西澤 晋 の 映画日記

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2008年 11月 03日

鉄道員(ぽっぽや) (1999) ☆☆

f0009381_2336246.jpg監督:降旗康男
原作:浅田次郎
脚本:岩間芳樹、降旗康男
撮影:木村大作
音楽:国吉良一

出演:
高倉健 (駅長・佐藤乙松)
大竹しのぶ (佐藤の妻・静枝)
広末涼子 (駅を訪れた少女・雪子)

        *        *        *

原作も直木賞、映画も日本アカデミー賞を数々の部門でとったこの映画なれど・・・、私はいただけなかったなあ。なんだか狙いすぎの感もあり、全然感動できなかった。
一番の問題は、この健さんのキャラに賛同出来るかどうかだったと思う。私は・・・ダメだった。過去のスタイルにこだわりすぎて新しいものに挑めないというのは、私の価値観ではNG。たしかに国鉄時代のその職業はある種のステイタスがあった。当時は親子代々国鉄って人も多く、国鉄で働く人は、みんな国鉄を愛していた。誇りがあった。『海峡』で描かれた国鉄の男たちは、日本中に鉄道を敷くことに誇りをもって生きていた。それは分るのだけど、だからこそ、想い入れあるものを捨てられるだけの勇気もほしかった。それを捨てるべきものとして描いたらどれだけ納得できたことか・・・。

しかしそれでも、木村大作の撮る雪景色バックの健さんはいい。
そして木村大作が撮る汽車の望遠はやっぱり心が躍る!

<あらすじ>
以前は炭鉱の町としてにぎわった北海道の幌舞線の終着駅幌舞。の駅長・佐藤乙松(高倉健)は、鉄道員(ぽっぽや)一筋に人生を送ってきた男だ。幼い一人娘を亡くした日も、愛する妻(大竹しのぶ)を亡くした日も、彼はずっと駅に立ち続けてきた。だが、その幌舞線も今度の春で廃線になることが決まっていた。
そんな佐藤の前に、ひとりの幼女が現れる。正月の帰省で都会からやってきた子供らしい。その少女に死んだ一人娘・雪子の面影を重ねていた。その夜、昼間の少女が忘れていった人形を取りに来たと言って中学生の姉が駅舎を訪れた。佐藤は彼女をやさしくもてなすが、、彼女もまた人形を忘れて帰ってしまう。翌日、またしてもふたりの少女の姉と名乗る高校生(広末涼子)がやってきた。17歳の彼女は鉄道が好きらしく、佐藤の話を聞いたりして楽しい時間を過ごした。だが、実は彼女は17年前に死んだ乙松の子供・雪子だったのである。彼女は、自分が成長する姿を父親に見せるために現れてくれたのだ。
翌朝、すっかり冷たくなった佐藤の亡骸が、幌舞駅のホームで発見された。国鉄と共に生きた男の一生であった。

by ssm2438 | 2008-11-03 23:36 | 木村大作(1939)
2008年 11月 03日

わが愛の譜 滝廉太郎物語(1993) ☆☆☆

f0009381_2373140.jpg監督:澤井信一郎
脚本:宮崎晃、伊藤亮爾、澤井信一郎
撮影:木村大作
音楽:佐藤勝

出演:
風間トオル (滝廉太郎)
鷲尾いさ子 (中野ユキ)

        *        *        *

『月光の夏』では、特攻隊院がピアノを弾きたくて出撃の前日、何キロも離れたピアノのある中学校(小学校だったかも)まで走っていってピアノを弾いて特攻に行ったって話だった。こちらの滝廉太郎は、結核にかかり死ぬ間際にどうしてもピアノが引きたくて・・でもそれが無いので近くの小学校のオルガンを弾かせてもらう・・。誰もいない教室で、黄色い光線をあびながら弾くオルガンが切なくてよかった。。。
ヒロインの鉄骨娘鷲尾いさ子も、憧れの対象に十分なりえる見栄えのよさ。そんなに好きなタイプではないのだけど、この鷲尾いさ子は良かったなあ。
そしてそれを画面にするのが崇拝する木村大作! おお、キャプテン! マイ、キャプテン!

