西澤 晋 の 映画日記

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カテゴリ:W・フリードキン(1939)( 6 )


2011年 10月 31日

ジェイド(1995) ☆☆

f0009381_13571959.jpg原題:JADE

監督:ウィリアム・フリードキン
脚本:ジョー・エスターハス
撮影:アンジェイ・バートコウィアク
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
デヴィッド・カルーソー (コレリ警部補)
リンダ・フィオレンティーノ (カトリーナ・ギャビン)

       *        *        *

うむむむむむ、かつての栄光はどこに・・・、でもカーチェイスはやっぱりフリードキン!!

富豪メドフォードが惨殺された事件を調査する検事補コレリ(デヴィッド・カルーソー)。彼はメドフォードのパーティに招かれたパトリスという女性からジェイドという謎の女の存在を知る。コレリは、友人の弁護士のギャビンの妻カトリーナ(リンダ・フィオレンティーノ)がジェイドではないかと疑う。そして調査をすすめるうちに徐々にカトリーナの魅力にはまっていくコレリ。

ウィリアム・フリードキンといえば、アカデミー賞を獲った『フレンチ・コネクション』『エクソシスト』で、リアリズムを提示してくれた狂人的な監督さんの一人。私は大好きなのですが、この2本の後はかなり残念な映画ばかりというのが現状。そのなかのひとつがこれ。ただ、あいもかわらず、カーチェイスだけはフリードキン!

『フレンチ・コネクション』では高架下を車でぶっとがして犯人を追うジーン・ハックマン
『L.A.大捜査線/狼たちの街』では、ハイウェイ逆走カーチェイス。
いつもながらはらはらどきどきのカーチェイスシーンを提供してくれるフリードキン。今度はなにをやってくるかな・・と思ったなら、中国人街大突破のカーチェイス。これは久しぶりにびっくりした。カーチェイスというのは猛スピードで障害物をはらはらどきどきしながらなんとか交わしていくものだけど、それを逆手に取ったスローなカーチェイス。
犯人を追いたい!っと思うのだけど、行く手には中国人。通りいっぱいの中国人。そんな中に犯人の車が逃げ込んでしまう。最初はばったばったとなぎ倒すのだけどさすがに多くてそんなわけにはいかない。逃げてる犯人の車も・追ってる主人公の車もひき殺さないようなスピードで進むしかない。もちろん中国人からの非難ごうごう、回りにゾンビみたいにたかってきては、物を投げたり車を叩いたり。そんな罵声のなかをなんとか人をかきわけ書き分け進むという超ストレスたまりまくりのカーチェイス。
こんなカーチェイスも撮れるんだとびっくり。こういうのが絵になるって思うフリードキンってほんとにすごいなあって感心してしまう。カーチェイ至上に名を残すべき、スローでもっともイライラのたまる貴重なカーチェイスです。

シナリオは、『氷の微笑』以降(もっともその前からかもしれないが・・)手抜きないごとがやたらと目に付くジョー・エスターハス。今回もなんとなくエロチックな話を絡めてはいますこの話だからどうのこうのという差別化はされておらず、フリードキンの遅いカーチェイスくらいしか思い出にのこらない話。

主人公がデヴィッド・カルーソーというもちょっといただけない。見た目にクビが細いので、主人公の男をやっても、なんだかタフガイに見えない。『プルーフ・オブ・ライフ』の時もこの人が傭兵部隊のリーダーをやってたがちょっと線が細すぎたかな。
エロを提供してくれるのがリンダ・フィオレンティーノ。でも・・・、もう少し可愛げのある小悪魔的な人はいなかったんでしょうか? シャーリズ・セロン希望!ってのはむりですよね(苦笑)。

by ssm2438 | 2011-10-31 13:57 | W・フリードキン(1939)
2009年 11月 10日

フレンチ・コネクション(1971) ☆☆☆☆☆

f0009381_1635794.jpg監督:ウィリアム・フリードキン
脚本:アーネスト・タイディマン
撮影:オーウェン・ロイズマン
音楽:ドン・エリス

出演:ジーン・ハックマン
    ロイ・シャイダー

     *     *     *

圧倒的なリアリズム! 先の『ブラック・サンデー』が70年代のテロのクライム・サスペンス最高傑作だとしたら、刑事もののクライム・サスペンスの最高傑作はウィリアム・フリードキン『フレンチ・コネクション』だろう。たぶんこれを越える刑事ドラマは今後も出てこないと思う。とにかく『ブラック・サンデー』以上に徹底的にリアリズムにこだわった作りが画面を圧倒する。文句なしのアカデミー賞受賞作品である(この頃のアカデミー賞は納得出来る選択がなされていた。良い時代だった)。

