西澤 晋 の 映画日記

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2009年 05月 27日

ダイ・ハード4.0(2007) ☆☆☆

f0009381_23315081.jpg監督:レン・ワイズマン
脚本:マーク・ボンバック
撮影:サイモン・ダガン
音楽:マルコ・ベルトラミ

出演:ブルース・ウィリス
ジャスティン・ロング
ティモシー・オリファント
クリフ・カーティス
マギー・Q
シリル・ラファエ
メアリー・エリザベス・ウィンステッド

        *        *        *

監督は『アンダーワールド』レン・ワイズマン。今回はパソコンつかって全米のインフラ機能を襲うサイバー・テロ。さすがに今の時代「パソコンたたけば何でも出来ます」っていうのはかなりご都合主義なお話になりがちだが(20年まえならいざしらず)、ふたあけてみるとけっこう面白かった。こわそうとしてもなかなか壊れないダイハードぶりも最初のダイハードに戻った感じも好感がもてた。・・・が、なんかこの物語は限定空間でのどたばた劇であってほしい気がする。なんでもありなところで、何でもあってもお話としては魅力に欠ける。

<あらすじ>
独立記念日の前夜、ワシントンDCの交通、通信、原子力、水道などのあらゆるインフラを監視するシステムが何者かにハッキングされた。事態を重く見たサイバー犯罪部長ボウマン(クリフ・カーティス)は、FBIブラックリストに載っているハッカーたちの一斉操作を命じる。その頃ジョン・マクレーン(ブルース・ウィルス)は、別れ娘のルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)に会うためニュージャージー州の大学を訪れていた。そこに上司から連絡が入り、ニュージャージー州内に住むマット(ジャスティン・ロング)というハッカーの身柄を拘束し、ワシントンまで連れ帰るよう通達される。
マットのアパートを訪れたマクレーンだったが、そこで謎の一味から襲撃を受ける。危うくも逃れたマクレーンは、マットと共にワシントンを目指す。マットはガブリエル(ティモシー・オリファント)のテロ計画の全容を知らないまま依頼されたプログラムの開発を請け負っていたのだ。すでにマット以外の計画に関わったハッカーたちは殺されていた。
ワシントンに到着すると街では大混乱が起きていた。ボウマン部長と対面したマットは、ガブリエルがインターネットに流した映像を見て「ファイアーセールだ」と呟く。国のインフラに対する組織的サイバーテロだ。マットの協力を得たマクレーンは、次々に襲い掛かる衛兵たちをかいくぐり、サイバーテロを食い止めようと奔走を始める。一方ガブリエルは、娘であるルーシーの存在に目をつけ、彼女を捕獲する。娘を助けるために敵の懐に飛び込んだマクレーンは、自らの背後に立つガブリエルを、自分越しに撃ち抜くのだった。

by ssm2438 | 2009-05-27 19:13
2009年 05月 27日

2010年(1984) ☆☆☆☆

f0009381_3103048.jpg監督:ピーター・ハイアムズ
原作:アーサー・C・クラーク
脚本:ピーター・ハイアムズ
撮影:ピーター・ハイアムズ
特撮:リチャード・エドランド
音楽:デヴィッド・シャイア

出演:ロイ・シャイダー
    ジョン・リスゴー
    ヘレン・ミレン
    ボブ・バラバン
    ケア・デュリア

     *     *     *

『2010年』、世間ではけっこう酷評されることも多い作品ですが、私は『2001年・宇宙の旅』よりも好きなのです。・・しかし考えてみるとあと1年で2010年だよ。はや。‥‥てなわけで、今回はこの映画の登場。だれもが知ってるキューブリックの『2001年・宇宙の旅』の続編である。アーサー・C・クラークにしてみれば前作があんなになっちゃったので彼なりのリベンジっていう意味もあるかもしれない。
決して前作が失敗作とは思えないけど、私としては「あれはあくまで原作『2001年・宇宙の旅』のプロモーションビデオだ」と理解している。プロモーションビデオとしてはとってもよく出来てると思うが、原作の映画かどうかというと??? 決して否定的な見方はしないんだけど、かといって肯定的な見方ができる作品とも思えないし‥‥。

原作は『2001年・宇宙の旅』『2010年』『2061年・宇宙の旅』と続き、最近『3001年終局への旅』が出版されているが、一番読み心地がいいのが実は『2010年』だったりする。アーサー・C・クラークもなんだか楽しんで書いてる。この作品のなかでは、彼のオプチミスティックな世界観と、全てを包み込むような暖かいスピリットが宇宙を縦横無尽に飛び回っている。それこそが彼の作品のコアだと思うだけど、映画の『2001年・宇宙の旅』にはそれが感じられないのだ。そんなわけでクラークファンとしてはどうもイマイチよいしょ出来ないというか‥‥。
その点この『2010年』は、スピリット的にはとっても作者の魂を描いてる。個人的はもっと牧歌的な、過去の因縁などの地上の風景などを全面に押し出した、SFに見えない作品仕立てにも出来たんじゃないかとさえ思ってしまう。ピーター・ハイアムンズのこの映画も好きなのだか、もしかしたら『ガタカ』みたいな作りも出来たのではないかなって、ちょっと自分で思い描いて楽しんでたりする。

