西澤 晋 の 映画日記

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2009年 03月 05日

ベニスに死す(1971) ☆☆

f0009381_6194739.jpg監督:ルキノ・ヴィスコンティ
原作:トーマス・マン
脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、ニコラ・バダルッコ
撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽:グスタフ・マーラー

出演:ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセン

        *        *        *

何を撮っても面白くないヴィスコンティの映画のうちでも、唯一みられる映画。でもヴィスコンティの価値観には共鳴するものがまったくないので、やっぱり面白いとは思わない。ほんとに世間の人はヴィスコンティの映画がいいと思っているのだろうか? この映画は、極端に見る人の気質と性によって意見がことなる。

女性とホモは「好き」という。男性は「嫌い」という。

女に男を愛する能力は無い。女が男を見るとき、男のなかの「女性性」には惹かれても、「男性性」には惹かれない。女にとって「男性性」とは、自分を支配しかねない恐怖の根源であり、忌み嫌う対象であり、利用すべきものでしかない。この映画が女性に人気があるのは、男性のなかにある「女性性」が出た映画と、忌み嫌うベき「男性性」の崩壊が気持ちいいのだろう。

この点においても、普通の男がこの映画を好きなわけがない!


この映画、「美しさ」に憧れたという映画ではない。だいたいビヨルン・アンデスセンが「美」の象徴のように扱われているが、、美しいっていうだけなら、彼よりビジュアルが美しい女ならいくらでもいる。彼が一部の人にとって魅力的なのは、美しいからではなく、「女性っぽい男性」「男性なのに女性っぽい」から。
これは、「ホモ性」から発生した映画である。
ホモの書くドラマには一般男性にとっては毛嫌いするある種の異臭がある。その臭とは「進化をあきらめた人の消費性」という臭。別な言い方をすると「進化に向かわない精神」とでもいえる。とにかく「いまある状態を保持していくこと」がかれらにとっては大事なのだ。がんばって努力して何かになるなんてことはない。

人間社会では、<支配><被支配>という概念からは逃れられない。何処に言ってもこの概念はついてまわる。家庭でも、社会でも、二人の間柄でも、グループにおいても・・。しかし、どちらかが一方的に支配することはなく、片方が物質的に支配するなら、もう片方は精神的に支配りているとか・・、それは複雑に構成されており、だからこそ人間としてのつながりが出来ている。
男と女の間では、基本的には男は女を支配することで女に支配され、女は男に支配されることにより、支配してきた。長い歴史をみればそのことは確認できるだろう。なので異性どおしの間では<支配><被支配>という関係は成り立ち易い。
しかし同性同士では少し無理がある。圧倒的に力のあるものと、そうでない物との関係においてはそれは成り立つが、基本的に精神がどこかで反発している。なので「社会」という場においては、それを制度化し、安定したものにしてきたのが人間社会の歴史だろう。しかし・・・、ちから拮抗したもの同士の間では・・・?
普通、もう一人の同性がいれば、彼はライバルとなる。そこには「あいつよりは上にいきたい」「あいつよりは優位性を持ちたい」という衝動がうまれる。それが進化を生み出すひとつの大事な要素になる。特に男性は劣等感に敏感な生き物で、だからこそ、それが生産的にモチベーションとなれば進化力は大きくなる。しかし、戦う以上は負けることも当然ありうる。それは怖い。なので戦う前からそれを放棄するものも現れる。その結果、彼らはつねに相手よりも下にいたいと臨む。戦って負けるよりは、戦わずに支配されているほうがましだ・・と考える。ホモというのはその概念から生まれている。

世間の評論家がいかにこの映画をヨイショしようとも、この映画が面白くない人には断じて面白い映画ではない。魂の根底で「ホモ性」を忌み嫌う人にとって、この映画を好きになれるわけが無い。普通の人は安心して「つまんない」って言っていい映画だ。そのほうがはるかに正常だ。


