西澤 晋 の 映画日記:C・デシャネル(1944)
2011-11-27T08:53:06+09:00
ssm2438
主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。
Excite Blog
チャンス(1979) ☆☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/11905681/
2011-10-06T11:35:00+09:00
2011-11-27T08:53:06+09:00
2009-09-10T12:51:55+09:00
ssm2438
C・デシャネル(1944)
原題:BEING THERE
監督:ハル・アシュビー
原作:イエジー・コジンスキー
脚本:イエジー・コジンスキー
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:ジョニー・マンデル
出演:ピーター・セラーズ
シャーリー・マクレーン
メルヴィン・ダグラス
* * *
原作はイエジー・コジンスキーの『BEING THERE』、昔英語の原書を本屋でみつけて読んでみたのだが、短編で英文も難しくなく終わりまで読めた。
いつの頃から彼がそこに住んでいるのかもわからない。その屋敷の主人は彼に自分の部屋を与え、庭師としてそこに住まわせていた。彼の唯一の楽しみはテレビをみることだけで、塀の外には出たこともない。そこにはたらくメイドも詳しい素性はしらない。ただそこにいたというだけの男チャンス(ピーター・セラーズ)。
そんな屋敷の主人がある朝亡くなった。やがて管財人に屋敷を出て行くように言われたチャンスは生まれてはじめて塀の外に出る。見るもの、出合ううものが総てが珍しい彼が、彼には悪意とか不安とかという普通の人が持つ概念は存在しない。喧嘩をうられてても、からかわれててもその意味がわからない。つねに穏やかな紳士なのだ。そんなチャンスが俗世間の有様に気をとられていると、出発しようとした1台の高級車に足をはさまれてしまう。中に乗っていた婦人イブ・ランド(シャーリー・マクレーン)は手当てをしたいので家に寄って欲しいと言われた。名を問われ、庭師チャンスと名のるが、彼女はそれをチャンシー・ガードナーと聞き違えた。その後彼はチャンシー・ガードナーという人物であると勘違いされていく。
その車は経済界の大立物ベンジャミン・ランド(メルビン・ダグラス)の大邸宅にはいっていく。イブは彼の妻だった。ランドは高齢で健康状態もすぐれなかったが、チャンスの子供のような無垢さと、何事にも動じず、虚栄心のまったくないその穏やかな態度に気持ちが安らぐのを感じた。数日後、ランドを見舞いにやって来た大統領と会う時にもチャンスを同伴した。彼らは停滞するアメリカ経済をどう再生させるかという話をしていたが、ランドはチャンスにも意見を求めた。経済のことなどまったくわからないチャンス。そんな彼は、四季を通じて移り変わりながらも少しづつ成長を遂げる庭に接していた体験を穏やかに話す。
翌日大統領はTV放送のスピーチでチャンスの言葉を引用し、それをきっかけに彼の名は一躍全米に知れ渡るようになる。大統領も意見を仰ぐチャンシー・ガードナー。それから政治経済の知識人としてチャンスのTV出演などの奇妙な生活がはじまる。しかし活字もよめないチャンス。どこの新聞を読みますか?とのマスコミの問いに「私はテレビが好きです」と答えるチャンス。「著名人のなかで新聞を読まないと公言したのは彼がはじめてです!」と祭り上げられる。
あまりの影響力にCIAもチャンスの素性調査に乗り出すが彼の正体はまったくつかめない。
やがてランドが大往生を遂げる。後ろ盾を失った現大統領では選挙が戦えないと次期候補を模索する政界。
そこにチャンシー・ガードナーの名前が挙がってくる。
政治的に利用されるようになることを知ってか知らずか、チャンスは姿を消していくのだった。
庭師チャンスは多分<天使>か何かなのだろう。決して悪意を持つことのない精霊・・? しかし、本人もそのことを知らないようだ。
「育てる」ということは、庭の木々を育てるのも、人材を育成するのも、国の経済を育てるのも同じこと。この映画はコメディではなく、宇宙の真理をといた映画。
そしてこの穏やかなドラマを高品位で映像化したのがキャレブ・デシャネル。『ワイルドブラック』『ライトスタッフ』『ナチュラル』『グース』など、数は多くないがきわめて気品のある画面を提供してくれるシネマトグラファー。彼の画面はほんとにすばらしい。大好きな撮影監督のひとりだ。]]>
ナチュラル(1984) ☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12741561/
2010-01-29T04:17:00+09:00
2010-01-30T20:55:03+09:00
2010-01-29T04:17:38+09:00
ssm2438
C・デシャネル(1944)
監督:バリー・レヴィンソン
脚本:ロジャー・タウン/フィル・ダッセンベリー
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:ランディ・ニューマン
出演:
ロバート・レッドフォード (ロイ・ハブス)
グレン・クローズ (アイリス)
キム・ベイシンガー (メモ・パリス)
ロバート・デュヴァル (スポーツ記者)
バーバラ・ハーシー (女殺人者ハリエット)
* * *
「あげまん女」と「さげまん女」の話・・・かな(苦笑)?