アーサー・C・クラークという作家は、どうしても知らない人にしてみれば『2001年・宇宙の旅』をイメージしてしまうので冷たいスピリットの人って思われるかもしれないが、実は全然逆なのである。彼の著書をよんでみるとどれも全ての生命に対して暖かいまなざしをもっている。物語の中に「悪」を登場させない作家さんともいえる。エンタテーメンと作品としてはどうしても「悪」の存在を必要とするものだが、彼の作品にはそれがないのである。別な言い方をすれば「悪」を登場させる作品はすべてエンタテーメンとだと思っていい。それは映画ドラマにかぎらない。宗教でもそうである。「悪」=「悪魔』を登場させる宗教はある意味既に宗教を脱してエンタテーメンとに堕落したと云っていい。本物の宗教はきっと「悪」を語らないものなのだろう。
そういう意味でアーサー・C・クラークっていうのはある種の宗教だといっていい。<広がるスピリットへの信奉>なのだ。
私は実に好きなのである。。。

そして監督のピーター・ハイアムンズ
彼は撮影監督あがりの監督さん。私の中ではハイアムンズ=『カプリコン1』っていう印象だけど、よくも悪くもきっちり仕上げて来る監督さん。シナリオが良ければしっかりとしたものが上がって来るし、悪くてもそこそこのものが上がって来る(苦笑)。目立つために突飛な演出などせず、きわめてステディに仕上げて来る。大ブレイクはないのだが、出来上がったフィルムは無難なものが期待出来る職人肌の監督さんである。好感はもってるほうかな。


 <あらすじ>
あれから10年。ディスカバリー号の計画責任者で元アメリカ宇宙飛行学会議議長のヘイウッド・フロイド博士(ロイ・シャイダー)、HALの生みの親チャンドラ博士(ボブ・バラバン)、ディスカバリー号を再生させる訓練を受けたエンジニアのカーノウ(ジョン・リスゴー)の3人は、ソビエトのレオーノフ号に乗り込み木星へと向かった。HALの反乱はなぜ起きたのか? ボウマンはどこへ行ったのか? そしてモノリスを作った製造者はいったい誰で何の目的なのか??
物語では<大いなる意思>が木星を第二の太陽とし、エウロパにおいて生命を進化させようと試みる、その傍観者として<無知なる人>が描かれている‥‥はは、あらすじが終わってしまった。

でも、それではせつないので原作にはあるのだが、映画でカットされたエピソードをちょっと紹介しておこう。原作ではレオーノフ号にさきだって中国の宇宙船 ◯◯が先行して木星に向かう。彼らは先にエウロパに到着してなにやら調査をしてると地殻変動によって宇宙船が座礁。その地殻変動は実は氷の下に生存っしていた巨大生物のしわざだった。一人の研究者をのこして他の乗組員は死んでしまうが、彼は研究者スピリットを発揮して「エウロパには生命がいる」と宇宙に電波を命の限り発信し続ける。
ここがけっこう泣けるんだ。

そして、最後、チャンドラーがHALに自滅へのミッションをつたえる時。
泣けるんだ。ここは映画のほうが泣ける。
もちろんHALはコンピュータだから命令が与えられればそれに従うのだけど、従わないケースが前回提示されてるので、ほんとにすれが受け入れられるのかどうかは半信半疑の状態。そこにHALを一人の人格として接するチャンドラーの態度がなんだとっても切なくていいんだ。今の時代、よくみたエピソードの一つなのだろうが、なんだか当時みたときはぐぐっときてしまった。

この物語を読んで、見て、つくづく思うのだか、
感動する‥‥ってことは「伝わる」ってことなんだなあって思った。
想いが伝わる。祈りが伝わる‥‥。
それが描ければドラマは感動するものになる。

by ssm2438 | 2009-05-27 03:06
2009年 05月 26日

パシフィカ(1995) ☆

f0009381_1414770.jpg監督:エリック・フレミング
脚本:ジェームズ・ロビンソン、ウィンストン・ベアード
撮影:デニス・マロニー

出演:マーティン・ケンプ、アレクサンドラ・ポール

        *        *        *

これもつまらん。ひどいな。しょぼいセットをなんとか照明でごまかしているだけで。「こっち側のセットはありません」ってのがまる分りのひさんさ。おまけにカメラも話してる人ばっかり追うからださださな画面。アメリカンポルノのエッチがない映画みたいなダサさ加減。
原題は「サイバーバンディッツ」、バンディッツは海賊の意味。

近未来のアジア、パシフィカという島。そこにクルーザーを寄航させたある組織のボスは、秘密兵器の開発をめざしていた。しかしその秘密をコピーしたディスクを彼の愛人レベッカ(アレクサンドラ・ポール)に盗まれてしまう。彼女を助けたのはそのクルーザーの航海士ジャック・モリス(マーティン・ケンプ)。彼女はその秘密を持ち出すためにジャックの背中にタトゥーを彫らせ、そこにデータをコピーする。
結局彼らは捕まって、そこに反乱軍が登場、その隙に逃げ出した二人はクルーザーで洋上にエスケープ。と思ったら、そのボスがすでに乗っていた。ピーンチってときにその兵器でボスを始末する。

by ssm2438 | 2009-05-26 13:46
2009年 05月 26日

エンド・オブ・ザ・ワールド(2000) ☆☆☆☆

f0009381_347796.jpg監督:ラッセル・マルケイ
脚本:デヴィッド・ウィリアムソン
    ビル・カービイ
撮影:マーティン・マクグラス
音楽:クリストファー・ゴードン

