主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

カテゴリ:A・タルコフスキー(1932)( 7 )

ストーカー(1979) ☆☆☆

f0009381_1191062.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アルカージー・ストルガツキー
    ボリス・ストルガツキー
撮影:アレクサンドル・クニャジンスキー
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ

出演:アレクサンドル・カイダノフスキー
    アナトリー・ソロニーツィン
    アリーサ・フレインドリフ

        *        *        *

実はタルコフスキーの映画の中でかなり好きな映画である。

もとちろんタルコフスキーの映画なので誰も明確な答えなどだせないだろう。本人さえ出せてるかどうか疑問である。そのときはそれでいいと持っていたが、後になって考えると「あそこはああするべきじゃなかった」「あそこはこうするべきだった」などという箇所はかならず出てくるもであって、完成した映画に作り手が100%満足することなどありえないものだし・・。
なのでこれはあくまで私のかってな解釈。かなりシンプルなのできっともっと真剣に考えておられる方ならいろいろいいたいこともあるかもしれませんが、ま、私の戯言なので・・。

f0009381_1243422.jpg「ストーカー」とは、別れた女をつけまわす男のことではありません。この映画の「ストーカー」は、ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域があり、その地域に足を踏み入れることをゆるされた道案内人のこと。誰にゆるされたかといえば、多分ゾーンにだろう。
ゾーンの奥地には、そこに行けばどんな望みをかなえられるという不思議な部屋があるという。政府はその地域に軍隊を送ったが、だれも生還しなかった。そしてその地域は立ち入り禁止区域になっていた。そこに二人の男がストーカーの男をたずねてくるところから物語りは始まる。その二人の男とは、ひとりが学者、一人は作家であった。

いくつか問題点、思考ポイントを整理してみました。今後見る人の参考になればよいのだが・・。

◇そもそもその人たちは(あるいはどの人でもいいのだが)、人はいったい何を望んでいるのか?

f0009381_1251931.jpg普通の人間は、自分が望んでいることはいくつもあり、どれが一番だなんてなかなか決定付けられない。ましては、ホントはそれを心が望んでいたとしても、理性がどう判断するかは微妙な問題。つまり・・、このゾーンの設定がどういう設定なのかはかなりアバウトなわけだ。ただ、もし、この物語の設定を鵜呑みにするのなら、ゾーンの中心部にあるといわれるその部屋に行くまでに「自分がなにをのぞんでいるのか?」ということを明確に整理しておく必要があのかもしれない。・・・しかし、それが可能な人間がはたしているのだろうか?


◇物語の初めと終わりで何か違ったことはあったか?

f0009381_1254715.jpg物語はその二人の男をストーカーの男が案内してゾーンのその場所へと案内していく。この二人が現れる前と、彼らがゾーンから帰って来た後では、どんな変化が起きたのか? つまり、それがソーンに行った人の願いということになるのではないだろうか・・(あくまで私の推測ですか)。・・では、なにが起きたのか? 

彼らがゾーンに向かう前=「列車の揺れで水のはいったコップが動いた」
彼らがソーンから帰った後=「少年の念力(?)で水のはいったコップが動いた」

◇ゾーンの中の進み方

ストーカーは、ナット(だったかな)に白いリボンかハンカチのようなものをつけて、それを投げ、その落ちたところに進みます。でも、その行為はいったい何? ちなみにそのコースを外れると・・・なにやら行けないような雰囲気におちいるみたいです。
「ストーカー」に関する記事をネットであら捜ししてると「あれは卵子にむかう精子にみえる」といった発言がありました。おお、確かにそうかも・・・。しかし、卵子は精子一人しか受け付けないものだけど・・、どうなるんだ??

f0009381_1273641.jpg3人はその部屋の入り口にたどり着きます。しかしその一人は爆弾をもっていて、そこを破壊するために来たと言います。もし邪悪な心を持った人がここを訪れて、彼の望みが叶うようならそれは世界の滅亡をいみする。ここは破壊したほうがいいというのが彼の考えでした。ストーカーの男はそれを止めます。
「俺にはここしかない、これが壊されたら、自分の存在価値がなくなってしまう」
結局3人は何もしないまま・・・帰ったのでしょう(帰りに段取りは描かれていない)。


