西澤 晋 の 映画日記

ssm2438.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

カテゴリ:M・アントニオーニ(1912)( 6 )


2011年 12月 01日

情事(1960) ☆☆☆☆☆

f0009381_14425274.jpg原題:L' AVVENTURA/THE ADVENTURE

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原案:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エリオ・バルトリーニ
撮影:アルド・スカヴァルダ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:
モニカ・ヴィッティ (クラウディア)
ガブリエル・フェルゼッティ (サンドロ)
レア・マッセリ (大富豪の娘・アンナ)

       *        *        *

素晴らしき哉、アントニオーニ・マジック!

ローマの上流階級のひとり娘アンナ(レア・マッサリ)には若い建築家のサンドロ(ガブリエレ・フェルゼッティ)と付き合っているが、その恋愛にも行き詰まりの感がただよっている。アンナは女友達のクラウディァ(モニカ・ヴィッティ)をさそい、上流階級の友人たちとヨットの旅にでる。しかし立ち寄った小島でアンナが行方不明になり、捜索隊を呼び寄せることになる。しかし死体も見つからない。
彼女は死んだのか、自殺したのか、それとも失踪したのか・・・、全ての可能性があるのだが、どれも確実ではない。結局捜査は打ちきられるが、サンドロとクラウディアは生きているかもしれない、彼女が生きている可能性をもとめて彼女の行方を捜すたびに出る・・・。

今回はあまり暗くないモニカ・ヴィッティの役どころは、ルネ・クレマン『太陽がいっぱい』アラン・ドロンのような立ち位置から始まる。
彼女の友達のアンナは上流階級の娘であり、若手建築家のサンドロという恋人もいる。しかし二人の恋愛には倦怠感がただよっているのだけど、それでも、「彼氏がいるという優越感」をクラウディアはいつもみせつけられている。おそらく、クラウディアは、サンドロのことを方面にはださないまでも、気にしているのだろう。多分アンナもそれを知っていて、「これは私のものよ。多少不誠実なことをしたとしても、彼は私をもとめることをやめないわ」みたいな態度をとっている。
クラウディアをまたせておいて、アンナはサンドロの部屋に行き、クラウディアを待たせるのは悪いと思っているサンドロに、強引に自分をだかせる。下で待っているクラウディアにも二人がベットでエッチしていることがわかるように、窓からちらっと見えるように行動する。
自分がないがしろにされていることを、笑顔で知らないふりをするしかないクラウディア。このシチュエーションはまさに『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのようなものだ。ちなみに『太陽がいっぱい』も1960年の作品であり、同時期に同じようなシチュエーションで展開する。

この映画の中にも、「アンナになりかわりたい」というクラウディアのささやかでしぶとい願望があるようにみえる。ただ、それはほとんそ表面的には見えない。それが垣間見られるのが、アンナが失踪した翌日、彼女の父親が島に来た時。前日の雨でぬれた服の変わりにアンナの服をきているところを父親にみられて、どぎまぎと言い訳をする。別に大いなる意味があったわけではないのだろう。しかし、自分のかすかな想いが具現化してることに、はたときずぎ、その服がアンナのものだということを知っている彼の父に対しては、ある種の罰の悪さが表面化したのだろう。
こういうさりげないところの演出がアントニオーニはすばらしい。

アンナの失踪の様子もこれまた不確実性の表現ですばらしい。
突然いなくなったアンナ。落ちたら死ぬな・・というような断崖をみせる一方で、誰もいないと思われていた島には小屋があり、その管理人が時々来ている事実がある。さらに、突然たんたんたんたんたんたん・・とボートのエンジン音。でもそのボートはみえない。のちにそれは密輸業者が小船でその島のまわりを通っていて、その船に乗せたられたかもしれない・・という可能性提示しておく。

アントニオーニの「見せないで魅せる」手法は、他の人よりもかなり見せない。なので見る人が感受性を繊細にしておかないと気づかない。というか、見ている人というのは、それに気づいたとしても、それがなぜそうなのか理解できないと忘れてしまうように出来ている。そうでなければ、その不確実な信号に不愉快さを感じて観続けることをやめてしまう。アントニオーニはそんな人を置いてけぼりにしてしまう。

