西澤 晋 の 映画日記

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カテゴリ:ルネ・クレマン(1913)( 4 )


2011年 01月 03日

太陽がいっぱい(1960) ☆☆☆☆☆

f0009381_0412067.jpg監督:ルネ・クレマン
脚本:ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ニーノ・ロータ

出演:
アラン・ドロン (トム・リプレイ)
マリー・ラフォレ (マルジュ・デュヴァル)
モーリス・ロネ (フィリップ・グリーンリーフ)

       *        *        *

This is the アラン・ドロン! ・・である。

ルネ・クレマンの中でも最高傑作だと思う。そしてそれはアラン・ドロンにとっても言えることだろう。

劣等感と変身願望、マゾヒズム‥、人間の根幹にささやかに巣食っているが本来表面化しない人間性の陰部を、表面化を極力おさえつつ臭わせる演出が実にすごい。
個人的にはアラン・ドロンに魅力を感じたことがないのだが、彼の映画の中でこの1本だけは傑出している。この映画にくらべたら他のアラン・ドロンの映画はまったくといっていいほどカスといっていいだろう。

表面的には完全犯罪の話である。・・が、それはどうでもいいことだ。
この映画がこれほどまで刺激的なのは、猛烈な劣等感からくる、変身願望の達成だろう。

この物語の主人公トム・リプレイ(アラン・ドロン)は貧乏なアメリカ青年。そんなリプレイがいつも一緒にいるのがフィリップ(モーリス・ロネ)という金持ちのどら息子。彼はナポリに部屋を借り、職につくこともなく、親の金で毎日遊び歩いていた。
そんな息子に業を煮やした親が、昔からの旧友であるリプレイに5千ドルの契約で、息子を連れ戻すようにヨーロッパによこしてきたというシチュエーション。(1$=100円換算で、50万円。当時の値段なので、その10倍くらいの価値があったかもしれない)

f0009381_126625.jpgさらにフィリップにはパリ生れのマルジェ(マリー・ラフォレ)という彼女がいた。決してフィリップが彼女を大事にしているとは思えないが、そんなフィリップをマルジェが慕っている。トムにとって、彼らの生活は決して届くことのない、理不尽で在りえない雲の上の生活だったのだろう。子供の頃からの旧友だが、フィリップはトムのある種の卑しさを嫌っていた。そんななかで、トムの心の中にはさりげなく殺意が育っていたのだろう。

この映画のスゴイところの一つは、このアラン・ドロンの発する自分に限界を感じてしまっている人間の卑しさが実ににじみ出ているところなのだ。自分にはなにもない。しかしフィリップは、自分がほしいものを総て持っている。自由になるお金も、マルジェも。その圧倒的な劣等感は、すでにリプリーに自分を自分の思うものに進化させていくという地道な努力などさせる健全さを完全に奪い、出来ることなら彼になりってしまいたい思うようになっている。
ほとんどの人は<変身願望>というのはそれなりには持っているものだが、現実的に力を得るには自分自身を成長させていくしかない。名ので現実の中で努力し、経験をつみ、少しづつ自分を強くしていき、そんな自分の在り方を自己肯定して生きていくしかない。しかし、強くなるための努力があまりにも強大に見えてしまったものはそのとてつもなさに自己進化を放棄し、このままでいい、弱いままでいい、自分は誰かの下でいい・・と思い、そう思うことのほうが楽になってくる。自分の惨めさをいとおしく思うようになる、仕えること心の安らぎを見出す。
そうなった人間でも、心の中には憧れがある。強くなる努力をしないで、そうなりたい・・という憧れ、それが<変身願望>となる。リプリーは、このメンタリティに至っているのである。

