主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

カテゴリ:V・デ・シーカ(1901)( 4 )

f0009381_23161364.jpg監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ
    スーゾ・チェッキ・ダミーコ
撮影:G・R・アルド
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ

出演:フランチェスコ・ゴリザーノ

       *        *        *

うむむむ、そこまでファンタジーに振ってしまいますかっ・・(絶句)。

第一部は『どですかでん』『どん底』かって展開でしたが、第二部にはいってからは理性はじけまくり、天使がでてくる『素晴らしき哉、人生』『ET』かってのりです。なにしろ最後はみんなで空に飛んでいってしまいます。あまりにギャップが激しいので、どう解釈していいものやら・・・(苦笑)。イタリアン・ネオリアリズムばっかりやってたデ・シーカ自身の自分に対する鬱憤晴らしだったのでしょうか。

ヴィットリオ・デ・シーカはイタリアン・ネオリアリズム(「ネオレアリズモ」とも言う)の巨匠で、ファンタジーには傾倒せず、ひたすら現実的な世界観でドラマを展開していた監督さん。個人的にも大好きな監督さんの一人なのですが、この映画だけはそれまで性格を一気に覆す怒涛のファンタジーにしてしまいました。

1951年のカンヌの映画祭でグランプリ(現在つかわれているパルム・ドールという文言はこの時代では使われていなかった)。NY批評家協会賞でも外国語映画賞を獲得している。きっとはじけすぎたので、見る側もどう解釈していいのかわからなくなっていたのだろう。個人的には、そんな大騒ぎするほどの作品ではないと位置づけているのだが・・。

<あらすじ>
戦後のイタリア。その少年トトは、キャベツ畑でロロッタ婆さんに拾われ、婆さんは死んだあとは孤児院に引き取られ、18歳になったトト(フランチェスコ・ゴリザーノ)はミラノの街に放り出された。高度経済成長期に入ったイタリアだったが、その日暮らしの貧しい人たちも大勢いた。
気の好い性格のトトは乞食の爺さんと知り合い、街外れの広場にある堀立小屋に泊めて貰うことになった。暖かくなるとあり合せの材料を集めて掘っ立て小屋をつくると、家のない人々は続々と集って来た。
ある日、広場の真中から石油が噴き出すという事件が起った。この広場の所有者である資本家モッビは、それまで貧民の友のような顔付きをしていたが、私兵を差し向けて住民たちを武力で追立てをはじめた。
この時、天から降りて来たロロッタ婆さんの霊は、すべての望みを叶える天の鳩をトトに与えた。広場を救ったがトトだが、住民達はその鳩の威力に目をつけて各々私腹を肥すための金品をほしがり始めた。気のいいトトは、人々の言うなりに鳩を利用したが、天使が降臨しトトの知らぬ間に鳩を取返してしまう。
再びモッビの軍勢は広揚に押し寄せ住民はトトもろとも、檻獄馬車に押し込まれ強制退去されたれた。エドウィジェ(トトに想いをよせていた少女)とロロッタの霊は再び鳩を取戻してトトに渡した。トトはみんなをつれて、理想の国へ向ってウルトラマンのように飛去って行った。
by ssm2438 | 2010-06-24 23:17 | V・デ・シーカ(1901)

靴みがき(1946) ☆☆☆

f0009381_2002754.jpg監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:ヴィットリオ・デ・シーカ
    チェザーレ・ザヴァッティーニ
    セルジオ・アミディ
    チェザーレ・ヴィオラ
    アドルフォ・フランチ
撮影:アンキーゼ・ブリッツィ
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ

出演:リナルド・スモルドーニ
    フランコ・インテルレンギ

        *        *        *

怒涛のどつぼ映画。こんなドツボ映画をネオ・レアリズムで描くか! すごいぞ!! でも見心地が悪すぎる。『自転車泥棒』くらいのストーリーなら見やすいのだけど、子の映画はただただドツボ。なのでドツボを描くためオンお勉強のみに適しているが、一般ユーザーにはどうみても不向きだ。

どんなに社会状況がドツボでも、男の子二人の友情というのは実に純粋なもの。映画の前半ではそれほど悲壮感はないのだが、この後半、それを大人の悪戯で踏みにじる。ちょっと心に痛すぎる!!

