西澤 晋 の 映画日記

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2009年 02月 13日

白痴(1945) ☆☆☆

f0009381_0424092.jpg監督:ジョルジュ・ランパン
原作:フョードル・ドストエフスキー
脚本:シャルル・スパーク
撮影:クリスチャン・マトラ

出演:ジェラール・フィリップ
    エドウィジュ・フィエール
    シルヴィー

     ×     ×     ×

日のお題はドストエフスキー、 そのなかからフランス版『白痴』
ネットでチェックすると、ドストエフスキーものは、複数回にわたって、幾つかの作品が映画化されています。私の中では“どうせあとで小説もよむのだしし、どの『カラマーゾフ兄弟』でも、どの『白痴』でもどの『罪と罰』でもいいや”とは思ってるのですが、これを観る以前に、同じくドストエフスキーの原作で映画化された『カラマーゾフ兄弟』(1968)も観たのですが、これは映画自体は“もうちょっと出来てもいいかな‥‥”とおもったのですが、やっぱり話が骨太ですね。
この『白痴』に関しては、やはりメイド・イン・ロシアで観たいきもしたのですが、なんとなくジェラール・ピリップでも観てみたい衝動にかられて、ネットでDVDを探してるとそれしかなかったので結局フランス語でかたられる『白痴』にしてしまうことにしました。黒澤明のもののあるんですけど、これだとちょっと社会背景が違いすぎるかなと思ったりして。 実は『罪と罰』(1970)もDVDを購入したのですが、これはまだみてない。
映画的にはこのフランス版の『白痴』のほうが、私がみたい『カラマーゾフ兄弟』の映画よりは良く出来ていたかな。原作力は『カラマーゾフ兄弟』のほうが上なんでしょうけど、映画的にはこの2本だと『白痴』のほうがよかった。監督力の差がでたなって感じでした。
ただ、これまあくまで映画の話で原作の差ではありません。

お話はというと‥‥、純粋すぎるが故に心の病を抱えるムイシュキン公爵(ジェラール・フィリップ)はスイスでの療養を終えペテルブルグの将軍家のもとへやってきた。将軍家では娘のアグラーヤと大地主トーツキイ、トーツキイの元愛人ナスターシャと将軍の秘書(男)ガーニャの結婚話が進んでいた。ナスターシャのなかに不幸を直感したムイシュキンは彼女を助けようとするが、純真さゆえの彼の言動は逆に周囲の人間を混乱させるだけだった。そんなムイシュキンにナスターシャも惹かれるものを感じはじめていた。
ムイシュキン公爵とは、ドストエフスキーが描いた<最高に美しい人>の実体なのだろう、決して嘘のつけない人。他人のなかの心の痛みを共有できる人。決して自分からは他人を傷つけない人。彼には親が残した遺産があり経済的に、物質的に不安になることがない人。そして‥‥重力がない人。そう、彼には<重力>がないのです。しがらみがない。けっしてしがらみを身にまとわない。

しかし、彼女が選んだ選択は、商人ロゴージンとの結婚。彼はカネにものを言わせて、ガーニャから彼女を買い上げる形で彼女を手に入れた。彼女も、それでいいと思っていた。長い間、トーツキイの慰みものとして生きて来た彼女でも愛してくれるというその男、彼のものになってもいいと思った。ロゴージンも、彼女に愛されてなくても、彼女がそばに居てくれるだけでいいと思っていた。しかしナスターシャの心に中にはふつふつとムイシュキンへの想いが膨らんでいるのを感じとると、いたたまれない想いを抱くロゴージン。そんな彼の痛みの感じとり、彼女から離れる決意をするムイシュキン。一方でアグラーヤもムイシュキンに好意を持ちはじめて、そしてトーツキイとの婚約を破棄しても、彼との結婚を求めようまで考えていた。しかし、ムイシュキンの中にはナスターシャがいた。
これは愛というのかと言われれば、否としか言えないものなのだから、彼女の不幸さと潔さが、彼女を忘れがたき存在にしているだけというほうが正しいのだろう。 ムイシュキンもアグラーヤと一緒になってもいいと告げる、が、彼女は、彼を心を信用できない。そしてそれを確かめる為に、 ナスターシャとロゴージンのところへ、そのことを告げに向うことになった。 愛と選択するのか、それとも義理か? 開放を選択するのか、それとも支配か? ナスターシャ、アグラーヤ、ロゴージンのそれぞれの想いが1つの結果 に辿り着く。 そして、そこから展開するさらなる残酷な結末‥‥。


実は、物語を味のあるものにするには、ある法則を登場人物の人格のなかに組み込んであげれば良いのです。それは、

<1番大事なものをとっておいて、2番目に大事なものに従属する>の法則。

これは現実社会でもかなり登場します。というか、まさにこれこそが人間心理の基本法則だといってもいいと思われます。
人間っていうのは、実は自分の求めるものに向かわない傾向にあるのです。それを求めてしまって、叶えられなかった時には絶望に陥ってしまう。それは避けなければならない。そのために人間心のメカニズムとして、<1番大事なものをとっておいて、2番目に大事なものに従属する>の法則の法則が機能してるのです。そうすれば最大級の望みが崩れ去ることもない。そしてドラマの最後では、やっぱり2番目に大事なものを捨てさせて1番大事なものに向かわせればドラマは盛り上がるのです。でも、実際の人生のなかでこれガできる人はなかなかいません。でも、これが出来たら、人生というドラマはかなりドラマチックなものになるでしょう。

親近感を覚えるキャラクタ-にはほとんどこのメカニズムが存在しているものです。そして、単純な記号的なキャラクターにはこの法則は組み込まれていません。
お子さま向けのドラマだと、単純なほうが分かりやすいのであまり使われない法則だともいえますが、ある程度成熟した価値観をもった人を相手にする場合はこの法則をドラマの主要キャラに採用することは話にリアリティを持たせます。
この物語の女性の主人公、ナスターシアにはこの <1番大事なものをとっておいて、2番目に大事なものに従属する>の法則が採用され、 ムイシュキンは単純な記号的なキャラクターとして描かれています。このコントラストが、二つのシステムの根本的なすれ違いがこの物語の最大のポイントなのです。

うむむむ~~~~、映画を観ただけでも、ドストエフスキー燃えるぞ! やっぱ、ドロドロは素敵! できるならベルイマンにドストエフスキーものを映画化してほしかったなあ。

by ssm2438 | 2009-02-13 06:11
2009年 02月 12日

ボウリング・フォー・コロンバイン(2002) ☆☆

f0009381_059565.jpg監督:マイケル・ムーア
脚本:マイケル・ムーア
撮影:ブライアン・ダニッツ
    マイケル・マクドノー
編集:カート・エングフェール
音楽:ジェフ・ギブス