<ホモ作家の特徴のまとめ>

● 「強くなること」を否定しているので、ドラマに進化力がない。
● 話に生産性がなく、退廃的・消費的な話になりがちだ。
● オカルトが好き。現実世界で強くなれないのでファンタジーで力を爆発させるものを書く。
● 美少年が好き。様式美がすき。
● 女には好かれるが、なぜか普通の男には好きになれない要素がある。
● コスチュームプレイが好き。変身願望を感じる。


<ホモ作家と、その代表作>

ルキノ・ヴィスコンティ:『地獄に堕ちた勇者ども』 『ベニスに死す』
チャーリー・カウフマン:『マルコヴィッチの穴』『エターナル・サンシャイン』
スティーブン・キング:『スタンド・バイミー』『ショーシャンクの空に』
ノーマン・ルネ&クレイグ・ルーカス:『ロングタイム・コンパニオン』『キスへのプレリュード』
クライヴ・バーカー:『ヘルレイザー』『ミディアン』
キャメロン・クロウ:『セイ・エニシング』『バニラ・スカイ』『あの頃ペニーレインと』
二ール・ジョーダン:『モナリザ』『クライング・ゲーム』『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』

※スティーブン・キングのお話は嫌いなわけではないが、良くても、手放しで喜べない何かがある。どうも、それが「ホモ性」のようなきがする。

by ssm2438 | 2009-03-05 05:15
2009年 03月 04日

赤毛のアン(1986) ☆☆☆☆

f0009381_2017229.jpg監督:ケヴィン・サリヴァン
原作:ルーシー・モード・モンゴメリー
脚本:ケヴィン・サリヴァン、ジョー・ワイゼンフェルド
撮影:ルネ・オオハシ
音楽:ヘイグッド・ハーディ

出演:ミーガン・フォローズ
    コリーン・デューハースト
    リチャード・ファーンズワース
    パトリシア・ハミルトン

        *        *        *

誰もが知っているルーシー・モンゴメリー『赤毛のアン』、実は私も好きである。しかし、これはあくまで活字で読でこそのお話であって、映画にするとなるときっと外れるだろうなって思って見に行ったら・・はは、以外にしっかり出来ててほろほろ来てしまった。当時レーザーディスク買いました(笑)。

原作のアンはやせっぽちって設定だったけど、ミーガン・フォローズはどちらかというと、ほっとくとデブになりそうなタイプ。でも、全然違和感なかった。でも、デブにならないように製作者からかなり言われてたそうですね。当時のパンフレットにそんなことが書いてありました。しかし、この映画ではこんなもんだとおもったのですが、続編になるとさすがにタガが外れたらしく、ふっくらしてましたな(苦笑)。
反対にダイアナがけっこう大柄で・・、あれだけはミスキャストだと思うなあ。マリラのコリーン・デューハーストはまさにはまり役。うれしい!! 原作で、ドレスを買いにいってクマデを買ってきてしまうマシューのエピソードが好きなのだけど、この映画のなかではどうやら買えたみたい。

<あらすじ>
カナダのプリンス・エドワード島に住むマシュウ(リチャード・ファーンズワース)とマリラ(コリーン・デューハースト)の独身の老兄妹は、農場の跡を継がせるべく、孤児院からやって来る男の子を養子にしようと考えていた。しかしふたりの前に現われたのは赤毛の少女アン(ミーガン・フォローズ)だった。兄妹は、おせっかいであけすけなレイチェル・リンドン夫人(パトリシア・ハミルトン)や、同級生のギルバート(ジョナサン・クロンビー)に、赤毛をひやかされて癇癪を爆発させたアンに手を焼くが、やがてふたりはこの少女が自分たちの生活になくてはならない存在になっていることに気づくのだった。
ある日アンは、親友のダイアナ(シュイラー・グラント)を誤って酔っ払わせ、彼女の母親バーリー夫人から絶交を命じられるが、やがてそれは喉頭炎にかかったダイアナの妹を看病で助け、誤解をとくことで、許されるのだった。
クィーン学院に入学したアンは、ギルバートに対して競争心を募らせていくが、同時に彼に対するある種の同特別な連帯感も感じるようになっていった。アンが休暇で島に戻ってきたある日、マシュウが死んだ。一人残されたマリラのために、アンは島に残って教師になるつもりであることを告げる。その職は既にギルバートで決まっていたのだが、彼はその職をアンに譲ったのだ。
「これで許してもらえたかな?」「もうとっくに許してたわ」の会話・・。