出演:アーマンド・アサンテ
    レイチェル・ウォード
    ブライアン・ブラウン

     *     *     *

先日ケーブルテレビをみているとなんだかきちんと人間描写をしてる映画。セットはややチープ。潜水艦がサンフランシスコ湾に入っていく。その上空には崩れたゴールデン・ゲート・ブリッジ。CGとかはややチープな感はあるのだが捉え方はけっこういい。おお!と思わせる絵もちらちら。潜水艦の乗組員が荒廃したサンフランシスコの街をみてる。『復活の日』の冒頭のシチュエーション。なんだか外にでられない状況といえば、細菌兵器かなにかな?? でもなんだか次のおこり展開を妙に予感出て来てる自分。何だろう??この映画はって思ってると、その風景を懐かしんだ一人の船員が潜水艦から飛び出していく。これってもしや‥‥。。。最近そんな映画はリメイクされてたん?? 聞いてないぞ?? でも、その出て行った船員がゴムボートでつりをしてる横に潜望鏡がずずずずっと浮上してくる。もう間違いない。

そのとおりでした。『渚にて』という映画がまだ米ソの冷戦のころ創られた。そのリメイク版がこの『エンド・オブ・ザ・ワールド』。『渚にて』が米ソの核戦争で物語が始まったのに対して本作品は米中の戦争で核戦争が起る設定。でも、この映画核戦争的ドンパチなどはどうでもよくって、その後の死に至る人間の歴史のなかでいかに美しく生きるかということこそがテーマなのだ。ブルース・ジョエル・ルービンがとってもやりたいテーマだと思う。今度何かの機会にこの映画を再度映画化するこ時はぜひとも彼にシナリオをやってもらいたいものだ。

途中からだったのでネットでリメイク版の存在をチェック。どうやらテレビ映画らしい。さすがに予算の関係でCGが多少チープなのは仕方が無さげ。しかし、人間描写は『渚にて』に勝るとも劣らない、とってもきちんとしている描き方をしてた。見た感触的には私はこっちのほうが好きだ。ドラマの展開はほとんど同じなのだけど配役がこっちのほうがいい。
まず主人公のタワーズ艦長、なんとアーマンド・アサンテである。知る人ぞ知る『探偵マイク・ハマ/俺が掟だ』のマイク・ハマーである。おおおおおおおお~~~~~~~!!! チビだし、やたらチンピラみたいだし、当時はなんじゃこいつは??って思ったけど今見るといい親父になってるわ。これは配役ピッタンコにはまってた。この年で今一度マイク・ハマーをやってほしいものだ。
『渚にて』ではグレゴリー・ペックがやってたのだけど、どうしても政治家的な顔(真実を語れない顔)なので芝居が嘘っぽいのである。どんなにロマンチックな役をやっても(『ローマの休日』の新聞記者とか)実に感情が嘘っぽいのである。これがトム・ハンクスなんかがやると感情がかなり本物っぽいので馴染むのだけど。。。そんなわけで、これだけヒューマンなドラマが展開する作品にはあまりあわない。
ヒロインのモイラは、本作がレイチェル・ウォード『シャーキーズ・マシン』の変な顔なんだけど、変に魅力のあるあのおネーちゃんである。『渚にて』ではエヴァ・ガードナー。奇麗な人なんだけど清楚すぎるかなあ。ちょっとあばずれっぽいモイラのキャラクターはレイチェルのほうがあってるような気がした。
モイラのもと旦那でガサツな、見た目無礼な、でも実はとっても人間味のあるオズボーン博士はレイチェル・ウォードの元旦那ブラインア・ブラウン。私生活とダブってなんだか楽しい。
もうひとりメインキャラとしてはピーターというオーストラリアの海軍士官がいる。この人の義理の姉がモイラになるだが、『渚にて』ではなんとアンソニー・サイコ・パーキンスがやっている。ケビン・ベーコンがスクリーンに現れれば誰でも「こいつはホモできっと犯人だ」と思うだろうが、一昔前ならやはりアンソニー・パーキンス。どう考えたって精神異常犯罪者であるべきだ。なのにこの映画ではとってもいい人を演じている。ありえん(苦笑)!!

この『On The Beach』(原題がこれ)といういう作品は『ロミオとジュリエット』みたな理想主義的恋愛ではなく、もっと現実的な人のつながりを描いている。大人になってから見るほうがいいかもしれない。人は仮面をかぶり自分のキャラクターを演じているのだが、その仮面の下の素顔を理解できる人の大切さを語っているようにも見える。

<あらすじ>
アメリカと中国が核兵器を打ち合って北半球がほぼ壊滅。それでも南半球はまた平和な世界がのこっている。タワード艦長の指揮する生き延びたアメリカの潜水艦がメルボルンに入港する。
南下して来る死の灰。そんな状況の中、ある科学者は核戦争が引き起こした異常気象で北半球は低気圧状態になり、死の灰は南下はしないのではないかという希望的観測を打ち出す。その後、アンカレッジから定期的にメールが送られてくる。もしかしたらアンカレッジには人が生きているのかもしれない。調査の為にタワーズの米潜水艦がその任につくことになるが、そのまえにクルーにはしばしの休息が与えられる。それに同行することになったオーストラリアの若い海軍士官ピーターはタワーズを自宅のパーティに招いた。その席にはピーターの妻の姉であるモイラもいた。そしてその彼女と復縁を願っている原子科学者オスボーン人騒がせに登場したりもする。