アンナが失踪した翌日、潮の流れにそって捜索隊と一緒にさがしてみるというサンドロと、ヨットのなかでつかぬ間の二人だけの時間。よくわからないけど、それがあたりまえのように、キスをもとめられるクラウディア。でキスしてしまう二人。
これ以降二人の感情がすこしづつ表面化していく。

人によっては「こんな突然なのはありえないいー」と思うかもしれないが、私はこの流れはきわめて自然に見えた。多分サンドロも、アンナとエッチをしているときに、いつもアンナと一緒にいるクラウディアを抱くところをを想像したことがあったはずだ。理性で考えるとありえないことなのだが、それをわかる人にだけ納得するように、最小限の説明で見せるのがアントニオーニのすごいところだ。

そのあと、大富豪の娘が失踪したというニュースが新聞で公になると、彼女を観たかもしれないという情報もはいってくる。一方j警察も密輸業者のチンピラを捕まえていた。これらのことから判断すると、一概に彼女が死んだとは言えないように思えてくる。そしてサンドロとクラウディアは彼女の目撃情報をたよりに彼女を探すたびに出る。
旅の間、二人のきもちはどんどん接近する。その旅は、アンナを見つけるためのものではなく、アンナはいないんだということを確信するための旅になっていた。情事の旅を続けながらアンナのイメージは二人の念頭から薄らいで行った。あるパーティの夜。友人たちは当然のようにこの新しいカップルをむかえた。その夜、酔ったサンドロは見知らぬ女を抱いた。不安の一夜を明かしたクラウディアはそんなサンドロの姿を発見して絶望する・・・。


この映画をみて思い出されるのが『欲望』のなかのダンスホールのシーン。
BGMはハイテンポなのだが、うごきはスローーーーーーーーーーーーーーで見せるあのシーン。あるいは黒澤明『野良犬』の最後の格闘シーンのバックに、近くの保育園かどこかからきこえてくる童謡をBGMでながすシーンがある。一般的には「対位法」と呼ばれる手法である。
画面内で行われていることと正反対のBGMを重ねて演出する手法なのだが、アントニオーニはこの映画では、BGMを操るのではなく、ふたりの感情を描く時に、それとは正反対の環境をつねにセッティングしているように思える。おそらく確信犯であろう。この相容れない不条理な構成が、揺れる人間の感情を妙にリアルに演出してしまう。

これは60年代のアントニオーニのなかでも最高傑作だと思う。
彼の演出は、複雑で繊細で、きわめて戦略的だ。恐るべし、ミケランジェロ・アントニオーニ

by ssm2438 | 2011-12-01 14:45 | M・アントニオーニ(1912)
2010年 11月 24日

夜(1961) ☆☆☆☆

f0009381_628016.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    エンニオ・フライアーノ
    トニーノ・グエッラ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ

出演:
マルチェロ・マストロヤンニ (ジョヴァンニ)
ジャンヌ・モロー (リディア)
モニカ・ヴィティ (ヴァレンティーヌ)

       *        *        *

「保険」の終わりは「恋愛」の終わり。

その昔、こんな(↓)言葉を交わした女がいた。

私:「女に男を愛する能力はない」
その女:「男だって愛しませんよ」

彼女に一度アントニオーニの『さすらい』『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『赤い砂漠』までを見てもらいたいものだ。きっと魂の同一間を感じるだろう(苦笑)。・・・しかし、実は魂が一緒なのではなく、そこにたどり着いてる人と着いていない人がいるだけの話なのだけど。

アントニオーニは、男と女の恋愛のメカニズムをいつも冷淡に描いている。
女という生き物は、「便利性」に恋するのであって、その男に恋するわけではない。「便利性」というもの、意味はいろいろあって、言葉どおり相手の男が物質的に便利なこともあるが、精神的に便利という意味もある。特に女の場合は「必要とされること」というのはその女の存在意義であり、「必要とされている」ということで、安心感を得るように出来ているようだ。この「安心感を得られる」ということも、「精神的便利性」の中にはいる。