アンとギルバートの「あいつだけには負けたくない」と思える相手との競争というのは、時をかさねていくと、それをやりぬいたもの同士という強い連帯感に変わっていくもので、この物語はそれを短い時間のなかできちんと描いていた。よくあの原作を、これだけコンパクトにきちんと纏め上げたなと感心する。そのためにクマデを買ってしまったマシューのエピソードが削られたとしても、文句をいうつもりはもうとうない。
すばらしい出来だった。

by ssm2438 | 2009-03-04 19:56
2009年 03月 04日

続・赤毛のアン/アンの青春(1988) ☆☆☆

f0009381_337468.jpg監督:ケヴィン・サリヴァン
原作:ルーシー・モード・モンゴメリー
脚本:ケヴィン・サリヴァン
撮影:マーク・チャンピオン
音楽:ヘイグッド・ハーディ

出演:ミーガン・フォローズ
    コリーン・デューハースト
    ジョナサン・クロンビー
    ウェンディ・ヒラー

        *        *        *

前作がよかったので、「きっと今回はだめだろう」と期待をせずに見に行ったら・・・、以外にも悪くはなかった。2作目でこれだけのクオリティは十分保っていれば、成功だといっていいと思う。ただ・・さすがに前作を見たときのときめきにはちょっと及ばなかったかな。前作がコンパクトにひとつの映画として、まとまっているのに対して、これは、続き物であるという先入観が先立っているのがつらい。映画といて公開する以上は見ている人はやっぱりそれ時間内にきちんと完結するものを期待するものだから。その匂いがするだけでもやや、期待がそがれる。これは続き物としての宿命だろうから仕方ないけど。
ドラマの構成上も、先の展開だとギルバートとの関係がもうちょっと深く進んでいくのかなと、そのほうを期待するのだが(原作を知らない人は)、物語はそっちの話はおいといて、厳格な女子高の教師となったアンの奮闘振りがメイン・ストリームになっている。ギルバートが画面にでなくて、彼を意識した対抗意識が水面下にあったのでアの話はおもしろかったのだが、彼を想う水面下の思い込みが無いのが、前作よどのときめかなかった要因かな・・。

<あらすじ>
アン(ミーガン・フォローズ)は18才の美しい娘に成長した。アヴォンリー・ハイスクールの教師として働いているが、想像力とおしゃべりは相変わらず。作家になりたいという夢ももっていた。ギルバート・ブライス (ジョナサン・クロンビー)は、アンを深く愛していたが、「親友のままでいましょう」と答えてしまうアン。
そんなアンに、キングスポートにある一流私立女子校での教師の話がもちあがる。校則の厳しい名門女子校でもアンのトラブルメーカーぶりは相変わらず。数々の妨害や、トラブルをのりこえて、アンは学芸会を成功させる。その頃にはアンは生徒たちやその父兄の信頼を勝ち得ていた。いやみだった校長もアンの健やかさに感化され、すっかり角がとれ、いい人になってしまう。
処女作も出版されたアンは、ギルバートのプロポーズをうけるのだった。

by ssm2438 | 2009-03-04 16:01
2009年 03月 04日

もだえ(1944) ☆☆☆

f0009381_7533049.jpg監督:アルフ・シェーベルイ
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:マルチン・ボデイン