<あらすじ>
明治28年、生来の身体の弱かった滝廉太郎(風間トオル)は東京音楽学校を休学して療養のため故郷の大分県竹田に呼び戻された。そんな彼の世話をする女中が芙美(藤谷美紀)。彼女は廉太郎に思いを寄せるが、その気持は伝えられない。復学した廉太郎はその才能を開花させていく。そんな廉太郎に中野ユキ(鷲尾いさ子)も惹かれるが、自分の才能に自信を失ってもいく。
しかし第2回留学生には彼女が選ばれた。遅れて明治34年、廉太郎もドイツ留学を果たすが、彼は自分の実力の乏しさを思い知らされる。先に留学していたユキもまたベルリンで才能に行き詰まりを感じ始めていた。だがドイツという異郷で再会した二人はお互いに協力しベートーベン『熱情』の譜面へと向かっていく。胸の病が再発した廉太郎は、「君のためにピアノ曲を書くよ」と言い残し日本に戻る。帰国した廉太郎は病と戦いながらユキに捧げるピアノ曲『憾うらみ』を書きあげる。その曲をひとり小学校のオルガンで弾く廉太郎。無情にも23歳10ヶ月という若さで、彼は世を去るのだった。

by ssm2438 | 2008-11-03 23:08 | 木村大作(1939)
2008年 11月 03日

愛という名の疑惑(1992) ☆☆

f0009381_8322510.jpg監督:フィル・ジョアノー
脚本:ウェズリー・ストリック
撮影:ジョーダン・クローネンウェス
音楽:ジョージ・フェントン

出演:
リチャード・ギア
キム・ベイシンガー
ユマ・サーマン
エリック・ロバーツ

        *        *        *

リチャード・ギアキム・ベイシンガーユマ・サーマンのエロティック・サスペンス。キム・ベイシンガーが、憎んでいる旦那を殺し、さらに旦那にかけられた保険金を手に入れるために、妹ユマ・サーマンと結託、精神科医のリチャード・ギアを巧みにり利用して裁判で無罪を勝ち取る話。出ているキャストは贅沢なので、キム・ベイシンガーもいつものように濡れ場を演じてくれているので観てソンをした感じはしないが、話の持っていき方はヒッチコック風なのでつまらない。サスペンスって、ヒッチコックみたいに、犯罪のトリックだけを提示していくような映画だとみたあとになにものこらないので面白くもなんともない。松本清張のように、もっと犯罪を犯してしまう人のどうしようもなさとか、でもそこに愛があるせつなさとか・・、そういうものを塗りこんでほしいものだ・・・。

<あらすじ>
サンフランシスコの精神分析医アイザック・バー(リチャード・ギア)は、若い女性患者ダイアナ・ベイラー(ユマ・サーマン)の病状を分析するために、彼女の過去をしる姉のヘザー・エヴァンズ(キム・ベイシンガー)に逢う。しかしヘザーの美しさに魅了され、ベットをともしにしてしまう。へザーの夫ジミー(エリック・ロバーツ)はマフィアのボスであり、へザーに対してつねに支配的な態度をとっていた。外出先から帰ったキム・ベイシンガーを近くによびよせ、自分のまえにひざまずかせるシーンは実に妖艶だ。そんな屈辱的な日々がつづいていいたのだろう、ある日へザーはついに、筋トレ用のダンベルでジミーを殴り倒してしまう。
ヘザーは夫殺しで逮捕されたが、犯行時の記憶がないという。アイザックは裁判で友人の弁護士と共闘してヘザーの無罪を勝ち取り、ヘザーは病院での精神治療が義務づけられた。しかし、数日後夫ジミーには多額の保険金がかけられており、アイザックは全てがヘザーの仕組んだ罠だったことを知る。保険金殺人の共犯者にさせられてたことが分ったアイザックはヘザーを病院に閉じ込めることにするが、ヘザーはダイアナを身代わりにして病院を脱出、隠し持ったアイザックの指紋が付いた犯行時の凶器をタテに、身の潔白を主張しようとするが、嵐の中、灯台に追いつめられたヘザーは、アイザックの前で落下して死亡してしまう。