     ×     ×     ×

物語はこのようなマイケル・ムーアのモノローグから始る。

「1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えた。人々は仕事に励み、大統領は国民が名前さえ知らない国に爆弾を落とし、コロラド州の小さな町では2人の少年が朝6時からボウリングに興じている。何の変哲もない予定調和な1日のはじまり…。このあと、2人のボウリング少年が悲劇的事件を起こそうとは、いったい誰が予想しただろう。その日、アメリカは旧ユーゴスラビアのコソボ紛争における最大規模の爆撃を敢行した。その1時間後、あのコロンバイン高校銃乱射事件、別名トレンチコートマフィア事件が起きたのだ。事件の舞台はコロラド州リトルトンのコロンバイン高校。そこの生徒である2人の少年が、高校に乗り込み銃を乱射。12人の生徒と1人の教師を殺害したのち、自殺するという衝撃的なものだった…」

一言でいうとこの映画は、ムーアからのアメリカ銃社会への批判なのである。 深く考えなければとっても面白い作品だし、アメリカが嫌いな人にとっては、ムーアはその旗ふり人としての役目は十分果 たしている。へんなデブのアメリカ人が、強者である政府なりライフル協会なりを攻撃している。やれやれ~~ってなもんです。 ただ、そこに行く前に、この映画が面 白いドキュメンタリーとして出来ていることも事実なのである。 その分析もしっかりしている。


‥‥銃による悲劇的な事件がおきると必ずその街にはチャ-ルトン・ヘストン『ベン・ハー』『猿の惑星』などで有名な彼は、全米ライフル協会の会長もやっている)がやってくるらしい。銃規制の運動が起こりそうなところに先回りして、「銃が人を殺すんじゃない、人が人を殺すんだ。我々は銃を渡さない」と高らかに唱え銃規制の運動を牽制する集会も開く。 ただ、実際に「銃が人を殺すんじゃない、人が人を殺すのだ」という提言は外れている訳ではないようだ。この映画のなかで、具体的に銃による年間の平均犯罪件数を国別 にだしている。
ほかの先進国、ドイツ、フランス、イギリス、韓国、カナダ、での犯罪件数はほどんどが2桁、イギリスなんかで3桁にのってるような数字。日本はもちろんその中では最小39件(これは銃が規制されているのだから当り前のように思える数字だが)。ただアメリカだけは1万1000件を越えている。しかし、同じように銃が自由にもてるカナダでは、銃による犯罪件数はその他の先進国なみに少ない。なぜカナダでは少なくてアメリカではこれだだけ銃による犯罪がおきるのか…。 そこでマイケル・ムーアが辿り着いたのは「恐怖感染症」セオリー。

「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ。特にアメリカ人がアメリカ人を殺すのだ、もっと言えばアメリカン・コケイジャンがそれ以外の人種を…」。移民の国アメリカ。多民族の国アメリカ。黒人の奴隷を輸入しそれを労働力に築き上げた今の地位。その支配と建設の歴史の中で、白人系アメリカ人の無意識に刷り込まれてきた踏み台にしてきた者達への恐怖心がある。この「恐怖症」は感染し拡大するのだ。恐怖心から「ヤられる前にヤれ!」って防衛本能が過敏になり銃を必要とする。もし相手がその徴候に陥っているなら「じゃあそれより先に…」ってな先手必勝競争になるのが、この「呪い」の怖いところ。その「呪い」にも似た強迫観念こそが問題なのだ…とするムーア。
実に正しい見解だと思う。 で、最後はチャ-ルトン・ヘストンの自宅に取材を敢行。 あたかも『悪』の象徴のように、そのときの取材テープを最後に流す。 この映画、ドキュメンタリーという形式をとりながら、実に面 白くつくられている。分析も確かだ。
でも、なにかうさん臭いものも感じる。それは何? それが今回のテーマ。 結局それは、<You shouldn't do that>のスピリットなのだろう。

『アリー my love 』ファーストシーズンの8話にリチャードのこんな台詞がある。

I realize employees will always gripe. It's part of being an employee.
  It's the nature of an employee to complain.
Anybody who isn't happy, leave. If you all go,
  John, we'll just have to start another firm. So there's always another one.

雇われてるものはいつだって不平を言う。それは被雇用者の一部みたいなもんだ。
  それこそが、雇われているものの性だ。
もし、自分が不幸だと思うものがいたら、出ていってくれ。
ジョン、もし、誰もいなくなったら、オレたちはまた新しいファームを作ればいいだけだ。
  何時だって次の選択肢があるさ。

‥‥たぶんね、自分が何かに対して不平を言う時、それは自分がそのものの従属者になっている時なのだろう。
まず誰かが何かをして、それに対して働きかける二次的存在。 それが自分に有利なものなら文句は言わないが、不利益だと判断すると文句を言う。
‥‥でも、もし、その誰かが何もしなかったら、自分は何をするの?

人は結局<I want to do this>person と<You shouldn't do that>person に別れてしまう。
たしかに<You shouldn't do that>person は楽だ。 自分から自分の欲望をみせなければ人から非難されることもない。良い子で居られる。 でも、ずっとそれをやっていたら、知らず知らずのうちに自分が自分でなくなってしまう。 自分が自分でなくなってしまうから、自分が自分であり続ける人に嫉妬してしまう。彼等も<自分>を失わせたいとさえ思うようになる。そこれこそが危険なのだ。
もし、今の時代が最高のもので、それを維持することが我々の命題なら、それでもいいかもしれない。でも、実際はそうじゃない。その時代の人にとってはその時代が最高なのかもしれないが、たとえば、私達の子供の世代にとっては、我々が今生きているシステムは苦痛になるに違いない。そして彼等はそれを変えて行くべきなのだ。たとえ古い世代にとってそれが辛いことでも。
今在る世界はなぜこうなのかと聞かれたら、それは総べて<I want to do this>スピリットが<You shouldn't do that>スピリットより、ほんのすこし勝っていたから小さな細胞から人類にいたるまでの進化がなされてきたのだろう。
100万の<You shouldn't do that>の言葉より、ほんの1つの<I want to do this>の言葉のほうが遥かに貴重なのだ。少なくとも私はそう思う。

