西澤 晋 の 映画日記

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カテゴリ:ゴードン・ウィリス(1931)( 14 )


2011年 04月 13日

インテリア(1978) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_12381882.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ジェラルディン・ペイジ
    ダイアン・キートン
    メアリー・ベス・ハート
    クリスティン・グリフィス

        *        *        *

ウディ・アレンイングマル・ベルイマン信者であることは誰もが知っていることだが、この映画はアレンが、どうしてもベルイマンを一度やってみたかったのだろう、そしてやってしまった映画。しかし・・・本家に勝るとも劣らない素晴らしい映画に仕上がっている。この分野でエンタテイメント性というのもおかしな話だが、少なくともベルイマンの映画よりはそれはある。ウディ・アレンの中では一番好きな映画である。

ベルイマン映画のなかでは、常に高圧的支配者が登場する。『秋のソナタ』ならイングリットバーグマン演じる母。『沈黙』ではイングリット・チューリン演じる姉。『野いちご』では、やはりイサクの母。『ファニーとアレクサンデル』では義父の神父。そういった支配的環境のなかでいかに自己を守っていくか、あるいは嫌われないために自己を放棄していくか・・、そういったアイデンティティの存続を描けた戦いが描かれている。

ウディ・アレンが作った『インテリア』のなかでは、3姉妹の母がその高圧的な支配者となっていた。その環境下で育った3姉妹が、大人になった時、そしてその母が以前より弱くなっていったとき、彼らがどう対処したか・・それが描かれている。この映画では、支配的な立場いた母の影響力が弱体化してきてるなか、本人はまだそれをもっていたいと思っているが、そうではない現実がある。この状況ではかつて支配者だった母ですらも彼女のアイデンティティの崩壊の危機にたたされている。

そして、人が社会の中で生きていく以上は、被支配的立場と支配的立場の両方を経験することになる。そういう意味ではここに登場する誰にでも感情移入できる部分があるはずだ。あるときは母の立場に・・、あるときは長女レナータの立場に、そしてある時は次女ジョーイの立場に・・・、そしてあるときは、父の立場に・・・。

<あらすじ>
ロングアイランドの海岸ぞいにたつモダンな白い家。富裕な実業家アーサー(E・G・マーシャル)が、インテリア・デザイナーである妻イブ(ジェラルディン・ペイジ)と30年間すごした家である。彼らには3人の美しい娘がいた。長女のレナータ(ダイアン・キートン)は、売れっ子の女流詩人。次女のジョーイ(メアリー・ベス・ハード)姉レナータにライバル意識をもっているが、自分になにがむいているのか分らないで苦しんでいる。三女フリン(クリスティン・グリフィス)は恵まれた容貌と肢体を生かしてとりあえずTV女優として活躍していた。

その日3人の娘のまで父は、妻イブと別居したいと話す。自分なりの美意識と創造力で家庭を支配してきたイブの生き方には耐えられなくなった、というのだ。イブは家を出ていった。イブの生き方は、まさにインテリアデザイナーなのだ。それは家族の人もそのように配置する。「これはこうあるべき」「それはそこがいちばんにあっている」、ゆるぎない完全主義者なのだ。その影響かで育った長女のレナータは、もっとも母の期待にこたえた人だろう。そんな姉にどうしてもかなわなかった次女のジョーイ。彼は常に劣等感を持って生きていた。どんなにがんばっても姉のようにはなれない。母の期待には応えられない・・・。三女のフリンは姉と知能で対決することは避けて美貌で人生を切り開いた。といっても、有名女優には程遠い。

イブは自分の存在意義に自身をうしないガス自殺を企るが、一命はとりとめた。一方、アーサーは既に新しいパートナーを見つけ、彼女と再婚することを娘たちに話す。彼女はパール(モーリン・スティプルトン)といい、母とはまったく正反対のタイプので、ひとことで言えば、「彼女からは劣等感を感じそうにない女性」だった。娘たちは、特にジョーイは強く反対した。
彼女にしてみれば、母は確かに高圧的な人で、姉と比較されればいつも惨めなのは自分だったのだが、一番認めてほしい存在は確かに母だったのだ。しかし、父が連れてきた新しい母になるであろう人には、自分を認めてほしいと思えないのだ。こんな人をなぜ・・!!と思うジョーイ。

父はイブに正式離婚を申したて、パールと結婚した。父の願いを入れて結婚式に列席した3人の娘たちだが、式後のパーティでは空虚しか感じられなかった。その夜、みんなが寝静まったロングアイランドの家にイブがそっとやってきた。ひとり寝付けなかったジョーイが母と話最後の人となった。
ジョーイは、母の期待に応えたくても応えられない、姉と比べられ劣等感と無力さのなかで常に苦しんでいたことを告発する。そんな自分を一度でも理解してくれようとしたのか? 愛すべき母なので、憎くくてしかたがなかったことを・・。
自己満足の為に家族を支配してきたことを痛烈に批判されたイブは絶望し、自己を肯定する要素をすべて失ってしまった。そしてその早朝、一人灰色の海へ入っていくのだった。


この映画は、自己の劣等感と真剣に戦っている人に捧ぐ同士の詩だ。

そして最後にもうひとつ、この映画にはBGMがない。言葉と息づかいだけで物語が進行する。それを氷のフィルターを持つ男=ゴードン・ウィリスが的確な画面としてきりとる。そのレイアウトの完成度の高さはまさにインテリア・デザインを彷彿させる、研ぎ澄まされてバランス感覚の画面だ。このゴードン・ウィリスのカメラなしにこの映画は成り立たなかっただろう。

by ssm2438 | 2011-04-13 11:24 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 08月 24日

カメレオンマン(1983) ☆☆☆☆

f0009381_11255689.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ウディ・アレン (ゼリッグ)

       *        *        *

あいかわらずゴードン・ウィリスとウディ・アレンの二人の映像センスのマッチングはすばらしい。

この二人が作った映画の画面の完成度は図抜けている。この映画はコメディなのだが、一生懸命細部にこだわり、緻密にコメディをしているので実に味わい深い。映画自体のおもしろさというよりも、作りこみの楽しさを堪能する映画だと思う。

