主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

カテゴリ:ウディ・アレン(1935)( 8 )

f0009381_2162411.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:カルロ・ディ・パルマ

出演:
ウディ・アレン (大学教授・ゲイブ)
ミア・ファロー (ゲイブの妻・ジュディ)
シドニー・ポラック (ゲイブの友人・ジャック)
ジュディ・デイヴィス (ジャックの妻・サリー)
ジュリエット・ルイス (女子大生・ルイス)
リーアム・ニーソン (ジュディの同僚・マイケル)

        *        *        *

ハンディカメラを使いつつ、インタビューなどを交えながらドキュメンタリーっぽくとってる映画。モキュメンタリーとかいうらしい。どうも私はこの手法が嫌いなので、☆ひとつ減点。にかくその意味が分らない。実存する室内や郊外をつかって舞台劇をやっているような感じ。
ウディ・アレンジュリエット・ルイスが公園ではなしてたりするシーンでも、そのまわりをハンディカメラをもってまわって撮っているので手ぶれがうざいし、その画面からカメラがある世界=人工的につくられた世界という概念がつたわってきてしまうので、映画として楽しめない。舞台が好きな人ならそれでもいいかもしれながあいにく私は嫌いである。私は、映画が映画として、ひとつのフィクションとして解釈したいので、そこにカメラがある現場感をだせれても困るのである。この現場感があるだけで、ドラマとしてうそ臭さが増大し、感情移入できなくなってしまう。
どーしてもそこはハンディでないと撮れないからっていうなら分るが、そうでないところをハンディカメラで撮る姿勢というのは、小手先のモキュメンタリー性で人工的にらしさを付け加えようとしてうるだけで、好きになれない。きちんと映画の画面としてとしてだましきれよ!!って思ってしまう。それが出来ないなら映画なんか撮るな!って言いたい。ポール・グリーングラスは大嫌いだ! ・・・ははは、なんだか話が別のほうにいってるが。まあ、嫌いなわけだ。

・・そんなわけで、本編以上に撮り方が気に入らなかった映画だが、お話はそこそこ良い。こういうなんは『インテリア』みたいにきちんと映画としてとってほしかったなあ。

<あらすじ>
マンハッタンに住む大学教授のゲイブ・ロス(ウディ・アレン)の妻、ジュディ(ミア・ファロー)は、離婚したくてたまらないのだがそれが出来ずにいる。そんな二人に、親友のジャック(シドニー・ポラック)とその妻サリー(ジュディ・ディヴィス)が別れることを表明する。自分たちが出来ないことを先に実行されてしまい、いてもたってもいられないジュディは表面的には「考え直したら」と二人を説得するがほとんど不可能なようである。
サリーははたから見るととても理想的な妻にみえるが、その実態は非妥協的な性格で、一緒にいてもやすらげないタイプの女性。そんなわけでジャックは外に安らげる女をつくってしまうわけだ。

一方、妻ジュディが激しく離婚したいと思っていることも知らないゲイブは、自分に関心をもってくれる女子大学生のレイン(ジュリエット・ルイス)といる時に充実感を覚えるようになる。
一方ジュディは、社の同僚で、彼女が恋心を抱いているマイケル(リーアム・ニーソン)をサリーに紹介する。このリアリティがとてもいい。ジュディにしてみれば、今のサリーはどうみても次の恋愛にいけそうにないので、誰を紹介しても拒むだろうという精神状態。そんなサリーに、自分とマイケルの親近感を演出したいという気持ちなのだろう。そしてその親近感を徐々に本物にしていけばいい・・というような感じだろう。もちろんこれは下心などがあってやってるわけではないく、無意識のうちに、そうするのがマイケルとの親近感を構築するのに一番の近道だということを本能的に知っているのだ。こいうう演出はさすがウディ・アレンと関心してしまう。

しかし、マイケルはサリーに一目ぼれしてしまう。超裏目出て超落ち込むジュディ。サリーとマイケルは一気にベッドインまで行ってしまうが、そこにサリーとケンカしてぐれて帰ってきたジャックと鉢合わせ。この事件をきっかけにジャックとサリーの間に復縁の気運が芽生える。フラれたマイケルを慰めるジュディ。そういう点かいかい! ここまでくるとドラマはジュディのもっとも理想とした展開に収束していく。
ジャックとサリーは元のサヤに収まり、ジュディはマイケルと引っ付く。レインのうつつをぬかしていたゲイブだが、彼女は他にも何人もオヤジを魅了しており、結局恋愛なんてわかってない小娘だということが判明する。結局彼女とは別れて一人淋しくなるゲイブであったとさ・・・。