なぜ、チャ-ルトン・ヘストンは、そこまで叩かれながら、銃を守らればならないのか? かれが守ろうとしてるのは決して全米ライフル協会の利益じゃないんだと思う。それはアメリカ人、ひとりひとりがもつ、<I want to do this>のスピリット、そのもっとも根源的なもの<強くなりたい>のスピリットなんだろうなあと思う。
より高い理想をかかげる人は、それに至らない自分を感じて悔しいと思う。それが出来ない自分にいたたまれなくなくなる。だからといって、じゃあ、高い理想を求めないで、その悔しさを感じないために自分をごまかして、プレッシャーから逃げつつける生き方でいいのか?
みんながみんなそれをやる必要はないけど、アメリカはそう在って行こうよって、それがアメリカの誇りなんだし、自分達はそれをキープして行こうよ。より大きな勝者が生まれれば、そこにはより多くの敗者があり、そこから憎しみもうまれ、それに対する恐怖も生まれる。それでも、その十字架を背負ってもアメリカはアメリカの誇りを守って行こうよ…、そう思ってるのだと思う。
そう、これは彼が勝ち組だから言えることでもあるんだけど、じゃあ、負け組は勝ち組をなんでもかんでも非難していいのかって疑問に思う。そこからくる嫉妬心が、正義を顔をするとき、なんか無性にうさん臭いものを感じてしまう。アメリカっていうのは、善くも悪くも、そうやって、より多くの痛みを抱えながら生きて行かなければならないのだと思うなあ。それを非難する人は今の状況ではおおいのだろうが、ひとつくらいそんな生き方をしてる国があってもいいと思う。
アメリカがほかの国と一緒じゃつまんない。
腐ってもアメリカという国は好きなニシザワでした。。。

by ssm2438 | 2009-02-12 06:21
2009年 02月 09日

僕の村は戦場だった(1962) ☆☆☆☆☆

f0009381_1243760.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:ウラジミール・ボゴモーロフ
    ミハイル・パパワ
撮影:ワジーム・ユーソフ
音楽:ヴァチェスラフ・オフチンニコフ

出演:コーリャ・ブルリャーエフ
    ワレンティン・ズブコフ
    E・ジャリコフ

     ×     ×     ×

画業界で映像詩人といえば、やはりこの人アンドレイ・タルコフスキーでしょう。
この人の映像はほんとに、水が好きで、氷のように冷たくて、 これで望遠で映像をとってくれてたら、総てにおいて私の趣味だったのに、 残念ながらレンズだけは広角~標準レンズなんですよね。 なんかそれが個人的には合わないような‥‥、これだけ冷たい画面 をつくるんだったら、 被写体とカメラの親近感を感じさせない望遠レンズでこそ、もっと冷たさがでるのにって思うんだけど。
最近だと、『ヒマラヤ杉に降る雪』のスコット・ヒックスがけっこう似たような味をだしてます。 もう2~3本みてみないとわかんないですけど、その結果 によっては21世紀の映像詩人の称号は彼に上げてもいいかもって思ってしまいました。 ちなにみ『ヒマラヤ杉に降る雪』、私は大好きです。 抱きたいのにだけない男のせつなさ。染みますね。

脇道に話がそれてきたので、もとにもどって、とりあえず『僕の村は戦場だった』のストーリー紹介‥‥しようかと思ったんだけど、うむむ~~、タルコフスキーものを語る時に、物語がそれほど意味があるのか?っという素直な疑問にぶつかったりする。確かにタルコフスキーものなかでは一番物語がある作品だといえるのだけど、それでも、それほど物語を語る必要はないようにおもわれる。というか、正直はところ、はっきりとその物語の内容を覚えていないというのが本音だったりする。
ほんとにざっくばらんに、お話を紹介すると、イワンという少年は故郷の村を戦火にやかれ、憎しみのために、心を捨てて少年スパイ兵として戦争に参加してる。そこには優しい将校さんとかがいて、なんとか彼を普通 のお子さまにもどしてあげたいと思うのだけど、彼の冷たい心は、そんなものでは溶かされることはなかった‥‥ってお話、、、かな?とにかくねえ、ほんとに凍えるようにつめたい心をもった少年なんです。まわりの兵隊さんたちは戦争をやっていてもまだ人間なのに、その子の心だけは、もう絶対解けることのないグリーンランドの大地の奥に眠る、氷河期の氷のように冷たい。

ドラマっていうのは、描きたいものがあったらその対角をきちんと描いてやるってのが基本。ファンタジーをやるならファンタジーをひたすら描くんじゃなくって、 現実の世界をきっちり描いてやって、そのなかでファンタジーを見せてやる。『ゴジラ』ってファンタジーを描きたかったら、現実の人間社会をきちんと描いてこそ、しっかりした映画になる。これが人間社会がいい加減な御都合主義で描かれていたらぜんぜん引き締まらない映画になっちゃう。 ピンクの背景のなかに赤いスポットをおいても目立たないけど、黒の背景のなかに赤いスポットをおくとよく目立つ、そういうことです。
この映画は、その冷たさを描く為に、戦争という背景にもかかわらず暖かい部分を描いてて、それに対比させてイワン少年の氷のような冷たさを描くからほんとの強烈。 まったくもっとその冷たさを鑑賞する映画。映像的には、もう素晴らしい。タルコフスキーだけじゃなくって、ロシアの大地もその映像美におおいに貢献してる。水面からのびる木々(←これはもう卑怯としかいいようがないくらい、映像的に素敵ですね)。白樺の森。かつてのその少年がいた村の風景、波打ち際を走る絵がとっても透明感があって美しい。あれって黒海周辺の村ってことなんだろうか??
このほかにも、 『惑星ソラリス』 『ストーカー』 『鏡』 『ノスタルジア』 『サクリファイス』…etc、 恐ろしいまでに眠気をさそう(笑)映画ばかり。 そのなかでも、この『僕の村は戦場だった』と『惑星ソラリス』はまだストーリーがあるかなって気もします。 「われこそは、アンチ・エンタテーメント映画派」って人は挑んで下さい。

by ssm2438 | 2009-02-09 17:08 | A・タルコフスキー(1932)
2009年 02月 07日

罪と罰(1970) ☆☆☆

f0009381_052036.jpg監督:レフ・クリジャーノフ
原作:フョードル・ドストエフスキー
脚本:ニコライ・フィグロフスキー
    レフ・クリジャーノフ
撮影:ビャチェスラフ・シュムスキー
音楽:ミハイル・ジーフ