先の核戦争で妻と子供を亡くしたタワーズ艦長。しかしモイラにひかれるものをおぼえたりもする。この映画は“妻への一途な愛”とか“子供たちへの誠実さ” とかではなく、近くにいて自分を理解して来る人のほうを大事にしていくのだ。正直なところ、若い頃『渚にて』をみた時は“なんかいい加減なグレゴリー・ペックだなあ”と思ったが、タイトル改め『エンド・オブ・ザ・ワールド』といてこの映画をみると納得出来るのである。これは配役がはまっただけではなく。自分の経験値があがったからなのだろう。
がさつだか人を見る目をもっているモイラはタワーズと引かれ合うようになり、オズボーンからフェラーリを調達、別荘でタワーズを一夜をともにすることになる。

やがてアンカレッジに到着。しかし、そこは死の街でありはメールの送り手は既に死んでおり、時たまはいる日の日差しでパソコンのソーラーバッテリーが起動しメールを送信していたのだ。絶望のクルー。彼らの半数近くはサンフランシスコ出身であり帰りに寄ることにするタワーズ。
艦はメルボルンに帰港する。ガソリンはとぼしく蒸気機関車が再び使われているのが嬉しい。オーストラリアの諸都市の人々も吐き気を催し死んでいく。。街では自殺用の薬が配給されている。
そんなかで『渚にて』では自動車レースが開かれ、人々はピクニック気分でそれを観戦してたりする。このエピソードはけっこう好きなんだけど、『エンド・オブ・ザ・ワールド』ではなくなっていた。
ピーターの家族にも病魔は忍び寄っていた。妻や子供の吐き気を催し死期がせまってきている。
部下の看病のために帰ってこないタワーズを待ちきれないモイラは、一人で死ななければ行けない孤独感からすこしでも安らぎを得る為にオズボーンとベットをともにする。しかし、そんなモイラのもとにタワーズは戻って来た。一人で死ななければならなくなったのはオズボーンだった。切ない。他に走る車はない街のなか、そして郊外の道路を愛車のフェラーリを飛ばしまくるオズボーン。カーブを直進し宙をまうフェラーリ。
ピーターは妻とベットに横たわり、子供に自殺剤を注射し、妻とふたりでその錠剤を飲み静かに眠っていく。

タワーズのクルーたちは帰国を決意する。今となってはアメリカはこの船だけだ。どうせ死ぬのならアメリカに戻って死のう‥‥。クルーたちの意をくみタワーズも艦に乗っる。出航する潜水艦を岬から見送るモイラ。ちょっとしたピクニック気分である。白い皿には取り立てのイチゴ。バスケットの中には政府が支給した自殺用の薬。シャンパンをつぎ岬を横切り出て行く潜水艦にグラスをかざす。
「ドワイエ・タワーズ。私が最もいてほしい時に私を裏切った男」。
ふうと大きく息をつくと、坂を上って来るタワーズの姿がみえてくる‥‥。おおおおおおおお。。。

実は『渚にて』では行ってしまうのである。
ここは『エンド・オブ・ザ・ワールド』のオリジナルなのだが私はこちらのほうが好きだ。

ま、好き嫌いはおいといて、トータルして リメイクものがオリジナルの感性を越えた珍しい例のひとつである

by ssm2438 | 2009-05-26 03:42
2009年 05月 25日

愛しくて/ラブ・イン・カントリー(1988) ☆

f0009381_23434483.jpg監督:ハリー・トンプソン
脚本:ディー・ロウ
撮影:ピーター・スタイン
音楽:ポール・J・スミス、スタン・ラットリフ

出演:ディー・ロウ
    アレクサンドラ・ポール
    ブライアン・キース
    ネッド・ビーティ

        *        *        *

いやあああ、アレクサンドラ・ポールみたさにわざわざ7000円もだして買ったVHSだけど・・・、ひどい。これは全然おもしろくもなんともない。

1929年、アラバマ。大学を卒業したアニー・ボナー(アレクサンドラ・ポール)は故郷のアラバマに帰ってきて、幼馴染にジェシー・モンローと再会する。子供の頃は彼の髪型がサムソンににていたというのでからかったものだが、再会してみると立派な大人になっていた。ジェシーと彼の父は、地主であり、アニーの父であるマシュー・ボナーが経営している製材所で働いていた。マシューは娘を医者の嫁にやりたいと画策していたが、アニーはジェシーと再会し恋に落ち、子供までもうけてしまう。怒って勘当するマシュー。ジェシーとアニーは3人の子供と、一人の娘をもうけ貧しいながらも楽しい生活を続けるが、アニーの母も、ジェシーの父もなくなり、最後は彼ら二人の仲をマシューもみとめて、彼ら家族を実家へを招き入れるのだった。

by ssm2438 | 2009-05-25 18:44
2009年 05月 25日

アンダーワールド(2003) ☆☆

f0009381_49049.jpg監督:レン・ワイズマン
脚本:ダニー・マクブライド
撮影:トニー・ピアース=ロバーツ
音楽:ポール・ハスリンジャー

出演:ケイト・ベッキンセイル
    スコット・スピードマン
    シェーン・ブローリー

     *     *     *

ケーブルテレビでたまたま『ヴァンヘルシング』をみて、“ああ、このおネーちゃんいいかもしれないい”って見てみたのがこの『アンダーワールド』。まあ、コンセプトが<吸血鬼 vs 狼男>(=ファンタジー vs ファンタジー)なのだから面白いわけがない! でもケイト・ベッキンセールが動いてるところ見てみたいっていうのがモチベーションだったのでなんでもそのへんは大目にみよう。

