西澤 晋 の 映画日記

ssm2438.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2010年 11月 24日

夜(1961) ☆☆☆☆

f0009381_628016.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    エンニオ・フライアーノ
    トニーノ・グエッラ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ

出演:
マルチェロ・マストロヤンニ (ジョヴァンニ)
ジャンヌ・モロー (リディア)
モニカ・ヴィティ (ヴァレンティーヌ)

       *        *        *

「保険」の終わりは「恋愛」の終わり。

その昔、こんな(↓)言葉を交わした女がいた。

私:「女に男を愛する能力はない」
その女:「男だって愛しませんよ」

彼女に一度アントニオーニの『さすらい』『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『赤い砂漠』までを見てもらいたいものだ。きっと魂の同一間を感じるだろう(苦笑)。・・・しかし、実は魂が一緒なのではなく、そこにたどり着いてる人と着いていない人がいるだけの話なのだけど。

アントニオーニは、男と女の恋愛のメカニズムをいつも冷淡に描いている。
女という生き物は、「便利性」に恋するのであって、その男に恋するわけではない。「便利性」というもの、意味はいろいろあって、言葉どおり相手の男が物質的に便利なこともあるが、精神的に便利という意味もある。特に女の場合は「必要とされること」というのはその女の存在意義であり、「必要とされている」ということで、安心感を得るように出来ているようだ。この「安心感を得られる」ということも、「精神的便利性」の中にはいる。

これに対して、男のという生き物は、自分の中の理想の女性像に恋をする。しかしそれは決して実存することはない。しかし、それを追い求める。この世の中にはそんな女性がいるはずだ!・・と。そしてその可能性のある人に期待する。勝手に「この人こそ、そうであるに違いない」。その夢をみていられる時間が男にとっての「恋をしている」時間になる。

恋愛というのは、そうしてお互いに期待したい男女が、相手の期待に応えたいと思っている期間を云う。

アントニオーニはこのメカニズムをいくつかのパターンで映画化している。それが『愛の不毛』3部作であり、その前後の『さすらい』と『赤い砂漠』である。これらの映画のなかに登場する女達はほとんど期待する力を失っている。ましてや期待に応えたいと思う力などもってはいない。それが観られるのは『さすらい』に出てくる、男が求めなかった女達くらいだ・・。
結局「恋愛」とは「期待力」である。それが枯れると愛は蒸発する。


映画の冒頭、作家のジョヴァンニ(マルチェロ・マストロヤンニ)と妻リディア(ジャンヌ・モロー)を伴って、末期癌(映画ではいってないかもしれないが、そんな感じ)の友人トマーゾを見舞う。トマーゾはジョヴァンニの親友であるが、同じ女性を愛してた。それがリディアである。結局リディアはジョヴァンにを選び現在に至っている。

リディアはトマーゾにとって、自分の憧れを投影できる女性だった。彼女の本質的な部分をかなり理解していたのだろう。しかし、全部がみえているわけではない。憧れで盲目になっていて見えない部分は、彼の理想で補完していたのだろう。
一方のジョヴァンには、彼女にとって憧れだったのだろう。彼と一緒にいることが楽しい。刺激になる。そうして彼に憧れ、彼の求めることに応えようとしたのだろう。ジョヴァンニも、そんな彼女と一緒にいるのが居心地がよかった。そして二人は結婚した。しかし現実が二人の期待力(期待する力/期待に応えようとする力)を奪ってしまった。リディアはジョヴァンニと一緒にいてもこころが刺激されることがもうないのである。

リディアは、ジョヴァンニのサイン会の会場に同行するが、そこでもなにも感じない。自分の感覚を再確認するためか、ひとりミラノの街を歩いてみる。そこでみる、男や老婆、少女、ケンカをしたりロケットを打ち上げる男達・・・、どうやら何かを感じる力はのこっているようだ。しかし、それらはリディア人生の中では大した意味をもたない。
リディアは、ジョヴァンニと一緒に出かけてみることにする。その感情はもうないとは分っていても、自己肯定をしたかったのだろう、「自分がトマーゾではなくジョヴァンニを選んだことは間違いではない」・・と。しかし、夫と一緒にいる時間にときめきはない。心が振るえない。彼女の心のなかにそれを肯定する要素がみあたらないのである。そのあと二人はある富豪のパーティに出る。彼はジョヴァンニを彼の会社に招こうとしているのだ。そしてジョヴァンニはその富豪の娘ヴァレンティーヌ(モニカ・ヴィティ)に興味をしめしていく。そんな夫をみてもなにも感じない。

時間をもてあましているリディアは病院に電話をかける。そしてトマーゾの死を知る。

トマーゾの存在は、リディアにとっては恐ろしく重大な精神の「保険」だったのだろう。たとえ、ジョヴァンニとの愛が終わっても、いや、他の誰かから裏切られたとしても、あの人だけは自分を求めていてくれている・・、そう思えることが彼女を精神の保険だったのだ。それがその電話をかけたてトマーゾの死を知った瞬間に消滅した。

おそらく、恋愛に「保険」は不可欠なのだろう。
「保険」無しに恋愛することは、こころの不安定さを招くことになる。それを人間の心は知っているようだ。
しかし、「保険男」は決して女に愛されることはない。ただ必要とされるだけだ。それも男の心は知っている。

おそらくもう、リディアは恋愛をすることはないだろう。
男にとって「髪の終わりは青春の終わり」であるように、女にとって「保険の終わりは恋愛の終わり」である。


アントニオーニの映画は初見の段階では意味が判らないのでかなりしんどい。そういう私も、若き日の初見では途中リタイアしている。この映画は最後まで行って、トマーゾとリディアの関係を理解し、自分が書いて送った入魂のラブレターさえ忘れているジョヴァンニとの今の関係を理解してから振り出しに戻る。そこではじめてそこに描かれている内容が理解できる・・という、なにかと手間のかかる映画である。

by ssm2438 | 2010-11-24 22:16 | M・アントニオーニ(1912)


<< ガス人間第1号(1960) ☆☆☆      突入せよ!「あさま山荘」事件(... >>