f0009381_1301094.jpgフィリップを殺すにいたる前の、二人のやり取りも実にいい。
マルジュを伴って友人のパーティーに向うフィリップは、いつものようにトムと連れてヨットに乗り込む。マルジュと“H”をしたいフィリップは、トムに操舵をまかせ船上においやると、船室へのドアを閉め抱擁を始める。嫉妬する天窓から中の様子がみえるトムは嫉妬し、乱暴に操舵し船を揺らせる。起こったフィリップは、トムを備え付けの小船においやり、船外へ流してしまう。なんとかロープを引き寄せヨットにもどろうとするがロープが切れてしまい一人絶望しながら海上にとりのこされてしまう。
事を終えたフィリップが船上にでてみるとトムを隔離したはずのボートがない。あわててユーターンして戻ってみると、炎天下のなか太陽に焼かれて背中が真っ赤になったトムが海上にのこされた小船の上でぐったりしている。さすがに罪悪感を感じるフィリップ。看病するマルジェ。トムのセーターを取りにいったフィリップは、トムが自分の口座の数字を逐一メモしている紙を発見してしまう。

以前にトムが、自分の服と靴を履き、自分のしゃべり方をまね、鏡の中の自分にキスするトムの姿をみたことがあった。“もしかしたらトムは、自分の人生そのものを欲しているのかもしれない・・・”、フィリップはトムの水面下の欲求に恐怖を覚える。
そして身体が回復してきたトムに聞いてみる。

「ボクを殺したいと思っただろう?」
「今回は思わなかった・・」

そのあとマルジェとささいなことからケンカになり、マルジェは船を下りてしまう。船の上でトムと二人になったフィリップ。ポーカーをしながら、自分の殺人計画とその後の展望を聞いてみる。 自分は賢いからきっとやれるとさらりというトム。2千500ドルかけてを申し出るフィリップ。わざとまけてある程度のお金をつかませ、その計画をやめさせようとするが、自分の手札はキングのペアと10のスリーカード。このままでは勝ってしまう。トムがよそ見をしている間に自分の有利な手札を捨てて負けのカードにするが、トムは見破っている。
かまわず2500ドルの小切手を切ろうとするが、全部いただくと、冗談のようのさらりと言うトム。

小切手に自分のサインを書いてみせ、まねが出来るのかと言うフィリップ。
今は出来ないが練習すればというトム。
サインが偽造できても手紙はかねないというフィリップ。
タイプライターがあるというトム。

「すでにお前を殺すことは頭のなかでシュミレートしてあるんだ」ということを、その空気で表現するルネ・クレマン。フィリップにしても「なんとか殺さずに生かせてくれないか」という願いを、それを表面化することなく行われる心理的言葉のやり取りが素晴らしい。

そしてあっけなくプスっと胸をさして殺し、そのあとあいきなり洋上の風の音と並みのざわめき、そのなかで死体を毛布に来るに碇をワイヤーでくくりつけて沈める準備を鼻息荒く行うアラン・ドロン。チェンジ・オブ・ペースも実に素晴らしい。そんなことしてるとマストにボコッと不意にアタックされて死体と一緒に海に落っこちてしまう。なんとかワイヤーをつたって命からがらヨットに戻って、ワイヤーを解くと毛布にくるまれた死体は水没しながら後方に消えていった。そして船室にもどり洋ナシ(?)にかぶりつくアラン・ドロン。
後に第二の殺人を犯すことになるのだが、そのあとは宿屋のおばちゃんに「あの鶏肉食ったかい?」と言われて、思い出したようにそれをレンジから出し喰うアラン・ドロンというカットがある。小心者がなんとか平常心を取り戻そうとする必死のあがきが鬼気迫るほど素晴らしい。

ルネ・サディスト・クレマン一世一代の大傑作である。

by ssm2438 | 2011-01-03 00:45 | ルネ・クレマン(1913)
2010年 07月 18日

狼は天使の匂い(1972) ☆☆

f0009381_137341.jpg監督:ルネ・クレマン
脚本:セバスチャン・ジャプリゾ
撮影:エドモン・リシャール
音楽:フランシス・レイ

出演:
ジャン=ルイ・トランティニャン (トニー/フロギー)
ロバート・ライアン (チャーリー)
レア・マッセリ (シュガー)
ティサ・ファロー (ペパー)
エマニュエル・ベアール(アイスを食べるソバカス少女)