<あらすじ>
戦後のイタリア。占領軍のいるローマでパスクアーレ(フランコ・インテルレンギ)とジュゼッペ(リナルド・スモルドー二)の二人は靴みがきをやりながら元気いっぱいに生きている。二人の夢は貸馬屋の馬を買いとることだった。お値段が5万リラ。すでに4万4700リラもある。そのお金はアメリカ兵から貰ったチョコレートを自分では食べずに売るような小さな積み重ねから、占領軍闇物資の横ながしに協カしてもらった金のような犯罪に加担したものもある。
なんとか目標のお金をあつめ、馬を買い得意になって乗りまわした翌日、二人は詐欺の共犯容疑で捕まった。最後に仲間と共謀して騙した占い師は、その時(二人には知らされてなかったのだが)七十万リラも取られていたのだ。二人の監房生活がはじまった。取り調べがはじまり、二人は約束通り口を割らなかった。しかしパスクアーレはジュゼぺが拷間されているものと思い、ついしゃべってしまった。ジュゼッペは怒り、二人の友情はこわれた。

この拷問のシーンが心がいたい。二人は別々の部屋にわけられ、部屋の向こうにはズボンをおろされ鞭打たれているらしいジュゼッペの裸の足だけが、ムチの音とともにびくんとはねあげるのだけみえる。そのたびに叫び声が聞こえる。絶対に口をわらないと誓った二人だが、「お前がしゃべらない限り鞭打ちはやめないぞ」とおどされる。バスクアーレの決意はゆがんでいく。しかし部屋の向こうではジュゼぺは警官たちに口を押さえられ、ダミーの男の子が、警官が動きにあわせ叫び声を上げているだけ。
そんなことはしらないバスクアーレはついにしゃべってしまう。

そのうえジュゼッペは同房の少年と脱獄。パスクアーレはジュゼッペが預けた馬をひとりで持ち逃げすると思い、刑事たちとそこへ向かった。案の定そこにジュゼッペを発見したパスクアーレは怒り、誤って彼を殺してしまう。
by ssm2438 | 2009-08-04 19:22 | V・デ・シーカ(1901)
f0009381_18534433.jpg監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ
    スーゾ・チェッキ・ダミーコ
撮影:カルロ・モンテュオリ
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ

出演:ランベルト・マジョラーニ
    エンツォ・スタヨーラ

        *        *        *

まさに傑作!! すごい。1950年どのキネマ旬報ベストテン1位、それもぶっちぎりであった。今の世代のお子様たちがこの映画をみて面白いと感じるかといえば、そんなことはないだろうが、映画作りをめざす人なら絶対必見映画のひとつになる。

ドラマ作りには、以下のようなシンプルな法則がある。

見ている人が面白いと思う = <目新しいストーリー> X <感情移入>

この2つの要素で、映画・ドラマが見た人の心にどれだけその物語を定着させられるかがきまってくる。ドラマ産業においては、<目新しいストーリー>というのは企画段階の話になってきている今、<感情移入>の構築技術こそが演出する側のすべてだといっていい。どんなに目新しいストーリーを作っても感情移入がないなら、映画館をでたらすぐ忘れてしまう。この『自転車泥棒』ではビットリオ・デ・シーカのその感情移入演出力がいかんなく、恐ろしいまでに発揮されている。

戦後のイタリア映画はイタリアン・ネオ・レアリズムと呼ばれた時代であり、突拍子もない御伽噺のような話を作るのではなく、真実味のある展開の映画がつくられていた。これもそのひとつで、イタリアン・ネオ・レアリズムの代表作。当時のアメリカではセット撮影があたりまえだが、この頃のイタリアにはそんなものをつくってる余裕などなかったのだろう、すべてが実在するものの中で撮られている。それにイタリアの街はどうとっても絵になってしまう。
今なら何処の通りも建物の中も、撮影許可を取るだけで恐ろしいほどの手続きが必要になるだろうが、この時代は戦後まもなくというときなのでそんなまどろっこしい手間はなかったと思われる。いい時代だ(苦笑)。