ともすればすればヘタな演出とは「こう描いておけば‥‥」になりがちなものだ。「こう描いておけば尾行してると見ている人は解釈してくれる」「こう描いておけばエッチしてることになる」「こう描いておけば悲しくて泣いてることになる」‥‥になりがちなのだ。象徴的演出に逃げてしまうのである、というか、具体的に描くだけの技量を持たないとも言えるのだけど。
しかしこのフリードキンはジーン・ハックマンロイ・シャイダーが犯人を尾行するだけで圧倒的なリアリズムを出してくれる。
「尾行ってのはこうやって、こうやって、こうやってこうやるんだ!!」って具体的に執拗なまで提示してくれる。尾行のシーンだけではない。ガサ入れのシーンだって、車での追跡のシーンだって、全てのシーンがこのこれでもか!これでもか!!これでもか!!!を連打するのである。スーパーパワーなんかあり得ない。一人の人間が出来る事をこれでもか!これでもか!!これでもか!!!と連打する。とにかく諦めない。結果が出るまでこれでもか!これでもか!!これでもか!!!を延々続ける。で、結果を出してしまう。演出的なことだけでなく、生き方的にも私の師匠的な映画/映画監督さんである。
フリードキンの<これでもか!これでもか!!これでもか!!!>スピリットは『エクソシスト』でも発揮される。
ともすればオカルトものっていうのは、一つのキーを見つけてそれが悪魔さんに有効でそれを起動させたら全てが解決してしまう‥‥というような終り方をするケースが多いが、フリードキンはそんなことしないのである。悪魔を人間の根性で追い出すのである。ひたすら怨霊退散!の念仏と聖水をふりかけるという作業の延々の繰り返しだけで、悪魔をリンダ・ブレアから力づくで引き剥がすのである。『エクソシスト』が他のオカルト映画と根本的に違うのは人間が力づくで悪魔と闘うところなのだ。

出来る事の積み重ねで結果をだす。根性で積み重ねる。
小さなことをひとつひとつ積み重ねて大きな結果をだす!
これがウィリアム・フリードキンであり、ジョン・フランケンハイマーの映画づくりの基本になっているのだ。だからフランケンハイマーの映画ではとにかく走る。場所移動は走るしかない。ぜいぜい息を切らしながら走る。根性の積み重ねの象徴的な絵作りの一つだ。やがてこの続編『フレンチ・コネクション2』はこのジョン・フランケンハイマーがメガホンを撮ることになる。実に良い選択だ(ただ、出来的にはウィリアム・フリードキンのほうが上だった)。
彼等の描く世界には決してミラクルパワーなどない。根性の積み重ねが全てなのだ。しかし、これは生命力のない人には観るのがつらい映画にもなって来る。映画の中にあるどんなオーディーン(試練)も一つのミラクルパワーで解決されるなら、それはファンタジーなのだ。しかし、彼等のように出来る事を根性で積み重ねていくというのは、在る意味それが現実世界で出来る人にしか受け入れられない要素だったりする。現実世界で根性のない人は、実は根性のある人が頑張り抜いてやりきるよりも、ヘタって挫折するシーンを願っていたりするものなのだ。
この映画のフリードキンが描く根性の執拗性はそれのない人には向かない。かなり嫌悪感を抱く怖い映画なのだ。この映画を好きになれる人は、自分自身を意地で強くしようと努力してる人だけだと思う。
観る人間を選ぶ映画なのだ。


この物語の主人公は通称「ポパイ」と呼ばれるドイル刑事(ジーン・ハックマン)。圧倒的な存在感。強引に根性で成し遂げてしまうタイプ。相棒のラソー刑事(ロイ・シェイダー)は。とにかにこのガサ入れのシーンがとてもリアルで怖い。フリードキンの演出力をまざまざと見せつける。この怖いというのは大人の映画の基本である。お子様はこの怖さに耐えられるようになってやっと大人の仲間入りができるのだ。
そして二人はガサ入れの時に近々でかい取引が在ることを知る。

