西澤 晋 の 映画日記

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2012年 04月 17日

アーティスト(2011) ☆☆☆

f0009381_10592554.jpg原題:THE ARTIST

監督:ミシェル・アザナヴィシウス
脚本:ミシェル・アザナヴィシウス
撮影:ギョーム・シフマン
音楽:ルドヴィック・ブールス

出演:
ジャン・デュジャルダン (ジョージ・ヴァレンティン)
ベレニス・ベジョ (ペピー・ミラー)
ジョン・グッドマン (アル・ジマー)
ジェームズ・クロムウェル (クリフトン)

     ×   ×   ×

きわめてテクニカルな映画だなあ・・・。

2011年のアカデミー作品賞受賞作品である。

無声映画のスタイルを巧みに使った映画。なので、表現は微妙ながら、無声映画とはちと違う。無声映画の場合は、観客はと俳優の声や効果音は聞こえないが、この映画を見ている人は、どこかでそれが入ることを期待してみている。無声映画が無声映画でなくなる瞬間がどう演出されるのかを期待していのである。ゆえに、「無声映画のスタイルをたくみに使った現代の映画」なのである。

<無声映画で語られている映画のあらすじ>
クラーク・ゲーブルふうのジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は無声映画時代の花形スター。いつもワンちゃんと一緒に映画にでて人気を博していた。公衆の面前でのインタビューのさなか、観客の中にいたペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)は、財布を落とした拍子にうしろからおされて、その場に押し出されてしまい、その場のノリでもりあがり、ヴァレンティンの頬にキスしてしまう。そんなエピソードが世間で話題になてちた。
そんなペピーは役者志望で、ダンサー役の一人として映画のキャストに名を連ねていたが、徐々に人気を博し、ヴァレンティンと共演するまでになる。
一方映画会社のプロデューサー、アル・ジマー(ジョン・グッドマン)は、無声映画をやめ、全ての映画をトーキーに切り替えるという。あくまで無声映画にこだわるヴァレンティンはジマーの映画会社を離れ、独自に映画をつくる。そんな時大恐慌が襲う。映画産業も大打撃をうける。ヴァレンティンの映画を上映する映画館には客あしもまばら、そんな不況のなかでも、ペピーを主演に抜擢して撮られたジマー制作の映画だけは、長蛇の列が出来ている。
破産したヴァレンティンは没落していく。結婚は破綻し、家財はオークションにかけられる。お抱えの運転手だったクリフト(ジェームズ・クロムウェル)にはもう1年も給料をはらえていない。そんな彼に車を譲ることで出て行ってもらった。
自暴自棄になったヴァレンティンは、自室で貯蔵していた自分の映画のフィルミに火をかけてしまう。フィルムはよく燃える。またたくまに部屋中に炎がひろがっていく。
そんなヴァレンティンが助け出された時、1巻のフィルムを抱えていた。
その映画はペピーと初めて共演したときに映画だった。

その映像が流されると・・・・、ついついうるうるきてしまう。
<ニューシネマ・パラアイスの法則>である。

そのあとは、もうすこしばたばたするのだが、最後はハッピーエンドで終わるこの物語。悪くはない。充分泣ける。・・・・ただ、いまひとつのめりこめないものがある。
それはなぜでしょう???というのがこの映画の最大のテーマである。

おそらく、この映画はドラマを見せてる映画ではなく、演出技法をみせてる映画として、心が理解してしまうからだろう。
無声映画というのはあくまで無声映画なのだ。それはドラマを語るスタイルとしてそういうスタイルがとうじとしては最高の表現手段だったのだろう。しかし、あくまでそれはドラマを語るための媒体だった。
この映画に今ひとつのめりこめないのは、ドラマ自体が、無声映画を語るためのネタとして扱われてしまった。どうもそこが、私の心は気に入らないらしい。

以前見た『トラフィック』をいうスティーヴン・ソダーバーグの映画があったが、あれを見たときも似たような印象をもった。
<物語>をみたいと思って映画館にいってるのに、<物語>でなく<テクニック>を見されられた感じなのだ。
一般庶民的にはそんなことどうでもいいのだろうが、ドラマ産業にかかわる人という立場で心の感じ方を分析すると、それは純粋に気持ちのいい感動とはなにか違うもののような気がした・・・。

by ssm2438 | 2012-04-17 11:00


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