西澤 晋 の 映画日記

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カテゴリ:ピーター・ウィアー(1944)( 6 )


2011年 04月 17日

フィアレス(1993) ☆☆☆

f0009381_10341497.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:ラファエル・イグレシアス
撮影:アレン・ダヴィオー
音楽:モーリス・ジャール

出演:
ジェフ・ブリッジス (マックス・クライン)
イザベラ・ロッセリーニ (ローラ・クライン)
ロージー・ペレス (カーラ・ロドリゴ)
トム・ハルス (ブリルスタイン/被害者側の弁護士)
ジョン・タートゥーロ (ビル/セラピスト)

        *        *        *

解離性障害ベースで語られるのキリスト降臨もの

ジョン・トラボルタ『フェノミナン』や、ダニエル・ペトリ『レザレクション/復活』など、キリスト再降臨ものというのは、なんだかんだとなかなか感動する映画になるものだ。『フェノミナン』の場合は脳腫瘍が原因で、脳の一部が腫瘍に圧迫されるかなにかで脳に異常な能力がそなわり次第に天才になっていく物語。『レザレクション/復活』は臨死体験を経験して、死のふちから帰ってくると治癒力が備わっていて、自分の体の不具合やら、他人の体の不具合を直していってしまう。本人は普通の人間なのだが、周囲の人は主人公を神様的に扱うようになる。
この話では、墜落しそうになった機内で緊張と恐怖のあまり、解離性障害に陥った主人公マックス・クライン(ジェフ・ブリッジズ)が、恐怖を感じなくなってしまったがゆえに常人離れした落ち着きを発揮する。そんな彼をみていた生き残った乗客たちが「善きサマリア人」と表現するようになる。


<ウィキペディアから解離性障害に関するいくつかの項目を抜粋>

解離性遁走
突然放浪し、過去の出来事に関する想起(思い出すこと)は不能になる。自分が自分であることに混乱する(自己同一性の混乱)、または新たな自己同一性を装う。本人にとってはこの状態が苦痛で、社会的機能に障害がある。
本人は、遁走期間中の記憶が無いが、遁走期間中は、日頃、本人がするとは思えないような行動であろうとも、周囲からすれば、受け答えも正常な故、周囲が気付く事はほとんどない。稀に、数年単位での遁走をする場合がある。が、同じく記憶は無く、その人格として、生活をするケースもある。(遁走期間中は、その前の記憶が無い事もしばしば見受けられる。)
遁走時の記憶が、場合によっては、思い出されることもあるが、それも稀なケースであり、 たいていの場合は、「事実」としての記憶であり、感覚、実感は無く、それが苦痛になり、社会的機能に障害をきたす場合もある。

離人症性障害
自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように感じる持続的または反復的な体験をする。 離人体験の間も、現実検討能力は正常に保たれている。離人症状で苦痛があり、社会機能に障害がある。
「離人感」等と称されるものは、元来、人間が持っているものであり、その顕著な例は「映画など、集中してみている時、周囲の呼びかけが聞こえない」等、日常に付随した事であるが、それが、慢性化し、日常生活に支障をきたすような場合、「障害」とされる節がある。解離性障害とは、密接な関係である反面、他の人格障害などの一例として、「離人感」があることも報告されている。


離人症に関してはミケランジェロ・アントニオーニ『赤い砂漠』モニカ・ヴェティが演じていた。ただ、これらの映画(『フィアレス』にしても『赤い砂漠』にしても)は、解離性障害の意味を知っていないと、どう解釈していいのかわからない映画になりそうな気がする。
この映画ではイチゴアレルギー」が解離性障害から帰還を意味しているのだけど、これもちょっと判りづらいかな。最初に・・・子供の頃の回想でもいれて、「イチゴをたべると呼吸困難におちいり死にそうになる」というこの人の特徴を判らせてからのちのちに展開してほしかったなあ。で、解離性障害が起きている時は「イチゴを食べる恐怖もないから食べられちゃうし、それに関して身体も反応しない」が、元にもどると「やっぱりイチゴが食べられない」ってことに。