       *        *        *

お話だけがつまらない映画。・・じゃあ全部ダメじゃん・・という人もいるだろう・・、しかし・・・。

しかし・・、見るべきところはいっぱいある映画である。
問題はこの御伽噺のスタイルをうけいれられるかどうか・・というところで見る人の分岐点が別れると思う。私はダメだ。よってお話には最初から最後までのめりこめなかった。映画の冒頭、『不思議の国のアリス』の作者、ルイス・キャロルの台詞の引用から始まる。映画も御伽噺なのである。

では「御伽噺とはなんなのか?」という問題が持ち上がってくる。普通の物語は、自然の摂理に従ってあるかそうな出来事やキャラクターを想像し、それを自然界の普通の法則のなかで展開していく。しかし御伽噺というのはその世界をつかさどるルールそのものを作者が作り上げることが出来る。なのでその世界は、金正日のように、作者が好きにできるのである。そうなると物語りはなんでもありの世界になってしまい私なんかは面白さを感じなくなってしまう。この映画も実はその傾倒の映画で、御伽噺が好きな人にとっては受け入れられガ、それが出来ない人にとってはつまらない映画になる。
普通の映画は、見ている人がその映画のなかの誰かに感情移入しつつ、その物語は自然の摂理に従って展開しているにしたがって、自分の感情移入したキャラクターがなんらか勝利をえるように期待できるものである。しかし、御伽噺の場合は、そのキャラクターが勝利するかどうかは、作者の気分次第できまるのである。ゆえに私は御伽噺が嫌いなわけだ。

映画は、ある少年の子ども時代の回想から始まる、その回想でおわる。

その少年は「友達をつくってきなさい」と母親に送り出され、見知らぬ街で、見知らぬ子供たちと接点を持とうとする。しかし最初のグループには拒否される。そのあとに接触したグループには、男が4人、女が2人がいて、彼らにその少年は歩み寄っていく。少年は、ビニールの網にいれたビー玉を「これ、あげるよ」というように仲間の和の中に入ろうとするが、その仲間のリーダーらしき男の子は、そのビニール袋をナイフで斬り、いくつものビー球が階段をはねて落ちていく。物語の最後では、その男の子は、リーダーの男の子と別れを惜しむように別れていく。
そこに何があったかは定かではないが、それは本編で語られているのだろう。そこでの構成メンバーとトランティニャンが合流する一味のメンバー構成が微妙に一緒なのだ。野球のボール持ってる男もいるし・・。そして最後に手を振りながら別れる二人の少年は、本物語の中でのジャン=ルイ・トランティニャンロバート・ライアンの行く末を暗示しているかのようにも思える。

<あらすじ>
写真家のトニー(ジャン・ルイ・トレンティニヤン)は、セスナ機を借りて撮影中に事故を起こし、その期待が群衆の群れに墜落、数多くの犠牲者をだした。その群衆の何人かはトニーに復讐を近い、彼を追い回していた。

パリから逃亡したトニーは、ニューヨークからモントリオールへ逃げた。その追っ手から逃げ延びるために別の一味に合流するトニー。一味のボス、チャーリー(ロバート・ライアン)で、その情婦シュガー(レア・マッサリ)、マットン(アルド・レイ)、リッツィオ(ジャン・ガバン)、パウルその妹ペッパー(ティサ・ファロー)がいた。
身を守るためにトニーは、その一味の一人一人の信頼関係を気付き、仲間に溶け込んでいく。
やがてチャーリーが計画している大仕事に誘われる。あるギャングの大親分が近く法廷で裁かれることになっているが、彼を有罪にする証人の女の子で誘拐するというのだ。彼女は成人女性ながら、13歳で知能の成長がとまっており、警察病院で保護されていた。
綿密に計画をたて進入した警察病院、しかし、彼女は自殺してすでにこの世の中には存在していなかった。
仲間が逮捕されるなか、ペッパーとともに味とにもどったトニーたちだが、警察の包囲網は迫る。ペッパーを逃がすと、トニーは味とにもどり、チャーリーとビー玉をかけて警察舞台にむけて発砲するのだった。

