西澤 晋 の 映画日記

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2012年 01月 31日

女のみづうみ(1966) ☆☆☆

f0009381_0505598.jpg監督:吉田喜重
原作:川端康成
脚本:石堂淑朗/大野靖子/吉田喜重
撮影:鈴木達夫
音楽:池野成

出演:
岡田茉莉子 (水木宮子)
芦田伸介 (夫・水木有造)
早川保 (宮子の愛人・北野)
露口茂 (桜井銀平)

     ×   ×   ×

露口茂って絶対モロボシ・ダンに似てると思う。

『太陽に吠えろ!』のヤマさん以外にほとんど知らない露口茂の若かりし頃の映画。『ウルトラセブン』のモロボシダンを演じた森次浩司をもうちょっと図太くした感じ。良い役者だとおもうのだけど。個人的にはかなり好きな日本人の役者さんの一人である。

石堂淑朗がシナリオを書いている以上、たとえ原作が川端康成でも、観念論的なものになるのは仕方がない。本人は面白いつもりで書いているが、実は傍から見ると面白くないという典型的な作品。ただ、どうも我々からすこしい上の世代だと、こういう作品が好きらしい(苦笑)。
ただ、「何をもって良しとするのか」・・というビジョンが実は見えてこないので、見終わった後に「だから何?」といいたくなる。ま、これは石堂さんの場合はほとんどそうだといえるのだけど。
おそらく、これは私の勝手な推測なのだが、時代的には左派的話がおおい時期で、どこか作品のコアなる部分がそうなっているのだけど、石堂さん自身が保守派だったこともあり、作品で描かれそうになっている左派的観念をどこか否定して書いてしまうがゆえに、「結局なに?」になってしまうのではないだろうか?

吉田喜重の画面もあいかわらずシュールなのにしっかりしているのでここちよい。この人の画面をみるだけでも、みる価値はある。とくに後半の浜辺での難破船(壊れて放棄された船)のあたりの望遠画面はそれだけで絵になる。しかし、物語は生産性というものがない。ま、これはヌーベルバーグや、アメリカン・ニューシネマの特徴のひとつで、この時代の病気みたいなものなので仕方がないともいえる。なので一般的に楽しめるかといえば疑問である。しかし、映像業界に入る人にとっては、見ておかなければならない人の一人だと思う。

<あらすじ>
某一流デパートの営業課長・水木有造(芦田伸介)と結婚して8年になる妻・宮子(岡田茉莉子)は、彼女の家のリフォーム担当のデザイナーの北野(早川保)と不倫関係にある。しかし、何かにつけて感情を投資しようとしない宮子とのセックスに情熱を感じない北野は、「せめてあなたとの思い出がほしい」という。宮子のヌードを撮らせて欲しいというのだ。特に拒否するわけでもなく、「いいわよ」と答える宮子。
しかしネガが出来ると、自分の裸は最初は自分で見たいとと言い、そのフィルムをバックにしまって返って行く。事件が起きたのはその帰り道だった。何者かにつけられた宮子は、迫ってくる男にそのハンドバッグをたたきつけてなんとか逃げて返った。しかし、そのバックは男の手に渡った。やがて男から電話があった。
宮子は、ネガを取り戻すために、その男と会うことにする。彼は桜井(露口茂)という男だった。
宮子はすでに、男に身体を与えるつもりで来ていた。しかし、厄介なことに、愛人の北野が愛なのか正義感なのかわからないが、追いかけてきてしまった。このあたりから物語がこじれてくる。

物語のポイントは、意外と簡単なのである。
開き直ってしまえば、総てはどうでもいいこと。感情を投資しなければ、どうでもいいこと。それに徹しようとする宮子だが、ぎりぎりのところでその決心はいつも出来ない。それが出来なければ弱みをにぎられてしまう。そうすれば、自分はその男(運命といったほうがいいかもしれない)に支配されてしまう。
そのせめぎあいが何度が物語のなかで繰り返される。

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その後、浜辺を歩いていると、映画を撮影している一団のシーンが入る。でも、あれはないほうが良かったなあ。絵もよくなかったし、ちと押し付けがましかったかも。
どこぞの映画スタッフが恋人同士が浜辺で戯れるシーンを撮っているのだけど、主演の女優さんが裸になるシーンでは吹き替え役の人がいて、その人が裸になって海へはいっていく。「あなたは所詮誰かの、何かの代役なのよ」ってことなのだろう。
自分がいなくなれば、世間は困るのではなく、ほとんどの場合は他の代役がいつでもいるものだ。自分がそこにいるのは、そこにいて、自分が居たいからなのだ。しかし、自分をそこに存在させれば、感情も伴う。痛みも屈辱感も伴うことになる。それでもあなたは存在することを選びますか?

あそこの映画撮影スタッフのシーンがなくても、もう一つか二つあとのシーンで、露口茂の台詞にこういうのがある。
「結局、ボクが惚れてたのは、この写真の中の女だった。あなたじゃない」
男が愛するの女というのは、代用可能なのだ。理想の女は常に男の中に在り、実在する女は、その理想の女を投影するための題材でしかない。彼にとって実存する女であることを選ぶなら、彼の求める女になるしかない。代用品の女になるなら、今までのように感情を投資なければいい。
物語のなかで、彼女の旦那にとっても、愛人の北野にとっても、宮子は代用可能な女だったのでしょう。おそらく、代用不可能な女になるために、彼女は桜井に抱かれたのでしょう。

でも最後は断崖から落っことしてしまう。結局総てを捨てるということは出来なかったらしい。そのために殺人を犯してしまった。ホテルに帰ってみると、東京から夫が迎えに来ている。結局ばれちゃったのに・・・。そして帰りの列車にのると・・・、あらら、あんたは生きてたのね・・・ちゃんちゃん。

一応物語のポイントはあるのだ、結局どっちつかずの展開に、波の間でゆらゆらゆらめいただけ・・みたいな話でした。

by ssm2438 | 2012-01-31 01:04


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