主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

カテゴリ:テオ・アンゲロプロス(1935)( 4 )

旅芸人の記録(1975) ☆

f0009381_1272933.jpg監督:テオ・アンゲロプロス
脚本:テオ・アンゲロプロス
撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス
音楽:ルキアノス・キライドニス

出演:エヴァ・コタマニドゥ、ペトロス・ザルカディス

        *        *        *

1979年キネマ旬報ベスト1に輝いたのがこの作品。

映画には、死ぬほどつまらないのに、見終わったあとは「この映画いい!」といわなければならない強迫観念におそわれる映画がある。その症状はタルコフスキー症候群とか、アンゲロプロス症候群と呼ばれる。自己の価値観が確立されてないスノビッシュ層がかかりやすい精神疾患だ。

有名なテオ・アンゲロプソスなので一度は見ておこうとおもってみたのが20代の後半。しんどかった。おねーちゃんが5人の男に犯されているところかしか記憶にない。手と足を4人の男がそれぞれ押さえつけ、残りの一人が犯しているのである。実に象徴的な絵だったが、それ以外はひたすらつまらないということしか覚えていない。
by ssm2438 | 2009-12-17 01:30 | テオ・アンゲロプロス(1935)
f0009381_3453031.jpg監督:テオ・アンゲロプロス
脚本:テオ・アンゲロプロス
    トニーノ・グエッラ
    タナシス・ヴァルニティノス
撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス
音楽:エレニ・カラインドロウ

出演:タニア・パライオログウ、ミカリス・ゼーナ

        *        *        *

アンゲロプロスのなかでは一番好き。というか唯一好き。

「絶望=死に至る病」と表したキェルケゴールだが、反転すれば、「希望だげあれば人は生きられる」・・ということになる。本編は、ドイツにいるということになっている父をもとめてギリシャからドイツに旅する12歳と5歳の姉弟のロードムービーの形をとっている。これは夢をもった旅ではない。その父というのも、どうやら母がかってに創造した人物のようだ。しかし、とりあえず母からその事実を聞き出さないでおけば、それは可能性としてのこされる。そして二人の子供は、家を出る。彼らは絶望したくないから、ありもしないが、否定されてもいない可能性をよりどころにして彼らが所属する世界から逃避したのである。

しかし、この物語では、ギリシャの国境のむこうはドイツという設定になっているらしい。当時みたパンフレットにそう書いてあった。おかげで見てる間は・・ん?みたいな印象をぬぐいきれなかったのも事実だが、ドラマとしては実に切実で、必死で、病んでて、美しい。

<あらすじ>
アテネに住む12歳の少女ヴォーラ(タニア・パライオログウ)と5歳の弟アレクサンドロス(ミカリス・ゼーケ)は、母から「父はドイツにいる」と聞かされていた。そんなヴォーラは毎日のようにアテネの駅にいっては、その列車に駆け込む自分をゆめみていたが、実際できるものではない。しかし、その日は乗り込んでしまった。切符はもっていない。デッキで身を寄せて眠る二人は車掌にみつかり途中の駅で降ろされる。
ヴォーラは駅長に「伯父さんに会いにいくのだ」話す。ふたりをつれて警察が伯父の勤める工場をたずねる「ふたりは私生児で父はいない」と語る伯父の話を立ち聞きしたヴォーラはショックをうける。

f0009381_3465537.jpgそして警察署に連れていふたりだが、ギリシャではめずらしい雪が降り始める。警官や人々はそとにでて、まるで時間がとまったように雪をながめる。ギリシャの町に降る雪。人々がただそらを仰いでいる。そんな風景のなか、二人は警察署から逃げ出し、旅を続ける。この監督さん、とっつきづらい印象があるが、実はこいうい現実をつかったファンタジーの描き方が実に上手いのである。