<あらすじ>
サンフランシスコからヒューストンに向かった飛行機が墜落した。奇跡的に命を取り留めた建築家のマックス(ジェフ・ブリッジス)は、その日から何かが変わってしまう。突然事故現場から逃走したくなり、高校時代の旧友を訪ねたりする。子供の頃、死ぬ思いをしたはずの苺も平気で食べられる。恐怖を感じない。自分が自分であることにぴんと来ない。恐怖を感じてみようと、往来の激しい車道を突っ切ったり、高いビルに登ったりと奇行を繰り返す。
しかしマスコミは、事故現場で多くの生存者を誘導して助けた彼を救世主のように書き立てた。マックスに助けられたという男の子は、マックスになついてしまい、マックスの息子はいいい気がしない。さらに家でのマックスはなにか別人になってしまったような不思議な虚無感があり、妻のローラ(イザベラ・ロッセリーニ)は不安をつのらせていく。
一方、同じ事故で赤ん坊を死なせたカーラ(ロージー・ペレズ)はショックから立ち直れずにいた。航空会社から派遣されたセラピストのビル(ジョン・タトゥーロ)は、同じように士の恐怖を体験してしまった二人なら、少し派打ち解けあるのでは・・と接触させてみた。自分の子が自分のこでないような・・、自分の妻が自分の妻でないような感覚におそわれるマックスは、家庭での時間がどうにもわずらわしく感じはじめている。そんな時に出会ったカーラは、マックスにとって居心地のよい相手だった。しかし、妻のローラとの溝は深まるばかりで、終に家をでるマックス。いつしか、カーラと二人でどこか遠くへ行きたいと思うようになる。
そんなカーラは、自分が手を放したせいで赤ん坊が死んだと思い込み、罪悪感から逃れられないでいた。マックスは彼女を後ろの席にのせ、買ったばかりの工具箱を抱かせ、車を猛スピードで壁に激突させて事故を再現する。たとえ彼女がしっかり抱いていたとしても、やはり赤ん坊は衝撃で手から飛び出してしまう。カーラは罪の意識から開放された。マックスの常人ならありえない怪行がまたひとりの女性の心の傷を癒した。
病院で回復をまつマックスを、笑顔を取り戻したカーラが訪れ「私は現実の世界にもどる」と別れを言いに来る。寂しさが隠せないマックス。
マックスが退院する日、妻のローラが迎えにきていた。弁護士のブリルスタイン(トム・ハルス)は、マックスの自殺未遂(と彼は解釈している)も精神障害であり、飛行機会社からより多くの賠償金を取れそうだと嬉々としてお見舞いに訪れる。それを聞きながら苺を口に放り込んだマックスはその瞬間、激しいアレルギー症状を起こした。恐怖が戻ってきた。ローラの必死の救急措置で命を取り留めた彼は、生のすばらしさを実感するのだった。

by ssm2438 | 2011-04-17 10:36 | ピーター・ウィアー(1944)
2010年 10月 21日

ピクニック at ハンギングロック(1975) ☆

f0009381_14525839.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:クリフ・グリーン
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:ブルース・スミートン

出演:ミランダ (アン・ランバート)
       *        *        *

ミステリアスな雰囲気だけはあるが・・それだけだというよく判らない映画(苦笑)。

やっぱりオーストラリア人の監督ってどこは変だ(苦笑)。ある種の惹きはあるのだけど、でも、だからいい作品かといわれるとどうなんって答える。とにかく見せられるだけの映画なのでひたすら退屈なのである。世間ではけっこう評判は良いのだが、彼等がほんとにこれが云いと思ってるかどうかかあり疑問である。タルコスフキーの映画が好きだとかいいつつ、映画館にいったら寝てる人を良く観るのと同じ。感情は退屈だ!っと信号をおくっているのだけど、理性のどこかでは「肯定しないといけない」という強迫観念を与える映画のひとつ。