ただ・・、現実逃避のために、自分たちの法則で現実を空想に置き換えるそのやり方は・・オウム真理教と同じであり個人的には好きではないな。そんなスピリットがこの物語の根底にあるので多分私はこの映画があまり好きになれないのだと思う。

by ssm2438 | 2010-07-18 01:37 | ルネ・クレマン(1913)
2010年 07月 16日

パリは霧にぬれて(1971) ☆☆☆

f0009381_20365196.jpg監督:ルネ・クレマン
脚本:ルネ・クレマン/ダニエル・ブーランジェ
撮影:アンドレア・ウィンディング
音楽:ジルベール・ベコー

出演:
フェイ・ダナウェイ (ジル)
フランク・ランジェラ (夫・フィリップ)
バーバラ・パーキンス (シンシア)

       *        *        *

なんとびっくり、キモいはずのフェイ・ダナウェイが美しい!

フェイ・ダナウェイといえば、細い眉とこけた頬のキツネ顔で、お世辞にも綺麗だとは言いがたく、どっちかというとひたすらキモい感じの女優さんなのだが、いやああああああ、この映画の彼女はびっくり、美しい。眉毛もふとい。頬のこけてない。ずっとこれでいっとけばよかったのに、なんでこの映画以外はあんなに悪女に変身してしまったのでしょう?

映画は・・・お話はいまいちなんだけど、演出だけは素晴らしい。以前にも書いたがルネ・クレマンのフレーンミングは恐ろしく的確で、一番見心地のいい絵を映し出してくれる。これが他の監督さんだったらどうでもいい空間がむだにあって、その分人物がちいさくなってたり、するものだが、クレマンのフレーミングはキャラクターが見やすいサイズでフレーミングし、ほんとに必要な時だけひいて撮る。それもまた的確。
さらに思わせぶりの演出であったり、みてる人をいらつかせる技法も心得ているのが、不快感だけのコーエン兄弟のそれよりも嫌味はないので、見続けることが出来る。ロケ先では自然光そのままに、露出アンダーもしっかり機能させてくれているが、明るいところもきちんといれてるので、真っ黒クロ介な印象にはなっていない。ともすれば、人工照明でかっこ見やすくしてしてしまう監督が多いなか、地道な絵作りがすばらしい。
撮影は『フレンズ』アンドレア・ウィンディング。音楽は『マイ・ラブ』ジルベール・ベコー。二人ともマイナーな職人さんだが、いい仕事をしている。

・・・しかし・・・、お話は面白くない。というか、ルネ・クレマンの映画の話は<不条理・サディスティック・サスペンス>なので、不条理性が物語の行方を判らなくさせているため、一般庶民だと最後まで見るのはつらいのではないだろうか。映画のお勉強だと思えば素晴らしい教材なのだけど、楽しめる映画とは言いがたいのも事実である。
しかも、今回の映画は<家族の不具合モノ>かと思えば、そこに『組織』なるものが登場、闇雲にきな臭い雰囲気にしてしまう。それがいいのか悪いのか・・。あんまりいいとは言えないと思う。冒頭の感じだと見ている人は、物語は家族の不具合が完治される、あるいは崩壊していく・・の流れだと思ってみるのが普通だと思うが、そこに『組織』が登場し、怪しい秘密結社の利益誘導のためにフェイ・ダナウェイの夫を協力させうようとするのだが、うんと言わないので子供を誘拐する・・というような流れになる。
それまでフェイ・ダナウェイのメンタル闘争ものだと思っていたのだが、それがサスペンスの要素が入ってきて、サスペンスではらはら、メンタル崩壊劇ではらはら、相乗効果をなしているというよりも、とらえどころがない展開になってしまっていた。

・・・しかし、まあ、それが<不条理・サディスティック・サスペンス>のルネ・クレマン・ワールドだといってしまえばそうなのだろうが・・・、でも一般受けはしない作りの映画である。