これに対して、男のという生き物は、自分の中の理想の女性像に恋をする。しかしそれは決して実存することはない。しかし、それを追い求める。この世の中にはそんな女性がいるはずだ!・・と。そしてその可能性のある人に期待する。勝手に「この人こそ、そうであるに違いない」。その夢をみていられる時間が男にとっての「恋をしている」時間になる。

恋愛というのは、そうしてお互いに期待したい男女が、相手の期待に応えたいと思っている期間を云う。

アントニオーニはこのメカニズムをいくつかのパターンで映画化している。それが『愛の不毛』3部作であり、その前後の『さすらい』と『赤い砂漠』である。これらの映画のなかに登場する女達はほとんど期待する力を失っている。ましてや期待に応えたいと思う力などもってはいない。それが観られるのは『さすらい』に出てくる、男が求めなかった女達くらいだ・・。
結局「恋愛」とは「期待力」である。それが枯れると愛は蒸発する。


映画の冒頭、作家のジョヴァンニ(マルチェロ・マストロヤンニ)と妻リディア(ジャンヌ・モロー)を伴って、末期癌(映画ではいってないかもしれないが、そんな感じ)の友人トマーゾを見舞う。トマーゾはジョヴァンニの親友であるが、同じ女性を愛してた。それがリディアである。結局リディアはジョヴァンにを選び現在に至っている。

リディアはトマーゾにとって、自分の憧れを投影できる女性だった。彼女の本質的な部分をかなり理解していたのだろう。しかし、全部がみえているわけではない。憧れで盲目になっていて見えない部分は、彼の理想で補完していたのだろう。
一方のジョヴァンには、彼女にとって憧れだったのだろう。彼と一緒にいることが楽しい。刺激になる。そうして彼に憧れ、彼の求めることに応えようとしたのだろう。ジョヴァンニも、そんな彼女と一緒にいるのが居心地がよかった。そして二人は結婚した。しかし現実が二人の期待力(期待する力/期待に応えようとする力)を奪ってしまった。リディアはジョヴァンニと一緒にいてもこころが刺激されることがもうないのである。

リディアは、ジョヴァンニのサイン会の会場に同行するが、そこでもなにも感じない。自分の感覚を再確認するためか、ひとりミラノの街を歩いてみる。そこでみる、男や老婆、少女、ケンカをしたりロケットを打ち上げる男達・・・、どうやら何かを感じる力はのこっているようだ。しかし、それらはリディア人生の中では大した意味をもたない。
リディアは、ジョヴァンニと一緒に出かけてみることにする。その感情はもうないとは分っていても、自己肯定をしたかったのだろう、「自分がトマーゾではなくジョヴァンニを選んだことは間違いではない」・・と。しかし、夫と一緒にいる時間にときめきはない。心が振るえない。彼女の心のなかにそれを肯定する要素がみあたらないのである。そのあと二人はある富豪のパーティに出る。彼はジョヴァンニを彼の会社に招こうとしているのだ。そしてジョヴァンニはその富豪の娘ヴァレンティーヌ(モニカ・ヴィティ)に興味をしめしていく。そんな夫をみてもなにも感じない。

時間をもてあましているリディアは病院に電話をかける。そしてトマーゾの死を知る。

トマーゾの存在は、リディアにとっては恐ろしく重大な精神の「保険」だったのだろう。たとえ、ジョヴァンニとの愛が終わっても、いや、他の誰かから裏切られたとしても、あの人だけは自分を求めていてくれている・・、そう思えることが彼女を精神の保険だったのだ。それがその電話をかけたてトマーゾの死を知った瞬間に消滅した。

おそらく、恋愛に「保険」は不可欠なのだろう。
「保険」無しに恋愛することは、こころの不安定さを招くことになる。それを人間の心は知っているようだ。
しかし、「保険男」は決して女に愛されることはない。ただ必要とされるだけだ。それも男の心は知っている。