画面は・・・もうちょっとディフュージョン・フィルターかけるとデビット・ハミルトンになりそうなところを、頑張って素で撮りつつ、画面の美しさを表現してる。そこにフルート(?)のミュージックがかぶせられなんだか観ていて気持ちがいい。でも画面のなかにはトカゲやら昆虫やらもでてくる怪しさも同時にある。ニコラス・ローグ『ウォーカバウト/素晴らしき冒険旅行』に近い雰囲気があるかもしれない。

<あらすじ>
f0009381_21132761.jpg1900年2月14日、オーストラリアの寄宿制学校アップルヤード・カレッジの生徒たちが岩山ハンギングブロックにピクニックに出かけた。アップルヤード校長は孤児セイラの参加を許さなかった。食事のあと、ミランダ(アン・ランバート)、アーマ、マリオンは岩山を散歩することにした。三人の後からでぶの不平屋イーディスもついて行く。イーディスがとめるのも聴かず、何かに惹かれるように三人はのぼって行った。
イーディスが全身すり傷だらけで下山してきたが三人は帰ってこなかった。数学教師マクロウの姿も見えなくなっていた。・・・なぜ??

お姉ーちゃんが綺麗なのはここまで。そのあとは男の子二人が彼女等を探しに行き、疾走した3人女子学生のひとりアーマを見つける。彼女は記憶をうしなっていた。ミランダをしたっていたセイラ(残された女の子)は深く沈んでいた。級友は真相を話せと責めたてられるアーマはヨーロッパに行くことになる。授業料滞納で孤児院に戻すと宣告されていたセイラが屋上から落ちて不審な死をとげた。その後、しばらくして校長も不思議な死をとげた。

結局みたいと思う欲望になにも答えをだしてくれないのがこの映画。
ミランダを演じたアン・ランバートがあまりに美しく、彼女をみたい、話なんかどうでもいいから彼女を見たい!と思うのに、それがかなえられない歯がゆさ。で、結局彼女をもう一度みたと思いながら「いつ観られるんだ、いつになったら出てくるんだ?」って思ってたら結局出てこなかった。

by ssm2438 | 2010-10-21 21:06 | ピーター・ウィアー(1944)
2009年 10月 06日

モスキート・コースト(1986) ☆☆

f0009381_1215354.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:ポール・シュレイダー
撮影:ジョン・シール
音楽:モーリス・ジャール

出演
ハリソン・フォード (アリー・フォックス)
ヘレン・ミレン (マザー)
リヴァー・フェニックス (長男チャーリー)
ジャドレーン・スティール (次男ジェリー)

        *        *        *
『ふしぎな島のフローネ』ハリスン・フォードバージョンといいましょうか・・、しかし、こちらのパパさんはちょっと頑固もの。正直こんなお父さんに他のファミリーは良くついていったものだ・・。文明社会離脱といいながら、中米ホンジュラスの密林“モスキート・コースト”に氷製造機をもちこむハリスン・フォード。情熱は買うが・・・どうも思想的にはあんまり仲良くしたくない人だったな。そんな偏屈オヤジなれど、ハリスン・フォードの人の良さなのか、完全に敵視できないキャラクターに収まっていた。すごい。

撮影は『刑事ジョンブック』と同じジョン・シール。この人の画面にはいつも湿気がある。しかし今回の湿気はむしあつそうなのでちと不快感。もっとも『愛は霧の彼方に』もじめじめモードだったけど。
音楽はモーリス・ジャール。この人の音楽はうるさい(苦笑)。