ドラマ展開だけを書いていても、ウディが展開する繊細なメンタルのドラマであることが再認識される。なのになんでこの話をモキュメンタリー形式で撮らんといかんかったかな! まったく腹が立つ。
by ssm2438 | 2011-08-01 02:21 | ウディ・アレン(1935)
f0009381_2211189.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ギスラン・クロケ
音楽:セルゲイ・プロコフィエフ

出演:ウディ・アレン/ダイアン・キートン

       *        *        *

ギスラン・クロケ燃えるウウウウウウウウウウっ!!!

個人的に、ウディ・アレンのコメディセンスが面白かといわれると「全然そうは思わない」と答えるのだが、この人の画面構成力とディープは人間分析と心理描写は崇拝に値する。すくなくとも私の大好きな映画10本の中にウディ・アレンが監督した『インテリア』が入っている。おかげで昨今の作品で全然燃えなくても、ウディ・アレンは好きな監督さんのなかに入っている。

70年代のウディ・アレンの画面はほとんどゴードン・ウィリスが担当していた。しかしこの映画はちょっとフェイントをかけてギスラン・クロケである。初めてのこの映画を見たときは、「あれ? 誰これ? めっちゃいい画面撮るじゃん!!!!」って感動。即 allcinema オンラインでチェック、そしたら「ギスラン・クロケ」という人らしいことがわかった。他にどんな作品やってるんだろうってチェックしたら・・・・おおおおおおおおおおおおお、『テス』ですよ。そら、良い画面とるわ!って納得してしまった。

つくづく思うのだが、ウディ・アレンの画面構成は、めちゃくちゃ演出意図的に整理されているのだ。アップとロング。ごちゃごちゃしてる画面とシンプルな画面、そのメリハリがとても職人技的で良い。なおかつ、演出意図がとてもはっきりしている。あるいははっきりしすぎるからぼやかしているところもある。その点についていえば私はこの映画よりも『マンハッタン』が好きだ。とにかく知能指数の高い画面構成をいつも展開してくれるのがウディ・アレンである。

お話は・・・個人的にはどうでもいい。ダイアン・キートンにそそのかかされて、当時飛ぶ取り落とす勢いだったナポレオンの暗殺を企てるが失敗、結局とらられてあっさり処刑される話。その男の回想として物語は展開していく。

最後は、死は終わりでなく、生活費節約の早道・・・だそうな。

カッコつけただけで、あまり真実味がないのでどうでもいい言葉だ。
by ssm2438 | 2010-06-28 22:01 | ウディ・アレン(1935)
f0009381_042246.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:カルロ・ディ・パルマ

出演:
ウディ・アレン (マックス・クラインマン)
ミア・ファロー (アーミー)
ジョン・マルコヴィッチ (道化師)
マドンナ (マリー)
ジョン・キューザック (ジャック)
ジョディ・フォスター (娼婦)
キャシー・ベイツ (娼婦)

       *        *        *

役者人はかなり豪華だが・・・個人的にはイマイチだったかなあ。

霧の街+光と影+切り裂きジャックとくれば、これは『第三の男』的な画面が展開されるのかなって期待したのだが・・、どっちかいというフリッツ・ラング的な雰囲気だった。てっきり舞台はロンドンだと思い込んでいたが、「中央ヨーロッパのどこかの街」って設定だったのですね。
日本ではけっこう評価されていたこの映画だが、どうしてかなあ・・・、個人的には90年代になると(というか既に80年代からだけど)ウディ・アレンの映画が輝くなって来ている。70年代のウディ・アレンの映画はとても引かれるものがあったののに・・。

願わくばこの映画は、ゴードン・ウィリスにとってほしかった。そしたらきっとかなり良い画面になってたんじゃないだろうか。この映画の撮影監督さんはカルロ・ディ・パルマ。ウディ・アレンとは『ハンナとその姉妹』(1986)からの付き合いみたいだが、ゴードン・ウィリスのようなガツンが黒の絞りに魅了されていた私にとってはちょっとぼやんとした感じ。この映画もせっかく霧をつかって空間の光と影を表現できるお膳立てはととのっていたのに、どうも光と影のコントラストが弱いんだ。まあ、私の場合は視覚がゴードン・ウィリス基準になっているのでしかたないが・・・、残念。

