西澤 晋 の 映画日記

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2011年 05月 19日

砂の女(1964) ☆☆☆☆☆

f0009381_22534998.jpg監督:勅使河原宏
原作:安部公房
脚本:安部公房
撮影:瀬川浩
音楽:武満徹

出演:岡田英次(仁木順平)/岸田今日子(砂の女)

       *        *        *

砂がなかったら、私なんか誰も相手にしてくれねー。

アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』で、ゾーンを破壊しにきた政府のこうさくいんに対して、ストーカー(ゾーンの案内人)が行ったの言葉が、これに近い意味のことばをはいている。「もし、ゾーンがなくなったら、オレは誰にも必要とされなくなる」。切実である。

1964年キネ旬邦画部門ベストテン第1位カンヌ国際映画祭審査員特別賞アカデミー外国映画賞ノミネート、全世界で絶賛された不条理サスペンス(?)の最高傑作。ちなみにこの年のアカデミー外国語映画賞はヴィットリオ・デ・シーカ『昨日・今日・明日』。申し訳ないが、こちらの『砂の女』のほうがはるかにスゴイ。あちらを選んだ選考員の方々はきっとあまりに衝撃的すぎてどう解釈していいのか分らなかったのだろう。

この映画、まだ20代のころリバイバル上映され、劇場でみさせていただいた。個人的には生産性のない不条理物というのは大嫌いな映画のうちなので、この作品もどうなるか心配だったのだか、いやいやいやいや、さすがにすごい。ミステリアスは雰囲気とエロチシズム、不条理の中で語られる<自由>の考察、必要とされることと存在意義、それらが抽象的な表現でがしがし描かれている。見てる間中緊張感と好奇心と頭脳労働で思想と五感がフル回転。実に素晴らしい映画のような映画で、傑作中の傑作である。

8月のある日、一人の教師・仁木順平(岡田英次)が昆虫採集にある砂丘地帯を訪れた。のんびりとした時間のなかで、浮世の煩わしさから解放された男はその開放感に寄っていたが、帰りのバスをやりすごしてしまい、日はおちていく。その部落の老人が「この村にゃあホテルなんかはないが、あんた一人くらい泊めてくれる家くらいある。都合つけてやろう」といい、ある家を紹介される。その家はすり鉢上の砂の中にあり、一方が湿った砂でできた切り立った崖になっていた。そこに滑車があり、下に下りていくという仕組みになっていた。
そこには30代の女性(岸田今日子)が一人住んでいた。その女は夜になると砂の浸蝕から家を守るため砂かきを始めた。翌朝目覚めた男が見たものは、素裸で砂にまみれて寝ている女を姿だった。外に出てみると上に登るための縄梯子は消えていた。そのとき男は、自分が砂かきのための労働力として囚人になったことを知る。

その女のヌードも出てくるし、砂にまみれた乳首もでてくるのだが、岸田今日子のそれではないようだ。しかし、岸田今日子がなんと妖艶なことか。通常はもんぺ姿なのだが、雰囲気があまりにエロいのである。女は自分の家を砂から守るために男を必要としていた。その労働力のかわりに、彼女は身体を与えることはいとわない。生活に必要な物資は部落の男が週になんどか届けてくれる。そんな外の世界から隔離されたこのアリ地獄。

「なぜ、ここから出て行こうとはしないか?」と男は問う。
「だって私の家だから」
「砂が憎くないのか?」
「この砂がなかったら私なんか誰からも相手にされない」

男はさまざまな手段を講じて脱出を試みる。滑車がある湿った砂の崖は、昇ろうとしてもすぐ崩れ落ちてしまう。そこでない方角はアリ地獄のように砂がスロープをつくり、登ろうとしても砂ごと滑り落ちてしまう。カラスをつかまえて伝書鳩にしようと試みるが失敗。
やがて錆びたはさみをロープの端にくくりつけて、滑車のほうに投げてみる。引っかかった。男はそれを昇り脱出した。しかし、運悪く底なし沼におちてしまい、部落の住人を呼ぶ始末。結局また穴の中に連れ戻されてしまう。しかし、カラスを捕まえるためにほった穴から水が湧き出していることを発見、水の心配をしなくてすむようになるとこころが豊かになる。
その後女は子宮外妊娠で腹痛のおそわれ、担架にのせられて外の世界に運び出される。そのとき縄梯子が放置されたままになり、男は苦もなくそとの世界に戻れる。
しかし嬉しくない。あれほど囚われの身で欲していた自由なのだが、いざ取り戻してみると何も感じない。男は再び砂の世界に戻っていくのである。

この映画のなかの「自由」は、それが得られないときは切望するのだが、得てしまうとおもしろくもなんともない・・という、実に矛盾のような真実を描き出している。そのむかしサン=テグジュペリは『夜間飛行』の中で、「自由とは責任の中にある」と書いていた。「責任」だけが「自由」を買える唯一の価値であり、「責任」の存在しない自由などはただただ空しいだけなのだ。たぶんこの『砂の女』という映画も、そのポイントこそがコアなのだろう。
抽象主義的映画、アート映画、そういう本来私が大嫌いなジャンルの中で、この映画はこれ以上にない傑作として存在している。

もうひとつ、おそらく実相寺昭雄がめざしていたのはこのような映画だったのだろう。しかし結果的に最後までたどり着けなかった映画。おそるべし勅使河原宏

by ssm2438 | 2011-05-19 22:54


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