ウディ・アレンはドキュメンタリー的な手法(「モキュメンタリー」とか、「フェイクムービー」と呼ばれる)で映画をつくることがよくあるが、そのなかで最も効果的に成功しているのがこの『カメレオンマン』だろう。「カメレオンマン」というのは、周囲の環境に順応し姿かたちが変わってしまう特異体質の男ゼリッグのことであり、この映画は擬似ドキュメンタリー形式で彼の生涯を描いている。そのゼリッグの基本はとにかく劣等感。ひたすら気の弱い彼は身の安全をはかるために、周囲から決して眼をつけられないような一般凡人になりきってしまうのである。ユダヤ人であるウディアレンしか思いつかないストーリーだろう。

第二次世界大戦においてはナチの迫害にあったユダヤ人。そのころを描いた映画をみると、ユダヤ人であることを捨てて生きなければならなかった彼らがよく描かれている。ユダヤ人として自己を主張すれば殺される。かといって自分の本来のアイデンティティであるユダヤ人としての存在を捨てられるのか・・? そのジレンマのなかで、命の安全のためにはユダヤ人でない振りをするしかなかった彼らたち。そこにはとてつもない悔しさがあったはずだ。ユダヤ人としての誇りがあればあるほど、ユダヤ人でないふりをして生き延びている自分たちの惨めさ。かといって、自分はユダヤ人だと宣言して殺されるわけにも行かない。
そんな彼らのジレンマを突き抜けてしまったところにあるゼリッグという人物。自己防衛本能が総てに優先され、そのために自我が押し殺されてしまった男。
ユダヤ人であるウディ・アレンのきわめて自虐的なコメディである。

<あらすじ>
第二次世界大戦前のアメリカに、ゼリッグ(ウディ・アレン)という変わったユダヤ人がいた。彼は周りの環境に順応し、身体つきも精神も変えてしまうのだ。そんな彼は何処にいても決して目立つことはない。彼がそこにいてもまったく不自然ではないのである。彼はいろんな有名人と一緒にいるところを目撃されていた。ルー・ゲーリックベーブ・ルース、当時の大統領など、本来警備が厳しく一般人は決して近づくことなどできそうにないところに彼は出没しているのである。
彼の調査、及び治療にあたったのはユードラ・フレッチャー医師(ミア・ファロー)。しかしユードラと向かいあうと即座にゼリッグは身も心も精神分析医になりきってしまうのだ。いじめられ子だった彼は、いじめられるのをおそれて呼んでいない『白鯨』を読んだといったときからそのような体質になってしまったという。
いつしか、ユードラはゼリッグに恋するようになるが、ゼリッグの姉の恋人マーテが、ゼリッグの特異性に眼をつけを見せ物にして世界を巡業する。しかしゼリッグが俳優だった時に彼と結婚していたという女優リサ・フォックスが名乗り出て来ると、ゼリッグはマスコミが攻撃する的になる。非難を浴び姿を消すゼリッグ。その後、彼はローマ法皇と一緒のところを目撃された。ヨーロッパに飛んだユードラは、なんとヒットラーの後に何食わぬ顔で存在しているゼリッグの写真を見つけて驚く。
その後、ゼリッグとユードラは帰国し、結婚し幸福な生活をおくったという。

そんな彼の生涯が資料映画として一本の白黒フィルムにまとめられており、ゼリッグについて語る知識人たちのインタビューはカラー映像で撮影されている。

by ssm2438 | 2010-08-24 11:26 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 08月 18日

大統領の陰謀(1976) ☆☆☆☆☆

f0009381_1554734.jpg監督:アラン・J・パクラ
原作:カール・バーンスタイン
    ボブ・ウッドワード
脚本:ウィリアム・ゴールドマン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:デヴィッド・シャイア

出演:ダスティン・ホフマン
    ロバート・レッドフォード

        *        *        *

1970年のウォーターゲート事件とは、ニクソン政権の野党だった民主党本部があるウォーターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、不審者が盗聴器を仕掛けようと侵入したことから始まった。当初ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事件と政権とは無関係」との立場をとったが、ワシントン・ポストなどの取材から次第に政権の野党盗聴への関与が明らかになり、世論の反発によってアメリカ史上初めて現役大統領が任期中に辞任に追い込まれる事態となった。<ウィキペディアより)>

この映画はこの事件発覚後、ホワイトハウスは大統領の関与を否定したが、ワシントンポストの二人の記者カールバーンスタインとボブ・ウッドワードは大統領の指示でこれが行われたのではという懸念をもち、独自に捜査をしていく。大統領がこの盗聴を指示したとしたらそれは大スクープだが、そう報道しておいて事実が認定されなければただの大ほら吹きの新聞社ということになる。ゆえにどこの新聞社も新調に報道していたのだが、ワシントンポストの二人はディープ・スロートからの情報も得ていて、大統領=黒の方向で記事にしていく。

何を撮っても面白くないアラン・J・パクラのなかの面白いほうの話。大雑把なエンタを求める人には不向きだが、情況描写だけでで真実を追い詰めていくサスペンスがすごい。松本清張の本がそんな感じだが、それを映画でやるとこうなるのか・・って感じの映画。
そして映画の緊張感をたかめているのがやはりゴードン・ウィリスのカメラ。いつもながらに氷のフィルターつけてます。

ただ、確かに地道にすごい映画なのだけど、結局「だったらディープスロート、おまへ小出しにせずに始めっからそういえよ」って感じ。そうすりゃあもっと早く事件は解決してたのに・・みたいな。地道な確認作業の積み重ねは実に素晴らしいサスペンスを生んでいるのだが、基本のストーリーラインはかなり単純。というかまったくドラマはないと言える。・・はは、さすが良くも悪くも<何を撮っても面白くないアラン・J・パクラ>、くそおっ、面白いぞ!

