西澤 晋 の 映画日記

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2010年 03月 27日

わらの犬(1971) ☆☆☆☆☆

わらの犬(1971) ☆☆☆☆☆_f0009381_4565656.jpg監督:サム・ペキンパー
脚本:サム・ペキンパー、デヴィッド・Z・グッドマン
撮影:ジョン・コキロン
音楽:ジェリー・フィールディング

出演:
ダスティン・ホフマン (デイヴィッド・サムナー)
スーザン・ジョージ (エイミー・サムナー)
デル・ヘンニー (チャーリー・ベナー)
デヴィッド・ワーナー (ヘンリー・ナイルス)

        *        *        *

これほど観たくない、傑作バイオレンス映画は他にない

これはただのおまつりバイオレンスではない。弱者を徹底的に追い詰めて、追い詰めて、そして行動するしかなくなる時にバイオレンス。お祭り騒ぎのバイオレンスものは嫌いな私だが、このバイオレンスは観ているものに問いかける力のあるバイオレンスだ。
つまり「これは架空の物語で、自分の身には起きない」と完全に感情移入をシャットアウトしたところでもバイオレンスなら、これほどインパクトはないのだけど、この映画で描かれるバイオレンスは自分の身に起きる可能性を刺激せずにはおけないバイオレンス。

人は、怖いものには近づかないようにして自分をまもっているものだ。それに触れてしまえば自分の非力さを痛感するしかなくなるから、それ以前にそこにちかづかなようにする。その近づかないための言い訳を宗教や道徳からいろいろ引っ張ってきて自分を納得させる。人はそういう風に出来ている。この物語の主人公ダスティン・ホフマンは、常にそうやって生きてきた。それを本人もわかっているし、妻のスーザン・ジョージもわかっている。だから妻は「あなたには戦う勇気がないのよ」と軽蔑している部分もおおいにある。妻にしてみれば、夫の態度は心細いのである。
元来女という生き物は、社会と対峙するのを基本的に嫌がり、その断衝材として男を立てる。その断衝材としての男が機能しなければ、女は男を軽蔑するようになる。それが無理だとわかると取り替えたいとさえ思う。
それが女の弱さであり卑怯なところだろう。この映画はそういう男女の本質的な弱さをまざまざと見せ付けてくれる。

しかし、それでは映画としてカタルシスがないので、70年代にはやったいじめられた弱者の倍返し報復で物語りは終了する。そのモチベーションとなったのが、ちょっと知恵遅れの男。霧の深い夜、その男を車で引いてしまい、ダスティン・ホフマンにしてみれば、自分が守らなければいけない存在になってしまった。しかし、これ自体はいいわけであり、本編の中でも言っているが「ここはボクの家だ。これは僕自身なのだ」、だから誰の好きにもさせない、その行動をとるための言い訳になっていたのだろう。
まさにこの家は己自身だったのだろう。サレンダーな思い(自分を引き渡してしまいたい心)と、頑としてそれを拒み、己の自治権を守る姿勢。それがこの映画には描かれたのだろう。まさに、自分に問いかけるバイオレンス映画だ。

<あらすじ>
社会と戦う勇気のないデヴィッド(ダスティン・ホフマン)は、妻のエイミー(スーザン・ジョージ)の出身地、イギリス・コーンウォール州の片田舎引越し、何ものにも煩わされることなく数学の研究に専念しようと考えてた。二人は農家に落ち着くと、職人たちを雇って納屋などの修理をさせた。その中に、エミーがデビッドと結婚する前に肉体関係のあったチャーリー・ベナー(デル・ヘンニー)がいたのだ。
恐怖を見てみない振りをする一面をもつデヴィッドが時折許せなくなるエイミーは、納屋の修理を頼んだ職人たちに色目を使い、デヴィッドをいらだたせる。
それに触発されたべナーとその仲間の職人たちは、デビッドを鳥撃ちの狩場へ誘い出し、その留守中にエイミーを犯してしまう。エイミーも最初は拒んでいたが、昔抱かれた男だし、受け入れてしまう。その最中に仲間の一人スコットが銃をむけ「オレにもやらせろ」と無言の合図をおくっている。仕方なくべナーは、エイミーのあたまを押さえつけ、バックでスカットにもやらせてしまう。村の教会でおこなわれた懇親会でも、エミーはふさいでいた。彼女の記憶の中に、ベナーたちに犯された時の恐怖と苦痛、それらの感情と矛盾した歓びに似た感情が交錯していたのだ。
霧がたちこめたその帰り道、デビッドは、精神薄弱者のヘンリー(デヴィッド・ワーナー)をはねてしまう。幸い怪我はたいしたことはなく、彼の家につれて帰った。しかし彼は村の娘エマをかどわかしたのではないかと、娘の父親トム・ヘッドン(ピーター・ヴォーン)やその手下たちに追われていたのだ。ヘッドン一家とその仲間たちは、彼をなぶりものにしようとデヴィッドの家を訪れ、ヘンリーを渡すように迫る。それを拒んだデヴィッド。すると彼らはデヴィッドのうちのガラスをわり、侵入しようとこころみる。家の中ではエイミーが恐怖に怯え、ヘンリーを引き渡せと怒鳴っている。町の人たちに信頼のあついジョン・スコット小佐が来て、彼らに帰るように促すが、とっくみあいになり撃ち殺されてしまう。それを境に彼らの暴力は増徴する。デヴィッドは戦う決心をした。そして数時間の死闘がくりひろげられ、彼らをすべて殺してしまったデヴィッドだった。

by ssm2438 | 2010-03-27 04:58


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