出演:スティーグ・イェレル
    マイ・ゼッタリング
    アルフ・ケリン

         *        *        *

この作品、イングマル・ベルイマンの作品群のひとつのように感じているし、そう考えてもあながち間違いではないのかもしれないが、ベルイマンのやくどころは脚本と助監督である。しかし、いつも出てくる高圧的な人物はこの映画でも登場しておりベルイマンの存在を強く感じる。
そしてこの高圧的な教師は、のちの『ペーペーチェイス』のキングスフィールドにイメージベースになったのではないかと勝手に思っている。ただ、根本的にちがうのは、キングスフィールドがあくまで法律の分野での情報伝達の一部に特化したキャラクターであるのにたいして、この『もだえ』に登場するカリギュラはベルイマン的な高圧的な人間としてのキャラクターだといえるだろう。
そしてこの映画、ベルイマンの脚本のわりにはサスペンステイストのエンタテイメントなドラマにもなっている。
青春ものテイストあり、好きな女に付きまとう見えない男の影あり、そういう意味ではベルイマン物の中ではもっとも親しみ易い映画ではないかと思う。

ついついベルイマンベースで見てしまったが、この監督のアルフ・シェーベルイもスウェーデンでは名匠のひとりであり、カンヌでパルムドール賞を2度うけている。ひとつはこの『もだえ』(この年は複数の作品が賞をもらっている、それも12作品)、もうひつとは『令嬢ジュリー』(1951)。この年にはビットリオ・デ・シーカ『ミラノの奇跡』も同時受賞。パルムドールは複数受賞することが初期のころは多かったのだ。
この文章を書くのにパルムドール賞の歴史をしらべてみると、いやいや、少なくとも1980年代まではきちんとしているなあと思った。残念ながら90年代~現代にいたっては「なんでこんなのがパルムドールなん??」と首をかしげることがおおく、個人的には評価に値しない賞とおもっているのだが・・。

<あらすじ>
ヤン・エーリク(アルフ・チェリン)の通う八年制高校に、カリギュラと呼ばれる厳格でサディスティックな教師(スチーグ・イェレル)がいた。ヤンもヤリ玉にあげられる。
学校の前に雑貨屋があり、そこにベルタという娘(マイ・セッタリング)が働いていた。その夜、親友と映画を見ての帰えり、ヤンは酒に酔ってフラフラのベルタを見つけ、彼女の住居へ送って行った。見すぼらしい部屋、酒瓶とコップがあるだけでベルタが荒んだ生活をしていることが判った。ヤンエーリクが帰ろうとすると彼女は「あの人がまた来るかもしれない、怖いわ」といって引止めた。ベルタが恐れる男とはカリギュラのことである。彼女はベルタの愛人であり、彼女を攻めることで嗜虐的な欲望を満足させていたのだ。
やがて荒廃した部屋で死んでいるベルタを見つけるヤン。そして廊下にカリギュラがいて「ぼくがしたんじゃない!」と頭を抱えている。彼女は強酒をあおってこの結果になったのだとまことしやかに述べたるカリギュラをヤンは殴り倒し退学になる。そんなヤンに失望するヤンの父。そんな家をとびだすヤン。一方カリギュラは社会的制裁をうけて孤立無援になっていた。
ベルタの部屋に一人住むヤンエーリクのもとへ校長が訪れ、やさしく帰宅を勧めた。

by ssm2438 | 2009-03-04 06:42 | I ・ベルイマン(1918)
2009年 03月 04日

動脈列島(1975) ☆☆☆

f0009381_623262.jpg監督:増村保造
脚本:白坂依志夫
    増村保造
撮影:原一民
編集:中静達治
音楽:林光

出演:近藤正臣
    田宮二郎
    関根恵子
    梶芽衣子

         *        *        *

世間で「まっさん」と言えばさだまさしですが、私にとっての「まっさん」は増村保造。日本の映画監督のなかでもっとも好きな監督さんのひとりです。主に大映映画で活躍し、晩年は大映テレビで人気ドラマ、山口百恵主演の『赤い衝撃』(1976~1977)の監督や、堀ちえみ主演の『スチュワーデス物語』(1983~1984)の脚本を担当、どろどろした展開を潔く描くっと印象があります。