マルセイユではフランスの実業家シャルニエ(フェルナンド・レイ)がテレビ・スターを使って、アメリカの麻薬ルートとのコネクションを図っていた。アメリカに渡って来たシャルニエ。ドイルとラソーは彼を執拗にマークする。またこの尾行シーンがやたらとリアルなのだ。つねに刑事は二人一組で行動し複数のペアが入れ替わり立ち代わりしながら尾行していく。日本尾緩い刑事ドラマではあり得ないハードボイルドな尾行シーン。これだけでの「おお!」って思わせる。
やがてアンリがはるばるフランスから船で運んできたリンカーン車がニューヨークの港に着いた。数日後、ドイルはビルの屋上から何者かに狙撃された。それは殺し屋のニコリだった。狙撃に失敗したニコリは高架線の地下鉄で逃走を図った。ドイルは手近の車を徴発してニコリを追った。これがかの有名なドイル刑事の高架線激走シーンである。高架線の上と下で、暴走する地下鉄と自動車のすさまじい競走が繰り広げられた。またこれが執拗なのだ。なにがあろうと緩まない。とにかく追いつめる。逃がさない。そして数十分後、他の電車に激突した車両から出てきたニコリの体をドイルの執念の銃弾が貫いた。

やがてアンリはその車を人気のない路地へと運び、そのまま置きさるのである。 ひたすら待つドイルとラソー。数時間まっていると怪しい車が数回そこを通り過ぎる。「あの車さっきも通ったぞ‥‥」、待機する警官たちに緊張が走る。やがてその車が止まり中から一人の黒人が現れる。そしてその車に近づいたところで御召し捕り。
車を押収し解体するがドイルたち。シートを裂き、オイルを抜き、バンパーからなにからパーツはことごとく外されていく。必ず在ると信じ込んでて徹底的に解体する。「きっと自動車泥棒だったんだ。なにも出てきやしない」‥‥お手上げのメカニックたち。
“やばいぞ、もし何も出てこなかったらこの車どうするんだ、責任問題だぞ‥‥?”全員にのしかかる重いムード。「いや、絶対この車だ」と言い張るドイル「だったらお前が勝手にやれ」と突っぱねるメカニックたち。誰もが諦めてもドイルは諦めない。
「この車絶対怪しい!」、一人でもまだ探し始める。
一方ラソーは積み荷の重さを記した書類を目に通している。マルセイユ出荷にの車重とニューヨークでの荷揚げ時の 車重がちがうのだ。数キロ分明らかに増えている。それがヘロインの重さのはずだ。「絶対どこかにある!」と確信したドイルはさらに解体していく。そして見つけてしまうのだった。
この根性ってなにかを成し遂げる人たちには絶対必要なものだ。それをまざまざと感じさせるシーン。熱い!

「おたくの車、路上駐車しましたね。自動車泥棒が盗もうとしていたところを巡回中の警官がみつけて犯人を取り押さえました。気をつけてください」ぴっかぴかな一台として復元されたその車はアンリへと返却された。やがてなにもしらないコネクション一派はその車で取引の場へと向かう。
取引の場は警察官たちに包囲され激しい銃撃戦がはじまる。つぎつぎと射殺される犯人たち。主犯のシャルニエは廃墟に逃げ込んだ。かれを追うドイルとラソー。しかし強引なドイルは誤って仲間刑事を1人射ってしまった。うろたえるラソー。さすがにショックのドイル、でもそこは悪びれてでも追跡を続けるしかない。さすがにここでのドイルの行動はある種の嫌悪感を抱かずにはおられない。というか、ドイルに関してはやはり全編を通じて私でもある種に嫌悪感を抱くのだけどね。

結局最後は主犯格のシャルニエを逃がしてしまい、誤射で警官を一人殺してしまったことの責任をとらされ跳ばされてしまうドイル。さすがにこの終り方はいただけないなあって思うのだが、それまでもドイルの執念に圧倒されてしまう。みているものが嫌悪感をいだくまでのドイルの執念。
良くも悪くも、後味がいかに悪くても、男の映画なのである。

by ssm2438 | 2009-11-10 16:00 | W・フリードキン(1939)
2009年 08月 23日

エクソシスト(1973) ☆☆☆☆☆

f0009381_1301058.jpg監督:ウィリアム・フリードキン
原作:ウィリアム・ピーター・ブラッティ
脚本:ウィリアム・ピーター・ブラッティ
撮影:オーウェン・ロイズマン
音楽:マイク・オールドフィールド
    ジャック・ニッチェ