<あらすじ>
フィリップ(フランク・ランジェラ)とジル(フェイ・ダナウェイ)はパリに住むアメリカ人夫婦で、二人の間には8才になるキャシーと4才のパトリックがいた。ジルは精神が安定しおらず、数学者の夫フィリップにとってはウザ意存在となっている。ジルの精神異常はますます激しく、最近はすっかり親しくなった階下のアメリカ人シンシア(バーバラ・パーキンス)に何かと良くしてくれる。
そんなとき、ある『組織』がフィリップに接触してくる。天才的な数学者だったフィリップの才能に目をつけた彼らは、アメリカ時代に彼に産業スパイの暗号解読の役目をやらせていたのである。断るフィリップ。しかし組織はフィリップが出張中に、二人の子供を誘拐してしまう。しかしジルにしてみれば、子供たちの失踪は、自分の精神不安定さが原因であり、その責任を感じてしまう。警察も、実はジルが子供をつれて自殺しようとしたが、自分だけ生き残ったのではないかとさえ勘ぐっている。ますます精神が崩壊してくるジル。しかし、そんなジルは
シンシアこそが、組織のメンバーであることに気付く。
罪悪感をもっていたシンシアはジルに協力、しかしそれが組織にばれてしまい殺される。しかし、シンシアがアジトへかけた電話番号覚えていたジル。そのアジトへ言ってみると屋根裏部屋に子供たちが隠れていた。

by ssm2438 | 2010-07-16 20:37 | ルネ・クレマン(1913)
2010年 07月 15日

雨の訪問者(1970) ☆☆☆

f0009381_033478.jpg監督:ルネ・クレマン
脚本:セバスチャン・ジャプリゾ
撮影:アンドレア・ヴァンダン
音楽:フランシス・レイ

出演:
チャールズ・ブロンソン (ドブス)
マルレーヌ・ジョベール (メリー)

       *        *        *

ヒロインがキム・ベイシンガーだったらよかったのに・・。

ストーリーは難解で、あまり関係のない話までからんでくるので、話ベースでみるとかなり厄介な映画だ。しかし、ルネ・クレマンの見せ方は素晴らしい。一般の映画よりも一サイズ寄った画面で撮ってくれるのがうれしい。寄ったサイズの中でアップをとり、フレーム外のものをフレーム内で表現してくれる。望遠の使い方が自然で、見やすく、もっとも正攻法の望遠映画だといえるだろう。そんな絵作りが圧倒的に魅力的な映画だ。

しかし、お話の展開は非常にいただけない。これでは何がどうなってるのか判らなくなる。とりあえずすっきりまとめてみると、こういう話だ。

ある雨の日にその街に降り立った一人の男にレイプされた女マルレーヌ・ジョベール。しかし彼女はその男を猟銃で撃ち殺してしまい。死体を海に捨てる。犯人を殺した時点で素直に警察に届けていれば、正当防衛が認められるケースだと思うのだが、これが犯された事実を隠すために死体を捨ててしまったことからある男チャールズ・ブロンソンに付きまとわれる。
彼はアメリカ陸軍の大佐で極秘任務についているらしく、その男がも持ち逃げした赤いバックに入った大金を追っていた。ブロンソンがその赤いバックを追えば追うほど、マルレーヌ・ジョベールが闇に葬りたい犯された事実と、犯人を撃ち殺して海に捨てた事実を認めざるを得ない状況になっていく。

このサディスティックな追い詰め方が映画的に魅力的だが、彼女にしてみればただただ不条理なだけだ。みていて気持ちのいい映画ではないが、演出的にはとても見ごたえがある映画だ。

ドラマの展開上、彼女を散々追い詰め精神的にも肉体的にいたぶるチャールズ・ブロンソンだが、映画の最後では彼女に恋をしたのだろうか。クルミで窓ガラスを割ってしまう・・(苦笑)。
本編の中で「恋をした人がクルミを投げるとガラスは割れる」・・らしい。チャールズ・ブロンソンがクルミを投げても窓ガラスは割れないのだが、マルレーヌ・ジョベールが投げるといつも割れるのである。

by ssm2438 | 2010-07-15 00:34 | ルネ・クレマン(1913)