そして最後に水の入ったコップを動かすストーカーの男の子供のカット。

誰が、何を望み、どうなったのでしょう・・・。
それは皆さんが勝手に考えてくださいって映画。


そういう私は、人の<進化>を肯定したいかな・・・って思った。
誰かにとって都合のいいこととか、都合の悪いこととか、その人の望むことであって、人の、あるいは生命の根本的な望みというのは・・、進化かなって。

ま、これはあくまで私の解釈ですが・・・。
by ssm2438 | 2009-09-29 01:29 | A・タルコフスキー(1932)

鏡(1974) ☆☆☆

f0009381_2522158.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アレクサンドル・ミシャーリン
    アンドレイ・タルコフスキー
撮影:ゲオルギー・レルベルグ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ

出演:マルガリータ・テレホワ
    オレグ・ヤンコフスキー

        *        *        *

まったく・・・意味不明映画である。それでなくても睡魔を誘うとよく言われる(実はわたしは全然ねむくなったことおがないのだが世間ではそうらしい)タルコフスキーのなかで、もっともわけの分らない映画である。わけの分らないところは私も同感である。

実はこの映画、私がはじめて買ったDVDであった。よりにもよってよくこんなわけの分らないものを買ったものだと思う。そしてそのご3~4年は放置してからなんとなく見た映画、もっとも始めてみたのは〇〇ロードショーで、そのときの解説の人はだれだったか・・、忘れたが一番基本的なことを教えてくれていた。
「この映画を判りづらくしているひとつの原因は、一人の人が二つの役を演じているからだ。それも二人」・・だそうだ。・・ほら、もう判らない(苦笑)。

この映画現実の世界で<妻と息子><昔の母と子供の頃の自分>を同じ女性と子役がやっているのだ。・・ほら、これでもまだ判らない。なんでこんなことをしたのか・・というところがポイント。

f0009381_3201186.jpgその鍵を私はあるアメリカのポルノ映画に発見した。
ポール・トーマスという監督がとった『シークレット・パーティ』という映画だ。この映画の主人公は既に結婚して妻(ジュリア・アン)もいるが、いつもあこがれの女性の夢をみる。ビーチを歩いていると向こうからシースルーのなかいドレスをきたスタイルとのよさそうな、美しそうな若い女性がこちらに歩いてくる。かなり近づくのだがいつも彼女の顔は確認できない。そんな彼がホームパーティをやり家のそこらウ中でエッチをしている人がいる。そんなホームパーティもおわって妻とのエッチ。妻が彼のものを咥える。結合してピストン運動し、フィニッシュは顔射をしたいと強引に彼女の顔を引き寄せるが拒否される。そんな妻がしばらく出張で家をあけることになると、友達のホームパーティに行く主人公、そこでまたエッチをするが、やっぱり彼の欲求はみたされない。実はそのなかには妻も仮面をつけて参加してたりもするが・・これはあまり関係がない。主張(嘘)からかってきた妻が帰ってきて、へたってる主人公をみるとやさしくなぐさめて、フェラチオをしてくれる。のときいあのイメージの人がだんだんと近づいてくる。その女性とは・・・シースルーの衣をまとったその向こうには美しい裸体がみえる。主人公の男は妻(ジュリア・アン)の顔に射精する。そしてビーチの女をカメラが足元からパンアップしていくと・・・・、自分をみおろす母の顔があった。

・・この映画をみたとき、すげえと思った。
所詮は男の理想の女性は母なのだ。多少不満があったとしても、それを後天的にモディファイドしていったものであって、所詮は母親ベースでしかない。そして男は母のように愛してくれる女を求めているものだ。この赤裸々な暴露をしたポール・トーマスはえらいと思った。