出演:ゲオルギー・タラトルキン
    タチアナ・ベードワ
    ヴィクトリア・フョードロワ
    アレクサンドル・パブロウ

     ×     ×     ×

今回はドストエフスキーの母国、ソ連製のものにしました。『カラマーゾフ兄弟』『白痴』よりも、こっちのほうが映画的には断然洗練されてました。ただ、物語的には『白痴』のほうが好きかな。『罪と罰』はどっちかというとサスペンス性のほうが強くて、ドストエフスキー本来のメンタルどろどろではないから・・。

制作は1970年なんですけど、味をだすため白黒で撮ってる。私自身は“それ、ちょっと狡い”って思っちゃうのですが、それを度外視しても映画的にとってもしっかり出来てるなあって思いました。 イワン・プィリエフの撮った『カラマーゾフ兄弟』なんて画面的・演出的にはほんとに退屈で、原作の濃さだけでなんとかもってるような映画でしたから。たぶん、原作の雰囲気も一番出してるのはクリジャーノフの『罪と罰』なんじゃないかと思ってしまいます。このDVDは買っても損じゃないですね。

ラスコリニコフは自分の書いた『犯罪論』の論文のなかで犯罪者の心理分析、人間は全て凡人と非凡人の二つの範疇に分たれ、前者は世間普通の道徳法律に服従する義務を有し、後者は既成道徳を踏み越えて新しい法律を創造する力を与えられていて、その行動によって歴史に新紀元を画し、人類に無限の貢献をなすものだから凡人に禁じられている行為をも敢行する権利を持っていると論じていた。
彼はペテルブルグの裏街に下宿し、ニヒリズムの影響を受け、郷里の母が僅かな年金の中から送金してくる学費も途絶えがちで、ほとんど飢餓状態で閉じ篭ったまま、敏感で鋭利な頭の中に空想的理論を築いたり崩したりしているうち、以前お金を借りにいった陰湿な質屋の老婆例の老婆を殺して、その財産を有意義に転用したら、と考えた。 彼は庭番の小屋から持ち出した斧を外套の下に隠し行動に出た。その質屋の老婆を殺し、金目のものを急いでしまいこんでいると、外出していた老婆の妹が意外に早く帰宅したため、彼は予期せぬもう一人の犠牲者を作る事になってしまう。無抵抗の、罪もない女を殺したのだ。それからは不安はつきまとわれ、極度の緊張と疑心暗鬼と疲労から数日、昏睡状態に陥った。
犯罪者の常として犯行現場に姿を現わしたラスコリニコフはそこで、居酒屋で偶然知り合ったマルメラードフ老人の死と遭遇する。この哀れな退職官吏は、病妻と子供を飢えさせながら、自分は酒びたりの自堕落な生活を送る男だったが、先妻の娘ソーニャが家計を助けるため、娼婦となっている事だけはさすがに苦しんでいた。 ラスコリニコフは手持ちの母から送られてきたばかりの金を未亡人にそっくりやったりして手を尽くす。 そしてソーニャと会った。澄んだ瞳でブロンドが美しい娘だった。
このソーニャが本編ではドストエフスキーの美しさの象徴になっている。日々ますます狐独を感じるラスコリニコフは思い切ってソーニャを訪れた。世間の常識では最も恥ずべき境遇にあるこの娘の傍にいると、なぜか不安や恐怖が消えるのだ。汚れた泥沼にいて魂の安らぎを持つ彼女が不思議だった。彼はソーニャの足許にひれ伏すと、「君に脆くのじゃない、人類の負っている苦悩にだ。君の大きな苦悩にだ」と叫ぶ。ソーニャが心の支えにしている古びた新約聖書が目にとまった。それは老婆の妹からソーニャが貰ったのだとしると、罪の意識がいっそう深まっていく。 いつくかのエピソードののち、彼はついに犯行を打明けた。ソーニャは悲痛な叫びをあげ、彼を抱きしめ、言った。「貴方が汚した大地に接吻しなさい。人殺しをしたと言うのです。苦しみを受け、自分の罪を贖わなければなりませんわ」。自首するのなら、死刑は逃れられるかも知れない。シベリア送りになるのなら、私もあなたと一緒に付いて行く。ソーニャは彼の不幸をともに分かとうとするのだった。
物語はこれと平行して、ラスコロニコフの妹ドーニャの婚約話が展開され、最終的にその候補の男の1人が、兄ラスコロニコフの罪を知り、それをネタに妹ドーニャに結婚をせまり拒否され自殺。結果 的に、ラスコリニコフを犯人と断定する証拠はなくなってしまう。 そしてラスコロニコフの最後の決断はいかに‥‥。

ここ数カ月、ドストエフスキーものに触れて思ったのは、ドストエフスキーって、不幸な人しか愛せないのだなあってこと、あるいは、人のなかの不幸/弱さしか愛せないのか‥‥。
この映画にもでてくるソーニャの姿勢、<シベリア矯正労働に付いて行く女の姿>こそがドストエフスキーの最大の愛情表現になるのだろうか。このパターンは『カラマーゾフ兄弟』の最後でも無実の罪を背負ってシベリア送りになるドミトリーに付いて行くグリシェンカという形で終らされている。「ともに落ちて行ってくれる女」、これこそがドストエフスキーのリビドーがもとめる愛する女の理想像なんだろうなあって思った。
では、人の幸せな部分は愛せない?
現実問題、まさにそうなのである。

人の『弱さ』には共感できるけど、『強さ』にはなかなか共鳴できない。それが人間の本質でもある。物語を作る時には、登場人物の『弱さ』を描きつつ、その登場人物に対して観客の心をに感情移入を起させ、登場人物と一体化させ、最終的に勝利をプレゼントして主人公とともに喜んでもらおうって方法がエンタテーメント系のドラマ作りにおいての基本だし‥‥。

しかし、単純な疑問が涌いて来る。 このラスコロニコフという人物、もし彼が殺人を起してなかったら、ソーニャは彼を愛したのだろうか? 私が思うに、人の『弱さ』を愛するのはイージーなのだ。今の自分でその人の役に立つ。必要とされる自分が嬉しい。 もちろん私も、自分の『弱さ』を救ってくれる、あるいは許してくれる人がいれば、安らぎを感じ有り難いと思える。必要なことだ。 でもやっぱりイージーなのだ。 どうも私は難しい方を好んでしまう。
『強さ』愛すること。誰かの『強さ』を利用するんじゃない、これは愛してはいない。 『強さ』を愛するには、自分のなかにある、強くなりたい願望を認めてやらないといけない。強く熟れなかった時の絶望をねじ伏せなければならない。そしてそのために、自分自身を鍛えてやらなければならない。つよくなる自分に憧れなくてはならない。 それが出来てはじめて、他人のなかの『強さ』も愛せるんだろうなあって思う。
ドストエフスキーものに欠けているのはこの点だなあって思った。 たぶん、このあたりがドストエフスキーとニーチェの境界線なのだろう。
ちなみに今、ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んでいるのだけど、ドストエフスキー自身がちょっとグレて自分で書いてますからちょっとばっちいですけど、 自分の中にある『弱さ』を認めなければそれ以上の『進化』はない。この『弱さ』を認める、そして暴く作業を、ドストエフスキーはこの中でしているような気がする。
スピリット的にはその後の実存主義の発展系、ドストエフスキー→キルケゴール→ニーチェのラインにのかってるって感じがしますね。 ああ~~~、ロベール・ブレッソン『白夜』が観たい! 唐突に終る西澤でした。