<あらすじ>
発明家アリー・フォックス(ハリソン・フォード)は、頑固なまでに自分の人生を貫き通し、何でも屋をしながら細々と生計を立てていた。れっきとした学歴を持ちながら、管理された社会を嫌うアリーは、5人家族を連れて、中央アフリカのホンジュラスの密林へと向かった。妻(ヘレン・ミレン)、長男チャーリー(リヴァー・フェニックス)、次男ジェリー(ジャドレーン・スティール)、それに可愛い双子の娘。
大自然に包まれたその地で、アリーは発明の才を生かし、木材などを利用して生活必需品を次々と作っていく。父のやり方についていく一家。ホンジュラスの町で雇った案内人のハディ(コンラッド・ロバーツ)や、ジャングルに住む現地人達も、アリー一家に力を貸していく。アリーは巨大な製氷器を建造する。

ある日、武装した3人の男達が現われた。殺気を感じさせる3人に危機感を抱いたアリーは、彼らを製氷機の中に閉じ込めて凍死させてしまう。しかしその際に製氷機は爆発、多量のアンモニアが流出しジャングルを汚染する。自己嫌悪に落ちたアリーはジャングルを出て、海岸の掘ったて小屋で暮らしはじめた。しかし、追いうちをかけるかのように嵐が襲う。アリーは家族の反対を押し切って河を上流へと、破損した家をいかだにして遡っていく。
しばらく漂流を続けていると、説教の声が聞こえてきた。岸にいかだを着け、教会の中を覗くと、そこにはビデオの映像と音声が流れていた。それは、ホンジュラスヘ向かう船の中でアリー達と知り合ったスペルグッド(アンドレ・グレゴリー)と名乗る神父の仕業だった。文明から離脱したこの地でなぜビデオなのだ!! アリーはその神父のうさんくささに、教会を破壊し逃げようとするが、スペルグッドに銃で撃たれてしまう。何かに憑かれたかのように一途に自分の道を歩み続ける父に、一時は殺意さえ抱いたチャーリーら家族に見守られて、アーリーは遂に息をひきとった。大河の流れの中で、家族の涙に送られて。

by ssm2438 | 2009-10-06 00:43 | ピーター・ウィアー(1944)
2009年 07月 09日

刑事ジョン・ブック/目撃者 (1985) ☆☆☆☆

f0009381_991167.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:ウィリアム・ケリー
    アール・W・ウォレス
撮影:ジョン・シール
音楽:モーリス・ジャール

出演:ハリソン・フォード
    ケリー・マクギリス
    ルーカス・ハース

        *        *        *

撮影監督ジョン・シールの才能爆発映画。このみずみずしい湿度間のある画面はジョン・シール独特の雰囲気。後の『愛は霧の彼方に』『モスキートコースト』『レインマン』など、有名どころを撮るのですが、やはい彼の絵の中では『刑事ジョン・ブック/目撃者』が一番好きだ。

物語りもなかなかよいです。一般社会で拳銃振り回してた刑事がアーミッシュの村に潜伏。ローカルな文化の中に入った異物感がとても素敵。その村では拳銃を携帯することは許されず、ケリー・マクギリスに預けると、その銃は小麦粉のカンの中に・・。おもわずわらってしまいます。あれじゃ、使い物になりそうにない。
また、アーミッシュのモノとして町に馬車で買い物にでかけると、町の男たちにからかわれ、アーミッシュは暴力を振るわないと思っていたところにハリソン・フォードががつんと一発ぶちかまし、殴られて町のおとこは唖然としてるとか・・。

そしても最後もいい、追い詰められたハリソン・フォードは、俺を撃つのか、そしてこの子も撃つのか、みんなも面前で犯人に問うが、あれが地域の力なのか・・、犯人の良心が銃をおろさせてしまう。
スーパーヒーローではない刑事ものの実にいいところが出た映画だった。

