサとの浮気の時とか)はこのニコルにベビーシターを頼んでいる。
父親から溺愛されており、事故のまえの夜も父に抱かれていた。ビリーの子供たちのベビーシターのバイトが終わると、これから父に抱かれるために、ジーパンからハウスドレスに着替えいるところが実に素敵だ。しかし、事故のあとは車椅子の生活を余儀なくされる。そんなニコルに夢をみなくなる父。彼にとってニコルは<愛すべき女性>から<保護すべき障害者>へと変わってしまった。
そんな父を許せないニコルは、父に反逆する。
たぶんそれが最後の裁判ぶち壊しの嘘の証言になるのだろう。
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物語は、『ハーメルンの笛吹き』になぞり、本来の人間的活き方を知っていた人々を、表面的な正義によって扇動していく老弁護士=パイパー(笛吹き)にみたてて、裁判が行われる前の公聴会へのみちのりが描いている。ほとんどの人が笛吹きに扇動されていくように思えた・・・しかし、事故からの生存者で車椅子の生活を余儀なくされたひとりの少女ニコル(サラ・ポーリー)が残っていた。
老弁護士(イアン・ホルム)は、「バスの女性ドライバーは安全運転をしていた」という状況設定のもとに、この裁判をバスの製造メイカー/バス運営会社を相手取り裁判を起こそうとしてる。しかし少女ニコルは「彼女がスピード違反をしていた」と証言するのである。老弁護士の裁判への道はここで終了する。その結果、会社やメーカーを被告とした裁判への道は終了する。

しかし、サラ・ポーリーの証言も、嘘なのか真実なのか確認する手段は本編の中にはない。あくまで「嘘らしい」というだけである。それは確かに映画のなかで匂わされている。一応DVDに収められている監督アトム・エゴヤンのインタビューでは、「彼女は自己の尊厳をまもるために嘘の証言をした」と言い切っているので嘘のだろう。

スピード違反の数字も日本人にはかなり理解できない数字だ。一般道の制限速度は50マイル/時(カナダ)と本編のなかで語られているが、1マイル=1.6キロなので、これは80キロ/時である。そしてニコルは「彼女(バスのドライバー)が72マイル/時(115キロ/時)を出していた」と証言する。雪道を走るのにこのスピードはありえないだろうと思うのだが、こういう数字にしても信憑性がないのでなにがほんとで何が嘘なのか分らないのだ。
ただ、本編中の絵では、車は穏やかにやしっているようだし、乗っている子供たちも、まったく怯えているようにも描かれていないし、後ろを走っていたダライバーもまったく穏やかだし、監督もそうコメントしているように、<ニコルの証言は嘘である>という理解のもどで映画は作られているようだ。

・・・ほっ。ひとつ確かなことが確立できた。

この映画を納得するためには、その発言が嘘なのか真実なのかを見極める必要があり、なおかつ「なぜ、その嘘がつかれたのか」という納得できる理由が想像できない限り、あやふやなままの気持ちのわるい映画になる、やっかいな映画なのだ。


表の話だけでも厄介なのに、この映画には裏の話もある。

f0009381_9242789.jpg『そしてデブノーの森へ』という映画なのなかで、その物語の主人公の小説家が「私は“かくれんぼ”が好きになった・・、しかし見つけられたくないのか、それとも見つけられたいのか・・」というような台詞を語るところがある。そう、“かくれんぼ”をする以上、鬼さんには隠れた自分を見つける努力はしてほしいものである。アトム・エゴヤンは、「そこに何かが隠されている」という時には、かならずある種の信号を発信している。

バスの運転手ドロレスが老弁護士に「私は以前、事故当時時速50マイルで走っていたと言ったけど・・・、そう私は記憶しているのだけど、それをどう証明するの?」とたずねる時のナーバスさ・・。
バスの整備士ビリーがニコルの家に行き、彼女の家族に「訴訟をとりさげてくれ。もし治療の金が必要なら、私がもらった保険料を譲ろう」とまでいう執拗さ・・。
ニコルが公聴会で嘘の証言をするときに、父を見る目線の意味・・などの不可解な信号である。監督のアトム・エゴヤンは、裏になりかありそうなところでは、それを見つけて貰うためのヒントを必ず与えているのである。

そしてこの映画の最後のほうにあるもう一つ不可解な台詞としぐさがある。
娘ゾーイの幼馴染のアリソン(ステファニー・モルゲンステルン)と空港で別かれる時にの台詞、

アリソン:「お目にかかれてよかったわ」
ミッチェル:「そうだね、アリー」
アリソン:「アリソンと・・」
ミッチェル:「ああ、そうだったね」

そして彼女を見送り、顔を手でおおうミッチェル。

・・・・・この不自然さ、不可解さは一体何?
他の例のように裏になにかがあるなら、それは何?


<裏の話>
f0009381_4331367.jpgこの映画は、多少の不手際はあるにせよ、高度に計算されつくした物語の構成になっている。
もっとも、ここまでこねくる必要があるのか・・と思うくらいだが、その<見つけて貰うためのヒント>に気付けば、それ自体は決して見えないが、確かに何かがあることだけは感じられるように作られている。この<見せないで匂わせう表現>が、この映画の最大の魅力なのだ。

この老弁護士ミッチェルと娘の幼馴染アリソンとのこの不可解な台詞から想像されることは何か?

そう考えると、訴訟の物語に関係のないエピソードがばめられている。
薬に溺れ、お金をせびる娘ゾーイ。そんな娘を溺愛していたことが感じられるエピソード(感じさせるだけで、それを提示してないところがすごい!)。そしてエイズに感染したことを伝えるゾーイの電話。しかしこれらのやり取りを聞いていると、娘ゾーイもやはり父を愛していることが感じられる。ではなぜ、そんなゾーイが父親のもとを去らなければならなかったのか・・? なぜ薬に溺れているのか? 
その薬の溺れ方を見ていると、自分を堕としめることにによって、自分を愛してくれた父親に復讐しているかのように見える。父親のなんらかの許せない裏切りに対して、「あなたのせいで私はこんなになったのよ、あなたは苦しみなさい!」というメッセージをおくっているように思える。
では父の許せない裏切りとはなんだったのか?

そして空港の別れのシーン・・・。
老弁護士ミッチェルは、アリソンのことを「アリー」と呼び、アリソンはそう呼ばれることを拒否した。・・なぜ?

もうひとつ、ニコルと彼女の父との近親相姦・・これも本来の物語には必要のないところのように思える。でも、なぜ描かれたのか? ・・・・なにかのヒント?


これらのことを総合的に考えると、もしかしたら・・という仮説にたどり着く。

・・・・もしかしたら、昔のミッチェルと彼の娘ゾーイは、お互いに溺愛するような関係であり、二人の間にはセックスもあったかもしれない。しかし、そんなある日、ミッチェルはゾーイの友達アリーに心奪われるようなことがある。しかしそれが許せなかったゾーイは家を出て、薬に溺れ、自らを傷つけることで、そうなる原因をつくった父親に復讐している。
それが今のミッチェルとゾーイの、父娘関係なのではないだろうか・・・。


・・・・そう、すべてはあくまで予想である。
しかしそこにたどり着かせるように意図的に物語は構成されているように思われる。

この映画は、シナリオの行間をドラマにした大傑作だ。。

by ssm2438 | 2010-02-08 04:40


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