ちなみにこの年の賞レースは白熱。シルベスタ・スタローンジョン・G・アビルドセン『ロッキー』シドニー・ルメット『ネットワーク』アラン・J・パクラ『大統領の陰謀』マーティン・スコセッシ『タクシードライバ』など重厚なドラマが目白おじ。まさに重量級の激突。アカデミー賞作品賞は『ロッキー』が持っていきましたが、アカデミー脚本賞NY批評家賞の作品賞はこちらの『大統領の陰謀』でした。

by ssm2438 | 2010-08-18 15:21 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 05月 20日

マンハッタン(1979) ☆☆☆☆☆

f0009381_23345362.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン/マーシャル・ブリックマン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョージ・ガーシュウィン

出演:
ウディ・アレン (アイザック)
ダイアン・キートン (メリー)
マリエル・ヘミングウェイ (トレイシー)

        *        *        *

ダイアン・キートンと付き合ってた頃のウディ・アレン作品は素晴らしい。

ウディ・アレンの画面をきちんと作る才能はほんとに素晴らしいと思う。もちろんこの映画の撮影監督はゴードン・ウィリスなので、誰が監督でもきちんとした絵にはなるのだけど、それでもゴードン・ウィリスが撮影監督でないときも、きちんとした画面構成をいつも構築している。もっともこれは撮影監督の力がかなりあるのだろうが、その撮影監督を見抜くちからもすばらしい。もっとも、このゴードン・ウィリスに撮ってもらってた時代が一番好きだけど、そのあとはカロル・デ・パルマと一緒に仕事をしている。この人はミケランジェロ・アントニオーニの映画をよく撮っていた人だ。そしてゴードン・ウィリスの前の時代で、画面にひきつけられたのは『ウディ・アレンの愛と死』だった。予備知識のないままたまたまテレビをつけたらやってて、「うわあああ、なんかきっちりした画面とってるなあ、誰だ?」っておもったらギスラン・クロケだった。納得。彼は『テス』アカデミー撮影賞をとっている。
ウディ・アレン自身が画面構成能力が恐ろしくしっかりしているので、それが上手い撮影監督が誰なのかも知っているのだろう。

この『マンハッタン』はウディ・アレンが一番輝いていたダイアン・キートン時代の代表作のひとつ。世間では『アニー・ホール』が有名かもしれないが、個人的にはこちらのほうが好きだ。もっとも一番好きなのは『インテリア』だけど。
このころのウディ・アレンの作品には不思議と人を引き込む力がある。それは「ああ、これ分る分る」の要素がいっぱい詰まっているからだろう。確かにアレン自身が主役をやっているので、会話はウディ・アレンのいつもの会話で、本心を隠すための象徴過ぎ的トークがやたらとおおい。固有名詞連打も、その作家たちがもつものを象徴しているのだろう。判る人だけ判ってください的なインテリぶりだが、これも嫌いではない。そしてこの頃の言葉や、しぐさや、ドラマ展開は、胸に沁み込む度合いが80年代からの作品にくらべてディープだ。勝手な想像だが、これってダイアン・キートンを愛していたのだと思う。そのとき入れ込んだ女が彼女だったから、彼女を想った時の心情がおおいに反映されているのだと思う。ウディ・アレンって思いっきり「認められたい人」なので、そのエネルギーが高ければ高いほど、作品もよくなるのだろう。この映画では、男の恋愛のなかでよくあるケースが切実に展開されている。
そんな良くある男の心理描写を、ゴードン・ウィリスの力をかりて、マンハッタンの風景のなかで展開している。ごちゃごちゃっとした都会(ニューヨーク)の雑踏といい、いろいろアイテムがある部屋のなかといい、そして霧にけむるクイーンズボロ・ブリッジをみる二人のシルエットといい、天文ミュージアムのなかの絵作りといい、総てが確かな絵になっている。白黒画面というのはちょっと卑怯かとも思うが、ゴードン・ウィリスのモノクロ映画というのはけっこう珍しいので、そういう意味では貴重な映画でもなる。ま、ゴードン・ウィリルならカラーでもモノクロでもどうとってもカッコいいのだけど。

ウディ・アレンの映画というのは、なかなかストーリーにはいりこめないものが多いのだが、それはウディ・アレン自身が主役を演じ、それもモテる男を演じているからだ。本人はもてるとおもってるのかもしれないが、やっぱりあまりビジュアル的にもてるとは思えない。なので映画のなかでウディ・アレンがもててると、そこで「なんか違う・・」って思ってしまうのだ。しかし、これは仕方がないので、「この映画の主人公は見た目はウディ・アレンなのだが、実はもてる男優さんのだれかなんだ」と思ってみることにしよう。
そしてウディ・アレンの映画のなかで役者さん的にみて一番すきなのはこの映画だ。ダイアン・キートンは昔からのファンなのだが、マリエル・ヘミングウェイも実にいい。
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<あらすじ>
ニューヨーク、マンハッタン。コメディ番組の放送作家、アイザック・デイビス(ウッディ・アレン)はトレーシー(マリエル・ヘミングウェイ)という17歳の女子学生と同棲中だった。どちらかというとトレイシーの方が積極的だった。二度の離婚経験があるアイザックは、彼女と付き合いながらも、どこか距離を置こうとしていた。
近代美術館を見物中のアイザックとトレーシーは、アイザックの友人エール会うが、彼は女を連れていた。彼女の名はメリー・ウィルキー(ダイアン・キートン)、雑誌ジャーナリストだ。ベルイマンを表面的にしか理解しない“えせインテリ”ぶりにウンザリだったが、偶然あるパーティでメリーと再会し、意気投合してしまったアイザックは、2人で夜のマンハッタンを長々と散歩することになる。

思えば、ダイアン・キートンとデートするシーンをゴードン・ウィリスにとってもらい、その映画が世に残るなんてうらやましことだ。

結局“H”にいったったアイザックとメリー。トレーシーに別れを告げ、彼女にロンドン留学の話を勧めるアイザック。しかしメリーはやはりアイザックの友人エールを愛しているという。おい! これだから女は困るんだ。男はつかの間の夢見て、期待して、そして裏切られるとやっぱり居心地のいい女のところにもどっていくのである。

