西澤 晋 の 映画日記

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2011年 01月 31日

ビリー・ジョー/愛のかけ橋(1976) ☆☆

ビリー・ジョー/愛のかけ橋(1976) ☆☆_f0009381_23142172.jpg監督:マックス・ベア・Jr
脚本:ハーマン・ローチャー
撮影:ミシェル・ユーゴー
音楽:ミシェル・ルグラン

出演:
ロビー・ベンソン (ビリー・ジョー・マカリスター)
グリニス・オコナー (ボビー・リー・ハートレイ)

       *        *        *

ゲイだと自覚して自殺してしまうのですか・・・。求めればそこにグリニス・オコナーがいるというのに・・・。

前半は『草原の輝き』のようなストーリーなのだが、後半から一気にいたたまれない青春ストーリーにかわっていく。圧倒的に保守的な土地柄のなかでおきたゲイの性交渉。それをうけとめるにはあまりにもこころがせまい地域性。そのなかで、ゲイであることを認識してしまい、好きな女の子を求められなくなったビリー・ジョー。自分が好きで、彼となら駆け落ちでもなんでしていいと思っていた女の子ボビー・リー。二人の恋愛は切ないです。
グリニス・オコナーの演じる主人公の人間性という点においては、このボビー・リーが一番よかったかもしれない。ちなみに、ここで16歳と記述しているボビーの歳だが、これは数え年であって、物語のなかではまだ15歳である。

1953年夏。16歳のボビー(グリニス・オコナー)と18歳のビリー(ロビー・ベンソン)は子供の頃からの幼馴染だったが、その年になるとセックスのことを考え始める。しかし彼らの地域は南部であり保守的な土地柄。親は二人の交際など早すぎるという。それでも男の子は求めてしまう。女の子は拒んでしまう。
そんな街のカーニバルの日。娼婦達もそのカーニバルに紛れ込んでいた。バンドのコンテストが行われている裏で娼婦達は男と寝たいてた。興味半分でその場を訪れたビリーは友達に背中をおされて一人の娼婦にひきつけられるように近づいていく。
それから2日間、ビリーの姿は消えた。街の人たちも彼をさがすがみつからない。そんななか薄汚れたビリーがボビーの前にこっそりと現れる。しかし様子がおかしい。夕方二人で橋の上であう約束をしてその場は別れる二人。そしてふたたび夕暮れの橋の上であう二人。

ここまでは普通に『ロミオとジュリエット』な話だったのだけど、ここから一気に急転。ボビーはビリーと一緒に町を出ても良いと思っていたのだろう、それだけの覚悟があった。もとめるなら身体も許すつもりで来ていた。このあたりの潔さはとっても素敵なのである。
そして森の中で唇を重ね、草によこたわり、『ジェレミー』の時のように、お互いを大事に大切にするような愛撫とキスが続く。しかし・・・っビリーはそこで止めてしまう。泣きながら「出来ない」という。あのよりは娼婦とは寝なかった。男と寝たんだ。それも自覚していた・・と。

その話を聞いても動揺することなく、それでもビリーをもとめるというボビー。「さっきのつづきをやりましょう」ってビリーの手をとって草の上に座ろうとするボビー(グリニス・オコナー)がとてもいいんだ。この一連のグリニス・オコナー演じるボビーのやさしさと覚悟をきめた潔さは絶品である。
しかし・・・ビリー・ジョーはその手から自分の手を抜き去り去っていく。そして次の日溺死体として引き上げられた。

その後、ボビーが妊娠したといううわさが待ちにひろまっていく。父親はそのせいで教会の役員をはずされ、兄は堕ろすか、それがいやならどっか遠くへいって産めという。そしてボビーは街を出ることにする。兄も、母も、ボビーが出て行くことを感じながらもきずかないふりをしている。
やがて6時40分のバスにのるために橋をわたるボビーの前に男があらわれる。兄が働いている製材所のデューイ(ジェームズ・ベスト)という妻子もちの中年男。彼は「君が妊娠などしているわけがない」という。ビリーがゲイであることを知っているのはボビー以外には誰もいない。もしいるとしたら、それはカーニバルの夜ビリー・ジョーと寝た男だけだ。彼がその男だった。

ボビーが妊娠などしてないという事実を話しに彼女の家に行く途中だったと云う。自分には妻も子もあり、そのことを考えると真相を話す勇気がなかったと・・、しかし、総ての不幸をボビーー人が背負うのは不公平だから、自分は話に行くのだと・・。
しかし彼女はその申し出を断る。ビリー・ジョーは、好きな女の妊娠させて、自殺した。だから彼は伝説になるのよ・・って。そして彼女がバス停に向かうと、デューイは彼女のカバンをもってあげるのだった。。

最後はきわめて複雑な思いのする展開だった。
このラストだと、グリニス・オコナーは、ボビーの<男>を守ったということになる。でも真実は・・・、やっぱり彼はゲイだったのだ。これは、「ビリー・ジョーがゲイだった」という事実よりも、自分にとっては「ビリー・ジョーは男」だったと願望を優先させたということなのだろう。真実よりも、自分の妄想(エゴというほうが適切かもしれない)を優先させる終わり方は・・・いいのか悪いのか。
・・・・良いのだろうな、多分。そのくらのわがままくらい通しても。

グリニス・オコナーがとっても素敵な映画でした。

by ssm2438 | 2011-01-31 23:23


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