‥‥で見てみたらそこそこ面白かった。
物語の基本構造としては、オオカミ男族はドラキュラ族の奴隷的階層であり、その相容れない階層どうしの男と女は恋愛関係になったことから生まれる悲劇‥‥ その過去を引き継いで今のなお争っている2つの種族、そしてまた種族のの壁を越えて惹かれあう者たちあり!‥‥みたな展開。一昔前のアメリカ南部の白人と黒人の<恋愛>を吸血鬼 vs 狼男のコンセプトの移植した形になっている。そして、やっぱりケイト・ベッキンセールはかっこいい。他の映画みてもそれほどかっこいいとは思わないけど、やっぱりここの彼女は良い。

しかし、それより気になったのが、なんで最近この手のアクションものがこんなに反乱してるんだろうってこと。やな傾向だ。
私にしてみるとこのていの映画は東映の戦隊ものの延長でしかない。やたらバンバン撃っても全然死なない敵/味方。死の恐怖を感じることなく戦う連中。まさに戦隊ものである。結局この痛みを感じないドンパチ‥‥というのは弱者向けエンタテーメントなのだろうなあって思った。見た目はハデそうにみえるけど、そこにはイベントにともなう恐怖がない。鉄砲撃ってもその後に「死ぬ」ってことがない安心感。これこそは現実の世界に戦いを挑めない弱者向けドラマの必要条件なのか‥‥。
思えば中学校のころ水曜ロードショウーでみた『ゴッドファーザー』は怖かった。おんなじガンをバンバン撃ってもこっちは怖かった。映画はある種の怖さがないといかんよなあ。その恐怖を越えて大人の世界を体感するってことが、子供の為にとっても大事なのに。

今回思ったのは、最近こういうお子様向け/弱者向けエンターテイメントが増えてきているなあ‥‥ということ。こんなんでええんかい? ハリウッド??

はは、ちっちとも「~良い映画みつけた」になってなんだけど、 でも、そのお子様向け映画にしてはそこそこみられるぞ!っていう感じのお話でした。

by ssm2438 | 2009-05-25 09:47
2009年 05月 23日

マニフェスト(1988) ☆☆☆

f0009381_2342410.jpg監督:ドゥシャン・マカヴェイエフ
原案:エミール・ゾラ
脚本:ドゥシャン・マカヴェイエフ
撮影:トミスラフ・ピンター
音楽:ニコラ・ピオヴァーニ

出演:カミーラ・ショーベリ
    アルフレッド・モリナ
    サイモン・キャロウ
    エリック・ストルツ
    リンゼイ・ダンカン
    クリス・ヘイウッド
    ガブリエル・アンウォー

        *        *        *

ドゥシャン・マカヴェイエフの映画は、ブラックユーモアの映画なんだけど、絵作りはほんとにレベルが高い。先の『モンテネグロ』はいまいちだったけど、この『マニフェスト』の画面は素晴らしいの一言。映画ファンならいちどはマカヴェイエフの作品はみておいてほしいものだ。
ストーリーはさほど重要ではなく、そのシーンそのシーンをいろどる辛らつさがこの映画のもっとも刺激的な部分だろう。

1920年代の中央ヨーロッパの某国。スヴェトラーナ(カミーラ・ショーベリ)は、故郷ヴァルトハイムの新しい支配者となった王を倒すため舞い戻る。そこをお忍びで訪れる皇帝の暗殺を密かに画策しているのだ。しかし彼女の恋人であり同志でもある教師ルデイは既に逮捕され、人体実験/人格改造/拷問をするサナトリウム送りとなり、ロムブロソフ博士の苛酷な実験を受けていた。拘束具につつまれた彼はネズミかごの回転車を模した“永久回転台”によって洗脳されてしまっているのだ。
そこでスヴェトラーナは母親の家に戻るが、幼い頃彼女を辱めた使用人頭エミールに再びいかがわしい関係をもとめられ、馬小屋で抱かれてしまう。

マカヴェイエフって、女を描かせるととにかくいろっぽい。『コカコーラ・キッド』グレタ・スカッキもすごく色っぽいが、このカミーラ・ショーベリのエッチにたるシーンもじつに色っぽい。この演出法だけでも見る価値はある。