「マンハッタンの人々に関する短編のアイデア・・、
 彼らはいつも不必要な精神的問題をつねに想像している。
 なぜならそれらの問題が、さらに解決不可能でさらに恐ろしい宇宙の諸問題から逃れるための
 有効な手段だからだ。
 ふむう・・、楽天的であるべきだ。・・そうだ、人生はなぜ生きる価値があるのか?
 うん、これがいい質問だ。確かに人生を価値のあるものにしてくれるものがいくつかある。
 たとえばどんな? うむむ、そうだなあ、ボクにとっては・・
 グルーチョ・マルクス、ウィリー・メイズ、
 ジュピターの第二楽章、ルイ・アームストロングの『ポテトヘッドブルース』、
 フロベールの『感情教育』というスウェーデン映画、マーロン・ブランド、フランク・シナトラ
 セザンヌの『林檎と梨』、中華料理店のカニ料理・・・・・
 ・・・・・トレーシーの顔」

電話をかけても話中でつながらない。トレーシーのアパートに走るアイザック。しかし彼女は既にロンドン行きを決めており、荷造りを終えてこれから空港に向かうところだった。よりを戻したいアイザックは、今までのお飾りトークではなく、わがままきわまりない本心を彼女につたえていく。彼女のロンドン行きの決意は変わらない。「半年したら帰ってくるから。変わらない人もいるわ」といい、旅立っていくトレーシーだった。
「二兎を追うものは一兎もえず」ストーリーと言われるが、この最後からはトレーシーはロンドンに短期間留学するだけで、トレーシーを失ったわけではないと思う。ただ・・、夢の狩人たる男の性はトレーシーも理解しただろうし、一時の冷めた感情のままロンドンなんかにいくと、ふらっと別の男になびきかねなくもない(彼女は「代わらない人もいるわ」と言っているが)。この一連の別れ話騒動で、トレーシーのアイザックに対する憧れは消失しただろうし・・。
それでも、これで許されるならそれは男の夢だろう。そしてそれを暗示しているエンディングが実に素直でよい。ここでおわらせるのがなかなかおつな展開だなと思った。

by ssm2438 | 2010-05-20 23:35 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 05月 01日

新・動く標的(1975) ☆☆

f0009381_1211820.jpg監督:スチュアート・ローゼンバーグ
脚本:トレイシー・キーナン・ウィン
    ロレンツォ・センプル・Jr
    ウォルター・ヒル
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:マイケル・スモール

出演:
ポール・ニューマン (私立探偵ハーパー)
ジョアン・ウッドワード (依頼人・アイリス・デベロー)
メラニー・グリフィス (アイリスの娘・スカイラー)

        *        *        *

なんでもオフィシャルなタイトルは『ハーパー探偵シリーズ/新・動く標的』だそうな。しかし、ハーパー探偵シリーズになってこれが最初で最後になったようだ(苦笑)。

このてのハードボイルド探偵物語というのは、たいてい話をこねくっているだけであんまり面白いものがあるとは思えない。カモフラージュの大げさな事件が展開されつつ、物語の確信はプライベートなことだったりする。これもそんな話で、これくられた話を見て面白いと思う人にはいいかもしれないが、ストーリー構成のトリックだけなのであまりおもしろいわけではない。これが松本清張のような、個人のドラマをきちんと書き込んであるサスペンスなら私も好きなのだけど・・・。
てなわけで、個人的には撮影がゴードン・ウィリスであることが見る気にさせてくれた唯一の予想かもしれない。しかし、あいかわらずゴードン・ウィリスの黒の絞りは実に素敵だ。画面は暗くて渋い、無機質。この画調で映画が撮れればどんな普通のサスペンスでも一級品に見えてしまう。
監督はスチュアート・ローゼンバーグ。この人の作品で見たのは『失われた航海』とこれだけなのであんまり判断できるものではないが、堅実に説明するべきところを説明していくタイプかなあ。役者的には16歳のスカイラーを演じたのがメラニー・舌足らず・グリフィスだったが、なかなかいやらしい肢体がよかった。

<あらすじ>
ルイジアナに広大な土地をもつオリビア・デベローは、その土地に眠る莫大な石油の権利も自分で握っていた。その息子の妻アイリス・デベロー(ジョアン・ウッドワード)から依頼を受けるハーパー(ポール・ニューマン)。妻アイリスの情事を暴露した手紙が夫のジェームスに送りつけられたのだ。この手紙の主がを見つけだし、やめさせることが依頼の内容だった。
そんな矢先、オリビア・デベローが殺させる。ハーパーはオリビアの土地をねらっていた土地開発業者のキルバーンに目をつける。しかしキルバーンは原作者による、犯人をかくすためのカモフラージュだった。
アイリスの情事を暴露した手紙が送りつけたのは彼女の16歳の娘・スカイラー(メラニー・グリフィス)だった。過保護な父親に対するいらだたしさと、恋にうつつをぬかす母親への腹立たしさ、そして高圧的な支配をする祖母オリビアへの怒り。彼女こそがオリビアを殺し、アイリスを自殺に追いやりった犯人だった。
そしてさらに明らかになるもう一つの秘密・・・。

by ssm2438 | 2010-05-01 01:22 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 04月 26日

ペーパー・チェイス(1973) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_17115363.jpg監督:ジェームズ・ブリッジス
脚本:ジェームズ・ブリッジス
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ティモシー・ボトムズ
    リンゼイ・ワグナー
    ジョン・ハウスマン

     *     *     *

リンゼイ・ワグナーつながりでもうひとつ。私の大好きな『ペーパーチェイス』『ふたり』とともに見たくて見たくてしかたがなかった映画であるが、こちらは幸いにしてVHSが発売された。20代の頃の私はこの映画をレンタルビデオ屋で見つけてどれだけ幸せになったことか。しかし、そのときはこの映画の価値など理解してもいなかった。ただ若き日のリンゼイ・ワグナーが出てる映画というだけしか興味はなかったのだが、みてみて驚いた。良い!! 恐ろしいまでにツボだった。いろんな意味でツボにはまった。