・・・で、話をタルコフスキーの『鏡』にもどすが、やはり彼も妻も子供もあるのだろうが、その妻には母親を重ねてみているのだろう。でもそれは決して重なることのないイメージ。
男が女を愛するのは、その女自身をあいしているわけではない。男が愛しているのは、自分の中にある理想の女性=母、もしくは母からの進化系のなにか。そして自分の理想・母をその女に投影して、もしかしたらこの人が母になってくれるかもしれない・・と期待している間は夢をみられる生き物なのだ。
その女が、きっと自分の理想なのだと期待できるときはその女を愛していると思うのだが、その期待が消え去ると愛は消える。
(※実はそれもちょっとちがうのだが(苦笑)。男も場合は女とそんなことで別れたとしても「もしかしたら・・接し方が違えば彼女こそが・・その人なのかもしれない」と勘違いしなおしたりする)

この『鏡』という映画は、たぶんそういうことをベースにして作られた映画なのだろう・・と私は思う。でも、それを露骨にはかけないので、母の回想とか、自分のもっている母のイメージを今の妻に重ねているって映画になったのだと思う。
タルコフスキーはテレ屋さんなのだ。

・・あくまで私の解釈です。
この映画は10人いたら10人なりの解釈ができるだろうし、そのどれもが完全に正しいということはない映画なので、あまり真剣に考えずに映像ネタ映画としてみておけばいいのでは・・。
by ssm2438 | 2009-09-27 03:35 | A・タルコフスキー(1932)

ノスタルジア(1983) ☆

f0009381_23271746.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アンドレイ・タルコフスキー
    トニーノ・グエッラ
撮影:ジュゼッペ・ランチ

出演:オレグ・ヤンコフスキー
    エルランド・ヨセフソン

        *        *        *

いやああ、つまんあい。真剣につまんない。それ以前のタルコフスキーもたしかにつまんかったけど、なんか国を出てからのタルコフスキーの映画ってまったくもってつなんないだけになってるような気がするのは私だけ?

脚本はテオ・アンゲロプスの脚本のほとんどをてがけてるトニーノ・グエッラ。だからつまらんという意見もありそうだがつまらん。私も一応タルコフスキーは好きなんだけど、なんかブランドの上にあぐらをかいてるとしかみえない。で、それを周りの人がさらによいしょしてるだけのような・・。

もはや資料映画としての価値しかない。
by ssm2438 | 2009-02-28 23:14 | A・タルコフスキー(1932)
f0009381_4482941.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アンドレイ・タルコフスキー
    アンドレイ・コンチャロフスキー
撮影:ワジーム・ユーソフ
音楽:ヴァチェスラフ・オフチンニコフ

出演:J・フォムチェンコ
    V・ザマンスキー

        *        *        *

実に今のアニメみたいな演出だ。ガラスに反射するぴかぴかとか・・いかにもって感じの演出。卒業制作ということでつくられた映画らしいが、当時ソ連の映像の専門学校で教わった小手先の手法をかなり取り入れてるのだろうと思った。でもやっぱりタルコフスキーの片鱗はかいまみられてたのしい。
やっぱり、こういう時代の映画はたのしい。可能性が満ち溢れている。

脚本に『暴走機関車』アンドレイ・コンチャロフスキーもいる。実はこのふたり時々一緒に仕事しているみたい。『アンドレイ・ルブリョフ』も脚本書いている。これは歴史ドラマだからね・・・面白いわけが無い。・・みたけど・・かなり退屈だった。これはタルコフスキーのいつもの水の描写とかをせずに普通にとってる映画。
by ssm2438 | 2009-02-28 04:33 | A・タルコフスキー(1932)

サクリファイス(1986) ☆

f0009381_4273743.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アンドレイ・タルコフスキー
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:J・S・バッハ

出演:エルランド・ヨセフソン
    スーザン・フリートウッド
    アラン・エドワール

        *        *        *

はじめて劇場で見たタルコフスキー作品。・・・でも、やっぱりつまらない。 とくにこの映画、絵作りの点においてもいまいちだったようなきがする。撮影監督は北欧の巨星スヴェン・ニクヴィスト、ベルイマン映画の常連である。しかし・・・あってないようなきがした。特に死後の家を燃やすときに絵はなんだ??? まるで映画を撮ってるようにみえる絵ではないか。これでは映画の絵ではない!! 先にメイキングモノをみたってこともあるのかもしれないが、実ににいただけない。