<あらすじ>
失業者があふれる戦後のローマ。アントニオ(ランベルト・マッジォラーニ)は長い失業のすえ、ようやく映画のポスター貼りの仕事にありつけるが、それには自転車をもっていることが必要条件だった。自転車を質屋から請け出すために彼はシーツを質に入れなんとかお金の工面をつけた。自転車がある生活は夢のようだった。仕事もはかどり、六歳の息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)を車に乗せ、彼はポスターを貼ってまわった。ところがちょっとしたすきに自転車が盗まれてしまった。自転車がなければまた失業だ。アントニオは警察に盗難届けを出すが、毎日何千台という自転車がぬすまれているなか、警察が本気で相手にしてくれわけもない。こうしてアントニオ親子の自転車探しがはじまった。

f0009381_18541938.jpgイタリアの首都ローマで盗まれた自分の自転車を探すなどほとんど不可能に思えるが、それでも彼はやるしかなかった。2人は朝早く古自転車の市場を見に行った。ここで泥棒らしき男に会うが証拠がない。その男と話していた乞食の跡をつけるが、乞食も逃げ出す。余裕がないアントニオはいらいらしてつい息子のブルーノにあたってしまう。この親と子のやりとりがとてもすばらしい。切羽つまっているのだが、子供に接するときはその雰囲気をなんとか隠そうする、しかし、そうはいっても行動には出てしまう。それを見ている息子もそれをかんじとれてしまう。なので父親の気に障らないように健気に努力をしている。
そうこうしているうちに偶然自転車泥棒を発見、後をづけてそいつの家に乗り込む。しかし地域のコミュニティの強いのだろう、近所の連中もよってたかってその泥棒息子を擁護する。この子がそんなことはない、あるなら証拠をみせろ!とせまる。ブルーノの機転で警官が来るが肝心の自転車はない。ただただひきさがるしかないアントニオに、「もうくるんじゃないよ」「とっととうせろ」と罵声をあびれす近所の住人たち。
絶望でうなだれていると、誰かの自転車がぽつりとある。アントニオは息子を先に帰らせると、その自転車にちかづき、乗り逃げしてしまう。・・・が彼がやったときには周りの人が反応、みんなに追われる始末。
どうして俺のが盗まれたときは誰も見向きもしないで、俺が盗んだときには誰もが追ってくるんだ!?って思ったに違いない。もどってきた息子の目のまでみんなに捕まってしまい、ぼこぼこにされているところにブルーノが駆け込んできて涙ながらに懇願する。アントニオに一通りの罵声を浴びせた人々は「息子に感謝するんだな」と彼を解放してやる。悔しさと不条理さと惨めさに涙をながすアントニオ。そんな父の手をとるブルーノ。二人は言葉もなただただ帰路につくのであった。

だああああああああ、心が痛すぎる。悔しすぎる。不条理すぎる。羞恥心全快。こしこれで子供がいなかったらそれほどのこともなかったのだろうが、それを子供にみられてしまうこの屈辱感。・・・すごい。しかしその子供の存在で助けられたのも事実だが、プライドの傷ついたほうがさらなる重症だろう。
by ssm2438 | 2009-08-04 17:55 | V・デ・シーカ(1901)

終着駅(1953) ☆☆☆

f0009381_2314552.jpg監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
製作:デヴィッド・O・セルズニック
    ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ
    トルーマン・カポーティ
撮影:G・R・アルド
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ

出演:ジェニファー・ジョーンズ
    モンゴメリー・クリフト

        *        *        *

リアルタイム進行の本格的メロドラマ。リアルタイム物というのはどうしてもイベントの時間が90分程度とかぎられているので、本来そのバックボーンにあるドラマを想像しつつ、その90分間だけで見せることになる。なかなか名作は生まれにくいが、これをそれに挑んだ実験的な作品。のちにジョン・バダム『ニック・オブ・タイム』でやっているが、やはり面白い映画にはなりづらい。ただ、こちらのほうがまだ成功してると思う。

制作はデヴィッド・O・セルズニック。ハリウッドの大物プロデューサーである。『風と共に去りぬ』『レベッカ』『汚名』『白昼の決闘』『第三の男』『武器よさらば』など、王道映画のプロデューサー。また、こくがいだけにとどまらず、「これは行ける」と踏んだ監督をハリウッドにまねいて撮らせるようなことを最初にやった人かもしれない。イギリスで活躍していたヒッチコックをアメリカに招いて撮らせたのが『レベッカ』。以下何本かアメリカ資本でヒッチコックは撮っている。
この映画も『靴みがき』『自転車泥棒』などの活躍にめをつけ、ビットリオ・デ・シーカで一本撮りたいと考えたところは実に偉大は着目だと思う。しかし、ヒッチコックの場合は言葉がつうじるイギリス人、こちらは気質もちがうであろうイタリア人、撮影は現地でおこなわれているのでほとんど違和感なくデ・シーカの映画になっているといえよう。ただ、映画のコンセプトが、そのリアルタイム進行映画なので・・・めちゃくちゃ面白いというわけにはいかない。

あと、ジェニファー・ジョーンズ。とてもきれいだ。後に『おもいでの夏』にでるのだが、それ以前にこの映画でみられたことはうんがよかった。

f0009381_23152632.jpg<あらすじ>
ローマに住む妹の家に身を寄せて、数日間ローマ見物をしたアメリカ人の人妻メアリー・フォーブス(ジェニファー・ジョーンズ)は、その休暇中に米伊混血の英語教師ジョヴァンニ・ドナーティ(モンゴメリー・クリフト)知り合い、烈しく愛し合うようになってしまった。しかし米国に残してきた夫や娘のところえ帰国する日がやってきた。午後7時、発車数分前にジョヴァンニが駆けつけた。彼の情熱的な言葉のまえに、メアリーはその汽車をやりすごし、ジョヴァンニと駅のレストランへ行った。
ジョヴァンニの一途な説得に、メアリーは彼のアパートへ行くことを承知。しかし、丁度出会った彼女の甥のポール少年にことよせてそれを断るいいわけにした。裏切られた気持ちになったジョヴァンニはメアリーのほほを殴りつけて立ち去った。メアリーは8時半発パリ行を待つことにした。そこで妊娠の衰弱で苦しんでいる婦人がいて、彼女の世話をしていると彼女の心はおちついてゆく。
衝動をおさえきれなかったジョヴァンニは強く後悔して、メアリーを求めて駅の中を歩きまわった。そしてついにプラットホームの端にメアリーの姿をみつけた。彼は夢中になって線路を横切り、彼女のそばに駆け寄ろうとした。そのとき列車が轟然と入ってきた。かまわず走り抜けるジョヴァンニ。一瞬早くジョヴァンニは汽車の前をよぎり、メアリーのもとにたどりついた。
2人は駅のはずれに1台切り離されている暗い客車の中に入っていった。しばらく2人だけの時間にひたった。別れを惜しむのも束の間、2人は公安委員に発見され、風紀上の現行犯として駅の警察に連行された。8時半の発車時刻も間近かに迫り、署長(ジーノ・チェルヴィ)の好意ある計らいで2人は釈放された。いまこそメアリーは帰国の決意を固めて列車に乗った。列車は闇の中に走り去っていった。

じつに別れがたい男と女のメロドラマであった。男は別れがたい気持ちは痛いほどよくわかる。
しかし・・・きっと女はそれほどでもないのだろうなって思ったりもした。
by ssm2438 | 2009-08-01 22:19 | V・デ・シーカ(1901)