まず第一に、私はお勉強映画というのがけっこう好きだ。本作品は時代が時代だけにアンチ権力、アンチ権威的な匂いもしないではないが、それでもそれと戦うには最低限度の力をつけなければ何も出来ない。それを見せ付けてくれる。実力がなければなにもいえない世界。何かを主張したいのなら実力をつけなければならない。その厳しさがきちんと描かれていてることがとってもうれしかった。

第二に、リンゼイ・ワグナーがやっぱり美しい。私が知っていた彼女は『バイオニック・ジェミー』の彼女であり、この映画はそれより何年か先につくられている。がゆえに私がそれまで知っていた彼女よりも若いのだ。残念ながらグラマーなたいぷではないが、それでもかのじょがもつゴージャスさは十分にかもしだされていたし、どんな服装をしてみ素敵だった。そして彼女が出ている映画が「良い映画」だったってことがうれしかった。

そして第三にゴードン・ウィリスの画面。この映画ほど「氷のフィルター」をつけた感じの映画はないだろう。キングスフィールドの講堂、冬の公園やスタジアム、レッドセットの棚。とくにこの図書館に代々保管されているという教授のノートが保管してあるレッドセットの棚。あの赤さは素敵だ。この映画はキューブリック『2001年宇宙の旅』とさりげなくリンクしていると感じるのだが、あのコンピュータHALとこの映画のレッドセットの棚は実に同じ空気を感じる。もちろん作っている当事者はそんなことはきにかけてもいなかっただろうが、偶然にしてもあの同じように冷たく赤いあの感じは素敵だ。

最後に、そこに描かれている人間性。どうも私はあのくらいの人間と人間の距離感がすきらしい。ちかすぎてべたべたするのもあんまり好きではないし、かといって離れすぎてクールすぎるのもいまいち好きになれない。ちょっと距離をおいたつながり・・というのだろうか。あの空気感が好きだ。
結局のところ、この映画のもってる空気感が肌にあうのである。

そしてもうひとつ記しておきたいことがある。この映画実はイングマル・ベルイマンがシナリオを書いた『もだえ』と実にシチュエーションがにているのだ。こちらはラテン教師なのだが、『ペーパーチェイス』に出てくる完全無欠の歩く法律キングスフィールドは、あのラテン教師がベースに違いないと勝手におもいこんでいたりする。


この物語は主人公のハート(ティモシー・ボトムズ)はハーバード大学法学部の学生、そんな彼もキングスフィールド(ジョン・ハウスマン)の講義初日にその甘さをしたたかにうちのめされる。寮に帰るとトイレにはいり絶叫を便器にぶちまける。一筋縄では蹴落とされることを初日に心にきざむことになったハートは、向かいの部屋の血筋のよさげなフォード、巨漢で傲慢な部分があるベル、のちにアリーマイラブでアリーの父親役をやるケビン、常にマイペースでスマートに総てのことをこなしていくアンダースンたちとスタディグループをつくる。そこでは各自が講義の担当を決めてその講義に関しては責任を持ちノートをまとめ、テスト前にはそれを交換しあう約束をかわす。そのなかでハートはあえて強敵キングスフィールドの契約法の担当に自ら名乗りをあげる。

彼らにとって<女>は禁物だといわれている。女に割く時間があれば勉強したほうがいい。ペースの乱れが総てを台無しにしかねない。ハートもそれをわきまえてこつこつを勉強していくうちにキングスフィールドの講義でも徐々に頭角をあらわしてく・・が、ある晩ピザを買いにでかけたよるスーザン(リンゼイ・ワグナー)と知り合い付き合うようになると、勉強のペースがみださてていく。そして実は彼女がキングスフィールドの娘であることにきづく。
この物語の基本構造は、人間性ゼロの法律マシン=キングスフィールドと人間性の必要性をとくちょい甘のスーザンとの間でゆれるハート・・・という構成になっており、結局のところ人間性をもちつつキングスフィールドの知識も得る方向性でまとめあげている。

勉強のほうも少しずつ落ちこぼれていくものも出てくる。ケビンもその一人だ。
キングスフィールドのクラスにおいてはソクラテス方式の講義が行われている。Q&A、Q&Aの繰り返し、そのなかから自分なりに体系的にまとめ思考することを養っていく。しかしケビンは写真的記憶力にたより、思考することを得意としなかった。それがそれまでの彼の勉強スタイルだったのだろうがここではまったく通用しない。ことごとく総てのテストで落第点をとり、仲間からも大事にされない存在になり、自殺をはかろうともする。それは未遂に終わるが最終的には挫折して大学をさることになる。

一方と意外と大胆な行動力をみせるハートは早朝の図書館に忍び込み、一般には閲覧することが出来ない教授たちがのこしたノート=レッドセットを覗き見ることに成功する。そこで発見したものは・・・、自分たちが受けている講義とまったく同じ内容がそのノートにかかれているという事実だった。キングスフィールドの講義内容も彼自身のアドリブではなく、彼がうけた講義の転写でしかないのだ。その棚に並ぶレッドセットと呼ばれるノートはまるでデータとしてのこされたコンピュータのメモリのようであり、人から人へと受け継がれながら未来へおくられていく進化しないデータでしかないのだ。

そうしてキングスフィールドの思考体系を理解しつつあるハートは、講義のあとに呼び止められ、彼自身の仕事を手伝ってくれないかと要請をうける。認められた感をもったハートはその仕事を引き受けるが、その反面スーザンとのデートをすっぽかすはめになる。結果はハートの手に余る仕事であり、期限までに間に合わせることが出来なかったハート。もう少し時間が欲しいと申し出るが、キングスフィールドの言葉は冷たく「すでに上級生に頼んだ、君のはもう不要だ。帰って休め」と言うだけのものだった。