<あらすじ>
1920年代、中央ヨーロッパのある街にサーカス団がやってくる。曲芸師のアーミー(ミア・ファロー)は、恋人のピエロ(ジョン・マルコヴィッチ)とケンカ別れしてサーカス団を飛び出した。アーミーが転げ込んだのは娼館で、そこに大学生のジャック(ジョン・キューザック)が現れ、700ドルでアーミーを抱きたいと迫る。渋々承知したアーミーだが、売春容疑で警察に逮捕されてしまう。
その街では霧の深い夜になると連続殺人が発生し、人々は恐怖に脅えていた。平凡な事務員のクラインマン(ウディ・アレン)もしぶしぶ自警団に参加させられる。
アーミーの保釈後、クライマンとアーミーは霧の街を徘徊する。学生から得た金を教会に献金し、残りを通りがかりの赤ん坊連れの女に与えるアーミー。しかしここで不条理がクラインマンを襲う。どういう因果か、クライマンに連続殺人の容疑がかけられてしまう。逃げるクライマン。
クラインマンとはぐれたアーミーは、元恋人のピエロと会い、さらに前出の女が殺されているのを見つけ、のこされた子供を二人で育てることにする。たぶんこれでこの二人はとりあえずめでたしめでたし(?)。
一方クラインマンはサーカス小屋の近くで絞殺魔に襲われ、ちょうどいた魔術師と協力して、魔術を使って殺人鬼を捕まえる(苦笑)。クラインマンは魔術師から助手になるよう誘いを受け、彼は第二の人生を歩むことになる。魔術師は言う、「人間には幻想が必要なんだ。空気と同じようにね」。

「人間には幻想が必要なんだ。空気と同じようにね」・・・これはきわめて理解できるのだけど、なんだかもういいやって感じ。おまけに私は「不条理モノ」というのが根本的に嫌いみたいだ。おかげで全然乗れなかった。いや、それ以外にもいろいろあると思うけど。
このころまでは70年代のウディ・アレンを慕ってなんとか彼の映画をフォローしていたのだが、この映画でウディ・アレンのフォローをやめてしまった。それから10数年はウディ・アレンの新作を見ることはなく、ここ最近になってまたときどきウディ・アレンを見直しているのであった。
by ssm2438 | 2010-06-28 00:46 | ウディ・アレン(1935)
f0009381_22423041.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:カルロ・ディ・パルマ

出演:
ウディ・アレン (レニー)
ヘレナ・ボナム=カーター (妻・アマンダ)
ミラ・ソルヴィノ (養子の実の母・リンダ)

       *        *        *

いやああ、けっこう俳優人はメジャーな人が一杯いる。

70年代のウディ・アレンは大好きだったのに、それが80年代にはいり、90年代にはいるとなぜは面白く見られない。なんででしょうねえ? これはそんなウディ・アレンの90年代の映画。しかし、その軽さでは嫌いではないほうの映画かな。

しかし、はやり70年代のゴードン・ウィリスが撮っていたころの画面のほうが好きだ。ゴードン・ウィリスのあとはこのカルロ・ディ・パルマが主にウディ・アレンの映画を撮っていたのだけど、この人は・・・、ミケランジェロ・アントニオーニ時代のほうが良かった。あの頃の画面を知っているので、カルロ・ディ・パルマがけっしてゴードン・ウィリスに劣る撮影監督だとは思わないのだけど、ウディ・アレンと組んでる時の画面はそれほどときめかないのも事実だ。なのに、この二人はけっこう長い間一緒に仕事をしている。何がよくってこんなに続いたのだろう。ウディ・アレンに関する一つの謎だ。

精子にみたてたアスリートがいっせいにスタート、だああああああああああって走っていくんだけど、「なんだ、ブロージョッブか」ってだれるところだけ、妙にはまった(苦笑)。

全然マイナーなところだが、ヘレナ・ボナム・カーターの母役で、クレア・ブルームが出演している。『まごころを君に』(原作『アルジャーノンに花束を』)のアリス・キニアンである。

しかし・・・ミラ・ソルヴィノ嬢はウディ・アレンのツボにははまらなかったのでしょうな。
私もちょっとはずしてるからなんとなく判る(苦笑)。ウディの趣味と私の趣味はけっこう似てるようなので・・。