by ssm2438 | 2008-11-03 08:31
2008年 11月 03日

第三の男(1949) ☆☆☆

f0009381_3184245.jpg監督:キャロル・リード
製作:キャロル・リード、デヴィッド・O・セルズニック
原作:グレアム・グリーン
脚本:グレアム・グリーン
撮影:ロバート・クラスカー
音楽:アントン・カラス

出演:ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ

        *        *        *

この映画、お話は普通のサスペンスです。その点に関しては特に特筆すべきところはないのですが、見せ方が渋い。面白い。ウィーンの夜の街をてらす光と影の演出が実にすばらしい。1950年のアカデミー撮影賞受賞です。ロバート・クラスカー、ここにあり! 私も『ゴルゴ13』の41話でこれを楽しんでみたのですが、作っても、観ても、こうい絵作りは楽しい。

画面的なことをいうと、キャロル・リード+ロバート・クラスカーのコンビでここで成されたことはそれ以前の『邪魔者は殺せ』ですでに実践されている。たぶんこの映画をみたデヴィッド・O・セルズニックが「ちょっとリードさんアンドクラスカーさん、うちも金だすからあれやってよ」ってって出来たのがこの『第三の男』だと思う。
画面的には確かにこちらの『第三の男』のほうが、さらにわざとらしくなっていいるのだけど、お話は『邪魔者は殺せ』のほうが個人的には好きだな。こっちはIRA内部の勢力争いの映画なのでなんかリアル・・。

<あらすじ>
戦後のウィーンは、米英仏ソの四ヶ国による四分割統治下にあった。米国作家ホリイ・マーティンス(ジョゼフ・コットン)は、旧友ハリー・ライムに呼ばれて、この街にやって来たが、ハリーは自動車事故で死亡し、まさにその葬式が行われていた。マーティンスは墓場で英国のMPキャロウェー少佐(トレヴァー・ハワード)から「ハリーが闇屋だった」と聞かされる。ハリーと恋仲だった女優のアンナ(アリダ・ヴァリ)知り合い、一目ぼれした、マーティンスはハリーの死の真相を探ろうと決意する。
調べていくうちに、ハリーの死を目撃した男が三人いることをつきとめた。そのうち二人はようやく判ったが、第三の男だけはどうしても判明しない。しかし、その第三の男こそ、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)自身だった。彼は死んではなかったのだ。

by ssm2438 | 2008-11-03 03:19
2008年 11月 03日

太陽を盗んだ男(1979) ☆☆

f0009381_2291760.jpg監督:長谷川和彦
脚本:長谷川和彦、レナード・シュレイダー
撮影:鈴木達夫
音楽:井上堯之

出演
沢田研二 (城戸誠)
菅原文太 (山下満州男警部)
池上季実子 (沢井零子=ゼロ)

        *        *        *

対権力のうっぷんばらし映画。
個人的にこういうスタンス大嫌いなので、この映画もまったく感化されるところはなかった。70年の後半といえば、本国アメリカではアメリカン・ニューシネマが既に終わっていたのに、日本ではこんなのまだ作ってたんだ・・ってちょっとびっくり。
親の世代は、こういう世界を若者たちに提供しているが、、若者たちは「そんなのはいや!」って文句は言う。けど、じゃあどうなのがいいんだ??っていう質問には答えをもってない。そんな日本人の人間力の小ささを露呈している作品。みていいて悲しくなる。こんな映画が「良い」って騒いでる奴がいたなんて情けなくなる。
映画を作る側の人は、「こういう生き様であってほしい」という、ある種の憧れに値するものをきちんと提示してほしいと思う。それが日本映画にはなさすぎる。