この映画は後期の作品にはいるでしょう。
新幹線をからめたパニックものといえばタイトルだけなら『新幹線大爆破』のほうが有名ですが、内容的にはこちらのほうがぎりぎり刻み込んでみせていきます。あちらはエンタ系パニック、こちらは社会派の犯罪サスペンス映画。ただきわめて乏しそうで、最後ののリモコンでブルドーザーを新幹線の線路に落下させるくだりはさすがに『殺人ブルドーザー』を思い出しましたが、そこはそれ、映画の本筋は知能犯の近藤正臣と捜査主任田宮二郎の読み合いがスリリングに展開、十分たのしめました。

あとこれをみて思うのが、このころまでは国鉄(JRの前身)が巨悪になりうる最後の時代だったのかなって、懐かしくなります。『海峡』のころの国鉄は、日本全土に鉄道を伸ばし、山を突きぬけるトンネルを掘り、海峡をくぐるトンネルを掘り、瀬戸内海をわたる橋をつくり・・と情熱のほとばしっていた時期。それがこの映画がつくられた1975年の国鉄は赤字をかかえ、弱体化した組織で新幹線の騒音問題では譲歩をしいられるようになっていく、かなり惨めな時期。そして最終的には中曽根政権下で国鉄の民営化がなされていくわけです。

<あらすじ>
名古屋市熱田区。東海道新幹線が住宅密集地にもかかわらず時速200キロ近い高速で走り抜けていく。そのすさまじい騒音ゆえに付近に住む老婆は精神に異常をきたし、医師である秋山宏(近藤正臣)と、その恋人である看護師・君原和子(関根恵子)の懸命の介抱も空しく息絶えてしまった。老婆を死に至らしめた国鉄に怒りを覚えた秋山は復讐を誓った。秋山は和子に病院からニトログリセリンを盗みださせる。
秋山の脅迫状の趣旨は、国鉄に対する騒音対策の実施要求と、要求を受け入れなければ10日以内に新幹線を転覆させるというものだった。警視庁は犯罪科学捜査研究所所長の滝川保(田宮二郎)を捜査本部長に任命し、数人の新幹線の沿線の県警の人間と共に極秘捜査を開始する。

by ssm2438 | 2009-03-04 05:22 | 増村保造(1924)
2009年 03月 02日

サバイバル・アイランド(2005) ☆

f0009381_18525324.jpg監督:スチュワート・ラフィル
脚本:スチュワート・ラフィル
撮影:トニー・イミ
音楽:リチャード・ハーヴェイ

出演:ケリー・ブルック
    ビリー・ゼイン
    ファン・パブロ・ディパーチェ

        *        *        *

ジェニファー(ケリー・ブルック)と実業家の夫ジャック(ビリー・ゼイン)たちがのる豪華クルーザーに火事が発生し、ジェニファーは無人島にたどりつく。その島には若い船員のマニュエル(ファン・パブロ・ディパーチェ)も流れ着いており、やがてジェニファーはマニュエルに身体を許してしまう。そんな折、追って助けられたジャックは二人の仲を疑って嫉妬に狂い、熾烈なサバイバル・バトルが始まる。

持っている者と持っていない者の精神的優位性を扱った作品。<持っている>ということは、<失う可能性がある>ということ。美人の奥さんがいるが、彼女が自分の元にいるがゆえに、もう一人の他人が気になる。結局女はその男をエッチをしてしまい、そんなんだったら「おういらない」と持っていることを放棄してしまう男の心理。しかし<持たざるもの>が<持つもの>になったとき、やはりそこには失う怖さがはっせいする。そんなどうしようもない心理状態を南の島という限定空間で、ケリー・ブルックスの肢体をおかずにしながら展開する映画。しかし、感情移入できる人間がいないので、結局はケリー・ブルックの肢体みたさだけがモチベーションとなる映画。『ガブリエル・アイウォー誘惑』よりはまだ見る気がする。
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by ssm2438 | 2009-03-02 18:34
2009年 03月 02日