黒澤明にしても同じような感じがあるのだが、国内で仕事してるときは確かにそこそこ映画になっていたのだと思う。しかし海外からの予算援助があって、外国資本で作った映画って、どれもつまらない。これって、外国の人が、黒澤なら黒澤のイメージのものをほしがり、タルコフスキーならタルコフスキーのものをほしがったからではないのかな。
外国人が日本に来て、「写真をとるから日本人の女性はみんな芸者のカッコしてくれ」って言われたら、きっと彼女たちのほんとの魅力は引き出せないだろう。・・・そういうこと。

とくにこの『サクリファイス』『ノスタルジア』はタルコフスキーのレッテルに合わせてタルコフスキーが撮ったような映画。とても残念だ。
by ssm2438 | 2009-02-28 04:13 | A・タルコフスキー(1932)
f0009381_1243760.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:ウラジミール・ボゴモーロフ
    ミハイル・パパワ
撮影:ワジーム・ユーソフ
音楽:ヴァチェスラフ・オフチンニコフ

出演:コーリャ・ブルリャーエフ
    ワレンティン・ズブコフ
    E・ジャリコフ

     ×     ×     ×

画業界で映像詩人といえば、やはりこの人アンドレイ・タルコフスキーでしょう。
この人の映像はほんとに、水が好きで、氷のように冷たくて、 これで望遠で映像をとってくれてたら、総てにおいて私の趣味だったのに、 残念ながらレンズだけは広角~標準レンズなんですよね。 なんかそれが個人的には合わないような‥‥、これだけ冷たい画面 をつくるんだったら、 被写体とカメラの親近感を感じさせない望遠レンズでこそ、もっと冷たさがでるのにって思うんだけど。
最近だと、『ヒマラヤ杉に降る雪』のスコット・ヒックスがけっこう似たような味をだしてます。 もう2~3本みてみないとわかんないですけど、その結果 によっては21世紀の映像詩人の称号は彼に上げてもいいかもって思ってしまいました。 ちなにみ『ヒマラヤ杉に降る雪』、私は大好きです。 抱きたいのにだけない男のせつなさ。染みますね。

脇道に話がそれてきたので、もとにもどって、とりあえず『僕の村は戦場だった』のストーリー紹介‥‥しようかと思ったんだけど、うむむ~~、タルコフスキーものを語る時に、物語がそれほど意味があるのか?っという素直な疑問にぶつかったりする。確かにタルコフスキーものなかでは一番物語がある作品だといえるのだけど、それでも、それほど物語を語る必要はないようにおもわれる。というか、正直はところ、はっきりとその物語の内容を覚えていないというのが本音だったりする。
ほんとにざっくばらんに、お話を紹介すると、イワンという少年は故郷の村を戦火にやかれ、憎しみのために、心を捨てて少年スパイ兵として戦争に参加してる。そこには優しい将校さんとかがいて、なんとか彼を普通 のお子さまにもどしてあげたいと思うのだけど、彼の冷たい心は、そんなものでは溶かされることはなかった‥‥ってお話、、、かな?とにかくねえ、ほんとに凍えるようにつめたい心をもった少年なんです。まわりの兵隊さんたちは戦争をやっていてもまだ人間なのに、その子の心だけは、もう絶対解けることのないグリーンランドの大地の奥に眠る、氷河期の氷のように冷たい。