その後いろいろあって、スヴェトラーナはパンに拳銃を隠して、サナトリウムのルディに届けるが、彼はすでに洗脳されており、ひたすらネズミ車の中を回っているだけ。
王が無事なのを知ったスヴェトラーナは、都合よく彼女の家(実は彼女の家は地域の地主なのだ)で行なわれる王の歓迎パーティーで暗殺を決行しようとする。エミールの息子に銃を調達するよう命ずるが、そこに嫉妬に狂ったエミールが登場、暖炉に頭をぶつけて死んでしまった。ああ、マヌケ。そこに彼女を密かに愛する郵便配達人のクリストファーが現われ死体処理を引受けてくれるが、誤って自分まで橋から落ちてしまった。さらにマヌケ。

このへんのマヌケ事情はどうも、あまりストーリー展開上理解しづらい。お話の構成上ほんとに必要だったのか、ただのイベントだったのか、いまいち理解できてない。ただ、人それぞれモチベーションが異なり、それぞれの価値観で動いている人たちが、複雑に絡み合いながら、お話を奇想天外にころがしていき、最後は、ルディとともにサナトリウムに監禁されていたリリーという女が脱走し、独裁者を撃つことになる・・というお話。

話の展開はドウでもいい映画です。そのシーンそのシーンに、ドゥシャン・マカヴェイエフの皮肉めいた、悪意のある「させない展開」(=登場人物がそうしたいのに、マカヴェイエフがそうさせない)がこの映画のみどころだろう。面白い映画だとは思わないが、見せ方の技と絵作りの上手さが魅力的なマカヴェイエフ。
捨てきれない監督さんだ。

by ssm2438 | 2009-05-23 22:22 | D・マカヴェイエフ(1932)
2009年 05月 22日

マイ・ラブ(1974) ☆

f0009381_15232158.jpg監督:クロード・ルルーシュ
脚本:クロード・ルルーシュ
    ピエール・ユイッテルヘーベン
撮影:ジャン・コロン
音楽:フランシス・レイ

出演:マルト・ケラー
    シャルル・デネ

     *     *     *

この映画はルルーシュの自伝的要素がつよい映画で3世代を経てめぐりあう男と女という大河ドラマ(?)なのかな・・・????

古い映画ファンならだれでも一度は観たことのあるクロード・ルルーシュだが、最近の人だとあまり触れる機会はないかもしれない。そして誰もがしってるルルーシュの代表作といえば『男と女』なのだろがどうもメジャー過ぎてなかなかレンタルでも手が伸びないのもたしかだろう。

私が『男と女』をみたのは20代の始めころで“一応勉強のために観ておこうか‥‥”って借りたのが初めて。その頃の私は原画を描き始めたころで<全てが勉強!>の時代だった。
『キネマ旬報』の歴代トップテンの映画雑誌を買って、それぞれの時代のトップテンに入ってる映画をチェック、かたっぱしから観ていってた。当初は一日一本を目標にかか上げてたのだが、結果としては一週間に5本(ビデオ4本、劇場で1本)くらいが平均だったかな。それでもその2年間くらいほとんど毎日映画をみていたような気がする。自分の好き嫌いにかかわらず、かたっぱしからみたその時の貯金が今とっても役に立っている。
そんな『男と女』。タイトルからして、それもフランス映画って先入観からこてこてのメロドラマだと思っていたのだが、観てみるともっとさらりとした。それも子持ちの大人同士のスタイリスティックな画面の映画。「子持ちの大人どうしての恋愛映画でどうしてスタイリスティックな映画がとれるのだ???」と思うだろうが、それがルルーシュなのである。
そしてまた今年になって今一度ルルーシュを観てみようかとネットで中古のビデオを探してみたのがこの『マイ・ラブ』。ほとんどルルーシュ自身の自伝的要素が強い。さすがにもううちの近所のレンタル屋では発見できない代物になっているようだ。
どうしてよりにもよって『マイ・ラブ』だったのかというと、実はマルト・ケラーが観たかったから。マルト・ケラーと言えば『ブラック・サンデー』の適役のおねーちゃんである。けっこう好きなんだ。でつい先頃ケーブルテレビで『マラソンマン』(←これもけっこうインパクトのある映画なので映画ファンなら一応チェックの映画だろう)をやっていて久々に出会ってしまい、なんとなく観たくなってしまったというのがほんとのところ。


ルルーシュの映画の特徴は「スタイリスティック」と先に述べたが、それはあくまで表面的な捉え方で、もっと本質的な特徴としては<感情移入しづらい映像>ということだろう。
感情がドラマのなかにはいっていきづらい映画作りをする人なのだ。もとはコマーシャルフィルム出なのでどうしても画面に演出されてるのである。見ている人は<実際にそこにあるドラマを見ている>というよりも<この演出家によって作られた世界をみせられている>という印象をもつ。創作的演出のダメな部分丸出しなのである。
本来ドラマ作りという物は製作会社や、監督やら、役者さんやらによっていかに作られた物でも、見ている人がそれを<実際に在るドラマである>と思ってみることが暗黙の了解となっている。ストーリーにのめり込めるというのは、実はその暗黙の了解のもとで観ているものがドラマの登場人物に感情移入していくことなのである。しかし、演出過剰になると今観ている物語を<演出家による人工的な物>と解釈してしまう。観ている人にとってその違いが分かっている訳ではないのだか、なぜか感情移入出来ない不思議な感覚に陥る。ルルーシュの映画はまさにそれなのである。ルルーシュ以外では黒澤なんかはまるで舞台劇をみせられているよな気になってしまう。でやっぱり感情移入が出来ない。良くも悪くも演出過剰の弊害のひとつだろう。
レンズの選択にもかなり極端な使い分けがされている。望遠で撮った画面は実に映画的にスマートなのだ。しかしその気持ちよさにずっと浸っていたい思っているのに、カメラが寄って急に親近感を覚える画面になったりもする。<映画の画面>というよりも<映画を撮ってるシーンを撮ってる>ような画面になる。実にうさんくさい。おまけに『男と女』に関してはさして意図も無さげなのでランダムに白黒の画面まで登場する。
ルルーシュの映画はストーリー物であっても、ドキュメンタリーかコマーシャルフィルムのように仕上がって来るのである。

