西澤 晋 の 映画日記

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2010年 05月 23日

トリコロール/青の愛(1993) ☆☆☆☆☆

f0009381_11353772.jpg監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
脚本:クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:スワヴォミール・イジャック
音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

出演:
ジュリエット・ビノシュ (ジュリー)
ブノワ・レジャン (オリヴィエ)
フランソワ・ベルネル (夫の愛人・サンドリーヌ)

        *        *        *

<自由>という名の<孤独>

フランス国旗を構成する三つの色をモチーフ(自由・平等・博愛)に、クシシュトフ・キェシロフスキーが監督した『トリコロール3部作』の1作目。今回のテーマは青=自由。

1993年9月のヴェネチア国際映画祭では、最高賞である金獅子賞女優賞撮影賞を受賞した。同年のセザール賞でも主演女優賞音楽賞編集賞の3部門を受賞、またLA批評家協会賞でも音楽賞ズビグニエフ・プレイスネル)を受賞している。世間では『トリコロール/赤の愛』が一番愛されているようだが、私はこの『トリコロール/青の愛』が一番好きだ。

この映画の魅力の一つは、ズビグニエフ・プレイスネルの音楽と映像のアンサンブルだろ。楽譜に手を触れると重低音でぶああああんそこのメロディがながれてくるあの感触。楽譜をカメラが追うと、そのメロディがぶわわわわんどわわわわわわわんと流れ出す。「打楽器をはずして」といえば、同じメロディで打楽器パートをはずした音楽が流れる。「金管もはずして」といえば金管楽器がもはずれたメロディがながれだす。この音楽表現だけでも、この映画はすばらしい。

そしてこの交響曲に関しては、それがジュリーのものなのか、亡き夫のものなのか?という疑問が解決されないまま、見る人の想像力にまかせている。私はジュリーのものだと解釈している。これは監督に立場で考えれば判ることなのだが、それが夫の音楽だとすると、事故のあとジュリーのもとを尋ねた記者の「この曲はじつはあなたが描いたのでは?」という言葉を物語りに登場させる意味がない。作り手というものは自分の物語を正しく理解してほしいものであり、あえて誤解をまねく表現をすることはない。キェシロフスキーがこの言葉を挿入している以上、「それはジュリーの音楽であり、それを匂わせておく必要があった」と解釈するのが正しいだろう。
・・まったく、監督というのは厄介なものだ。正しく理解してほしいのに、直接的な表現はさけ、匂わせるだけにしたいのだから・・・。

しかし、この映画の素晴らしいのはそんな謎解きのトリックではない。<自由>の解釈だろう。主人公のジュリエット・ビノシュは夫と子供を交通事故で失い、家族という<しがらみ>から解放される。もっともそれは本人の願ったことではなかったのだけど。屋敷も処分し、使用人たちには一生分の給料をまとめて与え、パリのアパートメンとの一室でひっそりと暮らし始める。過去を切り捨てていくことにより<しがらみ>から解放され、それと同時に自分で「どう行動するのか」という<選択の自由>が得ていく。
その部屋に越して来た夜、そとの路地ではケンカがあり、逃げた男がそのアパートメントに助けを求めてきたおとがこだまする。ドアの向こうでは一部屋一部屋ドアを叩き助けを求めている男がいて、彼女の部屋のドアも叩く。しかし恐怖でなにも出来ない。やがてその男はケンカの相手につれされれていったのだろう、音がしなくなる。意外と物騒なその地域にあるその部屋を出るかとどまるか、彼女はささやかな選択が行われる。
不意にドアの叩く音が聞こえてくる。恐る恐るドアをあけると、アパートメントの住人の一人がたっていて、下の階に住む娼婦の立ち退きを要求する署名をもとめられる。署名するのかしないのか、ここでも選択が与えられる。彼女は署名しなかった。その結果、その娼婦とのささやかな<しがらみ>が発生する。