おそらくもう、リディアは恋愛をすることはないだろう。
男にとって「髪の終わりは青春の終わり」であるように、女にとって「保険の終わりは恋愛の終わり」である。


アントニオーニの映画は初見の段階では意味が判らないのでかなりしんどい。そういう私も、若き日の初見では途中リタイアしている。この映画は最後まで行って、トマーゾとリディアの関係を理解し、自分が書いて送った入魂のラブレターさえ忘れているジョヴァンニとの今の関係を理解してから振り出しに戻る。そこではじめてそこに描かれている内容が理解できる・・という、なにかと手間のかかる映画である。

by ssm2438 | 2010-11-24 22:16 | M・アントニオーニ(1912)
2010年 10月 28日

さすらい(1957) ☆☆☆☆☆

f0009381_924193.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:エンニオ・デ・コンチーニ
    エリオ・バルトリーニ
    ミケランジェロ・アントニオーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:
スティーヴ・コクラン (アルド)
アリダ・ヴァリ (イルマ)
ベッツィ・ブレア (昔の女・エルヴィア)
ドリアン・グレイ (ガソリンスタンドの女・ヴィルジニア)
リン・ショウ (娼婦・アンドレイーナ)

       *        *        *

お父さん、お父さん、ロジーナのパンツがみえてまっせ!!

この映画は、リアルなメンタリティを描く映画ではなく、男のメンタリティとはこういうものだというメンタル・システムを具現化した話。いやあああああああああ、実にアントニオーニだった。この人は男のメンタリティ正直に描きすぎる。後の作品群をみると女もだけど。実に正直な映画監督だなあと思う。

戦後のイタリアには、名匠とよばれる監督さんがやらたと多かった。ロベルト・ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカフェデリコ・フェリーニルキノ・ヴィスコンティピエトロ・ジェルミ、そしてミケランジェロ・アントニオーニ。その中でも一番好きなのはこのミケランジェロ・アントニオーニだ。この人の映像センスと、描く題材は実に衝撃的で、メンタリティは男女の心理を描き出しし、映像は心象風景的な・・、どこかミステリアスな雰囲気をかもしだしてくれる。60年代のアントニオーニは傑作ぞろいだと思う。
残念ながら70年代からはイタリア映画全体がはかなりへたってくる。下世話な映画ばかりになり、エッチとエログロ、残虐性が前面にでてきてあまり関しない時代がしばらく続くことになる。アントニオーニの映画ですら、なぜか60年代の彼の作品ほどときめくものはない。

ミケランジェロ・アントニオーニは、男の愛し方、女の恋愛を正直に描く。この映画では男のメンタリティを暴露してくれた。
男というのは、本来一人の女しか愛さないように出来ている。常に心の中に理想の女をもち、「もしかしたらこの人は自分の<心の故郷の女>なのかもしれない」という夢を描き、それを相手の女性に投影しながら恋愛をする。期待するのである。「この女こそ、きっと自分の<心の故郷の女>なのだ」と。
しかし現実にはそんな都合のいい女などいない。どこかが違っている。「やはり違った。これは私がもとめている女性ではない」と認識する時が来る。そのとき恋愛というのは終わる。男の恋愛というのは、現実をゆがめて解釈し、無理やりそうではないものをそうだと思い込もうとしている時間。

この映画はそんな男の恋愛メンタリティを具体的な形として再現している。ただ、映画的にしかなく<心の故郷の女>と具体的な女として登場させるしかないので、イルマという女をその位置にすえてある。それをもってその男の<心の故郷の女>にするのはちと違和感を感じるが、まあ、映画構成上しかたがないことなのだろう。


<心の故郷の女>=イルマに見捨てられた男アルド(スティーヴ・コクラン)は娘と一緒に故郷をはなれた。昔自分を愛してくれた女のところによってみる。彼女は今も自分を愛してくれている。そこに居つけば心がやすらぐのに・・と思うのだが、イルマが荷物を届けてくれたことからやはりイルマの存在を再認識してしまう。

車の荷台に乗せてもらってたどり着いた先のガソリン・スタンド。一夜の宿を借りるつもりだったが、そのスタンドを切り盛りする若い精力的な女ヴィルジニア(ドリアン・グレイ)に惹かれてく。彼女は老父暮らしていたが、なにかと迷惑をおこすので施設にいれてしまう。一緒に旅をしていた娘のロジーナもイルマのところに返して、二人だけの生活になるはずだった。しかし、どこかでそれは頭をもたげてくる。「この女はイルマではない」。