<あらすじ>
中学校の理科教師・城戸誠(沢田研二)は、茨城県東海村の原子力発電所に忍び込み、液体プルトニウムを盗み出し、アパートの自室でハンドメイドの原爆を完成させてしまう。この行為自体はある物理学の教師が興味本位で自分でも原爆をつくってみたい・・というその一念でやってしまったことなので、ここまでは面白い。ただ、そのあとがいただけない・・。
でも、個人というのは社会の反応があって存在するものであり、社会に「自分は原爆がつくれるんだよ」ってことを認めてもらわなければ、個人がそえを成し遂げた意味はない。ゆえに城戸誠は自己主張しはじめる。そして、金属プルトニウムの欠片を仕込んだダミー原爆を国会議事堂に置き去り、日本政府を脅迫する。
最初の要求は「プロ野球ナイターを試合の最後まで中継させろ」というものだった。国家は城戸誠の要求に屈服して野球中継を最後まで放送させる。
第二の要求は・・・・思いつかない。何も思いつかなかった城戸誠は愛聴するラジオのDJ・ゼロこと沢井零子(池上季実子)にメッセージを送り、リスナーにアンケートを依頼する。その結果、麻薬所持が発覚し、入国が許されずコンサートがキャンセルになったローリングストーンズ日本公演だった。国家は屈服し、ローリングストーンズの入国させた。
次の要求は、原爆を作るのにサラ金から借りた五十万円を返すために五億円だった。以下は、国家に金を要求する犯人と警察との対決の普通のアクション刑事ドラマになる。。


ここに描かれた日本人の願望力があまりにもチープで、みていて悲しくなってしまう。
これが「北朝鮮に拉致された日本人を救出しなければ原爆を爆発させる」とかだったらどれだけ見ごたえがあったことか・・。
アメリカはイランのアメリカ大使館が占拠された時に、どうにかしてかれらを助け出そうとしてさまざまなミッションをかんがえていた。個人が全体を守り、全体が個人を守る、全と個の相互安全保障条約こそが国家だろう・・、なんで北朝鮮に強制的に拉致された日本人をほっとけるんだ。
外交努力でもよし、アメリカみたいに特殊部隊をつくって潜入させ、強制的に人質を奪回するもよし、とりあえず「やれ!」って、内側から脅迫するくらいのことを描いてほしかったなあ。もちろん、国家に守られてるだけの概念しかない、それも守られ方がわるい!って文句をいうことしないアホ国民を多く抱えるこの国で、そんなことを堂々と国家に要求できる人もいなかっただろうが・・。そう、こういうことを要求できるのは、自分たちが国家を支えているという自負がないとダメなんだろうな・・。

この映画では日本人のチープさを見せつけられたのであまりに気分が悪く、口直しに『日本沈没』(1973)でもみたくなってしまった。たとえ日本という国土を失っても、個人として生きていかねばならない試練にむかって一歩を踏み出す、日本人の不屈の精神がそこにあった。
頑張れ、日本!

