西澤 晋 の 映画日記

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2012年 09月 16日

告白(2010) ☆☆

f0009381_12101063.jpg監督:中島哲也
原作:湊かなえ『告白』(双葉社刊)
脚本:中島哲也
撮影:阿藤正一/尾澤篤史
音楽プロデューサー:金橋豊彦

出演:
松たか子 (森口悠子)
西井幸人(渡辺修哉)
橋本愛 (北原美月)
藤原薫 (下村直樹)
木村佳乃(直樹の母・優子)
岡田将生(寺田良輝)

     ×   ×   ×

「翔丸組にはいるのだ」・・・な~んてね。

2010年の日本アカデミー賞作品賞受賞作品。

物語は一人の教師の独白的な告白で始まる。その内容は、彼女が担任したそのクラスに、自分の娘を殺した生徒がいるというもの。彼らは少年法で守られているため、刑事責任はとわれない。なので、その2人の生徒に飲ませた牛乳の中にエイズ感染者の血を混入させておいた・・と告白する。
物語は表面的なストーリー展開一般描写とし、その人だけが知っている自分の価値観を語ったシーンを、主要キャラクターの告白というような形で表現されている。表面的にはおちゃらけた世界にみえるそのうらにはこういうリビドーがあるんだよ・・みたいな表現なので、本来私の好きなタイプの作品なのだけど・・・なぜかはまれない。物語は、結局最後まで見させるような惹きの強さをもっているので、《どうなるのか知りたい欲求》にかられて最後までみてしまうのだから、つまらないとはいえないのだけど、なぜか好きになれない・・・・。なぜなのか? それが監督の中島哲也がもつ演出スタイルの問題点なのだろう・・・。

<あらすじ>
シングルマザーの教師・森口悠子(松たか子)には3歳になる娘がいた。父となるはずの男はエイズだと判り結婚を断念、しかし幸い生まれた子にも悠子にも感染はなかった。そんな娘が学校のプールで水死体となって発見される。そして学期末の最後の日に、「娘を殺した犯人がこのクラスにいる。彼ら2人には昔の婚約者の血液を混ぜた牛乳を飲ませた」と告発する。
新学期が始まるがクラスの顔ぶれは一緒。犯人の一人渡辺修哉(西井幸人)はずけずけと登校してき、みんなからのイジメにあう。もう一人の犯人・下村直樹(藤原薫)は登校拒否に陥る。
クールに状況を傍観していた学級委員長の北原美月(橋本愛)は、修哉のイジメに加わらないことから制裁をうけ、彼と無理やりキスさせられてしまう。そんな美月は修哉に呼び出されて、HIVに関して陰性である診断書をみせ、「君はエイズにはかかってないから安心しろ」といわれる。これを機に2人の仲は急速に進展していく。
それぞれの人には心に闇が設定されている。
修哉は、自分を捨てていった大学教授の母に認められたい願望。
直樹は、だれでもいい、自分をみとめてほしい願望。
美月は、私だけは貴方を理解してるのよ。だから大切にして願望。

直樹の気持ちも、美月の気持ちも、修哉に向かっている。しかし修哉は彼らのことはたんなる人生のなかのアイテムであり、彼の想いはつねに母にむかっている。母にその存在を認めてもらえない修哉は、卒業式の日、学校を爆破することで自己アピールしようと試みるが、その爆弾は森口悠子によって別の場所に移動されていた。修哉が携帯から信号を送った時、その爆弾は、修哉の母のいる教授室を、彼女もろとも吹き飛ばした。
さめざめと泣き崩れる修哉。そこに悠子が登場。

ほら、命が軽いなんていってるあんたも、そうじゃないってわかるったでしょ。これが貴方の更正のはじまりなのよ・・・な~んてね・・・で終わる。


気分はラース・フォン・トリアー的であり、みていて気持ちのいいものではない。演出も『エヴァンゲリオン』っぽくってけっこううんざりするのだが、「実はこうだったんだ、実はこうだったんだ構成」で、最後まで観させる構成になっている。
そのくらい惹きつける構成なのに、なぜう・ん・ざ・りさせるのか・・・これが問題なのだ。

それは、若い世代の価値観の構造が根本的に変わってきているきがする。それにあわせて物語を作れる人がつくるとこういうことになる・・ということなのだろう。
では、どう価値観の構造がかわってきたのか・・・??
それはインターネットにより、自分の感じた痛みなどの感覚を、即効的に客観的な感覚に移し変えてしまう技を覚えてしまったことだ。映画やドラマなのでの痛いシーンを見たとしても、その反応をネットでチェックし、あ、みんなもこんな風に感じてるんだ、ふ~~~んで、自分の受けたショックを軽減化してしまう。
以前は、ネットなどの情報検索環境がなかったので、ドラマなどからうける痛みなどのショックは、自己のモノとして自分の細胞のなかに吸収されてそれが人格として形成されていったのだろうが、最近の場合は、その痛みを自分の中に吸収する以前に、ネットで客観的な捕らえ方に変換してしまい、ドラマで使われる記号として貯蓄してしまう。

中島哲也の演出というのは、物語をなかの痛みを真実として受け入れてもらうことをめざさず、今の世代が受け入れ易い記号化した情報として提示するのである。同人誌漫画ののりを映画にもってきているのである。彼が作る世界観というのは、シチュエーション・コメディ、シチュエーション・サスペンス、シチュエーション・ホラーと呼ばれる世界なのだ。
別の例として、『ソウ』にしても、やっていることは残酷なことなのだが、既に記号化して提示されたシチュエーションなのだ。なので、それを観て楽しめる人は、記号化された情報だとしてうけとる。もう、こういう映画は、見る側と作る側で、お互いの了解で出来ているようなきがする。
それが好かん。そういう風に描かれると、提示された総てが見たことのある情報で、うんざりしてしまう。

物語を作る人は、物語の中で展開するものを「真実」のものとして受け止めてほしいという願望がある。すくなくとも、昔は観る人もそうだった。そういうものを作りたいと思うし、そういうものを観たいと思ったし、そういうものでないと感動を残せないと考えた。ただ、今時の人には、それを「真実」として受け止めるには重過ぎるのである。それを記号として提示してあげないと食傷気味になってしまう傾向にある。どんなに残酷なショッキングな画面をみても、痛みを記号化し情報化して拡散してショックを和らげるようになれてしまった。痛みを自分のものとして受け止める能力を失いつつある。
そんなんでいいのか????って思う。

ヤな時代になったものだ・・・・。

by ssm2438 | 2012-09-16 12:10


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