さらなる選択が彼女を襲う。部屋にネズミが住み着き、そのネズミが子供を産んだらしい。まだ目も見えないネズミの赤ちゃんをせっせと世話している母ネズミ。ネズミの嫌いな彼女は、そのネズミは放置しその部屋を出ることを選択して大家に相談したが、他の部屋は空いていないという。彼女はその大家の猫を借りることにした。ネズミを猫に殺させるという選択を選んだ。
このネズミのエピソードは実にスパイスとして効いていた。命あるものを殺す選択、それも<自由>の範疇にある。彼女の人生の中からネズミの親子は切り離された。しかし、その猫がそのネズミ殺したであろう部屋に戻れないジュリエット・ビノッシュ。そんな彼女に、例の娼婦が「私が片付けてあげる」と申し出る。<ささやかなしがらみ>に救われる・・。

<しがらみ>を排除することによって、自分だけで決定できる<自由>が増えていく。しかしそれは<孤独>が増大することでもある。物語の最後で彼女は<完全な自由>よりも<ささやかなしがらみ>を選択する。

<あらすじ>
ジュリー(ジュリエット・ビノシュ)は自動車事故で夫と娘を失う。夫は優れた音楽家で欧州統合祭のための交響曲を作曲中だった。実はその曲は夫を隠れ蓑してジュリー自身が作っていたものだった。人生に絶望したジュリーは過去を精算することにする。未完の協奏曲のスコアも処分し、使用人たちには一生分の給与を与え、田園地帯にある屋敷をすべて引き払うことにした。空っぽになった屋敷にはマットレスだけがのこされ、ジュリーに思いを奇せていた夫の協力者であったオリヴィエ(ブノワ・レジャン)を呼び出し、そのマットレスの上で彼に自分を抱かせた。

男というものは、抱きたいと思っている相手を抱くことが出来ない時は、永遠に求め続けるものだ。彼女は彼とセックスすることで、彼が抱いている幻想・憧れを打ち砕き、夢から覚めさせることを実行したのだ。このあたりは実にクシシュトフ・キェシロフスキーだった。

パリでの生活を始めるジュリーは<しがらみ>から切り離され、静かな毎日を過ごしはじめる。しかし完全に<しがらみ>から解放されたわけではない。老人ホームにはボケはじめた母親がおり、ときおりそこを訪れていた。そんな時事故を目撃した青年が尋ねてくる。彼はその事故の現場から、おちていたネックレスを持ち帰ってしまったのだが、悪いと思い返しにきたのだった。そのネックレスは夫がジュリーにプレゼントしたものだった。ジュリーはそのネックレスを彼に与え、その<しがらみ>から自分を切り離した。
そんなある日テレビをつけると、処分したはずの楽譜をオリヴィエが持ちだし、自分が曲を仕上げると宣言しているのを見る。さらにその番組のなかで、彼が若い女性と写っている写真も目にする。

自分の曲が他人におって書き換えられる事をうけいれられなかったジュリーは<参加>を決める。ジュリーの指示でオリヴィエが曲を具現化してくやり方で曲は作られていく。やがてオリヴィエも、その曲が夫のものではなく、ジュリー自身が作っていたことに気付いていく。
写真に写った女の存在、彼女は弁護士事務所(※もしかしたらこのへんの描写のなかに、『---白の愛』や『---赤の愛』の登場人物がまぎれこんでいるのかもしれない)で働いているサンドリーヌ(フロランス・ぺルネル)という女性だった。彼女は妊娠していた。ジュリーは屋敷の売却を中止し、彼女と生れてくる子供に屋敷をゆずることにする。

ついに完成した曲をオリヴィエは、ジュリーの作品として発表すべきであると言う。そんな彼に、ジュリーは自分を与える決心をする。完成した協奏曲のラストパートが流される時に、ジュリーに<しがらみ>として切られたネックレスを返しにきてくれた少年とか、老人ホームの母親が映されるのだが、あの曲をかぶせられると、今後再び<しがらみ>として受け入れられるのかな・・という希望ももたせてくれる。

by ssm2438 | 2010-05-23 02:50 | K・キェシロフスキー(1941)


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