D.N.A.(1996) ☆

f0009381_12402645.jpg監督:ジョン・フランケンハイマー
原作:H・G・ウェルズ
脚本:リチャード・スタンリー、ロン・ハッチンソン
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:ゲイリー・チャン

出演:マーロン・ブランド
    ヴァル・キルマー
    デヴィッド・シューリス
    フェアルーザ・バーク

        *        *        *

H・G・ウェルズの『ドクターモローの島』の3度目の映画化。よくこの原作をそう何度も映画化しようとするなあと感心したくなる。しかし、監督は『ブラック・サンデー』の大巨匠ジョン・フランケンハイマー、ゴッド・ファーザー=マーロン・ブランドも登場という、けっこう贅沢な布陣。といってもフランケンハイマーは、雇われ監督で、当初予定のリチャード・スタンリーが降りてしまったため(きっとマーロン・ブランドと衝突したのだとおもう)制作のエドワード・R・プレスマンがフランケンハイマーに「なんとかまとめてよ」ってことで仕事を依頼したのだと思う。

このドクター・モロー(マーロン・ブランド)は知能ある野獣を作っているのだが、人間社会の縮図っぽく、じつに強欲にまみれている。要するに人間社会から理性・知性を半分ぐらい取り除いたであろう社会をシュミレートしているといっていいだろう。

映画は既に新鮮さはなく、見ていて気持ちのいい内容ではない。この年のゴールデン・ラズベリーワースト作品賞デミー・ムーア主演の『素顔のままで』にもっていかれたものの、作品賞と監督賞にはノミネート、ワースト助演男優賞マーロン・ブランドヴァル・キルマーがとっている(苦笑)。

by ssm2438 | 2009-03-02 12:25 | W・A・フレイカー(1923)
2009年 03月 02日

ディープ・インパクト(1998) ☆☆☆☆

f0009381_138637.jpg監督:ミミ・レダー
脚本:マイケル・トルキン
    ブルース・ジョエル・ルービン
撮影:ディートリッヒ・ローマン
美術:レスリー・ディレイ
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:ロティア・レオーニ
    バート・デュヴァル
    モーガン・フリーマン

     *     *     *

この映画を話題にすると絶対比較されるのが『アルマゲドン』、でも、私に趣味からいって、こっちは語るに値しない映画になっちゃうのも、そろそろみなさん分ってきてるんだろうなあ。その映画から、アクションとギャグとオチを差っ引いた、残りの部分でどれだけ楽しめるかってことが、私にとっては大事なことなので、その点で『アルマゲドン』はなんにも見るべきものがないんですよね。 それにくらべて語る事があるのはこの『ディープ・インパクト』のほう。たしかに俳優の選択に勢いがないし、モーガン・フリーマンの大統領だとかなり弱い。個人的にティア・レオーニはけっこう好きだけど、この人ももうすこし線が太くないといかんなあ。それにこれがもっと演出力のある監督だったらもっと重厚な政治のドラマにできただろうにって思うんだけど、ちょっとミミ・レダーだと力不足かな。『アルマゲドン』なんかだと社会的厚味はそんなにいらない映画なんだけど、こっちのスタンスだとそれがかけないとどうにもならない部分があった。最近落ち目だけど絶好調のときのシドニー・ルメットなんか、やってくれたらよかったのに‥‥。