どこまでがファンタジーで何処までがマジなのか実にわかりづらい作品。
はじめてこの映画を見たときは・・・・ん????ってとことが多かった。これはなに? どこの時間軸の話? アレはなぜ? 何で撃たれたの? ・・・??????????って。どこまでが偶然で、どこが意図的なものか実にはっきりしないのだ。そして野球賭博をしているオーナー連中の実態、この利益の構図もわからない。とにかくいろんなことが重なってこの映画をわかりづらくしている。いつかその謎を解こうとおもっていたが、一念発起してこの映画をふたたび見ることにした。・・・で長年の謎がとけた。というわけで、今回は謎解きレビュー。
◇謎の女ハリエット
そもそもロバート・レッドフォードはバーバラ・ハーシーに撃たれるのか?
これはどうも<偶然>と考えるのが正しいだろう。宗教上かなにかの理由で著名な運動選手を標的にする連続殺人者、それがハリエット(バーバラ・ハーシー)。シカゴ・カブスのトライアウトを受ける為に、スカウトマンのサムと共にシカゴに向う途中、某有名スラッガーに難癖をつけられ3球勝負し見事に三振に取るのだが、その場に居合わせたハリエットが、「このスポーツ選手は髪から与えられた力を金儲けのために使おうとしている」と思ったのだかどうだか知らないが、シカゴに着いたハブスをホテルに呼び寄せ撃ってしまう。実はそのあと彼女も自殺する。たぶんこれは罪悪感のためだろう。
そしてここでさらに分りづらくするのがロバート・レッドフォードが、二十歳前のハブスも演じているので時間軸が分りづらい。本編のなかではどうみても高校出たての若者には見えない。・・が、ここまでは二十歳まえ話である。
◇八百長試合。オーナーとの会話の不可解さ
これは野球賭博をしているオーナーが、自分のチームが負けるほうにかけるようとするのだが、ハブスが打って勝ってしまう。そういうわけで「おまえ打つなよ。そしたらもっと給料あげるんだけどなあ」って誘ってるわけだ。
知る人ぞ知るシカゴホワイトソックスの八百長事件。テッド・ウィリアムスやシューレス・ジョーがそれで野球界を追放になったあの事件。『エイトメン・アウト』や『フィールド・オブ・ドリームス』でのこの事件には触れている。こういうことが当時の野球界ではおこなわれていたんだなということが今頃分った。そしてそれがわかってやと、この映画の意味や、オーナーサイドの行動の動機が分ってきた。この映画をみた当時もぼやっとはわかっていた感じはしても、明確にはわかっていなかっただろう。そのせいで、この映画自体がもうひとつ把握しづらい映画として長い間記憶に残っていた。
◇キム・ベイシンガーの働き
金でおちないハブスと付き合い、色仕掛けで調子をおとさせる女。・・と解釈すればよいのだろう。彼女と付き合いだして著しく調子を落とすのでどういうわけか理解できないのだが、ストーリーの流れとしてはそういうことなのだろう。このへんの描写があまりに漫画的なので、これまたストーリーを把握しづらくしている。だいたい女と付き合ったくらいで調子を落とすわけがない。これを説得力あるものにするなら、試合のまえまで散々“H”をしまくって寝かせないとか、浴びるほど酔わせるとか・・、具体的なスランプの理由がほしかった。
おまけにもと恋人のグレン・クローズに出会っただけでいきなり復活するからまたここに根拠がない。形式的なストーリーラインだけで話をみせていくからファンタジーなのか???って勘違いしてしまうが、どうやらファンタジーとしては作ってないらしい。
◇おなかが痛くなる理由
たぶんキム・ベイシンガーがパーティの席上で最後にもってきた何か(カキかなんか?)に胃を壊す薬物が入っていたのだろう。あれは偶然というより故意の出来事だと思う。
そんなこんなで、本筋をきちんと演出できてないこの映画であり、どこまでファンタジーで何処までマジなのか分らない。なのでどこまで本気で感動していいのか分らない作品。しかしそこそこ感動するようには作られている。こんな映画をむりやり美しく、かつドラマチックにもりあげてくれたのがキャレブ・デシャネルの画面は。素晴らしすぎる! この人の絵のおかげでこの映画の質がはるかに向上したのは言うまでもない。]]>