山道をあるいていると旅芸人を送迎するバスが通りかかり、それに乗せてもらう。街に着き、旅芸人たちと合流、運転手のお兄さんもなにかの用事で出て行く。ヴォーラは疲れ果てて眠っている。アレクサンドロスは時間をもてあまし、バスをおりてあたりを検索しにいく。眼が覚め、弟のいないことにきづいたヴォーラは彼をさがしにでる。パン屋に入り、サンドイッチがほしいといいます。店のオヤジにお金はと言われても、「お金はないけど、お腹が空いた」パン屋のオヤジは、お金がないなら稼げと食卓の上の瓶を片付けろという。

f0009381_3524183.jpgしばしその旅芸人たちと一緒に時間をすごすヴォーラとアレクサンドロス。送迎バスの運転手オレステスとあるいていると道に落ちていたフィルムの欠片を拾う。街灯に照らしてみると霧の向こうに樹が一本あるようにもも見えなくはない。弟はそれをもらう。
旅芸人たちと別れた2人は再び歩きだす。もう歩けないという弟の言葉にしかたなくヒッチハイク。一台のトラックがとまり、二人はのせてもらう。朝方、アレクサンドロスが眠っていると、オヤジはトラックを止め、ヴォーラを荷台に呼ぶ。その暗闇の中でレイプされるヴォーラ。ことが終わると彼女は無感動に血のついた手を眺めている。

再びあの青年に会うヴォーラ(この映画のなかではオレステスが都合よくあらわれる・・はは)。浜辺の店で音楽を聴いて休みながら、青年は姉に踊ろうという。二人は立ち上がって向かい合い、そろりそろりと共に歩くのですが、姉はその場を走り出してしまう。3人は宿に泊まり、姉が夜中起き出して、青年のベッドに行くとそこには誰もいない。やがて朝になり、青年は防波堤にすわっていると、海の中から静かに巨大な石像の手が浮かび上がってくる。石像の手はヘリコプターに吊られて運ばれていく。
夜、オレステスと姉弟はバーにはいってく。待っているように言われたヴォーラだが、それでもオレステスを探しにいくと、青年はそこで会った男と2人で出て行ってしまうんです。彼はホモだったのだ。
おいかけてきたオレステスと別れたヴォーラは弟と一緒にドイツをめざして歩いていく。人のよさそうな国境警備隊の兵士を誘い切符代を稼ごうとするが、やりきれない彼は彼女を抱くこともなく、金を投げ捨てるようにあたえて去っていく。
旅券がないので夜、川べりで監視の目を盗んでボートに乗る。彼らに向けて放たれる一発の銃声。翌朝、霧がはれていくと、ふたりの前に緑の草原と一本の木がみえてくるのであった。

さて問題です。
最後ふたりは生きているのでしょうか? それとも死んでいるのでしょうか?
by ssm2438 | 2009-12-17 00:31 | テオ・アンゲロプロス(1935)
f0009381_6382361.jpg監督:テオ・アンゲロプロス
脚本:テオ・アンゲロプロス
    トニーノ・グエッラ
    ペトロス・マルカリス
撮影:ジョルゴス・アルヴァニティス
音楽:エレニ・カラインドロウ

出演:ハーヴェイ・カイテル、マヤ・モルゲンステルン

        *        *        *

戦時下の環境で昔の映画を探す・・というシチュエーションはある種サスペンス系の展開でもあり、アンゲロプロスの映画のなかでは比較的楽に最後まで見られた(苦笑)。これは実にめずらしいことだ。それをいうならアンゲロプロスの映画にハーヴェイ・カイテルってのもかなり意外な組み合わせだ。アンゲロプロスの映画で思うのは、トニーノ・グエッラが脚本かいてるほうがいいね。本人が書くと全然ひとりよがりになってつまらないものしかできない。『霧の中の風景』もトニーノが書いていた。

この人の作品は、「無理やりこの作品はいいんだ!」と思い込もうとして見ると、つらい。事実がそうでないのだから意志の力でそう思い込んでもストレスがたまる。「ああ、またつまんない映画をとってるなあ~」ってみるとすこしは楽。「ああ、またおんなじことやってるし~~、今度はレーニンの首が空飛んでるよ~」って。「ああ、またスモークたいて霧の風景にしてるよ~~」とか。・・・しかし、スモークたくのはやっぱりいいんだよね。タルコフスキーもさいげなくスモークたいて霧・モヤを演出するけど、雰囲気出すにはいいんだな、これが。

でも、感情移入できない主人公がほとんどなので面白くない。心の根っこはコミュニストだし、境界線をさだめて自分を封じ込める強者=権力に対してひがみ根性を持っているのも確か。弱者の僻みとか、夢を代弁する、あるいは強者を加害者として描き、彼らを批判して鬱憤晴らしする監督さん。一言で言って、被害者であることに酔って浸って満足している人なので、生産性がまるでない。面白い映画は絶対に撮れない人。
この監督には『評決』のポールニューマンの最終弁論きかせてあげたい。