父は人間的な感情では付き合えない人なのだというスーザン、しかし何かしら期待をかけてもらっていると信じているハート。最終試験においても猛勉強のすえ高得点をえる。最後の講義の後「あなたの講義は素晴らしかった。おかげで力がついたと思います」と一言感謝の言葉をつたえるハートだったが、キングスフィールドの言葉は「・・・・君はだれだったかな」。その法律の伝道師はハートのことなど記憶すらしていなかったのだ。

成績が発表されるまでの間、ハートとスーザンはとある岬で休暇をとていた。そしてとどけられる成績通知書。ハートは中味を読まずにそれで紙ヒコーキを作り、海に向けてそれを飛ばし、それは波間に消えていった。


私が思うに、男という生き物は<認められたい生き物>なのだ。どんなに努力して自分が自分を認めたとしても、自分以外の誰かに認められなければその努力むなしいと感じる。
この物語は、<認められたい>と思い、それに挑んだが、その相手は認める能力すらないメモリーマシンだったというある種の悲劇なのだが、しかし、それは実際の世界ではここまで徹底的に認められないことはないまでも多かれ少なかれあることであり、その認められるための努力がその人を作っていくのだと思う。

PS:このキングスフィールドの演技でジョン・ハウスマンアカデミー助演男優賞を獲得した。

画像あつめてきました。
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by ssm2438 | 2010-04-26 03:29 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 01月 30日

デビル(1997) ☆☆☆

f0009381_05208.jpg監督:アラン・J・パクラ
脚本:ケヴィン・ジャール
デヴィッド・アーロン・コーエン
ヴィンセント・パトリック
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ハリソン・フォード (トム・オミーラ)
ブラッド・ピット (ローリー・ディヴァニー)

        *        *        *
何を撮ってもおもしろくないアラン・J・パクラの、世間では面白くないといわれてるけど、個人的には嫌いではない作品(苦笑)。パクラの映画は主人公に感情移入しすぎず、ストイックな立場でカメラを回してるのがいんだよね。ま、なんだかんだといってもやっぱり嫌いになれない監督さんの一人でして・・。
しかし、この監督さんの映画は主人公感情移入系のドラマではないので、あんまりブラッド・ピットとかハリスン・フォードとかを使う意味もないのだけど・・。これがアラン・J・パクラの遺作となってしまった。

この映画は、あんまり評判良くなくて、私もパクラファンのひとりだけど、けっこう疎遠にしてた映画。しかし『ゴルゴ13』の26話「冷血キャサリン」でIRAがらみの話をつくることになり、雰囲気だけは知っておこうかとその関連の映画を見たときの一本。アニメのコンテを描くとき、私の場合は雰囲気重視なのでどうしても何本かそれらしい映画をみてから描くことにしている。ちなみにもう一本は二ール・ホモ・ジョーンダンの『クライング・ゲーム』。正直なところどっちもそれほど参考にならなかったのだが・・(苦笑)。

映画自体も悪くもないが良くもない、無難な映画だったと言えるだろう。
この物語はもともとはブラッド・ピット主演という形で物語が作れるスタンスで始まったらしい。当時彼は飛ぶ鳥落とす勢いだった。彼のもとにきたシナリオを読んだピットは、準主役となるだろうニューヨークの警官をハリスン・フォードはどうだろうと提案したそうな。ただ、ハリスン・フォードを使うとなると準主役ではなく、主役扱いでないとダメだということになり、その役をもっと人情的に書き込むことになったらしい。これは映画会社の主張なのかハリスン・フォードの主張なのかはわからないが、個人的には悪くない方向性で進んだと思える。
お互いが、一個人同士だと愛せる人なのに、その人のバックボーンを知れば知るほど相容れない立場だということになる。客観的には対立構造だが、主観的には愛せるキャラクターという、ドラマではここちよい物語の構成になっている。
ちなみに、監督はそのあと決まる。ハリスン・フォードの提案により、アラン・J・パクラにきまったそうな。なので、この作品彼主導の作品ではなく、パクラ自信がリーダーシップがとりづらかったのだろう。
ストーリーが決まらないまま撮影に入ったこの作品の撮影はどんどん遅れ、とにかく早く上げて次の仕事につきたいブラッド・ピットはそんな状況に不満を公言するようになる。そんなわけで映画制作の現場でも荷台俳優がギクシャクした関係になり、雰囲気のわるい現場になったそうな・・・。

ただ・・・、パクラが撮るなら、『ジャッカルの日』のようなストイックな作品としてあげてもよかったのではないかなとも思う。もうすこしハリスン・フォードの役どころを抑えて、目的を果たすためにIRAのエージェントというだけのほうがかなりスリリングだったのではないかな・・・と。

<あらすじ>
8歳のフランシス・マグワイヤーは、IRAに協力的だった父を眼前で殺された。それからというもの北アイルランドの独立運動に身を投じ、冷徹なテロリストとなった。SI5(英国秘密調査局)に襲撃され、仲間の大半を失った彼はローリー・ディヴァニー(ブラッド・ピット)という偽名でNYに渡る。
ローリーが下宿することになったのは、NY市警察官トム・オミーラ(ハリソン・フォード)の家だった。家族と一緒にすごすトムはローリーを祖国から来た純朴な青年として、家族同様に迎えたが、ローリーはマフィアとセ色、武器と資金調達のために動いていた。
英国から来た捜査官からローリーの正体を聞かされたトムは、激しい怒りを覚える。一方ローリーはマフィアの一味を倒し、ミサイルを手に入れた。ミサイルを積んで出航したローリーの改造船に飛び乗り二人は最後の対決となる・・。

by ssm2438 | 2010-01-30 00:52 | ゴードン・ウィリス(1931)
2009年 11月 06日

再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ(1988) ☆☆

f0009381_1323731.jpg監督:ジェームズ・ブリッジス
脚本:ジェイ・マキナニー
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ドナルド・フェイゲン

出演
マイケル・J・フォックス (ジェミー・コンウェイ)
キーファー・サザーランド (タッド)
フィービー・ケイツ (妻アマンダ)

        *        *        *

あまりにもフィービー・ケイツがちょい役すぎませんか?