ワイルド・ブラック/少年の黒い馬(1979) ☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12018966/
2009-06-28T01:49:00+09:00
2010-01-15T22:20:50+09:00
2009-09-28T01:49:05+09:00
ssm2438
C・デシャネル(1944)
監督:キャロル・バラード
脚本:メリッサ・マシスン
ウィリアム・D・ウィットリフ
ジャンヌ・ローゼンバーグ
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:カーマイン・コッポラ
出演:ケリー・レノ
ミッキー・ルーニー
テリー・ガー
* * *
これ、画面いいですよ。しびれます。さすがキャレブ・デシャネル!! 画面の質感がいい。
前半の無人島でのシーンはほとんど馬と少年を撮っているだけ。青い海と白い砂、そここを少年をのせて走る馬。もうそれだけで絵になってしまいます。そしてアメリカにもどってからは、狭い厩を抜け出して都会を闊歩する馬。
通常世界に異物が飛び込んできた異物・・都会に存在するゴジラとか、猿の惑星に存在するテイラーとか、ロンドンの町を裸で歩くスペースバンパイヤ=マチルダ・メイとか・・、これはドラマづくりの基本ですね。この町では1946年のニューヨークに出現した野生の馬。
<あらすじ>
地中海北アフリカ沖。考古学者である父(ホイト・アクストン)と共に船であちこち周っている少年アレック・ラムジー(ケリー・レノ)は、ある港で積み込まれた一頭の黒い馬に目を奪われた。あるの夜、突然嵐が起こり、船は転覆し、アレックは、海に投げ出された。そしてもう一つの影が嵐の海の中に飛び込むのが見えた。
気がついてみると、アレックは、ある無人島に流されていた。アレックは、ロープが岩にはさまれ、もがいているあの馬ける。自由を取り戻したその馬は海岸線に向って走り出した。馬に親しみをこめて近づくのだったが、野生の馬はそれを拒否した。ある日、アレックは浜辺でコブラに襲われかかるが、あの黒馬に助けられた。馬は少年の手から海草を食べ、やがて少年を背中に乗せ、波打際をしっそうする。
6カ月たったある日、イタリア漁船が偶然島を通りかかり、アレックは馬とともにニューヨークに戻った。アレックは、黒馬にブラックと名づけ、可愛がるが、文明生活にはなかなか馴れず、近所で問題ばかり起こしとうぼうしてしまう。都会に凛として存在する馬というう画面がなかなか素敵。
その後は、某調教師にみいだされ、競走馬としてかつやくするブラック。その当時の最強馬、サイクロン号とサン・レイダー号。激しいレースが展開された。出足は不調だったブラックも、先を行く馬ににじりより、じわじわと実力を発揮、そして、ムチも手綱も使わないアレックのリードに従うブラックは、遂に先行馬を追い抜き、栄光のゴールを踏むのだった。]]>
ライトスタッフ(1983) ☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/11924755/
2009-06-13T14:58:00+09:00
2010-01-15T22:22:43+09:00
2009-09-13T14:58:34+09:00
ssm2438
C・デシャネル(1944)
監督:フィリップ・カウフマン
脚本:フィリップ・カウフマン
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:ビル・コンティ
出演:サム・シェパード
スコット・グレン
フレッド・ウォード
エド・ハリス
デニス・クエイド
* * *