ドラマっていうのは、描きたいものがあったらその対角をきちんと描いてやるってのが基本。ファンタジーをやるならファンタジーをひたすら描くんじゃなくって、 現実の世界をきっちり描いてやって、そのなかでファンタジーを見せてやる。『ゴジラ』ってファンタジーを描きたかったら、現実の人間社会をきちんと描いてこそ、しっかりした映画になる。これが人間社会がいい加減な御都合主義で描かれていたらぜんぜん引き締まらない映画になっちゃう。 ピンクの背景のなかに赤いスポットをおいても目立たないけど、黒の背景のなかに赤いスポットをおくとよく目立つ、そういうことです。
この映画は、その冷たさを描く為に、戦争という背景にもかかわらず暖かい部分を描いてて、それに対比させてイワン少年の氷のような冷たさを描くからほんとの強烈。 まったくもっとその冷たさを鑑賞する映画。映像的には、もう素晴らしい。タルコフスキーだけじゃなくって、ロシアの大地もその映像美におおいに貢献してる。水面からのびる木々(←これはもう卑怯としかいいようがないくらい、映像的に素敵ですね)。白樺の森。かつてのその少年がいた村の風景、波打ち際を走る絵がとっても透明感があって美しい。あれって黒海周辺の村ってことなんだろうか??
このほかにも、 『惑星ソラリス』 『ストーカー』 『鏡』 『ノスタルジア』 『サクリファイス』…etc、 恐ろしいまでに眠気をさそう(笑)映画ばかり。 そのなかでも、この『僕の村は戦場だった』と『惑星ソラリス』はまだストーリーがあるかなって気もします。 「われこそは、アンチ・エンタテーメント映画派」って人は挑んで下さい。
by ssm2438 | 2009-02-09 17:08 | A・タルコフスキー(1932)
f0009381_1805218.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
原作:スタニスワフ・レム
脚本:フリードリッヒ・ガレンシュテイン
    アンドレイ・タルコフスキー

出演:ナターリヤ・ボンダルチュク
    ドナタス・バニオニス

     ×     ×     ×

人類補完計画‥‥ってなに?とうちにかみさんに聞かれて、
「それは地球を惑星ソラリスにすること」と答えた。これ合ってるのだろうか?? 
なにせ『エヴァンゲリオン』はあんまり見てないので予測でしか答えれない。

まず最初に「補完計画」ときいて思いつくのは『ぼくをさがして!』という絵本。
パックマンの形をした「ぼく」がごろごろ転がりながら扇形にぬけおちた口の部分をさがして旅をするのである。見つかったかと思ったら小さすぎて、はめてみてもずぐおちてしまう。今度こそはと思いきや、今度はジェリーのチーズみたいに大き過ぎる。そして最後にぴったんこのパーツをみるけるのだが‥‥という話。
実に人類補完計画をシンプルに表現した絵本だった。

じゃ、なんで惑星ソラリスなのか?
そもそもソラリスとはなんぞや?ということになる。
とりあえず惑星ソラリスの設定はレムの原作のなかにあるのだろうろうが、私はべつのアングルから考えた。

ここでアンリ・パウリの排他理論が登場する。
『ホーキング、宇宙を語る』から排他原理に関するパートを抜粋。

 パウリの排他原理は、二つの同じような粒子は、同じ状態をとることができないと述べている。
 つまり、この二つの粒子は、不確定性原理の課する制限の中で、
 位置と速度の両方が同じになることがで きないのである。
 <中略>‥‥もし、この世界が排他原理なしで創造されたとすれば、
 クォークは別々の、はっきり確定した陽子と中性子を形づくらなかっただろう。
 そして、それらが電子といっしょになって別々の、
 はっきり確定された原子を形づくることもなかっただろう。
 原子は、すべて崩壊して、ほぼ一様な高密度の”スープ”を形づくったことだろう。

そう、この“スープ”の状態がたぶんソラリスなんだと考えた。だからソラリスは社会主義体制の旧ソ連でその映画化が可能だったのだ。

この宇宙に排他原理が存在するから、原子をそのまわりにの世界との間に境界線があり、地球と宇宙の間に境界線があり、自分を自分を含む社会との間に境界線があり、我々の体がひとつひとつが細胞膜で仕切られ、国家はも国境でしきられているのである。そして境界線があるから、その境界線の内側にはある種のアイデンティティが生まれ、それゆえに方向性が存在し、その総合体としての社会は変動し、進化するのである。
もちろん(↑)は個人主義の理屈であり、アンチ社会主義の理屈である。全体系が決定されてしまった以上、進化はそれで終わり、それすなわち死に至る。

人類補完計画とは、この地球からパウリが唱える排他原理を強制排除した世界なのだろう‥‥と、そしてその具体的なビジュアルは私にとってはソラリスなのだ。
by ssm2438 | 2009-01-04 04:00 | A・タルコフスキー(1932)