余談だが、ケリー・マクギリスのオッパイもきちんと見られるぞ! ごちそうさまでした。

<あらすじ>
アーミッシュの親子レイチェル(ケリー・マクギリス)と6歳の息子サミュエル(ルーカス・ハース)は、妹の住むボルチモアへ向かう途中、フィラデルフィア駅で乗り継ぎの列車を待つっていた。トイレに入ったサミュエルは、殺人事件を目撃する。
フィラデルフィア警察のジョン・ブック警部(ハリソン・フォード)はサミュエルから事情を聞き出すため、彼ら親子を署に案内し容疑者の確認を求めた。サミュエルは彼が犯人だとブックに告げたのは麻薬課長マクフィー(ダニー・グローヴァー)だった。そのことを警察副部長シェイファー(ジョセフ・ソマー)に伝えるブック。しかし彼も麻薬課長マクフィーの仲間だった。撃たれるブック。傷をおったまま、レイチェルとサミュエルを彼らの農場に送り届けたが、気を失なってしまう。
体力が回復したブックは農場での手伝いを申し出て、牛の乳しぼりに励んだりしていた。そうした日々を送るうちに、ブックはレイチェルと心を通わせるようになり、ある夜、2人はいっしョにダンスを踊つた。しかしレイチェルはブックを好きになるわけにはいかなかった。もしそうなったら、アーミッシュの規律に従い、彼女は教会から追放される運命にあるのだ。村の納屋建設に加わって大工仕事に精を出した日の夜、ブックは入浴中のレイチェルの後姿を見る。ブックに気付いたレイチェルは、振り返り、自分の乳房をみせる。しかしブックもただ立ちつくすだけだった。
翌朝、ブックはアーミッシュの者たちと一緒に町へ出るのだが、チンピラにからまれる。彼らの非暴力主義を目の当たりにしたブックだが、我慢できずにチンピラを殴ってしまった。この事件から、シェイファーらはブックの所在をつきとめた。ペンシルヴァニアの田舎道にシェイファー、マクフィー、ファーシーらがやって来た。マクフィーとファーシーを倒したブックに、レイチェルを人質にとったシェイファーだが、非暴力を訴えるアンマン派信徒たちの無言の力にシェイファーは遂に屈するのだった。

by ssm2438 | 2009-07-09 08:33 | ピーター・ウィアー(1944)
2009年 05月 06日

いまを生きる(1989) ☆☆☆☆☆

f0009381_434477.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:トム・シュルマン
撮影:ジョン・シール
音楽:モーリス・ジャール

出演:ロビン・ウィリアムズ
    イーサン・ホーク
    ロバート・ショーン・レナード

        *        *        *

この頃のイーサン・ホークは良い。ずっとこの路線でいってくれればよかったのに、最近ぐれてる役のほうがおおいから・・。『ヒマラヤ杉に降る雪』は大好き、これもこの路線の延長戦だと思うが・・。

しかし、この映画はいろいろなことを勉強させてくれた。まず、「詩とは覚悟の象徴」であること。そのこことをこの映画を見るまで知らなかった。実にかっこいい!
私は子供の頃か本を読むことが苦手で、どんなによんでも何が書いてあるのか分らない。40過ぎになって読書障害という障害があることを知り、それが自分にぴったんこに当てはまると知ってからというもの、自分は国語が苦手だと思っていたこと自体が悔しい。多分文字からの情報吸収が他の人よりも格段におとっていただけで、国語時代が不得意だったわけではないのだろう・・。今ではそう思える。でも明らかに理数系は特異だったが・・。ま、それはいい。

この映画に、詩を読んでサッカーボールを蹴るシーンがある。あれ、いいね。あれで言葉が細胞に溶け込み、それが運動になってボールを蹴る! あれは確かに吸収力のある勉強方法かもしれないと思った。

それより以前のキーティング(ロビン・ウィリアムズ)の言葉
「本を読んでそれについて文章を書くときは、その本に何が書いてあったかではなく、その本を読んで自分はなにを感じ方、それを書きなさい」・・・あれはいい。まさにその通りだ。情報をまとめるだけなら誰でも出来る、大切なのは自分を表現することだ。本も映画も詩も所詮はそれを感化させるためのアイテムでしかない。それを分析するようりも、それを読んだときの自分を表現するほうがはるかに意義がある。
でも、これが子供の頃は出来なかったんだよね。いまでこそ、それができるようになっているみたいだが、当時の私は自分の気持ちをひょうげんすることなど、恐ろしくてできなかった。きっと私が書いた夏休みの絵日記なんか、ひどくつまらないものだったのだろう。