この映画、万人視点からみるとちっともいい映画ではない。☆ひとつでもいいくらい。しかし映画として出来が悪かろうが、面白くなかろうが、見るべきモノがいっぱいつまっている映画なのだ。
余談ではあるがデビット・リーンが同じテーマの『超音ジェット機』という映画をとっている。これも音速の壁を破ろうとした男たちのドラマだ。
映画として面白くないのはどういうことか? それは一言にでいってドラマがないということだ。通常のフィクションのドラマは、主人公がいて、主人公にはひとつの大目的があり、それを妨げる環境やらライバルがいて、時間経過とともにさまざまな障害を突き抜けつつ、その代償として自分のあまり大事なものでないものから捨てていき、最後に大事なものをのこしつつ、目的を成し遂げる・・というもの。
しかしこの映画には主人公というものが特定できない。複数いるのだ。複数いるとそれぞれのドラマがそこに存在することになるのだが、その結果、映画としての一本気なドラマにはならなかった。
そしてこの映画がドキュメンタリーにもなりきってない。それぞれのシーンでやっぱりドラマ的に見せているため、ドキュメンタリーとしてのストイックさはない。
そんなわけで映画としてもまとまりはきわめて乏しい映画だといえる。
・・・しかし、それが分っていても余りあるすばらしい点がある。
総合的に見て感動するのは、進化めざす人たちのスピリットの美しさ! さらに高く、さらに遠くへ、さらに速く・・、それをめざすスピリットの総合体としてこの映画は存在する。それが見終わったとき感動をさそう。
そしてその画面を高品位にたもちつづけたキャレブ・デシャネルの力。これはすばらしい! キャレブ・デシャネルは『チャンス』で見事な画面を見せてくれたが、それは家の中の画面のすばらしさで、このように家の外を撮る画面はどうなんだろうとおもってたのだが、そんなことはお構いなし。総て素晴らしい。コントラストがいいのだろう。ゴードン・ウィリスみたいにマニアックなまでに黒く落としすぎることもなく、しかし圧倒的な画質を表現してくれる。色がダイナミックにもかかわらず、品性があるのだ。まさにこの映画にはうってつけの撮影監督だったといえる。
ビル・コンティの音楽もいい! ハンス・ジマーだとどうしてもドラマッチにカッコいい音楽になるような気がするが、ビル・コンティの場合はマーチ的なかっこよさになるんだよね。
あと、イエーガーに関して一言書き添えたいが、この映画に登場するイエーガーをカッコいいとする風潮はあるようだが、個人的にはあまりそう思っていいない。
政府がマーキュリー計画に参加するパイロットとしてスカウトしているときにチャック・イエーガーは大学を出ていないということで<脚きり>にあっている。しかし彼はかれの分野で進化をめざしていく。
宇宙パイロットとジェット機のパイロットではリスクマネージメントの質が違うのでイエーガーをはずした政府の判断は正しい思う。そのときイエーガーは宇宙パイロットはモルモットだといい、この計画への興味のなさを表現しているが・・・はたして何処まで本当だったのか。
もちろんこれは現実の話をベースに描かれているのだが、私個人が主人公を創作できるとしたら、選抜で脚きりにあったイエーガーの悔しさを描きつつ、大学への猛勉強をさせ、資格を取り、マーキュリー計画の次のジェミニ計画あたりに参加させ、ミッションの成功ののち、それでも地上にもどってジェット機としての最速記録に挑む・・って展開にしちゃうかな。
本作品のイエーガーは悔しいくせに悔しくない振りをして、それまでの自分を肯定するためにもがいたようなきがする。
能条純一の『月下の棋士』のなかにある言葉だけど
「男だったら悔しがれ!」
・・・これだは。負けたのなら悔しがらないと。
負けて、悔しがらないと、自分をとりまく世間のほうを否定するようになり、まけた自分の過去を可愛がってしまう。そうなったら進化は止まる。これがイエーガーというキャラクターのなかに見えてしまった。]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/