どこかコメディ系だったマイケル・J・フォックスがシリアス路線でいった映画という反面があるが、お話自体はけっこういい。監督は私の大好きな『ペーパーチェイス』『チャイナ・シンドローム』ジェームス・ブリッジズ。ただ、今回は脚本が原作者がやってるので、彼の良さはでなかったかな。個人的にはジェームス・ブリッジズに脚本を書いてほしかった。
このころのキーファー・サザーランドは悪役面でろくでなしやってます。こんでなくっちゃ。いつのまにこいつがいいもんやるようになったのでしょうねえ?

さりげなく、撮影はゴードン・ウィリス。おお!

<あらすじ>
ニューヨークの出版社に勤めるジェイミー・コンウェイ(マイケル・J・フォックス)は、1年前の母(ダイアン・ウィースト)を亡くし、そして今、妻アマンダ(フィービー・ケイツ)の突然の家出を経験する。うさ晴らしのために連夜ディスコで遊び続け、ドラッグに酔い、気がつけば夜明けといった生活、仕事も上司からはほとんど見放され、やっつけ仕事の連続。
しかし、彼もわずかながらの夢はもっていた。彼は小説家になる夢も捨ててはおらず、文芸部のベテラン、ハーディ(ジェイソン・ロバーズ)との時間は彼の文筆活動への意欲を奮い立たせるものだった。ある日彼は、悪友タッド(キーファー・サザーランド)の従妹というヴィッキー(トレイシー・ポラン)を紹介され、他の女性にはない彼女の落ちついた寛容さに、久しぶりに心安らぐものを覚えるのだった。しかし、そんな思いもつかの間、ジェミーは提出した記事が間違いだらけだったことにより、クビを言い渡される。追いうちをかけるかのように、モデルとしてファッションショーのために、この街へ戻ってきたアマンダに会いに行った彼は、彼女に冷たくあしらわれふたたびドツボにおちこんだ。

これは、抜け道のないドツボな生活のなかで、それを軌道修正するドラマ。この映画のほとどの時間の主人公は最低な奴です。しかし人には絶対「ここでかわらなきゃいけないんだ!」ってポイントがある。それは何気ないところにころがっている。それを描いた映画。きっかけがどうというよりも、もうそれ以前に其の人の中では行くべき道は発見されていて、あとは、どこでそれまでの自分と決別するか、そのきっかけさえあれば自分も納得できる。その瞬間をさりげなく、自然に描いた映画がこの映画。

忘れようと努めていた母への思いを確かめることにより、初めて自分自身を冷静に見つめるようになるジェイミー。そして将来への決意を電話でヴィッキーに打ち開けるジェイミーに、マンハッタンの朝焼けの陽光が、穏やかに降り注がれるのだった。

by ssm2438 | 2009-11-06 01:28 | ゴードン・ウィリス(1931)
2009年 09月 28日

ゴッドファーザー(1972) ☆☆☆☆☆

f0009381_22322621.jpg監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ニーノ・ロータ

出演
マーロン・ブランド (ドン・ヴィトー・コルレオーネ)
アル・パチーノ (マイケル・コルレオーネ)
ジェームズ・カーン (ソニー)
ジョン・カザール (フレド)
ダイアン・キートン (ケイ・アダムス・コルレオーネ)
ロバート・デュヴァル (トム・ヘイゲン)
タリア・シャイア (コニー・コルレオーネ・リッジ)

        *        *        *

ギャング映画不滅の金字塔。これから先もこれを越えるギャング映画はでてこないだろう。
個人的にはヤクザ映画とかギャング映画とか、こういう生産性のない暴力が支配する世界の映画は嫌いなのだけど、やはりこの映画はすごい。「威厳」をいうものを表現した映画としては図抜けている。ゴードン・ウィリスのカメラもすごいし、マーロン・ブランド扮するドン・コルレオーネの重厚さもすごい。
でも、この映画はすごいのは、非情なギャング社会を背景に家族愛(家族の誰かをひいきすることを強引にとおす)が描かれたところなのだろう。社会と己の感情のせめぎあい、そのなかで犠牲にするものも出てくる。それを犠牲にしても譲れないもの・・、そういうものが描かれるからこの映画はす重厚なのだ。

小学生のころこれをみて、大人の世界は恐ろしいものだと恐怖したものだ。なかでもあの馬の首はほとんどトラウマ状態。シーツをめくってみたら愛馬の首がベットにいれてあるなんて恐ろしすぎる。
しかし、昔はきちんと映画って怖かった。映画館のあの暗がりも怖かった。この怖さに耐えられる精神力があってはじめて大人になれるのだなあって当時思った。子供にとって映画というのは、大人社会を疑似体験できる貴重は時間であって、映画がお子様向けというお題目で怖くなくなったら終わりだ。映画は、子供にとっていつまでも怖いものであり続けてほしいと願うものである。

・・・しかし、技術的には最高の出来だとしても、生理的にこの手の映画も登場人物も好かん。
映画100本持って無人島にいけるとしても、この映画は入らない。

<あらすじ>
コルレオーネ(マーロン・ブランド)の屋敷では、彼の娘コニー(タリア・シャイア)の結婚式が行なわれていた。ボスのドン・ビトー・コルレオーネは、書斎で友人たちの訴えを聞いている。ファミリーのものが貧しく微力でも、助けを求めてくれば親身になってどんな困難な問題でも解決してやった。それはイタリア移民が、多民族社会で生きていくための集団安全保障条約のようなものだった。
歌手として成功したが今は落ち目になっているジョニー・フォンテーンもその1人だった。新作映画で彼にきわめつけの役があり、俳優として華々しくカムバックできるに違いないのだが、ハリウッドで絶大な権力を持つプロデューサー、ウォルツからその主役をもらえずにいた。フォンテーンの窮地を知ったドンは静かにうなずいた。ある朝、目を覚ましたウォルツは60万ドルで買い入れた自慢の競走馬の首が、ベッドの上に転がっていたのだ。それからしばらくしてフォンテーンの許に、その新作の大役があたえられた。