「自分たちを被害者だと思ったら、そのときから負け犬になってしまう・・」っていうあれ。

自分たちを被害者とみなすことは、加害者のせいで自分が不幸であるってことを肯定することであり、
自分のせいで自分が不幸であるという根源的な問題解決から目をそむける。ゆえにそれが負け犬=ルーザーの出発地点なのだ。この監督は人生やり直すべきだね。

ギリシャでは、しばしば「子供が寝付かないで困るときはアンゲロプロスを見せろ」と言うとか(苦笑)。

<あらすじ>
ギリシャ出身のアメリカの映画監督ハーヴェイ・カイテルは、故郷にもどりマナキス兄弟が未現像のまま遺したという幻の3巻のフィルムを探してバルカン半島をめぐる旅に出る。デモで騒然とする街で彼はかつての恋人らしき女(マヤ・モルゲンステルン)とすれ違う。
旧ユーゴのマケドニアの小都市モナスティルにはマナキス兄弟の博物館がある。彼はそこで職員らしい女(マヤ・モルゲンステルン2号)に会い、幻の3巻のフィルムのことを尋ねるが女は答えない。
巨大なレーニン像を乗せた艀でドナウ河を逆上り、彼の旅は続く。サラエヴォの向かう旅で、再び彼は幻想の中に入り込む。彼は第一次大戦のさなか、ブルガリアの農婦(マヤ・モルゲンステルン3号)の小舟でエブロス川を下って彼女の家に赴く。戦争で家は焼け、女の夫は殺されていた。女は彼を全裸にして夫の服を着せると、彼と儀式のように交わる。
彼は戦火のサラエヴォに着き、映画博物館の館長レヴィ(エルランド・ヨセフソン)の娘ナオミ(マヤ・モルゲンステルン4号) と会う。ヴィは幻のフィルムの現像に着手する。二人はフィルムが乾く間、霧の日だけ戦闘がやむ(どっかで見たシチュエーションだなあ・・はは)サラエヴォの街に散歩に出掛ける。公園で彼はナオミと踊り、ギリシャ語であたかも懐かしい恋人のように語り合う。ところが川辺を散策中、レヴィの家族は兵士に捕えられ、幼い子供たちまで射殺させる。
深い悲しみを胸に彼はひとり映画博物館の跡に戻り、レヴィが現像したフィルムを見はじめる。

しかし・・・なんで女性のひとは一人4役なんでしょう?? むりやり考えればわからなくもないが・・、その必要があったのかどうか・・?
by ssm2438 | 2009-11-18 06:26 | テオ・アンゲロプロス(1935)

永遠と一日(1998) ☆

f0009381_22242530.jpg監督:テオ・アンゲロプロス
脚本:テオ・アンゲロプロス
撮影:ジョルゴス・アルヴァニティス
    アンドレアス・シナノス
音楽:エレニ・カラインドロウ

出演:ブルーノ・ガンツ、イザベル・ルノー

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やっぱりつまらないテオ・アンゲロプロス。そうはいっても1998年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞している。過大評価しすぎだよ。

この人の映画がつまらないのは、画面からカメラの存在が分ってしまうこと。これは私の本『リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座』のなかでも書いたことなのだが、カメラの存在が分ってしまうと、その段階で脳みそはそれを作為的な画面と認識してしまい。ドラマとしてみられなくなってしまうのだ。我々が映画を見ているときは、それが作り物だと分っていても、もう一方でその物語を誰がつくったわけでもない、実在するドラマであると認識しようと思いながらみている。だから感情移入できるのでだが、アンゲロプロスの画面のようにつねにカメラの存在がフレームのこっち側にあることがわかるような撮り方をされると、それが、映画の一画面ではなく、「映画を撮っているところを撮った画面」のようにみえるのである。

特にテオ・アンゲロプロスの作品は詩的とか情緒性がとても重要な映画なのに、この撮り方で総てをダメにしている。カメラの存在を感じさせることがどれだけ映画にとって悪影響があるか、この映画をみればよくわかるはずだ。世間がどんなに評価しようとも、これが出来れなければ、見ている人は映画を映画として楽しめない。舞台劇を楽しめる人にはいいかもしれないが、映画にする以上は作為性を極力おさえて画面をつくってほしいものだ。

そういう私はこの映画のDVDを買ってしまっている。
ああ、なさけない。こんなん買うんじゃなかった。。。
by ssm2438 | 2009-11-17 22:07 | テオ・アンゲロプロス(1935)