<あらすじ>
スポーツライターのレニー(ウディ・アレン)と妻アマンダ(ヘレナ・ボナム・カーター)との間に子供はなかった。しかしアマンダがレニーの反対を無視して養子をもらってしまうと、レニーは子供をマックスと名付け、親馬鹿ぶりを発揮する。
マックスは利発でハンサムで性格も最高の子供に育っていく。そのお利巧さんぶりをみせつけられたマックスは、その両親はさぞかし理想的な人物のはずだと考え、好奇心を抑えきれずその母の消息を尋ねる。しかし、彼女はリンダ・アッシュ(ミラ・ソルヴィーノ)という娼婦だった。話をするだけのつもりだったレニーだが、なぜか彼女が忘れられず、彼女のアパートに通い、やがて親しい友人で相談相手になってしまう。リンダは女優志望だというが、出演はポルノ映画ばかり、ところが彼女はそれを何とも思っていないあっけらかんとした性格。リンダに恋してしまったレニーはバスケットボールの試合のチケットをエサにリンダを娼婦の元締めから解放してやり、ケヴィンという男とのお見合いまでセッティングしてやる。
リンダとかかわっている間にアマンダとの溝はふかまり別居。一方、順調に行き始めたかに思われたケヴィンとリンだのなかは、リンダが娼婦だと知ったケヴィンが怒って田舎に帰ってしまった。レニーは失恋したリンダを訪ね、そんな流れ出ついつい彼女と寝てしまう。
実はリンダはレニーとの一度のセックスで妊娠した。ある秋の午後、大きな玩具店でマックスを連れたレニーと、娘を乳母車に乗せたリンダがばたり出会った。二人はお互いに、相手が連れているのが自分の子だとは気づかないまま、挨拶を交わして別れていった。
by ssm2438 | 2010-06-25 22:44 | ウディ・アレン(1935)

セプテンバー (1987) ☆

f0009381_38824.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:カルロ・ディ・パルマ

出演:
ミア・ファロー (レーン)
ダイアン・ウィースト (友人・ステファニー)
エレーン・ストリッチ (母・ダイアン)

        *        *        *

『インテリア』再び!とばかりにベルイマン・モードで挑んだ映画だったが超空回り! こんなにも面白くない映画になるか・・とかなり落胆。『インテリア』でみせたウディ・アレンの才能を信じているだけに、この映画での失望ははなはだしかった。

真実をまともに受け取って、余裕がないために付き合いづらいタイプのレーン(ミア・ファロー)。その対角にいるのが親友のステファニー(ダイアン・ウィースト)はすでに結婚もしていて、自分と他人との境界線にショックアブソーバーが敷き詰められていて、つねに穏やかに他人と接することができるタイプ。
そしてレーンの母、ダイアン(エレーン・ストリッチ)はかつて、レーンと父をすてて愛人のもとに走った女。そのたもうもろの人間が9月の別荘に集結する・・。ことあるごとにレーンの神経をさかなですることが起こり、最後は感情大爆発!気まずい雰囲気の中、人々はそれぞれの生活に帰っていく。

・・・天才でもハズすときはこんなもんだ・・。
by ssm2438 | 2010-02-01 03:09 | ウディ・アレン(1935)
f0009381_62555.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:チャオ・フェイ

出演
ウディ・アレン (C.W.ブリッグス)
ヘレン・ハント (ベティ=アン・フィッツジェラルド)
シャーリーズ・セロン (ローラ・ケンジントン)
ダン・エイクロイド (クリス・マグルーダー)
エリザベス・バークレイ (ジル)

        *        *        *

最近のウディ・アレンの映画の中では見やすいほうかな。でも、ほんとにおもしろいかというと・・そんなことはない人のほうがおおいだろう。アレン自身が演じる主人公に全然はいっていけない。別の人を立ててくれたら少しはおもしろくみられたかもしれないのに・・。
私が最近のウディ・アレンの映画をみるとは、どうも無意識にビリー・ワイルダー・フィルターがかかっているようなきがする。この映画にしてもウディ・アレンはジャック・レモンに、ヘレン・ハントはシャーリー・マックレーンに、ダン・エイクロイドはウォルター・マッソーに・・、シャーリーだけはシャーリーのまま(笑)。
でも、やっぱり最近のウディ・アレンの映画には燃えるものがなくなってしまった・・・。画面をつくるセンスはピカイチなだけにもったいないなあ。もしかしたらもう一花も咲かないかもしれない。。。