末の息子マイケル(アル・パシーノ)は、一族の仕事には加わらず正業につくことを望んでいたが、父の狙撃が伝えられるや、家に駈けつた。ドンの家では長男のソニー(ジェームズ・カーン)が部下を指揮し、ドンの復讐を誓ったが、一家の養子で顧問役のトム・ハーゲン(ロバート・デュヴァル)は、五大ファミリーとの全面戦争を避けようと工作していた。
ソロッツォ殺しは危険だが失敗は許されない。マイケルがこの大役を果たし、シシリーへ身を隠したが、ソニーは敵の罠に落ち殺された。ドンは和解を成立させた。ドンにとっては大きな譲歩だが、マイケルを呼び戻し、一家を建て直すための決断だった。2年後、アメリカに帰ったマイケルは、ドンのあとを継ぎ、ボスの位置についた。マイケルの才能は少しずつ開花し、ファミリーの勢力を拡大しつつあった。ある日曜日の朝、孫と遊んでいたドンが急に倒れた。しかしマイケルの天才的な頭脳で練られた計画によって五大ファミリーのボスたちは次々に殺され、その勢力は一向に衰えなかった。彼の横顔は冷たく尊大な力強さにあふれ、部下たちの礼をうけていた。“ドン・マイケル・ゴッドファーザー”の誕生である。

by ssm2438 | 2009-09-28 21:49 | ゴードン・ウィリス(1931)
2009年 09月 27日

ゴッドファーザーPART II(1974) ☆☆☆☆

f0009381_23213838.jpg監督:フランシス・フォード・コッポラ
原作:マリオ・プーゾ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:カーマイン・コッポラ、ニーノ・ロータ

出演
アル・パチーノ (ドン・マイケル・コルレオーネ)
ロバート・デ・ニーロ (若き日ヴィトー・コルレオーネ)
ロバート・デュヴァル (トム・ヘイゲン)
ダイアン・キートン (ケイ・アダムス・コルレオーネ)
ジョン・カザール (フレデリコ・“フレド”・コルレオーネ)
タリア・シャイア (コニー・コルレオーネ・リッジ)

        *        *        *

実に不可思議な構成の映画だ。
パートⅠから過去と未来へストーリーは展開、映画では過去と現代が耕作しながら描かれていく。現代のギャング社会でファミリーのドンとなってしまったマイケル(アル・パチーノ)の苦悩と、ビトー・コルレオーネがドンとなるまでをデ・ニーロ・主演で描いた前世代部。これを一緒こたにして映画として成り立つのか??と思ったが、まあまあ見えるものになっていた。ただ、二分極化してしまった話というのはどうも個人的には好きにはなれない。しかし、マイケルの時代とビトーの時代のコントラストをつけるという意味では、「あり」なのだろう。実際その効果もでている。仮にこれを世代順に描いたとしたらそれほど感動するのか?という問題なってくる。時間軸解体はある種の卑怯なテクであることはまちがいない。

ファミリーの生い立ちは、アメリカ社会にやってきたイタリア移民たちが、なんとか自分たちの利益を集団防衛するためにはファミリーという組織が必要だったんだろうな。そしてそのときにビトー・コルレオーネは、みんなから愛されていた。そんなファミリーだったが、マイケルの時代では既にギャングというのは既に時代のはみ出しものであり、世間から忌み嫌われる存在となっていった。環境がちがうなかで、後戻りもできないマイケルのドンとしての立場。そんな状況下でも、古のおきてにしたがい、裏切りものである兄を始末する決断をつだすマイケル。

本来そのファミリーに所属するものと、その組織を守りための掟だったはずが、掟だけが一人歩きし、それに人が支配されはじめたた状態と理解するべきなのかも。

<あらすじ>
マイケル(アル・パチーノ)の父、ビトー・コルレオーネはシシリー島で生まれた。ビトーが9才のとき、父と母と兄が土地のマフィアの親分チッチオに殺された。彼は移民団の群れにまじって単身ニューヨークへ渡った。1901年のことだった。ニューヨークに着いたビトーは天然痘の疑いで3ヵ月間病院に入れられた。リトル・イタリアで成長したビトー(ロバート・デ・ニーロ)は、あらゆる職業を経て、次第に頭角を現し、移民の信望を集めるようになってきた。彼のもとには弱い人々がさまざまな願いをもって訪れる。その街を牛耳る悪玉ボスのファヌッチを仕とめたのは町をあげてのお祭りの夜だった。
ビトーと妻との間には4人の子供が出来た。汽車がシシリー島のコルレオーネ村に着き、多勢の村人が一家を迎えた。ビトーは両親の仇、チッチオを襲って、自分の手でチッチオの腹を十字に刺して殺した。

マイケルはネバダ州のタホー湖畔に新居を構えていた。ラスベガス進出を狙うにはその近くが適しているとふんだからである。ある教会ではマイケルの一人息子アントニーの聖さん式が行われていた。そのあと城のような大邸宅では大パーティが催されるが、パーティが終わりるとその夜、マイケルの部屋に何者かが機関銃を乱射した。犯人はマイアミの大ボス、ハイマン・ロスの腹心ロサト兄弟だった。更に驚くべきことに、兄のフレドーまでもが、コルレオーネ家の情報をハイマン・ロスに流していた。
そんなある日、マイケルは、犯罪調査委員会に呼び出されたが、マフィアについてのあらゆる容疑を完全に否定した。その夜、妻ケイはマイケルに離婚話をもちだした。マフィアの恐ろしさと、子供の将来を想う気持ちからだった。ニューヨークに隠れていたフレドーも呼び戻された。葬儀のあともフレドーはタホー湖畔にとどまって幼いアントニーと遊んだ。フレドーはマイケルに許されていると思ったのだ。だが、船で湖へ釣りに出たところを、マイケルの命令で殺された。

初老に達したマイケルは、一人湖畔の椅子に座り、亡き父ビトーの愛情に充ちた偉大な生涯を想い、自分の孤独に胸を痛めるのだった。

by ssm2438 | 2009-09-27 20:34 | ゴードン・ウィリス(1931)