西澤 晋 の 映画日記

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2011年 01月 24日

鏡の中にある如く(1961) ☆☆☆☆

f0009381_10273346.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:
ハリエット・アンデルセン(カリン)
グンナール・ビヨルンストランド (父ダビッド)
マックス・フォン・シドー (カリンの夫・医師のマーチン)

       *        *        *

風の音、波の音、無伴奏・・・

この映画が、いわゆるベルイマンの神の沈黙三部作:『沈黙』『鏡の中にある如く』『冬の光』の1本であり、そのなかでももっともシンプルな映画で、物語の流れもわかりやすい映画です。1961年のアカデミー外国映画賞もとっています。
しかし、この3本がつながってるわけでもなく、同じテーマで描かれたわけでもないので、このような仰々しいくくり方が必要だったのか?とも思えます。だいたい、この3本をみて関連など見当たらない。少なくとも若いころの私にはそうとしか見えなかった。・・・・しかし、大人になるっていいものですね。歳をとって、あるていど分別がついてくると「ああ、なるほど」って思えるようになってしまった。

そのなぞがとけたのは、幼年期自体のイングマル少年とその父との確執を知ったからです。そして、ベルイマンが作っている映画は誰に見せるために作られたのか・・?という疑問に、「それはかれの父である」という答えにたどり着いたからです。
ウプサラの司教さんだった厳格な父。その高圧的は支配。それはほとんど『ファニーとアレクサンデル』で描かれたようなものではなかったのかと予想します。
イングマル少年は幼少時から非常に体が弱く病気がちで、依存心が強く、学齢に達しても登校しようとしなかったとか。そんなイングマル少年を、父は厳しく罰します。暗いクローゼットの中に閉じ込めたり、笞で打つこともあったとか。そして19歳で家を出たイングマルと父との確執はベルイマンが大人になってからもつづいいたそうです。ベルイマンは48歳のとき、父は悪性腫瘍で倒れましたが、このときも父を見舞うことはありませんでした。
イングマル少年がみた父の姿は、それぞれの映画のなかに登場する高圧的な支配者に投影されているのでしょう。生涯を通じて父の非難を描き続けずにはいられなかった、その憎しみのエネルギーとはすさまじいものです。

神の不在なんて、日本人にとっては当たり前のこと。なのでピンとこないのですが、これが見せる対象が「彼の父」だったということが分かると、とたんに映画の意味が見えてきます。

『沈黙』というのは、自分が外の世界と接するときにどう行動するか、それは自分のなかの理性と感情をもとにして、自分の行動を自分で選択していかなければならない。そこには神の声なんて関係ないんだよ!って言っている映画。
『冬の光』では、原爆の恐怖という現実的な恐怖にたいして、具体的にどう対処するのかって時に、宗教というファンタジーは機能しないにもかかわらず、牧師さんはそれをやっていかなければならない哀れな職業なんだよってことを言ってる映画。
そしてこの『鏡の中にある如く』は、精神分裂病の娘の治療に関して、宗教はなんにも役に立たない。むしろ、そのファンタジーこそが、彼女の病状を悪化させたものではないか!と、いう主張。

おそらく、ベルイマンは神の存在は信じてたんじゃないでしょうか。無神論者ではないと感じます。
・・しかし、それが「宗教」という形をとる時、それに対しては懐疑的・・というより強烈なまでに批判的だったのでしょう。

<あらすじ>
作家ダビッド(グンナール・ビヨルンストランド)には二人の子供があいた。17歳の息子ミーナスとその姉カリン(ハリエット・アンデルソン)。カリンは医師のマーチン(マックス・フォン・シドー)と結婚していたが、精神分裂病に悩まされていた。ダビッドはマーチンと海に網打ちに出たとき、カリンの病状を聞くが、結果は悲観的なものだった。そんなダビッドは、カリンの行動やそれについての分析を日記にまとめていたが、ある夜カリンがそれを読んでしまう。ファンタジーに逃げ込んでいる自分と、現実の自分を強制的に認識させられた瞬間だった。
それからというもの、カリンの情緒はさらに不安定になっていく。
ダビッドとマーチンは町へ買いだしに出かけた留守中、カリンは雨宿りに寄った捨てられた朽船のなかで弟の体を求めてしまう。でその罪の意識でカリンはまたも乱れて衰弱していく。やがて彼女はヘリに乗せられ町の病院へと搬送されていく。

f0009381_10185117.jpgベルイマンの映画のなかでもストーリーが分かり安い映画が、一番ピンとこない映画でもある(苦笑)。
最後は姉と弟の近親相姦になるのだが、これ自体もそれほど罪の意識を感じるようなことではなく、まあ、なちゃったら仕方がないよねって思ってしまう程度のもの。太古の人間社会はよくあったことで、生命の本質からははずれているわけではない。ただ、より安全な種を発展を考えたときには不安定になるので確率的にしないほうがいいというだけの話である。
『山の焚き火』という映画の中でも姉と弟の近親相姦がテーマになっていたが、あれなんかきわめてほほえましい映画だった。
この映画においても、弟と姉の在り方を見てると、お互いの肌のぬくもりを求めたとしてもそれは自然であり、幸せになることはあっても、不幸になるとはとても思えない雰囲気なのである。
ベルイマン映画にん出ている彼女のなかで、それほど綺麗だとはいえないハリエット・アンデルセンが一番自然で綺麗みえたのは、この映画の弟と戯れている時なんじゃないだろうか(『不良処女モニカ』とか『叫びとささやき』の時の彼女はかなり醜悪である)。

しかしこの二人の自然な求め合いに罪悪感を感じるようになっていることが、宗教的妄想に犯されているカリンの精神状態からうまれる悲劇なのだ。
「悪魔が自分の体にはいってくる」というカリン。そもそも「悪魔」というのはなんだ?ってことになるのだが、これは神を肯定するためのアンチテーゼとして作られたもので、「悪魔」(吸血鬼でもいいんだけど)とい概念をつくった時点で純粋な信仰は勢力争いのプロパガンダに成り下がったのだと思う。これがベルイマンの非難している「宗教」というものなのじゃないだろうか。

とにかくベルイマンの映画の解釈というのは、世間一般で書かれていることがどこまで本当なのかかなり疑問である。どうみても、私の解釈が一番まともにみえてくるのだが・・・(はは、あいかわらず自画自賛の独りよがりレビューであった)。

by SSM2438 | 2011-01-24 10:31 | I ・ベルイマン(1918)


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