出演:エレン・バースティン
    ジェイソン・ミラー
    マックス・フォン・シドー
    リンダ・ブレア

        *        *        *

この映画はそんじょそこらのオカルト映画とはわけがちがう。リアリズムの巨匠ウィリアム・フリードキンがやったのだからそれはそれはすごいすごい。オカルト物をドキュメンタリータッチで撮れるひとは彼しかいない。しかし勘違いするなかれ。げろげろシーンがリアルなのではなく(むしろそこは今見るとかなりチープだ)、この物語をとりまく社会の描き方がリアルなのだ。

たとえばゴジラ映画をファンタジーとして撮るか、社会派パニック物として撮るかを考えてみよう。
もうこの社会にゴジラという静物がいるとみんなが信じている社会を撮ればファンタジー映画になる。しかし、そこに登場する人物が延々ゴジラという存在を決して信じてないように撮れば、それは社会派パニック映画になる。ゴジラが船を沈没させても「ええ、ゴジラ、そんな馬鹿な、高波に呑まれて沈んだんじゃないのか」ってゴジラの存在なしに解釈しようとする。テレビ画面にそれが見えたとしても「そんなのテレビ局がおあそびでCG合成したんだよ」って絶対に信じないスタンスを社会全体でとり、それが本当に現れたときどうしたらいいんだ???ってパニックになれば社会派パニックの出来上がり。
この『エクソシスト』という映画は後者のスタンスで、それもドキュメンタリータッチな雰囲気で作られている。

クリス・マクニール(エレン・バースティン)の娘リーガン(リンダ・ブレア)に異常現象がおき始めるがそれがなぜなのか判らない。娘の精神錯乱なのか、精神分裂病なのか、それとも筋肉組織がひきつけをおこしているのか・・、精神病院から医療機器のおいてある大学病院までたらいまわしにされるがその原因はわからない。
最後のそのの医療チームのドクターの一人が「このさいエクソシズム(悪魔祓い)をやってみては?」と提案する。彼が言うには、それをやってやれば、自分に悪魔が取り付いていると信じている彼女の脳が精神的に開放されるのではないか・・というもの。ようするに悪魔の存在なんて信じていないわけだ。

それでもそれしか手がないのならとカラス神父(ジェイソン・ミラー)に相談するクリス。文献をしらべてみると最後に教会がエクソシズムを行ったのは16世紀だとか。それにエクソシズムを行うには、それが確実に悪魔のせいであるという証拠を提示しなければならない・・という規則があるという。要するに教会も悪魔なんて信じてないわけだ。
しかしリーガンと接するうちにカラス神父も悪魔が実在することに気づき始める。そして彼女がだすうめきのような音声を録音、専門家に分析させる。結果、それは人間の言葉だとわかる。それも5ヶ国語であり、それをリバースで言葉にしているのだ。それを受けて教会もエクソシズムを認可する。
主任エクソシストはメリン神父(マックス・フォン・シドー)、アシスタントをカラス神父が勤めることになる。

またここからの二人の神父と悪魔との戦いが素晴らしい。ひたすら根性の綱引き。ミラクルパワーなんてでてきやしない。
「怨霊退散、怨霊退散」、しっしっ!(と聖水をまく)
「怨霊退散、怨霊退散」、しっしっ!(と聖水をまく)
ひたすらそれを根性の限り続ける。うめきまわるリーガンと悪魔、室内は地震か竜巻のような惨状。
カラス神父が母との関係に弱みを見せ、そこへつけこむ悪魔。
ひとまず部屋から退散する二人。
一服するとまた戦場にもどっていくメリン神父。中ではまた
「怨霊退散、怨霊退散」、しっしっ!(と聖水をまく)
「怨霊退散、怨霊退散」、しっしっ!(と聖水をまく)の繰り返し。うめきまくる悪魔。
根気と根気の勝負。
そんなメリン神父も心臓発作で死んでしまう。さすがに悪魔も疲労しているようだ。
そんなリーガンにつかみ掛かかるカラス神父、
「俺の中に入って来い!俺の中にはいってこい!」っとリーガンから悪魔を自分の中に呼び込み、そのまま窓を突き破り高台から転げ落ちて絶命する。

