西澤 晋 の 映画日記

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2011年 08月 13日

ケス(1969) ☆☆☆☆

f0009381_1156308.jpg監督:ケン・ローチ
脚本:ケン・ローチ
    バリー・ハインズ
    トニー・ガーネット
撮影:クリス・メンゲス
音楽:ジョン・キャメロン

出演:デヴィッド・ブラッドレイ (ビリー)

       *        *        *

この物語の存在感は素晴らしい!

原作はバリー・ハインズ。あの『スレッズ』の脚本の人でしたか。・・・納得。

映画というのは、その製作者達が作った人工物である。しかし、をの人口物を、いかにも、実存するように描けるかどうかというのは、その作り手の技量による。この映画は、その物語がいかにも本当に存在したかのように描いている。この、「物語の存在感の構築」が、飛びぬけてすばらしいのである。

物語は、作り手によって構築された人工的なストーリーというよりも、ドキュメンタリー映像的に展開される。日常のなかでそんなシーンが展開されたらこうなるんだろうな・・という流れを素朴に描いていく。この物語はその積み重ねで構成されているので、エンタメ映画的な派手さはどこにもない。小説の一章節、一章節を丹念に映像化している感じだ。

この映画はぜひ、ドキュメンタリー・テイストを勘違いしているポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスに見せてあげたいものだ。
ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、ボーンシリーズの2作目『ボーン・スプレマシー』、3作目『ボーンアルティメイタム』の監督さんで、世間ではポール・グリーングラスと呼ばれている。<ハンディカメラ>=<手ブレ>=<ドキュメンタリー>だと勘違いしてる大バカ野郎である。他にも、『ユナイテッド93』『ブラディ・サンデー』なども撮っている。
勘違いのポイントは、<現場性>を表現する撮り方と<映画性>を表現する撮り方の違いを理解していないことなのだ。

ニュース映像などでみる、戦場にカメラが入って撮った映像にはドキュエメンタリーである。そこに本物の戦場があり、そこにカメラマんが存在する。まさに真実の映像だ。<ドキュメンタリー>とは、「作り手によって作られていない現実をカメラに記録すること」である。ここではハンディカメラの手ブレも、その困難な撮影現場の雰囲気を伝えることになる。
なのでこのポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、「ハンディカメラ+手ブレで撮られた映像はドキュメンタリーっぽく見える」という表面的なちゃらちゃらした印象だけで映画を撮る。しかしここには大きな落とし穴がある。
それは「カメラのもつ現場性」に関する考察なのだ。

たとえば日本に反乱するアダルトビデオや、大学の映画サークルが撮った自主映画などは、映画の画面のようにはみえない。あたかも、映画を撮っている現場のように見える。これは、<映画性>を表現する撮り方で撮っているのではなく、<現場性>を表現する撮り方で撮っているからである。

<現場性>を表現する撮り方というのは、カメラ場その場にいることを提示する撮り方である。たとえば、手ブレ。手ブレが起きるということは、それがカメラマンによって撮影されているという意味を、見ている人に伝えてしまう。戦場に入ったカメラが手ブレを起こすのは、そうとしか撮れないのだから仕方がない。そしてその不便さが<現場性>を伝える。しかし、自主制作の架空のドラマを撮っているときに手ブレが起きると、それは架空のドラマではなく、「架空のドラマを撮っている撮影現場の映像である」という情報が見ている人に伝わってしま作り手が大事にしなければいけない基本コンセプトは、<映画性>を保つこと。つまり、そこに描かれているお話は架空のモノではあるが、撮影現場で撮られていないと感じさせることなのである。

<映画性>を阻害し<現場性>を提示してしまうもう一つの大きな要因は広角レンズである。頭の悪いアニメーターや漫画家は、やたらと広角で描きたがるのだが、実際広角レンズでとられた画面の映画をみると興ざめする。それは構図うんぬんの問題ではなく、「そこにカメラが存在している」ということが見ている人に伝わってしまい、<映画性>を感じさせなくしてしまうからだ。「そこにカメラが存在している画」=「撮影現場の映像」になってしまう。

ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、主人公のボーン(マット・デイモン)が、スパイ活動を行っている時でも、ハンディカメラで撮ってしまうので、見ている人は無意識に「なんでそんなところを撮れるカメラが存在するんだ?」と<現場性>=<これは映画として撮影されている画面である>を感じてしまう。おかげでその撮り方に興ざめしてしまう。
真実の映像を伝える時に<カメラの存在>を提示する、<現場性>を表現する撮り方をするのは妥当だろう。しかし、映画のように、<映画性>を表現しなければならない時に、<カメラの存在>を感じさせる撮り方をされると、見ている人は無意識のうちに興ざめしてしまう。


話は『ケス』に戻るが、この映画はほんとにドキュメンタリー・テイストで撮られている。作り手が作ったのではなく、あたかもホントにその物語があるかのように撮られているのである。しかも、ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスのように小手先のちゃらちゃらした表現手段で描くのではなく、<映画性>を保ちながら(カメラの存在を意識させないまま)、本物っぽく撮れているのである。
この<本物っぽさ>が素晴らしい。
ちなみにこの映画の監督のケン・ローチは愛称であり、本名はケネス・ローチ(Kenneth Loach)である。

日本では『少年と鷹』というタイトルでテレビ放映されたようだが、データを調べてみるとケスは「falcon」であり、鷹ではなくハヤブサのようだ。

<あらすじ>
ヨークシャーの炭鉱労働者である兄ジャド(フレディ・フレッチャー)と母(リン・ペレー)と3人で暮らしていたビリー(デイヴィッド・ブラッドレー)の生活は苦しく、彼も毎朝新聞配達のアルバイトなどをしていた。そんなビリは森の古い僧院の壁にハヤブサの巣を見つける。彼はそのヒナを巣かな盗み出し「ケス」と名づけた。古本屋で『ファルコニー』(鷹匠術)の本を万引、基礎知識をつけたうえで、ケスを訓練していく。国語教師ファーシング(コリン・ウェランド)はある日、彼にクラスの前で話をさせる。最初はひっこみがちなビリーも、ハヤブサの話になると目を輝かせて話し始めた。同級生達もその話を聞き入っていく。

物語は思わぬところから悲劇を迎える。ある朝、兄に馬券を買うよう頼まれたビリーだが、売り場の人に「これは外れるから買わなくていい」と言われ、預かった金を別のことに使ってしまう。ところがこの馬券が大穴で当たってしまった。兄はビリービリーを探して学校にまで押しかけてくるが、ビリーは逃げ回る。憤慨して帰っていく兄。ふと悪い予感がして、ケスの小屋に走るビリー。しかし、ケスはジャドに殺されゴミ缶に捨てられていた。

この感じは痛いほど良くわかる。
起きるのです、こういうことは・・・。

by ssm2438 | 2011-08-13 11:57


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