ま、確かに予算がなくって、それがこの映画の弱いところなんだけど、でもひっかかるやつがひとり。 シナリオライターのブルース・ジョエル・ルービン。 この人、<お通夜もの>を書かせたらすごい透明感のある話を描く。 透明感っていうのは、実に分かりづらい表現だけど、なんていいうか、清らかな美しさを描けるん人なんだよね。 彼の一番メジャーな作品といえば『ゴースト・ニューヨークの幻』だろう。 これも監督がもうひとつ力なくって、もう1つ高いレベルまでいけなかったけど、ドラマ的にはとっても楽しめるものになってた。 あんまりいい監督さんに当たらないブルースだけど、映像的に一番高水準なのは『ジェイコブスラダー』。これはもう、映像はのエイドリアン・ラインが監督やってるので画面的にはとっても素敵。ただ、これって、おおまかなお話がもうちょっとなんとかならなかったんだろうか? もうすこし、どこかが違ってたらけっこういい映画になってたのに‥‥。 あとは『ブレインストーム』『マイライフ』など。
そう、どれもテーマは<死>なのです。 さらり形容詞をつけるなら<美しき死>、たぶんこれが彼の描きたいものだと思う。
もっと具体的にいうと、“死なない為に何かをして、結局それを避けられなくって、醜く死ぬ ”んじゃなくって、“死ぬから、何かをして死にたい‥‥”その提示。 この『ディープ・インパクト』もそう。
その昔『日本沈没』(映画)のなかで、日本が沈むと分った時、ある経済界の実力者の老人が各方面の学者を秘密裏に集めて、これからどういう政策を取るべきか?という政府に提出するドクトリンをまとめさせるというエピソードがありました。その結果幾つかの模擬案が出来あがりその中には、日本人がそのままバラバラに世界中に散らばり、そこで日本という国を忘れて生きて行く方向性、あるいは日本がどこかの国で再び日本を作るための方向性、などが説かれていたのですが、その老人はもう1つの答があり、彼等(学者たち)のほとんどはそこに辿り着いたことも伝えます。
それは、

「何もせんほうが良い‥‥」

丹波哲朗演じる時の首相山本も、その答に納得するのですが、もし、全員を脱出させられなければ、そのときは、自分が生かす人間と見捨てる人間を選択してしまうことになる。その十字架が重いんです。彼は日本人脱出計画を遂行していきます。結果として、物語の中では日本人全部ととりあえず脱出させる事が出来たので、その十字架は背負わずに済む事になったのですが(それは『ディープ・インパクト』でもそうなのですが)、その途中経過においては、 それをその十字架を背負う覚悟を彼等はしたのです。 だから、その計画が実行できた。ブルース・ジョエル・ルービンは、これをさせてしまったってことが、とっても偉いなあって思うんだ。
少なくとも、『アルマゲドン』の監督さんや脚本家はそれだけの十字架を背負いきれなかったもの。だから騒がしいだけの映画になちゃったんだよね。 結局、作り手の魂が強くないと、魂の強いドラマなんて描けない。 強くないと優しくなれない。 この世の中は、総ての命が犠牲にならないようには出来ていないらしい。 そして、人のキャラクターとは、一言でいってしまうと、 捨てるものと、残すものを選択するある種の法則でしかない。 その決断をするってことが、自分が自分であるってこと。
私はキリスト教には縁もゆかりもないが、 ブルース・ジョエル・ルービンはとっても好きだ。 ねがわくば、もう少し恵まれた環境で仕事をしてほしいなあっと思ってしまう。

by ssm2438 | 2009-03-02 09:48
2009年 03月 01日

濡れた二人(1968) ☆

f0009381_1547404.jpg監督:増村保造
脚本:山田信夫、重森孝子
撮影:小林節雄
音楽:林光

出演:若尾文子、北大路欣也

        *        *        *

大映が貧乏になり倒産寸前のころの映画。とにかく予算のなさが前面ででてる気がする(苦笑)。
物語とは関係ないが、本編のなかにでてくるボンネットバスがすごく懐かしい。私も子供のころ乗った覚えがある。あのころは今みたいにワンマンバスじゃなくて車掌さんのお姉さんがかならずいたものだ。