この映画のすごいところは、人間の根性が、悪魔の根性に勝った!という点。他のオカルト映画だったら呪文がどうとか、なんかのアイテムをどこかにはめ込めだとか、そんなんばっかりだけど、この映画は悪魔の駿年と人間の執念のガチンコ勝負。それで人間の執念のほうを勝たせてしまうところに素晴らしさがある。

オカルト映画とは名ばかりで、強烈な人間の精神賛歌だと私は思っている。すばらしい!!

by ssm2438 | 2009-08-23 11:58 | W・フリードキン(1939)
2009年 08月 12日

BUG/バグ(2007) ☆

f0009381_148242.jpg監督:ウィリアム・フリードキン
脚本:トレイシー・レッツ
撮影:マイケル・グレイディ
音楽:ブライアン・タイラー

出演:アシュレイ・ジャッド
    マイケル・シャノン

        *        *        *

ひさびさのウィリアム・フリードキン、おまけにアシュレイ・ジャッドも一緒だと思ってみたら・・・とほほ。
ひどい。

ドメスティック・バイオレンスな旦那をもち、そんな男から逃れるためにモーテルで一人暮らしをしているアグネス(アシュレイ・ジャッド)はある男とベットをともにする。しかしその男はきわめて神経質な男で体内に小さな虫が侵入して増殖していると思い込んでいる。そしていつしか二人して集団催眠状態、彼とエッチした私にも虫が寄生した・・と思い込み、最後は自らガソリンを浴び火をつけて焼身自殺。

はあ・・・そうですかあって感じ。
これがフリードキンの最後の劇場映画にならないことを祈ろう。

by ssm2438 | 2009-08-12 13:57 | W・フリードキン(1939)
2009年 03月 20日

英雄の条件(2000) ☆

f0009381_10381981.jpg監督:ウィリアム・フリードキン
脚本:スティーヴン・ギャガン
撮影:ウィリアム・A・フレイカー、ニコラ・ペコリーニ
音楽:マーク・アイシャム

出演:トミー・リー・ジョーンズ
    サミュエル・L・ジャクソン
    ガイ・ピアース

        *        *        *

かつての栄光ウィリアム・フリードキンはほんとにもう復活しないのでしょうか・・。話は全然つまらない。フリードキンも雇われ監督なので、出来上がったシナリオを映像化しているだけ。話自体をどうしよう、こうしようという意志はまったく見えない。
根本的な問題は、制作サイドが、確固たるポリシーのないまま物語をつくるところだろう。最近の映画はマーケティング・リサーチで観客の好みにあわせてころころ内容を変られるので、ストーリーの見えないところイあるはずの思想的統一がなされてないまま、ストーリーだけが展開される映画になてきてる。おかげでこんな、どこにポイントがあるのか全然わからない映画になる。

イエメンで米国大使館包囲デモ事件が発生する。大使館員救出に向かった海兵隊は、大使やその家族を大使館の屋上に移動させヘリに乗せ脱出する作戦にでる。しかし、屋上に出るとどこからか狙撃兵に狙撃される。しかたなくビルの壁面に張り付く兵士たち。ヘリが降下しようとしても下から銃撃があり、ヘリもうかつに近づけない。下のいる攻撃者にたいして撃ち返そうとすれば狙撃兵に撃たれる。そんななかチルダーズ大佐(サミュエル・L・ジャクソン)は下にいるだろう攻撃者にむかって無差別に発砲する指示をだす。的が明確に確認できぬまま撃つ兵士たち。
そかしそこには暴徒化した民衆が石を投げているだけだった。結果として一般市民百数十人の死傷者を出した。発砲を命令した軍法会議にかけられる。チルダーズ大佐は確かにそのなかに銃をもって攻撃しているものが一般人の中にいたと証言。そんな彼に対し、嘗て命を救われた戦友(トミー・リー・ジョーンズ)が弁護を引き受ける。大使館大壁のカメラが民衆の中にひそんで銃撃している映像がうっていた。裁判の結果は被告チルダーズ大佐の勝訴となる。

サミュエル・L・ジャクソンはどうみても脇役の顔だよ。この人を主役にすえることにかなり無理があると思う。なんで世間はこの人に主役級の仕事をふるのだろうか? 

by ssm2438 | 2009-03-20 08:36 | W・フリードキン(1939)
2009年 02月 04日

ハンテッド(2003)  ☆☆

f0009381_22223827.jpg監督:ウィリアム・フリードキン
脚本:デヴィッド・グリフィス
    ピーター・グリフィス
    アート・モンテラステリ
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:ブライアン・タイラー