by ssm2438 | 2008-11-03 02:22
2008年 11月 03日

シークレットサービス(2003) ☆

f0009381_0142049.jpg監督:アッシュ
脚本:アッシュ

出演:ジュリエット・マーキス、ジェームズ・ウッズ

        *        *        *

人気ポルノ女優のムーン(ジュリエット・マーキス)は、パーキンソン病を患う父親(ジェームズ・ウッズ)の面倒を見ながら働いていた。ある日女性の友人から、想いを寄せていた彼がプロポーズしてきたが、本当に誠実な人か確かめたいと相談される。そこでムーンは意図的に男性に近付き誘惑を試みる。案の定、ターゲットは簡単に引っかかってしまい、ジェシーは彼のプロポーズを却下するのだった。
それ以降、ムーンはポルノ女優として活躍する一方、浮気の極秘調査を行うようになる。自ら出向いてターゲットが引っかかるかどうかを試すというものだった。夫の素行調査を依頼されたムーンは、いつものようにターゲットに近づいた。相手は誘惑に簡単に乗ってきた。だが、これまでの男たちとは違うその男の異常な態度に恐怖を覚えたムーンは調査の途中で逃走を計る・・・。

才能ない監督が、なんとか珍しそうで、頭のわるい観客をだまくらかそうとして作ってる映画。才能のない監督のじめさがあふれてる。物語はインタビュー形式で進む(その世界にカメラが存在している)にもかかわらず、サスペンスだというありえない映画(のようなもの)。カメラがその世界の中に存在してらフィクションにならんだろう。才能のなさを露呈しすぎ。なにやってるの、こいつら??って感じ。役者の無駄遣いもはなはだしい超駄作。

by ssm2438 | 2008-11-03 00:15
2008年 11月 02日

獲物の分け前(1966) ☆☆

f0009381_22405355.jpg監督:ロジェ・ヴァディム
原作:エミール・ゾラ
脚本:ロジェ・ヴァディム、ジャン・コー
撮影:クロード・ルノワール

出演:
ジェーン・フォンダ
ミシェル・ピッコリ
ピーター・マッケナリー

        *        *        *

女にはもてるが、あまり才能があるとは思えないロジェ・ヴァディム。でも、このころのジェーン・フォンダはとってもきれいなので大昔にLDを買ってしまったとさ(苦笑)。お話はたいしたことないけど、ジェーン・フォンダと画面はけっこう綺麗。

しかしロジェ・ヴァディム、なんでそんなにもてたんでしょう? 
最初の結婚は16歳のブリジット・バルドーですよ。どうみてもかどわかしたとしか思えない。1956年、20歳の妻バルドーを主演に『素直な悪女』で、28歳で映画監督としてデビュー。1957年に離婚。
翌年デンマークの女優さんと結婚、2年で離婚。
1961年からはカトリーヌ・ドヌーヴと交際、子供はつくったが結婚はしなかった。
1965年にはジェーン・フォンダと結婚し『獲物の分け前』『バーバレラ』などのフォンダ主演作品を監督するが1973年に離婚。ここでも女の子を作っている。

・・・まったく、うらやましい話だ。

<あらすじ>
若く美しいルネ(J・フォンダ)は莫大な遺産を相続していて、しかも二十も年上の資産家男アレクサンドル・サッカール(M・ピッコリ)と結婚していた。アレクサンドルは社交界で周囲の人々を魅了するルネに満足していたが、家庭でのふたりの間にセックスはすでになかった。いつしかルネはアレクサンドルの先妻の息子マクシム(P・マッケナリー)と関係を結んでしまう。ある晩ルネはアレクサンドルに離婚を申し出た。その頃事業が苦境にあったため、彼は全財産の管理権とひきかえに離婚を承諾した。その手続きでルネがジュネーブへ行っている間、アレクサンドルはマクシムと金持の娘アン(T・マルカン)の婚約をはかった。絶望するルネ。自殺しきれなかったルネは夢遊病者のように、サッカール家に入っていった・・。

by ssm2438 | 2008-11-02 22:41
2008年 11月 02日

アイ,ロボット(2004) ☆☆☆

f0009381_19264145.jpg監督:アレックス・プロヤス
原作:アイザック・アシモフ
脚本:アキヴァ・ゴールズマン、ジェフ・ヴィンター
撮影:サイモン・ダガン
音楽:マルコ・ベルトラミ

出演:
ウィル・スミス (デル・スプーナー刑事)
ブリジット・モイナハン (スーザン・カルヴィン博士)

