西澤 晋 の 映画日記

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2010年 08月 25日

さよならジュピター(1984) ☆

f0009381_11141798.jpg総指揮:小松左京
監督:橋本幸治
原作:小松左京
脚本:小松左京
撮影:原一民
特技監督:川北紘一

出演:三浦友和 (JS計画主任・本田英二)

       *        *        *

草原の輝き、花の栄光
再びそれは還(かえ)らずともなげくなかれ、
その奥に秘められたる力を見い出すべし。

<ウィリアム・ワーズワース>

大いなる失敗さくである。それは誰もがみとめるところだろう。だからといってこの映画を嫌いにはなれない。この映画には愛すべきパッションがある。この映画には小松左京の執念を感じる。ただ表面がぼろぼろに朽ち果てただけだ。

この映画は小松左京の想い入れつまっていた。
ウィキペディアからその制作にいたる過程を抜粋し、まとめてみた。

かねてから日本でも『2001年宇宙の旅』に匹敵する本格SF映画を作りたいと念願していた小松左京は、1977年暮れから、当時の若手SF作家を中心に集合をかけ16回に及ぶブレーン・ストーミングを行なった。参加したメンバーは、豊田有恒田中光二山田正紀野田昌宏鏡明伊藤典夫井口健二横田順彌高千穂遙といった面々で、当時の日本SF界の中核が動員された。1979年に木星に接近したNASAのボイジャー計画による最新の探索データが取り入れられ、また、ハードSFで知られるSF作家の石原藤夫にも声がかかり、映画に登場する天体の軌道計算という考証面で協力した。
1979年半ばにシナリオの初稿は完成。上映時間3時間を越え、外国人俳優数百人を要するというスケールの大きさだった。アメリカでの著作権登録も行なわれた。後に現実にアメリカの映画会社から原作を買い取りたいという申し出があったが、アメリカ人を主役とし、小松を制作には関与させないという契約条件で、合作ではなくアメリカ映画として制作するというものだったため、あくまで日本人の手で本格SF映画が作りたかった小松左京はこれを断っている。
映画化に先駆けて、映画の初稿脚本を原作としたノベライズを1980年から週刊サンケイに連載された。連載中の1981年、小松は本作制作のために、株式会社イオ(個人事務所)を設立し、本作を東宝とイオの共同制作とする。小松は脚本執筆のみでなく、総監督として現場の指揮も執ることになり、映画化の全般に責任を負う体制を敷いた。
1983年3月に撮影用台本は完成。小松の『日本沈没』(1973年)を監督した森谷司郎を再び監督に予定していたが、森谷の死去に伴いその助監督だった橋本幸治を監督に起用。特技監督は、新鋭の川北紘一が務めることになった。

この森谷司郎が死んだ時点で、映画としてのこの作品の命はついえたのかもしれない。橋本幸治ではどだい無理な話だ。ただ、森谷司郎の場合は、本来具体的にみせてほしいところを、雰囲気の描写に逃げてしまう傾向があり、それがちと困ったチャンなのだが、少なくとも当時の監督でこの映画をころがせたのは彼しかいなかったかもしれない。
なお、撮影には『神田川』『優駿』原一民が参加している。第一希望は木村大作だが、彼が出来ないのならこの人しかいないだろう。

<あらすじ>
西暦2125年、マイクロブラックホールが、太陽に衝突するコースをとっている事が判明する。太陽系を救う方法はただ一つ、木星を爆発させてブラックホールに衝突させ、そのコースを変更する事だった。
太陽系外縁の開発に着手していた太陽系開発機構は、計画主任・本田英二(三浦友和)を中心2140年の実現へ向けて「木星太陽化計画」を進めていたが、そのプロセスを応用して木星を爆発させプロジェクトに変更される。
木星爆破計画を進める英二だが、彼の恋人のマリアは、過激な環境保護団体「ジュピター教団」の破壊工作グループのメンバーとなっていた。英二らと銃撃戦となり、マリアは英二の腕の中で死亡。傷ついた本田は木星の爆発とともに死亡。ブラックホールは進路を変えて太陽系外に去っていった。

物語には木星に存在する未確認生命体の存在の手がかりなどがあって、上手に作ればかなり感動する話になっていたとは思うのだが、出来上がった映画はかなり散々な出来になってしまった。
なんでここまでダメだったのか検証してみた。

1、社会性がまるでない。
地球上の人間社会がまるで描かれていないのである。
ブラックホールが太陽の軌道上に飛び込んでくると、人類はおろか地球上の総ての生き物が死に絶える・・という危機をどう乗り切るか・・という話なのに、人類社会が登場しない。原作では木星をある志向性をつけて爆破させ突進してくるブラックホールにぶつけるという計画以外に、わずかでも人類を脱出させようと宇宙船をつくり抽選であたったものだけをその船にのせ外宇宙におくる計画も進行する。2つの巨大なプロジェクトを同時進行させるために、物資がおもいように手に入らずそんな中で、主人公たちは木星爆破計画を実行していくプロセスがおもしろいのに・・。
この物語が面白いのは先の『日本沈没』のように人間が組織としてどうこの危機を乗り越えようとしたかであって、スペクタクルはどうでもいいのである。
それをあの大バカ監督の橋本幸治は・・・。こいつはまったくわかっていない。

2、宇宙に星がある。
『スターウォーズ』のみすぎではないのか? スペースシャトルの写真などをみたら宇宙は漆黒の闇であるのは当然のこと。小学生でも星は昼は見えないことは知っている。宇宙はいつも昼である。なら宇宙で星がみえないのは当たり前である。『2001年宇宙の旅』ではきちんと漆黒の闇として描いていた。あの映画から既に15年くらいたっているかと思うが、いまだにそんな低次元のアニメ的価値観しかいようではどうしようもない。

3、なすかの地上絵や木星の中のジュピターゴーストをまったく生かせていない。
生かせないなら斬るべきだったのでは? じつはこのコンセプトは原作でもあまり上手い具合に機能してないところで、わざわざそれを入れ込む必要はなかったのではないのか? この話なら古代地球におりたった異星人のことなどリアリティを阻害するだけなので排除すべきだった。

4、本田英二とマリアの関係があまりに理解不能。
原作ではかなり無理があるところなで、削除しても良かったのでは? 昔は幼馴染で恋人だった二人が時がたち、マリアはジュピター教団の過激派に属し、英二はJS計画の主任になっている。でもお互いが顔をあわせば恋人同士という、説明して出来ないわけではないがやっかいになりすぎる。

5、ジュピター教団をどうとらえていいのか判らない。
教祖のピーターは原作では良い人で(それはこの映画でもそうなのだが)、そこに集まってきた人が集団心理の中で自然保護とかを謳いあげ過激派になっているという、これも複雑な構造。これをきちんと説明するのはかなり難しいと思われる。

結局森谷司郎に出来て無能橋本幸治に出来ないこととは、組織の描写なのだ!
もっとも、橋本幸治には人間個人の描写もできないが・・。このバカのバカさ加減は絶大なるものだ。そこにそのイベントが起きるなら、その必然性を語らないといけないだろうに、その必然性が語られないのだから「なんでこの二人は無常力で“H”してるん??」って疑問をもってしまう。頭の悪い監督というのは結果だけを書いてしまうものだが・・・。

しかし、愛すべき失敗作であることには替わりはない。
「作り直せ!」と声を大にして言いたい。

by ssm2438 | 2010-08-25 11:15


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