出演:トミー・リー・ジョーンズ
    ベニチオ・デル・トロ

     ×     ×     ×

ナイフによる格闘映画。
70年代、『エクソシスト』『フレンチコネクション』をみてその圧倒的なリアリズムでウィリアム・フリードキンをあがめるようになったが、ここ数十年ちょっと低迷。先の『英雄の条件』はさすがに私でもちょっと駄目だった。。。そしてひさしぶりのフリードキン映画の『ハンテッド』、や~~~~~~~~~、よかった。
一応世間の声を allcinema ONLINE などでチェックしてみてはいるのだがどもう世間の評価はイマイチ。まあ最近のフリードキンならそれもしかたがないかなって思いつつみてみたら、いやいやいやいや、よかった。もうそれは世代の価値観の違いとしかいいようがない。このよさがわからないっていうのは、やっぱり見る側の心の目が未熟としかいいようがない。

アニメもオタク化がどんどん進んでいるのだが、映画もおなじことがいえるのだろう。
先ごろの映画といったら記号化されたアクションシーン、記号化された残虐シーンのオンパレードでたいそうなフィルムにみえてもそこがあさいものがおおい。普通にとればとれるものを効果としててぶれをいれてわざと見づらい画面にしてみたり、やたらと認識できにくするためにカットをやたらと短くつなげたり・・、われわれがみると「あほくさ・・」と思うような絵作りをみて「かっこいい、イカス」を喜んでいる連中があまりにおおい。

ほんとに感情移入してしまうと、そこで行われているイベントを受け止めるだけの心の強さがないから、「これは調理済みのイベントなんだ」と認識しないと楽しめない。そんな貧弱なメンタリティをもった人たちにはフリードキンの演出は強すぎるのだろう。
フリードキンは決してスーパーマンを演出しない。トレーニングされた人間なら出来る範囲のことでアクションをおこなう。その生々しさに拒絶反応を示すのだろう。彼らのメンタリティはひ弱すぎるので認識してはいけないものの部類にはいっていて、いくつかのシーンを見ているうちに「これはみてはいけないもの」と怖がってしまう。それは残虐シーンがどうのこうのという問題ではなく、その画面がもつリアリティがそうさせるのだろう。

われわれが子供のころの子供向け番組といったら、そこに行われるイベントに感情移入して、ドラマのなかでの主人公が感じているストレスや苦しみ、憎しみ、孤独などを教授し、やがて現実世界でやってくる本当のそれに備えるために、徐々に心を育てていく役割をはたしていたのだろう。
現実に立ち向かいための心の訓練場だったのに、それがいつのまにか大人になっても現実逃避するための心のシェルターになってしまっている今のアニメ。
かれらはそれを認識しているのだろうか?
彼らが喜んでみているものは、心がひ弱な、心のひ弱な者による、心のひ弱な者のための、心のひ弱は人が作ったドラマだということを・・。一人一人が進化するためのものではなく、現実逃避するためのものだということを・・。

そんな心がひ弱なまま大人になってしまった人たちがフリードキンの描き出すリアリティをみても、それは確かに拒否するしかない・・。そんなメンタリティがこの映画のイマイチコメントになるのだろうなあって思った。
ああ、やな時代だ。。。

しかし、歳をとってもフリードキン。この映画をとった時が70前だと思うが、まだまだ若い。
最近のデジタルと、手ぶれのおおいカーチェイスと見えないカット割のメンタルチープのくそアクション映画が多いなか、このじじい、がんばってます。いいねえ。。。。
すくなくともこの『ハンテッド』ならフリードキンの燃える映画の棚にしまってもいいと思う。
こんな調子ならちょっとおととしやった『BUG/バグ』もみてみようかと思ったりする。この映画、フリードキンらしくない分野だなあ・・と避けていたのだけど・・・。

フランケインハイマー
亡き後、あのリアリティを表現できる監督さんなんてそういない。というか、私はフランケインハイマーよりもフリードキンをかっているのだけど、
これからさき、70になっても80になっても、メンタルひ弱なガキどもが決してたどり着けない高尚なリアリティの映画をとり続けてほしいものだ。。。

by ssm2438 | 2009-02-04 05:48 | W・フリードキン(1939)