再び放浪生活がはじまった。やがてベネズエラでリッチになってもどってきたとう成金男の船整備する仕事をもらう。彼は河岸の小屋で使用人たちと話していたが、アンドレイーナ(リン・ショウ)という娼婦らいし女を呼びつけ出て行った。彼女はは肺病をわずらっていたが、は無邪気で可愛かった。アルドにもなつき、彼と一緒に泥沼のような生活から浮び上ろうとした。しかし・・・「この女はイルマではない」。

アルドの足は本能的に自分の村へ向った。村では飛行場が建設されようとしておい、変化が押し寄せてきている予感があった。娘のロジーナを見つけ、彼女が入っていく家を覗き見た。イルマがいた。赤ん坊に湯を使わせていた。イルマは明らかに自分の女ではないことを理解するしかなかった。<故郷の女>を失ったアルドにとって、もうこの世に意味はなかった。


しかしなあ・・、<故郷の女>がアリダ・ヴァリってとこにちょっとしんどさを感じる。一応イタリアの名女優なのかもしれないが、どうみても、他の3人より美しくない(苦笑)。もうちょっと・・・ほんとに固執するにあたいするビジュアルをもった人はいなかったのだろうか・・。ちと残念。

by ssm2438 | 2010-10-28 09:04 | M・アントニオーニ(1912)
2009年 11月 26日

欲望(1966) ☆☆☆☆

f0009381_1455317.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エドワード・ボンド
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ハービー・ハンコック

出演
デヴィッド・ヘミングス (写真家)
ヴァネッサ・レッドグレーヴ (公園の女)
ジェーン・バーキン (モデル志望のヤンキー娘)

        *        *        *

映画を見る人には、<サッカー観戦型><野球観戦型>とがある。
サッカー観戦型>というのは、流れるゲームのなかでひたすら「どうなるんだ、どうなるんだ」とか「いけいけいけいけ」とか「わうわううわうわ」とか、映画から与えられる情報をひたすら受け入れる受動的見方の人。スピルバーグの『ジョーズ』やコッポラの『ゴッドファーザー』が好きな人はこのタイプだろう。
<野球観戦型>というのは、ゲームの展開にあわせて自分の考えを参加させていくタイプ。「このあとは〇〇だからピッチャーは変えたほうがいいな」・・とか、「まだそのまま引っ張ったほうがいいな」とか「ここは代打だろう」とか、「あのときの自分はこんなんことを考えていた、きっとあのピッチャーもそんな感じなのだろうな」とか・・。見ている映画と同時に見ている自分が存在し、それを観戦しながら、自分で自分なりの考えをまとめていくタイプ。アントニオーニの映画はこちらのタイプでないと楽しめないだろう。

1967年のカンヌ国際映画祭パルム・ドールに輝いたこの作品、これは演出志望の人にとってはマストシーな映画だろう。ミケランジェロ・アントニオーニの演出技の宝庫だといっても過言ではない。

● 期待させておいて裏切る。そして別の形で与える。
● 通常空間に異物を侵入させる。異物を無視する人々/それに対応する人々。
● 動いているものと止まっているもののコントラストをつける。
● アップビートの曲をバックにスローで動かす。
● 空間に段差をつける→演出の下手な人はつねに一平面上でイベントを展開する。
● 手前にドアや何かの格子、枠などを配置し、被写体への意識を絞り込む。
● 透明なものの表現。後ろが透き通って見えるが、その表面には映りこみもある。
● 演出の基本は<答え>を与えるのではなく、<答え>を想像させる。

上手い演出家というのは、演出して内容に演出するものである。この映画も、なにが演出されてるのかもはっきりわからないのだが、ついつい画面を見てしまう。なにかが起こることを期待してみている。それが何かは分らないが、きっとそれが見つかれば「あ、これだ!」って納得できるものを探している感じ。そんな何かを潜在意識の中で刺激しているのだろう。


