西澤 晋 の 映画日記

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2011年 07月 02日

浮雲(1955) ☆☆☆☆☆

f0009381_21341734.jpg監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子『浮雲』
脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎

出演:
高峰秀子 (幸田ゆき子)
森雅之 (富岡兼吾)
山形勲 (伊庭杉夫)
加東大介 (向井清吉)
岡田茉莉子 (向井の妻・おせい)

     *      *      *

この映画をみたのは20代の時だったが、たまたまケーブルでやっていたのでついつい見てしまった。大人になると少しは見方が変わるものだ。はやり成瀬の最高傑作といわれるだけあってスゴイ映画だ。生理的に好きになれる映画ではないが、映画作りの技術力と、描かれた業(ごう)と性(さが)の深さでは傑作だと思う。

日本屈指のメロドラマ!

成瀬巳喜男の描き方はとても上手いと思う。魅せ方も、芝居付けも、画面作りも、白黒映画時代の日本の監督さんのなかでは際会って上手い。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』では、成瀬を小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えた。私的には、この4人のなかだったら一番映画作りが上手い人だと思う。ただ、作る映画のテーマは・・・どうなんだろう。。。。
この『浮雲』にしても、映画としての完成度はすばらしい。技術的にはまったく私の好みなのだが、映画の内容はどうなんだろう・・、少なくとも私の好みではない。たぶんこの人の映画の中身をそれほど好きになれる人はあんまりいないんじゃないだろうか・・。
溝口健二に言わせると「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね」・・だそうな。まったくたしかにそうなのだ。男がかっこよくない。成瀬巳喜男は理想とかロマンとか、夢とか、憧れとか、そういう意味での映画を撮らない。話が生産性を欠いているのだ。それが見てるとつらくなる。

この映画の主人公の富岡という男も、実にキンタマのついてない男なのだ。とにかく頑張らない。意志力がない。言葉は道徳的だが、その言葉を実行する力はない。つねに自分が全部悪いんだって先に言ってしまう、本質的無責任男なのである。それでも女にはもててしまう。多分この人といると頑張る必要がないからだろう。そう、「頑張らなくていい」というのはかなりの安らぎである。その安らぎに女は揺らぐのだろう。
これらの男の描き方は、成瀬自身の価値観にもよるかもしれないが、この映画に関しては原作の方向性も大きな要因だろう。そして成瀬の感性がそれに近いものだということなのだろう。こも話は女性脳で描かれた話だといっていいだろう。男にはかけない。男は夢をみるものだが、この映画には現実しかない。いかに目の前にある現実を処理しながら、自分が安らげる状況をもとめるのか・・と、そういうテーマで書かれているような気がする。

f0009381_21351728.jpg<あらすじ>
第二次世界大戦も真っ只中の1943年、農林省のタイピストとして仏領インドシナ(現ベトナム)へ渡った幸田ゆき子(高峰秀子)は、そこで同じ農林省の技師として赴任してきていた富岡兼吾(森雅之)に会う。富岡は既婚者だったが2人は男女の関係を結ぶ。終戦を迎え、妻との離婚を約束した富岡は先に帰国する。しかし、遅れて東京に帰ってきたゆき子が富岡の家を訪れると、富岡は妻とは別れていないことが判る。失意のゆき子は米兵の情婦になる。それでもゆき子と富岡の関係は終わらなかった。
終戦後の混乱した経済状況で富岡は仕事が上手くいかず、世を捨てるつもりでゆき子を伊香保温泉へさそう。ゆき子も米兵と別れてついて行った。当地の「ボルネオ」というパブの主人・向井清吉(加東大介)と富岡は意気投合し、2人は店に泊めてもらう。清吉には年下の女房おせい(岡田茉莉子)がおり、彼女に魅せられた富岡はおせいと仲良くなってしまう。ゆき子はその関係に気づき、東京に戻ると富岡とも別れた。
しかし、ゆき子は妊娠しており、再び富岡を訪ねるが、彼はおせいと同棲していた。再び絶望するゆき子はかつて貞操を犯された義兄の伊庭杉夫(山形勲)をたずね、借金をして中絶する。術後の入院中、ゆき子は新聞報道で清吉がおせいを絞殺した事件を知る。退院したゆき子は富岡を訪ねる。富岡はまだおせいと同棲していた彼女の部屋にいた。

あんな女にまけるなんて悔しい。
もしあの女の幽霊がいるなら言ってやる。私はこの男と一生はなれないって。

ふたたび伊庭の囲われ者になったゆき子のもとを富岡が訪れ、妻の葬式のために2万円(今の価値だと20万くらい?)貸してくれという。ぽんと貸し出すゆき子。やがてなんとか雑誌に記事をかくことで仕事をみつけた富岡にゆき子から電報がどとく。伊庭から30万を盗み出し、逃げてきたというのだ。しかし富岡は屋久島で仕事を見つけて近々そちらに行くというのだ。引き帰すことの出来ないところまできているゆき子に、「このままではだめだ。別れよう。きみは伊庭のところに返るほうがいい」といつもの無責任言葉をやさしくなげかける。

私はどこへ帰るのよ? どこへも行くところがないでしょ。

結局ふたりは汽車にのり、鹿児島へ向かった。鹿児島では雨がふり、屋久島への船は出ないという。そんなとき身体の不調を感じていたゆき子の病状が悪化する。屋久島行きをしばし延期して医者に見てもらうゆき子。そこでも富岡は「君はここから帰ったほうがいい」と言う。
船内で医者からは屋久島行きを止められるが、ゆき子は無理強いをする。船を乗り換え小雨のなか屋久島にむかう二人。現地の官舎に落ち着き、島の人もよくしてくれる。ある豪雨の日、勤務中の富岡に急変を知らせが届くが、駆けつけた時には既にゆき子は息絶えていた。その夜、みんなを帰した後、富岡はゆき子に死化粧を施した。富岡は彼女のために始めて泣いた。

f0009381_21354630.jpgとにかく富岡という男、ひたすらな甲斐性なしなのだ。ゆき子が妊娠した時も、堕ろしてほしいと思っていても(そんなことは微塵もみせないのだが)、「産んでいいよ。なんとかするから」と言う。30万円を盗んできて戻れないのに、「君は伊庭のところにもどったほうがいい」と言う。屋久島までついてきたゆき子に「体が良くなったら東京にかえったほうがいい」と言う。
たぶん本心では「いて欲しい」と思っているのだろうが、本心がそう感じていることを理性が感知しないのだろうな。平気な顔して道理的な言葉を語る。自分から求めないことが、自分が傷つかない最良の手段だということを知っている。その生き方が身についていて、それが自然にできてしまう。世間からみると善い人なのだど、実際は恐ろしいほどの臆病者。そして相手の女が自分のためにそれを行ってくれることをひたすら待っている。

超最低男である。
・・しかし、男が持てる要素がここにあるのかもしれない。

by ssm2438 | 2011-07-02 21:41


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