私個人のポリシーとしては、映画というのは<在る物でないものを作り、そのない物をまるで在る物のように感じさせる>もの。描かれている世界の空気が本物のように感じられる‥‥ということをドラマ作りのプライオリティにしている。なのでルルーシュみたいな撮り方というのはイマイチ好きになれないというのがほんとのところなのだ。
‥‥そんなルルーシュのスタイルではあるが、グルノーブルオリンピックの記録映画『白い恋人たち』とかこの『マイ・ラブ』みたいな本人の自伝映画もどきの場合はある程度機能してると思う。

個人的は解釈では最後の20分は不要で、“3世代を経て出会った二人のスーツケースがベルトコンベアのにってならでん飛行機の中に消えていく”・・で終らせても良かったのにとおもったりするのだが‥‥。

by ssm2438 | 2009-05-22 14:46
2009年 05月 22日

スパングリッシュ 太陽の国から来たママのこと(2004) ☆☆☆☆

f0009381_5364051.jpg監督:ジェームズ・L・ブルックス
脚本:ジェームズ・L・ブルックス
撮影:ジョン・シール
音楽:ハンス・ジマー

出演:アダム・サンドラー
    パス・ベガ
    ティア・レオーニ

     *     *     *

再びジェームズ・L・ブルックスの登場である。このページで『ブロードキャスト・ニュース』をその昔紹介したのだが、あえてまた同じ監督さんを紹介。いや~~~~~~~~~~~、良かったよ。これこそシナリオまわしの達人といいましょうか、四つ星レストランの高級シェフの料理といいましょうか‥‥すごいです。久々にこういう圧倒的上手い技術力とそれが生み出すハートフルな画面をみせられると心がなごんでしまいます。

しかしこの映画、上記のスタッフだけ見ててもなんだかいいですね。って私の趣味だけかもしれないけど。監督/脚本はジェームズ・L・ブルックス。この人のシナリオまわしは絶品で、といいつつ先の『恋愛小説家』はちょっと私的にはイマイチだったのですが、その前の『ブロードキャスト・ニュース』は大当たり。あの時の感動が今再びって感じでした。
そして撮影はジョン・シール。最近ケーブルで『愛は霧の彼方に』やってて“ああ~~、ジョン・シールだ”と想ったりしてたので実はそんなに懐かしくはないのですが、彼の画面を意識してみたのは久々かもしれない。個人的には『刑事ジョン・ブック』が彼の中では一番好きで、あの時にちょっと湿っぽい画面が大好きでした。その後『レインマン』とか『今を生きる』とかやってましたけど、この人はやっぱり『刑事ジョン・ブック』と『今を生きる』かな。みずみずしい画面のほうが彼の良さは出ますね。今回のお話はちょっと明るめのからっとした環境だったので実はあんまりジョン・シールの良さはでてなかったような気がしますが、それでも彼は私の好きな部類の撮影監督さんのひとりです。てなわけでちょっとひいき目。
そして音楽はなんとハンス・ジマー。ちょっとびっくりです。ハンス・ジマーどうしてもいけいけ音楽をイメージしてしまうのですが、今回はハートフルなしっとりめでした。
キャスト的にはティア・レオーニ。密かに好きです(苦笑)。
アダム・サンドラーが顔出してるのはちょっとびっくりでしたけど、なんだかおいしい役所なのでびっくり。というか、あってるのかもね。

<あらすじ>
どうもジェームズ・L・ブルックスは、ドラマの頭で主人公の女を泣かせるのが好きらしい。いろいろ悩みがある時、あるいはその不安への対処を考えたりした時とたんに感情が溢れ出して泣いてしまうのだろう。それで感情を整理する、そんなキャラクターが好きらしく『ブロードキャスト・ニュース』の時もホリー・ハンターが物語の冒頭のキャラクター紹介のところろで同じように泣いていた。ひとしきり泣くと「さ、いくぞ」ってその日をスターさせるのである。今回の『スパングリッシュ』でもこの感情整理のための泣きを採用してる女性としてフローラを描いている。
そんなフローラは一人娘のクリスティーナと一緒にLAに越して来る。英語が話せないフローラだが、リッチなクランスキー一家のハウスキーパーとして働き口を得る。この家族と接する時に冒頭のシーンはすごく好き。
なんでも想った事は理詰めて強引に築きあげてしまう主婦ティア・レオーニ、けっこう自分とダブってしまう。強引な性格なんだけどけっこう憎めないキャラクターに描いてる。というか、たぶんジェームズ・L・ブルックスが自分自身を切り売りしてそれぞれの登場人物に当てはめてるのだと予想するのだけど、だからやっぱりどのキャラクターも比定出来ないいい人になってしまうんだよね。
このフローラ、彼女の名前はティア・レオーニだけなかなか言えないんだけど、まあ、いいやですまさないで、フローラもがんばって発音の仕方を教えて(通訳をまじえながら)で、それをいやがらずにティア・レオーニもやって、言えちゃうんだよね。こんなめんどっちいこと、あとで練習するからいいやってしてしまいがちなところをその場で完了させてしまうティア・レオーニも、フローラもすごい。このシーン見ただけでもう、この映画は名作だ!って確信してしまう。