        *        *        *

思ったより面白かった。最初はどうなん??って思ってたロボットのデザインもそれほど違和感なく思えてきたし、あの人工筋肉がやたらとみえてるのはよいかな。でも、個人的にはじょうちょっと血管にあたるチューブの数を増やしてほしかったかな(苦笑)。

アイザック・アシモフによって提唱されたロボット3原則というのがある。

(1)ロボットは人間に危害を加えてはならない。
(2)ロボットは(1)に反しない限り人間から与えられた命令に服従しなければならない。
(3)ロボットは(1)及び(2)に反するおそれのない限り自己を守らなければならない。

これは現実的なロボットを作る場合、この条件くらいは組み込んでおこうよっていう、ロボットに持たせるべき最低限度のマナーみたいなもの。別にこれに違反したからってどうってことはないのだが、未来世界を予測しつつ、ロボットというものを創造するのなら、このくらいの法則は組み込まれているという認識のもとにドラマを展開しないと、リアルな世界観は描けないよっていう一つの概念。本作もアシモフの原作を基本にしているので、ロボットはこの法則にも続いて作られている。
本作では、冒頭の忘れ物配達シーンで、ロボット3原則の基本マナーを提示していた。

<あらすじ>
2035年のシカゴ。巨大産業会社USRは家庭用ロボットを開発製造している。そこで殺人事件がおきた。殺されたのはロボット後学の第一人者、ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)だった。
シカゴ市警デル・スプーナー刑事(ウィル・スミス)は、USRの主任ロボット心理学者、スーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)の案内の協力により調査を開始する。すると研究室に隠れていた一体のロボットが慌てて逃げようとする。捕獲され本署に連行されたロボットは、自分はサニー(アラン・テュディック)だと名乗る。サニーは殺人容疑で逮捕されるが、博士殺しの動機もない。一方、スーザンは、サニーが重要な法律“ロボット3原則”に従ってプログラミングされていないことを発見する。

総てのもとは、USRのメインフレーム・コンピュータのヴィキ(フィオナ・ホーガン)だった。彼(彼女)は恒久的な世界平和を求めるなら、人間による支配は無理だと考え、世界平和のためなら、人間を支配しなければならないと結論づけたのだ。それを知ったラニング博士は、サニーに自らの殺人を依頼し、自分の死をもってメッセージを送ったことが判明するのだった。人間に対するロボットたちの反乱が始まり、スプーナーとスーザンは元凶であるUSRに急ぐ。そして、すべての命令を下していたを破壊するのだった。


・・・最近このオチ、「世界平和を委託された巨大コンピュータは、最終的に人間を支配しないとそれは無理と考え、人類に対して反乱を起こす」という展開は、『イーグルアイ』でも使われていたが、新鮮味がなくあまりにご都合主義なのでちとうんざりするが、ロボットを被告人にした刑事ドラマとして展開したのはなかなか良かった。できればロボットの反乱なんてアクション系の展開にせずに、ずっとロボットを被告とする刑事裁判ものという渋い展開にしてほしかったのだが・・。

by ssm2438 | 2008-11-02 19:29
2008年 11月 02日

タクシードライバー(1976) ☆☆☆

f0009381_726535.jpg監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ポール・シュレイダー
撮影:マイケル・チャップマン
音楽:バーナード・ハーマン

出演
ロバート・デ・ニーロ (トラヴィス・ビックル)
シビル・シェパード (ベッツィー)
ジョディ・フォスター (アイリス)
ハーヴェイ・カイテル (スポーツ)