<あらすじ>
毎年夫婦二人だけの旅行を計画している野崎哲也と万里子(若尾文子)だったが、今年もまた哲也は仕事の都合で旅行にはいけないという。そんな夫に不満の万里子をひとり旅に出た。以前、万里子の実家で働いていた勝江(町田博子)の一家は、暖かく万里子を迎えてくれた。だが万里子は虚無感を感じていた。そんな万里子に、明るい声をかけたのは地元の男で、哲也にはない荒々しさをもった繁男(北大路欣也)だった。その晩、繁男が友人の昌夫を伴って万里子を訪れた。万里子は繁男の無遠慮な態度に驚いたが話しているうちに彼の素直さに好感を抱くのだった。二人が良い感じになりかけてたところで、哲也から電報がはいり「明日行く」とのことだ。繁男はいたたまれず万里子に欲望を告白する。

「愛しているんですか。ご主人を」、「そりゃあ、夫ですもの」
「答えてください。愛しているんですか」、「考えたことないわ」
「じゃあ、今考えてください」、「返事できないわ」
「ご主人は奥さんを愛しているんですか」、「親切よ」
「だったら、なぜここに来ないんです」、「仕事のためだわ」
「旦那さんは仕事のほうが大事なんだ」、「あの人にはあの人の世界があるの」
「俺なら奥さんをこんなところにほっぽりだしておかないな。いつもそばに置いて、宝物のようにする。愛情ってそんなものじゃないですか」

そして繁男は「哲也は来ない」と断言した。万里子は、翌日の哲也が来るならし繁男への想いは封印する決意をする。しかし来なかったら・・・。
翌日、万里子は駅に哲也を迎えに行ったのだが、降りる乗客の中に哲也の姿はなかった。その夜、万里子は哲也に訣別の手紙を書き、翌日繁男と小船の上で結ばれた。だが、万里子が戻った時、勝江の家を哲也が訪れていた・・・。


最小限のセットで、あとはロケという、とにかく省エネ映画という印象。なんとか台詞回しだけでもりあげようとしてる雰囲気が痛い。しかも台詞の内容もいまひとつ深みがない。作品自体のエネルギーが乏しい映画だった。

by ssm2438 | 2009-03-01 15:16 | 増村保造(1924)
2009年 03月 01日

死霊の盆踊り(1965) ☆

f0009381_14532260.jpg監督:A・C・スティーヴン
脚本:エドワード・D・ウッド・Jr
撮影:ロバート・カラミコ

出演:ウィリアム・ベイツク、パット・バリンジャー

        *        *        *

原題は『オージー・オブ・ザ・デッド』(死の乱交パーティ)。
20年前Z級映画として話題になり、いちおう後学の為にVHS借りてみた。というか、見たのは最初の5分くらいで、そのまま早回しになり、ついには最後をみることなく終了。見た人の多くから史上最低のハリウッド映画やZ級ホラーなどと酷評されてしまっている映画だが、その異常なまでのつまらなさが一部で人気なった伝説的なカルト映画。
冒頭の車のシーンは劇中は「夜」の設定・・のはず。でも車の全景の画面では昼になってるのは、「アメリカの夜」にする時間がなかったのだと思われる。「アメリカの夜」というのは昼間撮影して、あとから青パラのっけて夜にする方法。この映画に文句をいってもしかたがないが、一般映画でも昔の映画ではときどきこのミスはおきている。

<あらすじ>
ある真夜中、売れない小説家のボブ(ウィリアム・ベイツ)は、恋人のシャーリー(パット・バリンジャー)とともに小説のネタ探しをするために墓場へドライブに。途中でシャーリーが引き返すよう強く迫り、ボブは仕方なくUターンして戻ることにした。だが、車の運転に失敗し2人は車ごと崖に転落してしまう。その頃、墓場では夜の帝王(クリスウェル)と闇の女王(ファウン・シルヴァー)が死霊たちの宴を開いており、死霊となった女たちが踊っていた。その様子を物陰から見ていたボブとシャーリーは途中で見つかってしまい、縛り付けられてしばらく踊りを鑑賞させられる。そして2人は闇の女王に襲われそうになるが、その瞬間に朝日が差し込んで死霊たちは骨になり、2人は救急隊によって救出された。

by ssm2438 | 2009-03-01 12:05