<あらすじ>
1940年のニューヨーク。一流保険会社に勤務するC.W.ブリッグス(ウディ・アレン)と、最近入社してきた同僚のベティ・アン・フィッツジェラルド(ヘレン・ハント)とは犬猿の仲。しかしある日、2人は同僚の誕生パーティーへ出向く。そこでインチキ魔術師ヴォルタンに催眠術をかけられた二人は、呪文を耳にするたびお互い惹かれていくことになる。しかしヴォルタンの本当の狙いは、ブリッグスを催眠状態で操り、宝石を強奪することだった。催眠状態のまま、宝石を盗みヴォルタンに渡す。しらふに戻ったブリッグスはベティ・アンの助けもかりながら、その犯人を調査していくが、その犯人が自分であることがわかりはじめる。
事件解決後、いつの間にかフィッツジェラルドに本気で恋をしていたブリッグスは、マクルーダー社長(ダン・エイクロイド)と結婚するはずだった彼女に呪文の言葉をささやいて、自分に恋をさせようと試みる。ところがフィッツジェラルドの催眠術は既に解けいた。それでも彼女は呪文にかかっているかのようにめでたく結ばれるのだった。

もうウディ・アレンのセンスではスクリューボール・コメディは無理そう。最近この手のもので楽しめたのは『スイッチング・チャンネル』くらいか。でもあれはまだクリストファー・リーブが歩いていた時代なのでもう20年も前の話だ・・・。
by ssm2438 | 2009-11-20 05:42 | ウディ・アレン(1935)
f0009381_2336879.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:レミ・アデファラシン
編集:アリサ・レプセルター

出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ
    スカーレット・ヨハンソン
    エミリー・モーティマー

       *       *       *

ひさびさのウディ・アレンがでないウディ・アレン監督作品。彼の映画は本人が出ないほうが断然良い。かれが画面に出てしまうとどうしてもそこだけ作為性が充満しているのでドラマとしてのリアリティが損なわれてしまう。もっともそれが損なわれてもいい映画というのもあるのでそういう場合は彼が劇中に顔をだしても全然かまわないのだけど。でも出来るならでないでほしい。

今回の映画はニューヨーク派のウディ・アレンしては海外にとびだしてロンドンで撮っている。もしかしてこれがはじめて? イギリスにいくとなんとなくヒッチコックをやりたくなるのかもしれない。そういう私も『ゴルゴ13』の41話がロンドンを舞台にした話で、ちょっと物語が淡白で時間がかなり余りそうだったので『第三の男』をやってみた。出来たお話の舞台がある特定の場所だと、なんとなく昔見た懐かしい映画をなぞってみたくなる。パロディというんじゃなくて・・これを機に、見ている人が昔のいい映画をみてくれたらいいなあって感じ。

ただ・・この物語が面白かったかどうかというとちょっと疑問だ。どうにもにげられない圧迫感が襲ってくるのはウディ・アレンの演出力の賜物だとはおもうのだが、面白いかというとそでもない。
なにがそうさせているのだろうって考える。そしたらもっともある意味<現実的な方向性での解決>・・つまりロマンがない。
二人の間に心がゆれたのなら、<一番好きなもののために二番目を捨てる>ストーリーにしてやればドラマチックなのだ。そのむかしジェームス三木がシナリオの基本的構成についてそのことを語っていたのを思い出した。これだとトレンディドラマになるはずだ。しかし、ウディ・アレンのえいがではそうならない。
このシチュエーションは『重罪と軽罪』の中にもでてきて、そのときも愛人に結婚をせまられ切羽詰った男が、ヤクザな仕事をしてる弟に愛人の殺害を依頼、その弟はさらりとやってのけてしまう。しかし、この映画そうだし『重罪と軽罪』もそうだけど、あのように愛人にせまられるとロマンもへったくれもなくなる。
男というのは夢をみられなくなると死ぬ生き物なのだ。ここでいう夢というのは「可能性」という言葉でおきかえられるかもしれない。どんなにたわいもな想いでも、それが現実になる可能性があれば、男は生きていられるのだが、それがなくなるとただの道具になってしまう。

私は男なのであえてこの物語の主人公を擁護するが、このドラマのなかのこの男を殺人者にしたのは妻と愛人だ。彼女らは男の夢を奪って肥溜めにおとし現実のウンコあびせかけた。