        *        *        *

世間でいかに評価されようともこの映画、好きではないな。ただ、生理的に好かないとはいっても、技術的には素晴らしいものなのでそこはきちんと割り切ってみよう。

ドラマ作りをする上で大事なことは、感情移入。見ている人にどうにかいてこの物語の主人公に同調してもらわないければ、物語にみいってくれない。そのためには<弱さ>を共有させる・・ということがとても重要になってくる。人間の気持ちと言うのは<強さ>には嫉妬はしても共鳴はしない。人の気持ちが共有できる感情は<弱さ>なのである。あの名作『ロッキー』でも、はじめはうだつのあがらない人生の負け組からスタートするのはそのためだ。
ただ、この映画に描かれた共鳴をさそう<弱さ>は今までのそれではなく、まさにオタク・スピリットなのだ。この点がこの映画の傑出した特徴であり、それまでの映画とは一味違った毒をもっている。しかし、その点において、感情移入できる人と出来ない人が出てくる。私は出来ない。ゆえにこの物語が全然面白くない。しかし、これに感情移入できる人もいるのである。

この映画で<共感>を誘導するオタクス・ピリット。それは社会性の欠如・・、反社会性とはまでは言わないまでも、非社会性であろう。現実世界で生きていくことに恐怖を感じ、引きこもってしまう精神。自分を認めてほしいのに誰も認めてくれない。もっとも、認めてもらうためには社会的のなかで責任を持たなければいけないのだけど、その立場になるためのその努力もしない。そしうて妄想。
自分が認められるシーンを妄想して楽しむ。・・・結果としてこの映画の最後では、それを実行に移してしまう。実に破綻したオタク。もし70年代にオタクアニメが反乱し、銃が規制されていたら、この主人公は秋葉原に来てトラックをのりまわし、ナイフをふりまわしていただろう。時代が70年代であり、銃が反乱するアメリカであり、オタクアニメが無く、大統領候補の暗殺に失敗したから、最後は売春婦のジョディ・フォスターを助けにいくこと行為になっただけ・・。

精神構造的にはオウム真理教麻原彰晃と同じであり、妄想をオタク的に具現化した男の話である。こういう現実社会で戦えない(現実社会で自分を認めさせる勇気がない)恐怖から、妄想に引きこもった精神構造の人間をみるだけで、嫌悪感を感じる私としては、ひとえに生理的に好かん映画の一つだ。

by ssm2438 | 2008-11-02 07:49
2008年 11月 01日

追憶(1973) ☆☆

f0009381_13183644.jpg監督:シドニー・ポラック
脚本:アーサー・ローレンツ
撮影:ハリー・ストラドリング・Jr
音楽:マーヴィン・ハムリッシュ

出演:
バーブラ・ストライサンド (ケイティ)
ロバート・レッドフォード (八ッベル)
ブラッドフォード・ディルマン (J.J.)
ロイス・チャイルズ (キャロル・アン)

        *        *        *

公開から35年以上おいてきぼり映画だったのですがやっと観ました。音楽と歌だけはやたらと有名なこの映画だったのだけど・・・こんな映画だったんですね。これ、バーバラ・ストライサンド演じるケイティはかなり嫌われるとおもうけど、気持ちはけっこう分るなあ。私もどっちかというとこの系行なきにしもあらずなので・・。