ちなみにこの映画の原題は「BLOW-UP」=写真を「引き伸ばし」すること。
写真家の主人公が公園で何気ないスナップショットを撮っていると、林の中にはいっていく男女をみかける。興味本位で彼らのシーンをカメラに収めるのだが、それに気付いた女は主人公に駆け寄りフィルムを返してという。拒否する主人公。そうこうしていると相手の男はいなくなっており、女もその場をさる。その走り去る女をまたカメラに収める。
そのフィルムを引き伸ばししてみると、女の不自然な目線が気になる。その方向をの一部をまた引き伸ばしすると、茂みの中にから銃で狙っている別の男の手が映っている。さらに女が走り去る写真の奥のほうに何かが映っている。引き伸ばしてみると、女と一緒にいた男が倒れているらしかった。
後にその夜その場にいってみる主人公は、殺された男を公園のその場所で発見する。
その後の展開は『アイズ・ワイド・シャット』のような感じ。自宅/撮影スタジオに帰ってみると、その引き伸ばした写真はすべて消えうせ、他のフィルムも盗まれていた。公園に行っても死体はない。

しかしこの映画、サスペンス性はまったくどうでもよくって、何かを期待して見る人間性を描くこと、刺激することがメインなのだろう。
たとえば哲学書を読む時でも、そこに書かれていることを読みたいわけではなく、自分の思っているがそこに書かれているのを発見したいから読むのだ。カメラもそう。そこに自然と存在する風景を撮りたいのではなく、自分の中にある何か得体のしれない何かの具現化したものを、それに近いものを捜し求めて、それを見つけたの時にフィルムに定着させたいのだ。

人間の好奇心とは、見えるものを見るものではなく、見たいものを探す。そして、見たいように見るも性格のものなのだ。それを題して『欲望』とつけたのこの邦題はけっこういけてるかもしれない。

余談ではあるが、若き日のジェーン・バーキンがなかなか美しく、彼女の貧乳も素敵だ!

f0009381_15294064.jpgf0009381_15294790.jpg

by ssm2438 | 2009-11-26 15:03 | M・アントニオーニ(1912)
2009年 11月 21日

太陽はひとりぼっち(1962) ☆☆☆☆

f0009381_15282959.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エリオ・バルトリーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:モニカ・ヴィッティ、アラン・ドロン

       *       *       *

1962年のカンヌ映画祭審査員特別賞受賞作品。なんとお洒落なタイトルだ。原題はイクリプス=蝕(日蝕)。それを『太陽はひとりぼっち』と題するセンスはすごい。ただ、このタイトルが本編をそれほど象徴化してるとも思えないが・・(苦笑)。

まず、アントニオーニの映画は、何が描かれているのか分らずに見てもただかったるいだけだろう。ほとんどの人はつまんないと判断するはずだ。私が観てもかなりつまんないし、部分部分は飛ばし観るさせてもらった(苦笑)。しかし、おぼろげながら意味がわかって見ると、なかなか味わいのある作品なのである。この映画を語るには「愛の不毛」を語らなければならない。だいたいその意味はなんなのか、それを正確に話した人がいるのだろうか? ・・というわけで、一応これ(以下↓)は私の見解。

まず、理解しなければならない現実がある。それは


     「女に男を愛する能力はない!」


・・ということだ。多分ミケランジェロ・アントニオーニもそのことにあるとき気付いてしまったのだと思う。これをほとんどの人(男も女も)は気付かない。そたまにふらっと感じる時はあるかもしれないが、心のどこかで「いやいやそんなことはない」って否定してしまう。だから本人が心から認識することはない。しかし、ごくごく一部の人だけがそのことを認識してしまっている。『ロリータ』を書いたウラジミール・ナボコフもその一人だろう。