by ssm2438 | 2009-02-07 02:28
2009年 02月 06日

愛と青春の旅だち(1982) ☆☆☆☆

f0009381_20415371.jpg監督:テイラー・ハックフォード
脚本:ダグラス・デイ・スチュワート
撮影:ドナルド・ソーリン
音楽:ジャック・ニッチェ

出演:リチャード・ギア
    デブラ・ウィンガー
    ルイス・ゴセット・Jr
    デヴィッド・キース
    リサ・ブロント

        *        *        *

私の大好きな『リッスン・トゥ・ミー』、そのダグラス・デイ・スチュワートの脚本である! もっちも、こっちのほうが先に世に出ているのだが。というか・・・、これをみて、ダグラス・デイ・スチュワートの名前を知り、後に監督・脚本やった『リッスン・トゥ・ミー』をどうしても見たいと思い、当時銀座のシネパトスでしかやってなかったのだが、2回も見に行ってしまった。そんなに気させてくれたのも、この『愛と青春の旅立ち』があったからだといえる。そういう意味では私のなかではけっこう大事な映画。

しかし、かといってストーリーが突出していいかといわれるとそうでもない。まあ、ふつうであろう。しかし・・しかしである、この映画の魅力はひとえにザックに扮するリチャード・ギアの強さだと思う。あのリチャード・ギアは間違いなくかっこいい。この主人公にはあこがれたね。私の中では、恋愛ドラマではなくて、ひたすら男を磨く時間の映画。
戦いの場に出るということは、そこで勝ち負けがぜったい付いてまわるわけで、確実に誰かより勝る/誰かより劣るというシチュエーションにたたされる。その中で、どう自分のモチベーションを前向きにもっていけるかってところがとても大事。それが自分なりになかったら結局戦いの場に出ることすら怖くて出られない。
自分の劣等感と向き会えない人間にこの映画は語れない。

<あらすじ>
母はザック・メイオ(リチャード・ギア)が子供のころに自殺した。起きてみれば、父は相変わらずどこかの女を連れ込んで裸で寝ている。そんな家庭で育った彼はそんな場所を出たくて海軍航空士官養成学校に入学する。夢はパイロットになることだと言ったが、それも家を出るためのいいわけだったのだろう。そんなザックを父は、軍隊なんかに入って苦労するのは馬鹿げたことだといった。そうかもしれないが、そんなことはどうでもよかったのだろう、多分その家から出られれば・・。
ワシントン州、シアトルの近くにあるレーニエ基地内の学校に入学。彼を含め34人の士官候補生を待っていたのは訓練教官の黒人軍曹フォーリー(ルイス・ゴセット・ジュニア)のしごきであった。34名の中にはオクラホマ出身のシド(デイヴィッド・キース)がいた。
フォーリーは皆を徹底して罵倒し、ザックはメイオではなくメイヨネーズとののしられる。4週がすぎ、候補生は市民との懇親パーティーに出席することが許された。フォーリーは「地元の娘たちは士官候補生をひっかけようと狙っているから注意しろ」という。そのパーティでザックとシドは、地元の工場でh働くポーラ(デブラ・ウィンガー)とリネット(リサ・ブロント)と知りあう。週末になると2組のカップルはデートした。
フォーリーは、仲間と溶けあおうとしないザックを特別しごきにしごき、任意除隊を申請せよと迫る。ザックは優秀だが、人に心を開かない。他人に自分をあずけられない性格だったというほうが正しいだろう。自分に責任を持ちすぎる人間はこのようになることがおおい。そういう私もかなりこの性格だ。なので、このザックの気持ちはよく理解できる。
ささいなことから休日返上でしごかれているザック、フォーリーは
「いやならやめていんだぞ」と皮肉る。
「いやだああああああ!! ここ以外に行くところがない」と本心をさらけだす、ザック。

この物語は、自分に責任感がありすぎて、自分以外にだれも信頼できない人間が、いかに自分を他人と共有しあえるようになるか、という物語。これが出来るようになれればいいのになあといつも思うが、私はそれが苦手だ。

シドはリネットから妊娠したと聞かされると、任意除隊を申請した。彼自体、士官養成学校での訓練にはついてきけてなかったのだ。結婚指輪を持ってリネットの所へかけつけた。だが、彼女は士官としか結婚しないという。ショックを受けたシドは、モテルに行き、指輪の飲み込み首をつって自殺する。ポーラも結婚がしたいのは仕官であって、それが自分だろうが、他の誰だろうが、関係ないのかもしれないと思い始めるザックはポーラにも冷たく当たるようになる。卒業のための最終体力テストが行われる。ザックは新記録をみなに期待されてゴールにむかって何コースを走り抜けていく。追い抜かれた仲間たちも「お前ならやれる」「新記録だ!」と声援をおくる。
・・・やがて、卒業式の日が来た。少尉に任官したかつての候補生1人1人に敬礼するフォーリー軍曹。「君のことは忘れない」とザック。卒業同時に階級が逆転するというのが実にすてきだ。彼は製紙工場にはいってくるとポーラを抱きあげ、さっそうと光の中へ出ていくのだった。

by ssm2438 | 2009-02-06 19:28
2009年 02月 05日

マッチポイント (2005)  ☆☆

f0009381_2336879.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:レミ・アデファラシン
編集:アリサ・レプセルター

出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ
    スカーレット・ヨハンソン
    エミリー・モーティマー

       *       *       *

ひさびさのウディ・アレンがでないウディ・アレン監督作品。彼の映画は本人が出ないほうが断然良い。かれが画面に出てしまうとどうしてもそこだけ作為性が充満しているのでドラマとしてのリアリティが損なわれてしまう。もっともそれが損なわれてもいい映画というのもあるのでそういう場合は彼が劇中に顔をだしても全然かまわないのだけど。でも出来るならでないでほしい。

