西澤 晋 の 映画日記

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2009年 02月 01日

日本沈没(1973) ☆☆☆

f0009381_1701436.jpg監督:森谷司郎
原作:小松左京
脚本:橋本忍
撮影:村井博
    木村大作
音楽:佐藤勝
特技監督:中野昭慶

出演:藤岡弘
    小林桂樹
    丹波哲郎
    二谷英明
    中丸忠雄
    いしだあゆみ

     ×     ×     ×

先頃TVシリーズの『日本沈没』をボックス買いし、TVシリーズのこの作品をみてみた。作りはチープでも、やはりこの作品は一度キチンと語っておかなければいけない作品だなあと思い取り上げることにした。
しかし、語ろうにも原作を知らないとどうにもその本質がわからないようで、しかたなくまず原作を読むことにした。

まず思ったのが、この劇場版の『日本沈没』(1973)はかなり正確に原作のスピリットとストーリーをカバーしているということがわかった。どちらかひとつ見るのだったらやはり昭和『日本沈没』のほうが正解だろう。
平成『日本沈没』は、イベントだけをその題材にしているが、物語は全然性質が違うものだし、その中で描かれているのはCGフルに使ったその他大勢のトレンディ・ドラマの一つであり、これはこれでほんとにこういうもんだと思って観るなら、全然受け入れられるものだとも思うのだけど、さすがに前の『日本沈没』を知っているものにしてみると、本質的な部分がまるで排除されてるので、どうも『日本沈没』というタイトルには値しないような気がする。


以下、小松左京の原作のストーリーを追いながら思うことを書いていこう。

ドラマは、日本の遥か南の海上の小さな島が一晩にして沈没した事件をうけて、その原因を探るという形で始まっていく。小松左京の深海に潜るわだつみのゴンドラのなかの描写はとってもすてきだ。バチスカーフタイプの深海潜水艇はガソリンをフロートに使うそうな。おお~~そうだったのかと関心してしまう。誰が考えつたのかしらないが、人間というのはすごい頭をもっているものだと関心してしまう。
潜水するためのバラスト、船底からのびたガイドチェーン。
沈んでいくわだつみの下にはガイドチェーン(200メートルくらい?)が伸びていて、水中にある時はそれもバラストの役目をしているが、海底にチェーンがつくと徐々に空間にあるチェーンの長さは短くなるのでトータル質量が減るしくみになっており、降下速度が減っていくとか‥‥なんだかこういう人間が考えたこそくな仕組みというのはとってもわくわくする。
浮上するときはバラストを切り離す。これは平成『日本沈没』できちんと描かれていて、ここだけはとっても好感がもてた。しかし、浮上のさいに切り離すバラストはなんでもあとでもう一度船上のクレーンで引き上げるのだとか‥‥、なんだかそのせこさがとってもすてきだった。

やがて東京にもどった小野寺は吉村部長につれられて銀座の飲み屋にむかう。そこで阿部玲子とお見合いしてみなかという話をきかされる。
映画でも、TVでも小野寺とひっつくのは阿部玲子なのだが、原作では実はここで出てくるホステスのマコ(摩耶子)と最終的にひっつくことになっている。男子たるもの、つねに進化するために憧れる女性と、安らぐための劣等感を感じない女性を必要とするものだが、小松左京はこの二つのタイプの女性を小野寺に用意している。
そうはいっても、平成『日本沈没』みたいなベタなトレンディな恋愛ではなく、もっとからっとした、恋愛かどうかもわからない男と女の関係としてえがかれているのだけれど。

阿部玲子に関していえば、いしだあゆみが正解だろう。由美かおるでも十分納得はできる。
小野寺は、原作の雰囲気ではTVの村野武則のほうが近そう。あの時代の大人からみたある意味軽い‥‥、そしてじとっとした怨念をもたないような、それでいて誠実さのある肯定的にとらえた未来の日本人を小松左京は小野寺というキャラクターで描こうとしていたようだ。藤岡弘ではちょっと濃すぎる。が、原作を離れてみた場合は、彼で正解だと思える。
トータルで昭和『日本沈没』の配役はとっても妥当な配役をしている。D計画の田中(黒沢年男)、幸長助教授(細川俊之)はTVシリーズの二人も十分素敵だ。とくに幸長にかんしてはTVの彼の方が私的にはお気に入りである。
残念だが、平成『日本沈没』の配役は最悪だ。ドラマの本質を離れて、人気商売ネタとして設定されたとしか思えない。


