西澤 晋 の 映画日記

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2010年 08月 02日

トイ・ストーリー3(2010) ☆☆☆☆

f0009381_02237.jpg監督:リー・アンクリッチ
脚本:マイケル・アーント
    ジョン・ラセター
    アンドリュー・スタントン
    リー・アンクリッチ
音楽:ランディ・ニューマン

声の出演:
トム・ハンクス/唐沢寿明 (ウッディ)
ティム・アレン/所ジョージ (バズ・ライトイヤー)

       *        *        *

うむむむ、これは良質の純粋Mマインドエンタテーメント映画だ。

物語というのは、どこかしらSMマインドが描かれていなければ面白くないものだが、この映画にはそれが満載だ。このシリーズをはじめてみた時から薄々は感じていたのだが、この映画はSMマインド(特にMマインド)の宝庫であり、受動的にしか愛せない玩具という立場を効果的につかって作られたこの映画。所有され、いじられる悦び。飽きられる哀しさ。そして主人の残酷さを受け入れる玩具たち。そして、相手が主体性のない玩具だからこそ誘発される子供の持つ残忍性=加虐性。
これくらい人間の本質の一部がおそろしく赤裸々に語られた映画なので、見る人の心に深くかたりかけるものがありつづけたのだろう。個人的にはR指定にしたいくらいだ。


17歳になったアンディは、その秋から大学に行く。昔からの荷物やアンディが大事にしていた玩具たちも、ゴミとして捨てるか、屋根裏部屋に残すか、大学にもって行くかの決断をせまられる。今となってはほとんど手にとって遊ぶことのなくなった玩具たちだが、それでもゴミとしては捨てられない。しかたなくアンディはその玩具たちをゴミ袋につめて屋根裏部屋に残すことにする。
ここで主人の残酷さが発揮される。バスもふくめてほどんどの玩具はゴミ袋にいられられ屋根裏部屋に運ばれることになったが、ウディだけは大学へもっていくダンボールの中に区分けされた。みんな一緒とおもっていても、そこには序列というものが存在し、一番愛されていたのはウディであることを他の玩具たちも認めるしかない。その決断に対しては文句を言わない玩具たち。

そこで手違いがあり、お母さんがそのゴミ袋を要らないものだ思いゴミ回収に出してしまう。なんとか危機一髪逃げ出した彼らだったが、「自分たちは捨てたれた」と認識した彼らはサニーサイドと呼ばれる託児所に寄贈されるダンボールに紛れ込み、新しい主人をもとめてアンディのもとを去ることに。
ここでもウディは、アンディはみんなを捨てたわけではないと誤解をとこうとする。我々はアンディのものなのだから、戻ってやがてアンディが子供をつくり、その子たちと遊べる暇で屋根裏部屋で待つべきだと主張。けなげである。

そのあとはサニーサイド幼稚園のエピソード。はじめは幸せいっぱいの世界にみえたが、子供たちはビーストであり、玩具たちは過酷な労働をしいられる。しかしその一方で、玩具たちのリーダー、ピンクの熊のぬいぐるみ・ロッツォとその仲間たちは、お行儀の良いお子様クラスでしあわせそうに可愛がられていた。夜はドアに鍵がかけられ逃げることも出来ない。そんななかでウディがかれらを助けにもどり、みんなで脱獄する話が展開される。
お子様たちはここが楽しいのかもしれないが、個人的にはここはもっとカットしてほしかったかな(苦笑)。

結局脱獄したがごみ焼却場におくられ、絶対絶命のピンチ。燃え盛る炎をまえに死を覚悟してみんなが手をとるあたりは実に感動演出。その後は都合よくピンチを脱出し、アンディのもとにもどる玩具たち。そして最後の玩具とお別れシーン。結局玩具たちはサニーサイド幼稚園に通う引っ込み思案だがイマジネーションゆたかな女の子のもとに送られることになる。
ダンボールのなかから、玩具たちとりだしては愛ちゃくをもって紹介していくアンディ。もうこのあたりからぼろぼろ涙がでてくる。新しい玩具の主人となる女の子と一緒に、玩具たちと最後の夢想の世界をたのしんだアンディは、彼らをゆだねて去っていく。


実に完成度が高い映画である。
・・・しかし、<受身の愛>というコンセプトが心地よいけど、それだけだとちと哀しいかな。だからこそこの映画が面白いのは百も承知だが、私の好きなテリトリーとは違う分野だったてことだろう。

どうも私は主体性=エゴから発生する愛が好きらしい。人は大人になり、与える側にならなければいけないものであり、そのためには己を成長させていかねばいけない宿命にあり、私の好きな話は、見ている人が、その与える力をもてるようになる背中を押してあげる方向性の映画なのだろうな。それが描けるのがピクサーのなかでは『Mr.インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』をつくったブラッド・バードだけなのだ。

ジョン・ラセターアンドリュー・スタントンらのオリジナルなピクサーのメンバーは、子供の立場になり(与えられる立場になり)、“こういう愛し方をする親がいたらいいな”・・みたいな大人にならない者たちの夢を描いてくれる。それに対して、ブラッド・バードだけは、大人社会(与える立場の者たちの社会)の現実を描きつつ、“こういう大人になっていきたいね”・・という、大人になっていく子供たちへのメッセージを提示してくれている。
そのあたりが、世間にはうけるピクサーの映画の中にあってひとり大人の映画を作る外様のバードの特異性なのだろうな・・。

頑張れ、ブラッド・バード! 負けるな、ブラッド・バード
少なくとも私は君の次回作を期待しているぞ!

by ssm2438 | 2010-08-02 00:20


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