今回の映画はニューヨーク派のウディ・アレンしては海外にとびだしてロンドンで撮っている。もしかしてこれがはじめて? イギリスにいくとなんとなくヒッチコックをやりたくなるのかもしれない。そういう私も『ゴルゴ13』の41話がロンドンを舞台にした話で、ちょっと物語が淡白で時間がかなり余りそうだったので『第三の男』をやってみた。出来たお話の舞台がある特定の場所だと、なんとなく昔見た懐かしい映画をなぞってみたくなる。パロディというんじゃなくて・・これを機に、見ている人が昔のいい映画をみてくれたらいいなあって感じ。

ただ・・この物語が面白かったかどうかというとちょっと疑問だ。どうにもにげられない圧迫感が襲ってくるのはウディ・アレンの演出力の賜物だとはおもうのだが、面白いかというとそでもない。
なにがそうさせているのだろうって考える。そしたらもっともある意味<現実的な方向性での解決>・・つまりロマンがない。
二人の間に心がゆれたのなら、<一番好きなもののために二番目を捨てる>ストーリーにしてやればドラマチックなのだ。そのむかしジェームス三木がシナリオの基本的構成についてそのことを語っていたのを思い出した。これだとトレンディドラマになるはずだ。しかし、ウディ・アレンのえいがではそうならない。
このシチュエーションは『重罪と軽罪』の中にもでてきて、そのときも愛人に結婚をせまられ切羽詰った男が、ヤクザな仕事をしてる弟に愛人の殺害を依頼、その弟はさらりとやってのけてしまう。しかし、この映画そうだし『重罪と軽罪』もそうだけど、あのように愛人にせまられるとロマンもへったくれもなくなる。
男というのは夢をみられなくなると死ぬ生き物なのだ。ここでいう夢というのは「可能性」という言葉でおきかえられるかもしれない。どんなにたわいもな想いでも、それが現実になる可能性があれば、男は生きていられるのだが、それがなくなるとただの道具になってしまう。

私は男なのであえてこの物語の主人公を擁護するが、このドラマのなかのこの男を殺人者にしたのは妻と愛人だ。彼女らは男の夢を奪って肥溜めにおとし現実のウンコあびせかけた。

男がああやってしまいたいのは当然だ。それが出来てしまえば夢なのだが、普通の現実の男には出来ない。この物語ではそれをやってしまう。そういう意味では男の自暴自棄になったときにネガティブな夢=願いを実践してくれてた。だからこそウディ・アレンなのだって思った。本来男は・・というや誰も、弱さにまけたくない、無責任な自分になりたくないという正への方向性があるのだが、それを実践していけばいくほど、へたってみたいという憧れを持つ。
この映画のすごいところは、もうがんばるのはいい、へたってみたい、無責任になってみたい・・というネガティブな欲望を開放した映画だからこそ、素敵なのだろう。だからこそ、ほとんどの男性にいたいほど感情移入をおこさせるのだろう。
いやはや、すごいすごい。
つまらない映画として理解していたが、いってこの文章を書きながらその意味がわかった。やっぱ、ウディ・アレンはすごい。

・・でも、やっぱり面白くない映画であることには変わりない。

by ssm2438 | 2009-02-05 22:15 | ウディ・アレン(1935)
2009年 02月 05日

ルッカー(1981) ☆☆

f0009381_198671.jpg監督:マイケル・クライトン
脚本:マイケル・クライトン
撮影:ポール・ローマン
音楽:バリー・デ・ヴォーゾン

出演:スーザン・デイ
    アルバート・フィニー
    ジェームズ・コバーン

       *       *       *

原作は『ジュラシックパーク』『未来警察』マイケル・クライトン、最近では『ER緊急救命室』の企画・制作総指揮などもやってますね。大学では人類学を専攻し、とりわけ生命科学に関わるテーマは多くの作品で通底してて、最先端のサイエンストピックスも作品に取り入れることもおおいような。なので斬新なテーマのものがけっこうあります。
『未来警察』ではロボットが日常に入り込んできている社会、一般にイメージされう人型ロボットではなく、頭のいい掃除機とか・・そんな感じのロボットが日常生活に存在する社会の出犯罪処理をテーマにした映画なのですがけっこうおもしろい。半年前くらいになくなったら大変だとばかりDVDを項にしました。

この『ルッカー』も当時としてはかなりCGを駆使したCMのあり方を先取りしてる感じ。女優さんの体のデータをポリゴンかしてしまえば、その人がいなくてもCGでいくらでも好きな映像がつくれる・・という、SFとかではよくありそうで、実際なかなか起きないテーマをそれらしく描いてます。
この作品に登場するキーアイテムは視覚を何分間か麻痺させる発光銃。相手を無力化したいとき、銃弾では相手を殺してしまう可能性もありますが、この銃だと視覚を刺激して数分間認識力がまったくない状態にさせることができるという代物。シュボっと撃たれると、気づいてみると数分経っている。
・・ただ、これを使ってむりやりお話を作ろうとしてる部分はみえみえなのですが、この銃で銃撃戦をやられてもまったっくマヌケにみえてしまうのが困りモノ・・、ただ、その銃撃戦をのぞけばけっこう興味深い映像と話になってます。

・・と同時に古い記憶もよみがえらせてくれます。
私が小学生の頃テレビではアメリカのテレビン番組の吹き替え版がいくつか放送されてました。『奥様は魔女』とか『名犬リンチンチン』とか『人気家族パートリッジ』とか、ドラマの進行中に笑い声が入るので私なんかはきもちわるかったのですが・・。
そのパートリッジファミリーの長女やくがスーザン・デイ。その後ほとんど忘れていたのですが、高校せいくらいでみた映画に『ファーストラブ』といいうのがありまして、それにちょっと大人になった彼女がでて、多少ながらもヌードも披露、懐かしくうれしい気持ちになったものです。それからまたしばらく彼女のことは忘れていたのですが、アニメーターを始めた頃レンタルビデオ屋映画をあさる毎日、そのなかで『ルッカー』という映画の表紙に彼女を発見、それがこの映画をみた最初のときでした。ここでもヌードを披露してくれてのでちょっと幸せ。