男がああやってしまいたいのは当然だ。それが出来てしまえば夢なのだが、普通の現実の男には出来ない。この物語ではそれをやってしまう。そういう意味では男の自暴自棄になったときにネガティブな夢=願いを実践してくれてた。だからこそウディ・アレンなのだって思った。本来男は・・というや誰も、弱さにまけたくない、無責任な自分になりたくないという正への方向性があるのだが、それを実践していけばいくほど、へたってみたいという憧れを持つ。
この映画のすごいところは、もうがんばるのはいい、へたってみたい、無責任になってみたい・・というネガティブな欲望を開放した映画だからこそ、素敵なのだろう。だからこそ、ほとんどの男性にいたいほど感情移入をおこさせるのだろう。
いやはや、すごいすごい。
つまらない映画として理解していたが、いってこの文章を書きながらその意味がわかった。やっぱ、ウディ・アレンはすごい。

・・でも、やっぱり面白くない映画であることには変わりない。
by ssm2438 | 2009-02-05 22:15 | ウディ・アレン(1935)
f0009381_2017059.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ウディ・アレン
    ダイアン・キートン

20代の半ばはウディ・アレンものをよく見たものだ。
『アニーホール』『マンハッタン』『インテリア』‥‥。ほかにもウディ・アレンの映画はいっぱいみたけど、私の中ではとどのつまり、この3本が好きみたいだ。ダイアン・キートンと一緒にでてるウディ・アレンが好きともいえる。のちの作品もそれなりにいい映画はあるのだけど、なんか・・ダイアン・キートンが出てないとなにか火かきえたみたいで・・。そう、ダイアン・キートンと一緒にいるときにウディ・アレン作品がすきなのである。
もっと削ると『マンハッタン』『インテリア』で、さらに削ると『インテリア』なのだけど。

しかし、今思うとよく『アニーホール』がアカデミー賞とれたものだ。
この年とえば『スターウォーズ』もノミネートされてたけど、私的にはフレッド・ジンネマン『ジュリア』だろうなあって思ってた。『アニーホール』ってのはちょっと驚きだが、これを選んでしまえるあのころのアカデミー賞選考員の人たちはとっても良く出来ていたのだろう。

『アニーホール』という映画は何が良いのか判りづらい映画なのだと思う。
実は私もいまいちしっくりきてなくで、無性に確かめたくなり一昨日この映画を借りて来て昨日〜今朝にかけてみていたのだけど、いや、一般的にみると退屈だけどやはりウディ・アレンのインテリジェンスがつまってる。

まず、この映画をとっつきづらくしている最大の点の克服から‥‥。
この映画にかぎらず、ウディ・アレンの映画にはある一点が特に受け入れられづらい。それは劇中<ウディ・アレンがヒロインの女に好かれてる>という設定。普通に考えるとなかなかあり得そうにないのでどうもこの点が違和感があるのだけど、ドラマを法則づける一つの法則として捉えないと行けない。なかなか自然にできるものではないので、どちらかというとウディ・アレンが登場しない映画の方がかなりスムースにドラマには入り込める。実はその点でも『インテリア』はとっても良いのだ。

この点をクリア出来たとして、つぎは感情移入。とっても神経質な登場人物を設定するので自分とウディ・アレンとの共有出来るポイントが認めづらい。実は無意識には判っているのだけど、見ている側はそれを認めたくない意識があってなかなかつかめない。
そのポイントは‥‥<認めて欲しい願望>。

ウディ・アレンの映画ってこの<認めて欲しい願望>が全てだと言って良い。
人は誰かに自分を認めてもらいたい生き物なのだ。ウディ・アレンの映画というのはその部分がかなり赤裸々に出ていて鬱陶しいくらいだ。普通の人はその願望があってもそれを封じ込めておくのだけど、ウディ・アレンはそれをみっともないまで前面に押し出出してくるので、見ている人に嫌悪感を覚えさせる。
つまり、<認めて欲しい願望>を押し出してる人はウディ・アレンの映画は共感できるのだけど、それが嫌な人は彼の映画はダメだろう。私がウディ・アレンの映画を好きなのは、私が<認めて欲しい願望>を押し出すタイプだからなのだなろうなあ‥‥って、今日のその答えにたどり着いた。
かれが監督としてあるいは登場人物として、<認めて欲しい願望>をまっこうから受け止め、それにチャレンジしていく姿勢を一環して貫いているから、私がウディ・アレンを好きなのだろうなあって思った。

てなわけで、ウディ・アレン=<認めて欲しい願望>の法則が発見された瞬間であった。。。
by ssm2438 | 2009-01-13 10:50 | ウディ・アレン(1935)