やがておこる京都地震。これは原作でもちょろっと書かれただけのエピソードだが、山根優一郎のモディファイドしたTVシリーズの11話~13話はすごく出来がいい。ほとんど日本人の心のふるさとの崩壊を見事に描いてくれた。
政府や渡老人が国宝級の仏像や絵画など膨大な財産をなげうって(私利私欲のためではなく、純粋にその文化財を残すために)買い取り国外に持ち出したり、それらをオークションで海外にうりさばいたりする作業が実にせつない。
原作の最後に、田所博士がこんなことを云っている。

  「日本人は‥‥、人間それだけで日本人というわけではない。
   この4つの島、この自然、この山や河、富士山や日本アルプス、利根川や足摺岬、
   先人たちが残した遺跡、それらが一体となって「日本人」なのだ。
   もしそれらが失われた、もはや日本人というものはなくなるのだ‥‥」

この想いを具現化するように、日本人から、日本人の心のふるさと=京都を奪っていくこの一連のエピソードの情緒性はTVのなかでも際立って切ないものに仕上がっている。


やがて小野寺と阿部玲子が海外に旅立とうとするその日に富士山大爆発、真鶴道路で阿部玲子は死ぬのである‥‥原作では。小野寺にとって阿部玲子は、死んだかどうかもわからないまま、突然消えた永遠の夢人に昇華されるのである。その残酷なまでに完全になくなってしまわない0.001%の希望が、小野寺を絶望的な救助活動へと駆り立てていくことになる。そしてその救助活動のなかで摩耶子と再開する。

原作では阿部玲子はメインの登場人物ではないのだ。そしてたぶん、富士の大爆発で死んでいるのだろう。その後の小野寺とひっつくことになる女性はこの摩耶子という人物で、物語の前半でキャバレーの女としてちょっと登場するだけなのだ。この次点ではどうしようもない根性なしのあまったれた小娘。しかし最終章で小松左京は、彼女の中に恐ろしいまでの生命力を描き出していく。日本民族が大地はなくとも、個人としてしぶとく、雑草のように生きていけるであろう可能性を彼女に投影して描くのである。
(ここは原作を読んでください)

そして、孫娘が渡老人のところを去るシーン。
床に眠る老人が「みせてくれんか?」と頼む。
娘は白いのどを動かすようにのどを息を引いた。ひと呼吸おくと娘はつんと立ち上がり、帯がなり、着物が型をすべり、かすかな機ずれの音がすした。「日本の‥‥女子じゃなあ‥‥。丈夫なや赤子(やや)を生め‥‥」
服をもってきた男が彼女の裸身をみてためらっているのに気付くと老人は目で合図した「連れて行け」。

ここは映像で欲しかったなあ。
残念。。。

そして決め台詞、映画では田所博士の言葉として、原作では渡老人の言葉としてこう語られる。

日本人はまだ若い国民じゃ。外に出て行って痛いめにあっても、
  またこの4つの島に逃げ込んで、母親の懐に鼻を突っ込んでりゃあ良かった。
  じゃがもう帰るべき日本という国はない。
これは日本民族がいやおうなしに大人にならなければいけないチャンスかもしれん。
帰る家を失った日本民族が、世界中で海千山千の他の民族と立ち会っていかねばならん。
  外の世界に呑込まれて、実質的にはなくなってしまうかもしれん。
  あるいは真の意味での大人の民族に育っていけるか‥‥。
  日本民族の言葉や風俗や習慣はどっかに残っており、どこかに小さな国くらいつくるかもしれん。
  そして辛辣に打ちのめされ、過去の栄光にしがみつき、郷愁に溺れ、
  我が身の不幸を嘆いたり、世界の冷たさにたいして愚痴を残すつまらん民族になりさがるか
  ‥‥これからが賭けじゃな。

昭和の『日本沈没』では全部は描けないにしても、小松左京のもつ原作のメッセージが確実につめこまれている。自分をしっかり考えてみる人は、見て損はない映画だ。

これは小松左京が一人一人に
「あなたならそんな状況で生きていけるのか?
 もしそれだけ強くないなら、これからどうするか?」と問うている物語なのだ。
見ている人一人一人が、己の弱さとその対応策を己自身に問うための、そのきっかけにするべきドラマなのだ。

     ×     ×     ×

テレビ『日本沈没』のテーマソング

「明日の愛」
作詩:山口洋子 作曲:筒美京平

さようならと泣かないで 今は微笑みを
いつかまた めぐり逢える 光と風のように
人はみな遠ざかり 夢は褪せようと
花は咲く 春がくれば 地の果て 続くかぎり

あおい海の彼方の 静かな岩かげ
ひとつぶの 真珠になり 想い出遠くねむる
眼を閉じればいつでも 側にいるあなた
あの星と 同じように またたく愛のひかり

あの星と 同じように 消えない愛のひかり

by ssm2438 | 2009-02-01 12:56 | 木村大作(1939)


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