<あらすじ>
整形外科医のラリーの所にやたらと細かく整形の指示をする患者が何人かやってくる。彼女らはマイクロビジョンという会社CMを作る会社にモデルとして雇われていた。その4人目がシンディ(スーザン・デイ)。しかし、その整形手術をうけたモデルたちが自殺とおもわれる死に方をする事件が引き続きおきる。警察の関心が自分に向いてることから、自らも調査に乗り出したラリーは、シンディと一緒にその会社をたずねる。彼らは人体をポリゴン化し、より理想的なプロポーションのデジタルデータを集め、女優のそんざいがなくてもCMが作れるシステムを開発しようとしているのだ。さすがにシンディが全裸で体の凹凸などを測定されているシーンなどはとても刺激的だ。
入室するためのIDカードをそのとき盗み取るラリー。深夜にまたシンディとマイクロビジョンの会社に忍び込む。そこで二人は、この会社が放映されるCMからはある種の催眠効果放射し、その品物などを買うように仕向ける可能性をもさくしていることを知る。そさらに彼らの開発した発光銃をみつける。その銃の発光を視覚にうけると、数分間認識機能がストップする。彼らはこの銃をつかい、会社の秘密を知ったモデルたちを弾痕をのこすことなく自殺にみせかけて殺していたのだ。

スーザン・ディの写真をいくつかひろってきた。ご年配の方には懐かしく思われるだろう。
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by ssm2438 | 2009-02-05 17:00
2009年 02月 05日

遠雷(1981) ☆☆☆☆

f0009381_143675.jpg監督:根岸吉太郎
原作:立松和平
脚本:荒井晴彦
撮影:安藤庄平
音楽:井上堯之

出演:永島敏行
    ジョニー大倉
    石田えり
    横山リエ

        *        *        *

石田えり
の脱ぎっぷりのよさがとても好印象。もともとそれがみたくて見た映画だったけど、じつにいい映画だった。幸せの沁み込み度が非常に高い映画。自分のところにおりたったのが幸せの青い鳥だったことにとても感謝するしかないような映画。結婚式で永島敏行が歌う『わたしの青い鳥』に感動じわじわ。「今ある幸せを大事にしよう!!」って気になってしまいます。

シナリオのつくりが素晴らしい。
対比の構図が非常に効果的。不幸に導くカエデという女と幸せにみちびくあや子。そこには極端に分り易い何かがあるわけではない。既婚者だけど色っぽくて話のわかってくれそうなカエデ。若くてパンパンはじける感じのあや子は、新人類っぽくほんとにこんなんで大丈夫なんかな?って不安さえ覚える。しかし、この二人が、ジョニー大倉と永島敏行の運命をそれぞれの方向へとなんとなく流していってしまう。それは意図的というのではなく、実に自然にながれていったらそうなった・・という描写。
そしてビニールハウスの中ではジョニー大倉と永島敏行が真実の告白シーンの反対側では、誰もしらないみんなが宴会をつづけている。
このわざとらしくない対比がすごく聞いている。
特に宴会を抜け出して二人でしっとリ話・・というシチュエーションは誰にでも一度や二度はあるだろうが、実に自分に存在感を感じる素敵な時間だ。それをとても上手く使っている。

f0009381_133156.jpg<あらすじ>
1970年代後半、都市化の波がひたひたと押し寄せてきている感のある群馬県宇都宮市。そこで和田満夫(永島敏行)ビニールハウスでトマトを栽培している。父は家を出てバーの女と同棲、兄も百姓を嫌って東京でサラリーマンをしている。家に残っているのは満夫と母と祖母の三人。
喫茶店のカエデ(横山リエ)という女といい仲にるが実は彼女には夫も子供もあり、その夫が満夫にひとこといいにきた。妻の浮気は今回に限ったことではないが、もう会わないでくれというもの。
その頃満夫はあや子(石田えり)とお見合いすることになり、あまり乗り気ではなかった会ってみると意気投合できる相手、そのままモーテルへいきエッチをしてしまう。それを境に彼女も時々ハウスを手伝いに来るようになる。ビニールハウスのなかでトマトにかこまれてするエッチ。これがとてもさわやかでいい。
その頃、子供の時からの友人広次(ジョニー大倉)があのカエデと駆け落ちした。あや子の父の希望で、村一番の盛大な結婚式をあげている雨の晩、広次が帰ってきた。カエデを殺してきたと言う。盛大な宴の歓声が母屋から聞こえてくるなか、ビニールハウスの中で広次は満夫に成り行きを告白する。

このシーンをみていると胸が締め付けられる。もしかしたら満夫自身が広次の立場になっていたかもしれない。それが、たまたまお見合いをしてであったあや子という女性が気立てのいい女だったので、カエデという女にもさほど関心を持たずにそれっきりになっていただけ。そのころカエデに入れ込んでいた広次はその女と出来上がってしまい、駆け落ち。最初は楽しかった広次とカエデの逃避行だが徐々につまんなくなり、「あんたのせいでこんなになった」と責任転化するカエデ、「警察にいってあんたに誘拐させたっていう」と脅す。どんどん心はささくれだっていき、お金もそこをつき、最後に泊まったモーテルで彼女をころしてしまった広次。
まさに彼女は不幸をはこぶ黒いカラスだった。

そして「稲刈り、頼んだぜや」と言い残して自首する広次についていってやる満夫。帰ってみればまだ宴会はつづいている。朝になり、雨が上がり、宴の席もそろそろおひらきという時、最後に「満夫、何か歌え」ということになる。満夫は桜田淳子のデビュー曲「わたしの青い鳥」を歌いだす。

ようこそここへ クック クック
わたしの青い鳥
恋をした心にとまります

「あや子、一緒に歌ってくれや」というとあや子も一緒に歌う。

そよ風吹いて クック クック
便りがとどけられ
誰よりもしあわせ感じます
どうぞ行かないで
このままずっと
わたしのこの胸で
しあわせ歌っていてね
クック クック クッククック
青い鳥

カラオケもない時代で、伴奏も手拍子もない素朴な二人の歌だけど、じわあああああああんと幸せが染込んで来る。泣ける。
そして来年のためにハウスを整理している二人の姿。そこに不動産屋があらわれるが、それを追い返す満夫。遠くで遠雷がなっている。

by ssm2438 | 2009-02-05 00:01
2009年 02月 04日

ハンテッド(2003)  ☆☆

f0009381_22223827.jpg監督:ウィリアム・フリードキン
脚本:デヴィッド・グリフィス
    ピーター・グリフィス
    アート・モンテラステリ
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:ブライアン・タイラー

