西澤 晋 の 映画日記

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2010年 05月 25日

ブラインドネス(2008) ☆☆☆☆

f0009381_212923.jpg監督:フェルナンド・メイレレス
原作:ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』
脚本:ドン・マッケラー
撮影:セザール・シャローン
音楽:マルコ・アントニオ・ギマランイス

出演:
ジュリアン・ムーア (医者の妻)
マーク・ラファロ (医者)
アリシー・ブラガ (サングラスの娘)
伊勢谷友介 (最初に失明した男)
木村佳乃 (最初に失明した男の妻)

        *        *        *

「強者否定」の精神のもとに、生理的に嫌悪感をあおる映画をつくるメイレレス。

理屈を抜きにして、「この映画嫌い」と感じる人と、「この映画好き」と感じる人に明らかに別れるだろう。この映画は理屈ではなく感性に語りかける映画だ。それは『ダンサーインザダーク』『ドッグヴィル』のラース・フォン・トリアーと似たものを感じる。フォン・トリアーといいこのフェルナンド・メイレレスといい、基本的に見ている人が生理的に見たくないものをみせてくる監督さんだ。映画をつくる力は認めるが、根本的に絶対好きになれないなにかを持っている。それはたぶん彼らの心の根底に流れる「強者嫌悪・強者否定」のスピリットなのだろう。
それは『ナイロビの蜂』を見たときもすごく感じた。とにかく強者たるものを、この上ない限り悪徳のものとして描く。それはこの映画の中にも出てくる。生理的に強者が好かないというスピリットが充満しているがゆえに、弱者としての卑屈さがさりげなく悪臭をはなっている。これを感じる人は「この映画、何故かきらい」と感じるのだろう。

どっかの賢者が言っていたが、ホンダの社長だったか、トヨタの社長だったか・・、
「この世の中には強者などいない。弱いままでいたくないと努力した人と、それをしなかった人だ」

多分メイレレスは、強者がいると思っている人だ。そしてそれを嫌悪している。その悪臭がはなはな鼻につく。強者たるものは、過去においては弱者であり、そこから這い上がるために努力して、見た目にはそうなっているかもしれないが、彼の心の中はいつも弱者だ。そして弱者のこころを知っている。だから強者たるものは、傲慢にはならない。弱者に対して横暴な態度をとるのは、つねにサディストであり、サディストは弱者のなかで虚栄心に支配されたものだ。
メイレレスは、弱いままでいたくないと努力したことがなくて、弱者スピリットを保持し、そのスピリットで悪者が想像する強者を描いているからこういうえげつない展開を表現できるのだと思う。それは『ナイロビの蜂』の時も感じた。

しかし、映画はとても素晴らしい。感情に杭を打ち込むポイントを心得ている。これは『ナイロビの蜂』でも同様にいえることだ。作者の根底にあるスピリットは、私とは完全に相容れないが、映画を作る才能には満ち溢れている。でも嫌いだ。カメラが近いのも嫌いだ。

あと木村佳乃はめちゃくちゃ美しい。
こんなに彼女が綺麗にみえたことはそうないんじゃないかな。

<あらすじ>
突然失明してしまった人々が集められた収容所。そこは外界から隔離されて朽ち果てた世界だった。その収容所では理性が徐々に崩壊し、弱者が想像する強者の悪行は横行する世界となっていたい。
病室ごとにコミュニティが出来あがっていれ、それぞれが飢えていた。食料を持っているものがその収容所ないのロードとなっていたが、その収容所を管理する人たちも失明し、管理機能はほとんど失われた無法地帯となっていた。食料を確保したもたちがその収容所ないでのロードとなり、他の病室(コミュニティ)へ「食料をあたえるから女を差し出せ」と要求してくる。
プライドが生存か・・、自分の妻は行かせたくないとしかいえない男たち。しかしこの期に及んでは個人の判断にゆだねられる。「私は行くは」と手を上げる女がいる。ジュリアン・ムーア(彼女だけは何故か目が見える)も続いた。そして合計8人の女が彼女に賛同してロードたちに体を与えに出て行く。盲目の女たちは、盲目の男たちの部屋に行き、もみくちゃにされていく。そこいらで悲鳴やあえぎ声が聞こえる。ジュリアン・ムーアもフェラチオを強要させる。拒みたくとも従いしかなく、その男の前にひざまづき、股間を顔をうずめて男に奉仕する。
他の者たちはみんな失明している。総てが匿名さんなのだ。屈辱にまみれて誰かのペニスを咥えたとしても、それは匿名さんのしたことでしかない。しかいジュリアン・ムーアはそれが見えてしまう。ジュリアン・ムーアには自分が咥える男も、その男のペニスもみえる。彼女の意識のなかでは匿名さんにはなれないのである。

結局は「私だけが見える」の力でそのロードたちを粉砕する方向へ導き、収容所から外に出る。そとの世界のだれもが失明している。やがて雨がふってくる。人々は通りにでて雨のシャワーを浴びる。服を脱いで裸になり体を洗うものもいる(残念ながら木村佳乃ではない)。通りにでて裸になろうとも、他の誰かにはみられないのだし、所詮はどこかの誰か・・つまり匿名さんなのだ。そのなかを何人かの仲間をつれて自宅へと向かうジュリアン・ムーア。ほとんどイエスキリスト状態である。


匿名性というのは、弱者のよりどころなのかもしれない。ここ10年で発達したインターネットも、その匿名性が重要な要素になっている。しかし、私は匿名というのが嫌いなのでこのブログでもきちんと実名で書いている。

総合的にいってしまうと、私の嫌いなものが尊ばれ、私の好きなものが嫌われているのはこの映画ということになる。私にとっては徹底的なアンチテーゼな映画だった。

by ssm2438 | 2010-05-25 02:02


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