この女性は、強い劣等感、強い自己防衛本能から来る攻撃性、現実逃避のためのモラル的社会活動。この劣等感からくる余裕のなさが、実は周りを不愉快にしていく。でも、本人のモラルの中では正当化されている・・というかそうするしかない。彼女本人は社会の不幸な人の為に戦っているのだと、その社会活動を肯定するだろうけど、実際は、そうしてることで、自分がそうなった時の為にきっと誰かがたすけてくれると信じる言い訳を先に構築しているだけ・・。いわゆる積極的に社会参加しているふりしている現実逃避。<弱さ>からくる攻撃性だけに、悪臭を放つんだよね・・。でも、本人はそうするしかないくらい精神的に切羽詰まってる。まったく余裕がない状態。
そんなケイティが憧れたのがロバート・レッドフォード演じるハッベル。レッドフォードだったらケイティでなくても憧れるだろうけど、この憧れ方がじつに男性っぽい。まあ、物語を書いているのが男性なので、男性的な憧れ方になってしまうのは仕方がないのだけど・・。でも、この女性を好意的にみられる女性っているのだろうか。
これは、女性であることに強烈な劣等感をもってて、男性化を望んでる女性しかこのキャラクターにはかがやいてみえないんじゃないだろうか・・。
しかし、はじめてロバート・レッドフォードとベットを共にできる夜、彼はべろんべろんによってて相手が誰なのかも分らない状態。それでも憧れた彼が自分の隣に寝ている、そして、自分の身体にキスしている・・って憧れの達成感・・、これは絶対男性でないと思い描けないシーンだなあ。そこにいたるまでの日々の妄想が男の場合は恋愛の総てであり、その妄想でつくりあげた偶像との最初のセックスなんてのは感動そのものでしかない。たぶんこの感動は女性には想像できないものだろう。

<あらすじ>
1930年代後半、劣等感まるだしのケイティー(バーブラ・ストライサンド)は弱者の僻み根性をエネルギーにかえて政治議論になると恐ろしいまでに夢中になる。そんなケイティを周りの人間は疎んじていた。しかし、彼女にも憧れの人はいた。大学の創作クラスの一人ハッベル(ロバート・レッドフォード)である。彼は、人としての余裕がありケイティとはまったく別の穏やかな青年だった。
第2次世界大戦がはじまり、従軍したハッベルは海軍大尉になっていた。偶然パーティで再会したケイティーとハベル、しかしハッベルは泥酔しておりそれがケイティであるかどうかも分らない。多分どこかの慰安婦とまちがっているのだろう。彼女の部屋に泊めてもらうが、ゲロを吐いた後は服も脱ぎ捨てすぐにベットに沈んでしまう。何年かぶりに憧れの人の逢えたケイティの心は躍っていたが、自分が同じクラスにいたケイティだということも伝えられない。それでも憧れのハッベルがベットに寝ている。服を脱ぎ裸になって一緒にベットにはいる。あれだけ憧れた人は今となりに裸で寝ている・・それだけでも胸がつまりそうになるケイティ。気持ちよさそうにねているハッベルの髪をなでてみる。寝返りをうって自分のほうにすり寄ってくる。それが女の肌だとわかると本能的にキスするその男。
彼にとっては自分が誰でもいい、性欲のはけ口としての女であるのは判っているが、それでも彼が自分を求めて、自分の身体にキスをしている。自分の存在が無視されていて、多分だからこそ、そんな彼に身体だけをを与えている自分のみじめさに酔っているケイティが素晴らしい・・・(ここの“H”シーンは映画史上まれにみる素晴らしい“H”シーンだった)。

それからというもの、ニューヨークに来るたびに逢う生活がつづき、戦後二人は結婚してハリウッドに移った。大学時代からの友人であるJ.J(ブラッドフォード・ディルマン)がプロデュースし、ハッベルが脚本を書いた。生活は平和そのものだったが、ハリウッドにも赤狩のマッカーシズムが吹き荒れた。ケイティーは再び反体制活動に傾倒していく。正論を口にし、劣等感からくる攻撃的な人間といるのは息が詰まる。ハッベルも彼女といる時間のいきぐるしさに今はJ.Jの妻となった大学時代の元恋人のキャロル(ロイス・チャイルズ)と浮気をするようになる。ハッベルとケイティは離婚した。
50年代初め、ケイティーはニューヨークで原爆禁止の署名を集めているとき、偶然ハッベルを見かけた。ハッベルもケイティを認識した。おもわず駆け寄るケイティ。過ぎ去った愛の時が2人の胸に去来した。ハベルは脚本家として一応の成功を収めていた。2人はいたわるように抱き合い、またそれぞれの世界に還っていくのだった。

by ssm2438 | 2008-11-01 13:19