出演:トミー・リー・ジョーンズ
    ベニチオ・デル・トロ

     ×     ×     ×

ナイフによる格闘映画。
70年代、『エクソシスト』『フレンチコネクション』をみてその圧倒的なリアリズムでウィリアム・フリードキンをあがめるようになったが、ここ数十年ちょっと低迷。先の『英雄の条件』はさすがに私でもちょっと駄目だった。。。そしてひさしぶりのフリードキン映画の『ハンテッド』、や~~~~~~~~~、よかった。
一応世間の声を allcinema ONLINE などでチェックしてみてはいるのだがどもう世間の評価はイマイチ。まあ最近のフリードキンならそれもしかたがないかなって思いつつみてみたら、いやいやいやいや、よかった。もうそれは世代の価値観の違いとしかいいようがない。このよさがわからないっていうのは、やっぱり見る側の心の目が未熟としかいいようがない。

アニメもオタク化がどんどん進んでいるのだが、映画もおなじことがいえるのだろう。
先ごろの映画といったら記号化されたアクションシーン、記号化された残虐シーンのオンパレードでたいそうなフィルムにみえてもそこがあさいものがおおい。普通にとればとれるものを効果としててぶれをいれてわざと見づらい画面にしてみたり、やたらと認識できにくするためにカットをやたらと短くつなげたり・・、われわれがみると「あほくさ・・」と思うような絵作りをみて「かっこいい、イカス」を喜んでいる連中があまりにおおい。

ほんとに感情移入してしまうと、そこで行われているイベントを受け止めるだけの心の強さがないから、「これは調理済みのイベントなんだ」と認識しないと楽しめない。そんな貧弱なメンタリティをもった人たちにはフリードキンの演出は強すぎるのだろう。
フリードキンは決してスーパーマンを演出しない。トレーニングされた人間なら出来る範囲のことでアクションをおこなう。その生々しさに拒絶反応を示すのだろう。彼らのメンタリティはひ弱すぎるので認識してはいけないものの部類にはいっていて、いくつかのシーンを見ているうちに「これはみてはいけないもの」と怖がってしまう。それは残虐シーンがどうのこうのという問題ではなく、その画面がもつリアリティがそうさせるのだろう。

われわれが子供のころの子供向け番組といったら、そこに行われるイベントに感情移入して、ドラマのなかでの主人公が感じているストレスや苦しみ、憎しみ、孤独などを教授し、やがて現実世界でやってくる本当のそれに備えるために、徐々に心を育てていく役割をはたしていたのだろう。
現実に立ち向かいための心の訓練場だったのに、それがいつのまにか大人になっても現実逃避するための心のシェルターになってしまっている今のアニメ。
かれらはそれを認識しているのだろうか?
彼らが喜んでみているものは、心がひ弱な、心のひ弱な者による、心のひ弱な者のための、心のひ弱は人が作ったドラマだということを・・。一人一人が進化するためのものではなく、現実逃避するためのものだということを・・。

そんな心がひ弱なまま大人になってしまった人たちがフリードキンの描き出すリアリティをみても、それは確かに拒否するしかない・・。そんなメンタリティがこの映画のイマイチコメントになるのだろうなあって思った。
ああ、やな時代だ。。。

しかし、歳をとってもフリードキン。この映画をとった時が70前だと思うが、まだまだ若い。
最近のデジタルと、手ぶれのおおいカーチェイスと見えないカット割のメンタルチープのくそアクション映画が多いなか、このじじい、がんばってます。いいねえ。。。。
すくなくともこの『ハンテッド』ならフリードキンの燃える映画の棚にしまってもいいと思う。
こんな調子ならちょっとおととしやった『BUG/バグ』もみてみようかと思ったりする。この映画、フリードキンらしくない分野だなあ・・と避けていたのだけど・・・。

フランケインハイマー
亡き後、あのリアリティを表現できる監督さんなんてそういない。というか、私はフランケインハイマーよりもフリードキンをかっているのだけど、
これからさき、70になっても80になっても、メンタルひ弱なガキどもが決してたどり着けない高尚なリアリティの映画をとり続けてほしいものだ。。。

by ssm2438 | 2009-02-04 05:48 | W・フリードキン(1939)
2009年 02月 04日

グリーン・カード(1990) ☆☆

f0009381_2441567.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:ピーター・ウィアー
撮影:ジェフリー・シンプソン
音楽:ハンス・ジマー

出演:ジェラール・ドパルデュー
    アンディ・マクダウェル

        *        *        *

ちょっと期待はずれだったかな。前作の『いまを生きる』がとってもよくってこれも期待して劇場に足をはこんだのだが、悪くはないが・・・おもったほどは・・・という感じだった。

まあ、わたしが基本的にジェラール・ドパルデューがあんまり好きではないのと、アンディ・マクダウェルがどうもこういったラブコメにはあわないようなきがしてる。この人ってある種の純粋さというのが表現しづらいキャラ。でもラブコメだとそれがないとイマイチ輝かないというか・・、メグ・ライアンがいいのはその純粋さ「これ好きですよ」「これ嫌いですよ」ってのが正直なキャラに映る。だからラブコメにはあってるのだろうと思う。
反対にアンディ・マクダウェルの場合は『セックスと嘘とビデオテープ』みたいな、本心を隠して世間と付き合うのになれている人を演じるにはいいのだろうなあ。

<あらすじ>
園芸家でエコロジー活動にも熱心なブロンティー・パリッシュ(アンディ・マクドウェル)、ベランダに温室のあるマンションの居住資格を手に入れるために夫婦であることが必要だった。一方フランス生まれのジョージ・フォレー(ジェラール・ドパルデュー)は、アメリカでの長期滞在の永住許可証を手に入れたかった。思惑が一致した2人は慌ただしく結婚証明をすませると握手をして実にあっさりと別れていった。
念願のアパートに入居してほっとしたのも束の間、INS(入国管理局)の調査員が本当に結婚しているかどうかチェックに来るという。慌ててジョージを捜し出し、何とかその場をしのいだブロンティーだったが、調査員は何となく半信半疑。ほとぼりがさめるまで一緒に暮らすことになる。
文化の違う二人が一緒に暮らすとなにからなにまでいらだつことばかり。しかしあるパーティでピアノをひくジョージの姿をみるとちょっとはっとするブロンティー。「直観を信じろ」という彼の言葉にすこしずつ感化されていくブロンティ。数カ月後に予定されているINSの本格的面接調査に備えて、お互いにデッチ上げた架空の新婚生活を趣味レートしていく。ポラロイドカメラを使って新婚旅行や結婚式の偽造写真も作った。便宜上の結婚ではあったが、2人は次第に何かを感じ始めていた。
このあたりの二人はとても幸せそうでみてて気持ちが良かった。
しかし審査の結果はNG。ジョージは故国への強制送還を言い渡さる。しかし、二人の心にはほんとの恋愛感情がめばえていた。

by ssm2438 | 2009-02-04 02:13 | ピーター・ウィアー(1944)