西澤 晋 の 映画日記

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2009年 01月 05日

河童のクゥと夏休み(2007) ☆☆

f0009381_1825211.jpg監督:原恵一
脚本:原恵一

声の出演:田中直樹
       冨沢風斗

この映画をみたのは西東京市から車で45分くらいの武蔵村山市のダイアモンドシティ。すっごいショッピングモールだね。きれいだし。
本編の主人公のうちがあるのが東久留米。なのでなんだかちょっと新宿なんかでみるよりも、わざわざ遠出して、東久留米とおりこして、武蔵村山まできて、ほんの少し田舎っぽい感じのなかでこの映画をみられたのはよかったかなって思ったよ。

で、内容的には、ほんとに、普通に創ってあった。Yahoo! 映画のコメントみるとやたらと無理やり感動しようと努力して感動してるようなコメントもあったり、むりやり環境問題とリンクさせようとしてるものもあったらりと、ちょっと勘違いコメントがおおいぞってのもみてから分かりました(苦笑)。普通に普通の家庭のなかに、河童がはいりこんだらこんな感じかなってのは自然にかいていったかんじ。
「いい作家はひとつしか嘘をつかないけど、ヘタな作家はいっぱい嘘をつく」っていう言葉がありますが、ひとつしか嘘をつかないで創った映画って感じで好感はもてました。


この映画のいいところは、環境破壊とか、人間の業とかを否定せずにドラマを作ってるところなんだろうな。
ひとそれぞれにはそれぞれの事情ってものがあり、そのなかで誰かに迷惑をかけると分かっていても譲れない想いや、やってしまわねばらないない感情とかがあって、それを含めて人間の社会なんだよね。つまり、「他人に迷惑をかけないこと」がいちばん大事なんじゃなくて、他人に迷惑をかけてでも、世界中を全部敵に回しても、やらなければいけないことってあって、それをやらなければいけないときはやってしまえることがとっても大事。それこそがその人が生まれた意味なのだから。
その結果として今の我々の社会があって、そのこと自体を受け入れたなかで物語を語っている。それが素敵。
この映画のなかでは、河童や、上原家の人々に不利益を投げかける人もいるんだけど、でも「ああ、でもそれも仕方ないよね」って許せる見せ方をしてる。

でも、あの台詞は好かんかな。
冒頭、御代官様(?)に「竜神沼の開発はやめてくれ、おらたちが住めなくなる」って懇願するクゥの父ちゃん、しかしその代官は恐怖で斬り殺してしまう。
そのまえの「開墾は村人のためではなく、私利私欲のため」っというような会話があり、それを聞かれたかもしれないってことも斬り殺してしまうモチベーションの一つにしていたのだけど、トータルなつくりからするとちょっとお子様に媚たきがしたかな。
子供向けにするにはそういった「こいつ悪者ですよ」みたいラベルはらないといけないのかもしれないけど・・、まあ、作り手心理としては、嫌だなとおもいつつも、どうしても一般ピープル向けにはそういう子供向け表現も仕方がないかなって思いながらついつい入れてしまう部分ではあるのだけれど。

でも、全体としてはきわめて理性のきいた話になっていた。人間社会のそういった衝突の中で、もちろん誰かが被害者になり、だれかが加害者になることは仕方がないこと。この仕方がないことって受け入れられることがとっても素敵。
そのためには、自分が被害者にされることを受け入れないとそのメンタリティには到達できないってことで、そこに到達してるから描ける話になってるってこと・・それが素敵。
これが、そこに到達できない人だと、ひたすら被害者擁護で、加害者非難で、捕鯨反対映画をとるしかなくなる。
原さんの一連の話をみてて思うのはそうならないメンタリティが素敵だ。

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』にしても『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』にしても、今回の『河童のクウと夏休み』にしても、ある種の潔さ=美しさがあるんだよね。
それって、犠牲になることを受け入れたスピリット。

他人のための自己犠牲という意味ではけっしてない!!!
他人のための自己犠牲という意味ではけっしてない!!!
他人のための自己犠牲という意味ではけっしてない!!!

3回くらい書いておこう(笑)。

人間の社会、それは自然の一部なんだけど、そのなかには、排除されるものと、排除するものが常に存在する。それがあるから自然はつねに浄化され、すこしづつ、進化していくのである。
もし、その機能がなかったら、ウンコのつまった万年便秘状態になり内側から腐っていくだろう。

原さんのスピリットには、
自分が排除される立場にもなりうることも受け入れてるし、
排除する側になる立場になることも受け入れている。
その立場にたったそれぞれの人の生き方が描かれてるから美しいんだよね。

それはおマタのおじさんにしても、姫さまにしても、今回のクゥにしても、上原家の人々にしても、菊池(みんなから村八分にされてる女の子)にしても、みんながそれを受け入れてるから美しいんだと思うな。受け入れてなおかつ、自分なりのスタンスを決めて、ま、それが排除される側なら仕方ないか・・って潔い。

これが、たとえば、むやみに反戦をとなえる人たちが、なんでさりげなく醜いかっていったら、きっと彼らは、「もし自分が戦争にいったらやっていけない、なんとか戦争ということ自体にまきこまれないようにしなければ・・」ってメンタリティが先に働いて、それが結果として立派な理論を形成して戦争反対にいたるのだけど、結局は「自分は排除されたくない」が基本になって、それをひたすら別の言い訳で隠しとおしながらなんとか恐怖からのがれようとする。
その臆病さが醜いんだよね。

誰だって排除されるのは怖いけど、かといって排除するシステム否定したら全体系がなりたたなくなる。大人になるってのは、この排除されるシステム、排除するシステムに参加するってことなんだと思う。
子供のころは、親にまもなられて排除されることがないように出来ている。
でも、すこしづづ、学校などの集団活動で、排除され、排除することを経験していくんだけど。
それでも、あまりにも臆病さを押し殺せないひとは排除するシステムを受け入れられないまま大人になり、だからこそ同じように臆病な排除されるの怖いぞゲットーを形成し、排除される側を擁護し、排除するものをなんでもかんでも非難するようになる。
そんな人はつねに美しい理論を語るのだけど、なにか嫌はものを感じさせる。
それがいわゆるルサンチマンなんだけどね。

美しくあるためにはルサンチマンを排除しないといけないんだ。
・・と、『河童のクウと夏休み』をみて、しばし考えて、そんな答えがでた。
ま、これは社会人としては当たり前のことだけど、その当たり前ができてなく、被害者擁護、加害者非難が正義だと勘違いしてる大人になれない子供がおおい今の時代に、きちんとこういうスタンスで描けるの人はいることはとってもいいことだ。


・・が、どうにも作画力の弱さはいただけない。

クレしんでこれやったら確かにいいものになったかなってきは確かにする。
クレしんって、作画にゆがみがあって、下手に絵にしても受け入れてもらえる土壌がそこにある。それってけっこう重要なんだよね。
こんかいみたいに正面きって普通の作品としてやってしまうとどうしてもある程度以上の作画力が要求されてしまう。その点においてはちょっとしんどかったかなってきがした。

by ssm2438 | 2009-01-05 13:24


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