ハートフルな展開がちらほらあってフローラもなんとクランスキー一家に馴染んでゆき、夏は娘のクリスティーナと一緒に別荘で過ごすことになる。でも、使用人とその家の主人、心が近くなりすぎると居心地も悪くなったりする。このへんの描写はすごいね。本音ががしがし出ててとっても関心されらてしまう。
で、たぶんジェームズ・L・ブルックスが一番やりたかった通訳グレグレシーン。その一家はみんないい人なんだけど、娘のクリスティーナよくしてくれてだんだんと違う人になっていきそうになる不安感、不快感を感じてしまうフローラ。ティア・レオーニがフローラになんにも言わず娘を蚤の市につれだし、おまけにヘアスタイルまで換えてしまったのに端を発し(もちろん娘は大喜び、善意なんだけどなんだか不快感が増して来る)、父役のアダム・サンドラーは、店に出す料理のアレンジの素材として海岸に打ち寄せられて石のように丸くなったガラスのかけらを集めて来たらご褒美に1個につき◯◯ドルあげると子供たちに言ってしまった。みんな2~3個しか拾ってこないだろうっておもってたら案の定クリスティーナはくそまじめに探し込んでしまい、フローラの1ヶ月分の給料くらいの数を集めて来てしまった。
こまってしまうアダム・サンドラー。でも嘘をつく訳にも行かずそのお金を払ってしまう。もちろんクリスティーナもこれは全部もらっては悪いだろう‥‥って思ってしまうが、実際にそう申し出たのだが、かといってそれで引っ込められない大人の善意というのもわかるし、善意と善意の板挟み状態、
それをみつけたフローラがOKするわけもなく「返して来る」の展開に。こういう居心地の悪い善意がすこしづつ累積してついにフローラが爆発。さらにはアダム・サンドラーも「そうだよ、これは自己満足のためさ、偽善だよ。でも君だって同じことをしたさ」逆切れ。お互いが善意からでてくる不快感でなじり合い、それを娘が通訳するからおかしい。本来はそんな会話は娘にはきかせたくないんだけど都合じょうそうなってしまった気恥ずかしさ。でも始まってしまった以上とりあえず言ってしまわないと‥‥みたい妙はこっぱずかしい口論がとっても楽しい。書いていたジェームズ・L・ブルックスはのりのりでこのシーンは書いてただろうなあって思ったよ。

ほかにもおいしいシーンはてんこもりなんだけど、とにかく会話劇の楽しさ、本音トークの見え隠れがたまらなくすてき。
やがてティア・レオーニの浮気が発覚。思考能力ゼロのアダム・サンドラー。その日は別のトラブルがもとでフローラが「辞める」って言い出した。
どうまとめるっておもったら『バベットの晩餐会』方式かい? 男が女に料理をつくってあげる/男が女の髪をあらってあげる‥‥はけっこう高品位のおしゃれ演出なんだよね。

by ssm2438 | 2009-05-22 03:53 | J・L・ブルックス(1940)
2009年 05月 19日

シベールの日曜日(1962) ☆☆

f0009381_8544890.jpg監督:セルジュ・ブールギニョン
脚本:セルジュ・ブールギニョン
    アントワーヌ・チュダル
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:モーリス・ジャール

出演:ハーディ・クリューガー
    パトリシア・ゴッジ

        *        *        *

世間ではけっこういい映画とされているこの映画、1963年のキネマ旬報ベスト・テンでも3位に入ってる・・が、どうも私はダメだった。若いときに映画のお勉強としてキネマ旬報ベストテンの上位の映画を片っ端からみていたときに見た映画なのだがかなりたいくつだった。たぶん私自身の感覚として現実逃避的な物語を嫌う傾向にあるらしい。別な言い方をすれば現実逃避したい人にとってはいい映画ってことになる可能性はかなりたかい。

物語はインドシナ戦争で記憶を失った男と、親に見捨てられて寄宿舎にいれたらてた少女の密会の話。日曜日ごとに会うようになった二人だが周囲にはそれそうとうの嘘をついてでてこなければならない。周りの人がだんだんと不審に思いはじめ、追跡してみるとだいの大人と少女がじゃれあっているというもの。男は不審者とおもわれ射殺される。

世間ではこの二人の関係を純粋で美しいというかもしれないが、正常な男だったら自分にやさしくしてくれる女に対しては性的妄想もするだろう。それがないってこと自体が既に異常だと思うし、コーラから黒味と炭酸をぬいたものが美しいかもしれないが、美味しいとは思わない。煩悩なき人間などというものが面白いともおもわない。ふう~~~ん、あんたら勝手におままごとやってなさいって感じでした。

by ssm2438 | 2009-05-19 08:26