最後のキーティングとの別れのシーン、イーサン・ホークが、がんがんって机の上に一番に上がる。なんたる勇気!!!!! あんな勇気どこから放出したんだ!! 一番に立つことがどれだけすごいことか・・。この映画は、恐ろしくも、勇気の要る生き様を見せてくれた。すごい!

あと最後になるが撮影監督のジョン・シール、この人の画面もすばらしい。かつては『刑事ジョンブック』『モスキートコースト』『レインマン』『愛は霧の彼方に』、最近では『スパングリッシュ』も彼の仕事だ。ジョン・シールの画面はあのみずみずしさがとくちょう、あれがいいんだよね。

by ssm2438 | 2009-05-06 04:34 | ピーター・ウィアー(1944)
2009年 02月 04日

グリーン・カード(1990) ☆☆

f0009381_2441567.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:ピーター・ウィアー
撮影:ジェフリー・シンプソン
音楽:ハンス・ジマー

出演:ジェラール・ドパルデュー
    アンディ・マクダウェル

        *        *        *

ちょっと期待はずれだったかな。前作の『いまを生きる』がとってもよくってこれも期待して劇場に足をはこんだのだが、悪くはないが・・・おもったほどは・・・という感じだった。

まあ、わたしが基本的にジェラール・ドパルデューがあんまり好きではないのと、アンディ・マクダウェルがどうもこういったラブコメにはあわないようなきがしてる。この人ってある種の純粋さというのが表現しづらいキャラ。でもラブコメだとそれがないとイマイチ輝かないというか・・、メグ・ライアンがいいのはその純粋さ「これ好きですよ」「これ嫌いですよ」ってのが正直なキャラに映る。だからラブコメにはあってるのだろうと思う。
反対にアンディ・マクダウェルの場合は『セックスと嘘とビデオテープ』みたいな、本心を隠して世間と付き合うのになれている人を演じるにはいいのだろうなあ。

<あらすじ>
園芸家でエコロジー活動にも熱心なブロンティー・パリッシュ(アンディ・マクドウェル)、ベランダに温室のあるマンションの居住資格を手に入れるために夫婦であることが必要だった。一方フランス生まれのジョージ・フォレー(ジェラール・ドパルデュー)は、アメリカでの長期滞在の永住許可証を手に入れたかった。思惑が一致した2人は慌ただしく結婚証明をすませると握手をして実にあっさりと別れていった。
念願のアパートに入居してほっとしたのも束の間、INS(入国管理局)の調査員が本当に結婚しているかどうかチェックに来るという。慌ててジョージを捜し出し、何とかその場をしのいだブロンティーだったが、調査員は何となく半信半疑。ほとぼりがさめるまで一緒に暮らすことになる。
文化の違う二人が一緒に暮らすとなにからなにまでいらだつことばかり。しかしあるパーティでピアノをひくジョージの姿をみるとちょっとはっとするブロンティー。「直観を信じろ」という彼の言葉にすこしずつ感化されていくブロンティ。数カ月後に予定されているINSの本格的面接調査に備えて、お互いにデッチ上げた架空の新婚生活を趣味レートしていく。ポラロイドカメラを使って新婚旅行や結婚式の偽造写真も作った。便宜上の結婚ではあったが、2人は次第に何かを感じ始めていた。
このあたりの二人はとても幸せそうでみてて気持ちが良かった。
しかし審査の結果はNG。ジョージは故国への強制送還を言い渡さる。しかし、二人の心にはほんとの恋愛感情がめばえていた。

by ssm2438 | 2009-02-04 02:13 | ピーター・ウィアー(1944)