男が気付かないのは、男が女でないからだ。男には女を愛する能力はあるが、女にも同じ能力があると勘違いしてしまうのだ。そして女にもその能力があるというファンタジーを描き続け、その結果としてあまたの小説や映画が生まれた。それを見せ付けられてきた女たちは、「自分たちも、男を愛する能力があるのだ」と勘違いし、そう思い込む。一報女も、自分に愛する能力がないのだから、男がどんなにいいよってきても、そこに真実味を感じない。女に男の思い入れなど分るはずがないのである。
男は一度愛した女は別れても好きだが、女は別れたらその男のことはあっというまに忘れてしまう。あの節操のなさは、男には理解できないものだが、それは「女にも男を愛する能力がある」ということを前提してものを考えるからであり、その基本原則と現実との食い違いが,男には理解しがたい現実になる。しかし「女には男を愛する能力がない」という真実にたどり着けばその訳ははっきりしてくる。

ミケランジェロ・アントニオーニはその真実にたどり着いてしまった一人なのだ。彼が60年代に描き続けた「愛の不毛」のシリーズは、すべてこの法則によるものだ。それはモラルの問題ではなく、女の性として、男を愛する能力がない。しかし、男も女もそれを認めていない。そんな状況のなかで、かれは自分が見つけてしまった悲しい真実を描いていたのだ。
コンクリートの種をまいても芽が出ないように、女をいくら愛情を投資しても、芽はでないのである。それでも永遠に男は夢を見つづづけ、女もその夢に同調する時間をわずかながらもっている。人はそれを『恋愛』と呼ぶのである。

そこまで理解した上でこの映画をみると、
「おおおおおおおおおお、ミケランジェロ・アントニオーニ、すごいぞ!!」ってことに気付く。

by ssm2438 | 2009-11-21 15:20 | M・アントニオーニ(1912)
2009年 02月 03日

赤い砂漠(1964) ☆☆☆☆

f0009381_9321167.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:モニカ・ヴィッティ
    リチャード・ハリス
    カルロ・キオネッティ

        *        *        *

アントニオーニの映画のなかではきわめて分り易い映画だろう。アントニオーニのなかではこれが一番好きだ。

まず、この映画を理解するには「離人症」を知らなければならない。ほとんどのこの映画の説明を読むとノイローゼとか心的障害とか書かれているが、一番ぴったりくるのはこの「離人症」という言葉だろう。多重人格2歩手前くらいかな・・。
その昔『24人のミリガン』というダニエル・キースの本がありましたが、そのころ彼が多重人格ものにこっておりまして、私もちょっと調べたことがあるのです。基本的には多重人格というのも、本来その人の人格が受け止めなければいけないストレスだけど、受け止めようとすると自分が崩壊してしまうと判断した場合は精神がっ責任放棄してしまうわけです。それが「離人症」だったり「解離症」だったりするそうです。「離人症」の場合はまだ自分が自分であるのだけど、自分の体に魂がはいってないような状態らしいですね。それに対して「解離症」になうと心が分離しているときには自覚がなくなるそうな。そのときに別の人格がその体を支配していると多重人症ということになるらしいです。

この物語の主人公、ジュリアーナ(モニカ・ヴィッティ)は交通事故にあい、極度のストレスから「離人症」になっている・・とっ解釈するのが一番分り易いのではないかと思われます。

ミケランジェロ・アントニオーニは、彼女のもつ不安を日常生活のなかに見られる何かで表現しています。
あるときは工場の廃液によごれた河川、工場か噴出す煙、立ち並ぶ送電線、強大なタンカーなど。そんなジュリアーナになんとか助け舟をだしたいと思っているのがコラド(リチャード・ハリス)。しかし彼も彼女にとってはわずらわしい存在になっていく。どんなに物語が展開しようとも、なにもかにもが不安でたまらない・・・・、そんなモニカ・ヴィッティの映画でした。


・・・で、いま突然思い出した。
そういえばメグ・ライアンの映画で『キスへのプレリュード』って映画があったけど、メグ・ライアン演じたあの主人公もたぶんこの離人症だったのでしょう。もう一人の爺さんもそんな状態だったのかな、きっとその離人症同士があるとき波長があって性格が移動してしまったってことなのかも・・・。
あの物語を書いた人、きっと離人症で苦しんだことがあるんじゃないかなあ。あるいは・・・ゲイか・・・。

by ssm2438 | 2009-02-03 09:34 | M・アントニオーニ(1912)