主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

<   2009年 06月 ( 50 )   > この月の画像一覧

f0009381_144439.jpg監督:キャロル・バラード
脚本:メリッサ・マシスン
    ウィリアム・D・ウィットリフ
    ジャンヌ・ローゼンバーグ
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:カーマイン・コッポラ

出演:ケリー・レノ
    ミッキー・ルーニー
    テリー・ガー

        *        *        *

これ、画面いいですよ。しびれます。さすがキャレブ・デシャネル!! 画面の質感がいい。
前半の無人島でのシーンはほとんど馬と少年を撮っているだけ。青い海と白い砂、そここを少年をのせて走る馬。もうそれだけで絵になってしまいます。そしてアメリカにもどってからは、狭い厩を抜け出して都会を闊歩する馬。
通常世界に異物が飛び込んできた異物・・都会に存在するゴジラとか、猿の惑星に存在するテイラーとか、ロンドンの町を裸で歩くスペースバンパイヤ=マチルダ・メイとか・・、これはドラマづくりの基本ですね。この町では1946年のニューヨークに出現した野生の馬。

<あらすじ>
地中海北アフリカ沖。考古学者である父(ホイト・アクストン)と共に船であちこち周っている少年アレック・ラムジー(ケリー・レノ)は、ある港で積み込まれた一頭の黒い馬に目を奪われた。あるの夜、突然嵐が起こり、船は転覆し、アレックは、海に投げ出された。そしてもう一つの影が嵐の海の中に飛び込むのが見えた。
気がついてみると、アレックは、ある無人島に流されていた。アレックは、ロープが岩にはさまれ、もがいているあの馬ける。自由を取り戻したその馬は海岸線に向って走り出した。馬に親しみをこめて近づくのだったが、野生の馬はそれを拒否した。ある日、アレックは浜辺でコブラに襲われかかるが、あの黒馬に助けられた。馬は少年の手から海草を食べ、やがて少年を背中に乗せ、波打際をしっそうする。
6カ月たったある日、イタリア漁船が偶然島を通りかかり、アレックは馬とともにニューヨークに戻った。アレックは、黒馬にブラックと名づけ、可愛がるが、文明生活にはなかなか馴れず、近所で問題ばかり起こしとうぼうしてしまう。都会に凛として存在する馬というう画面がなかなか素敵。

その後は、某調教師にみいだされ、競走馬としてかつやくするブラック。その当時の最強馬、サイクロン号とサン・レイダー号。激しいレースが展開された。出足は不調だったブラックも、先を行く馬ににじりより、じわじわと実力を発揮、そして、ムチも手綱も使わないアレックのリードに従うブラックは、遂に先行馬を追い抜き、栄光のゴールを踏むのだった。
by ssm2438 | 2009-06-28 01:49 | C・デシャネル(1944)

めぐり逢い(1994) ☆

f0009381_13165560.jpg監督:グレン・ゴードン・キャロン
脚本:ロバート・タウン
    ウォーレン・ベイティ
撮影:コンラッド・L・ホール
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:ウォーレン・ベイティ
    アネット・ベニング
    キャサリン・ヘプバーン
    ピアース・ブロスナン
    ケイト・キャプショー

        *        *        *

とにかく展開のテンポが悪すぎる。アネット・ベニング見たさに見た映画だが、これはまったくといっていいほど面白くなかった! 出てる俳優人もけっこうすごい。個人的にもウォーレン・ベイティアネット・ベニングと結婚しても大好きだし、ピアース・ブロスナンもいる。大御所キャサリン・ヘプバーンもいる。これだけそろえてこの映画かい!??ってかなり残念。

私が思うにリメイク物でも、アメリカ国内作品をリメイクする場合、決してリメイク作品がおちるわけではない。ただし、国外のものをアメリカで作ると明らかに質が低下し、ただの見やすいエンタな作品になりがちだけど。これは国内でつくられた昔の映画のリメイクで、それも制作はウォーレン・ベイティだ。あの『天国から来たチャンピオン』もリメイクだが、あれはボクシングをアメフトに換えて大成功した。この人はリメイクするのとても上手い人だと信じていたのだが、この映画に関してはまったく面白くもなんともない。 ・・・残念。
by ssm2438 | 2009-06-26 13:05
f0009381_2131895.jpg監督:ジョン・フリン
脚本:ポール・シュレイダー、ヘイウッド・グールド
撮影:ジョーダン・クローネンウェス
音楽:バリー・デ・ヴォーゾン

出演:ウィリアム・ディヴェイン
    トミー・リー・ジョーンズ
    リンダ・ヘインズ

        *        *        *

脚本は『タクシードライバー』ポール・シュレイダー。監督は『殺しのベストセラー』ジョン・フリン。ベツナム戦争後の<病めるアメリカ>世代のバイオレンスアクション映画。ベトナム戦争で生死をかけて戦ったものが、こちらの生活に戻ってきて感じるある種の虚無感。そんな主人公がよく描かれた時代だったが、これもそのひとつ。そんな彼を襲う強盗。家族はころされ、本人も右手を台所のシュレッダーでぎたぎたにされてしまう。それで無言で耐えるディヴェイン。その時だけが生きている感触だったのかも。
右手を失った彼は義手をつけ、まさにキャプテン・フック状態。そんな彼とが復讐するのだが、戦友の相棒トミー・リー・ジョーンズが参戦。彼も若いぞ。これを見たのはまだ高校生のころだったので、今より感性が豊かだったのだろう、結構怖かった。今一度見てみたいが・・・DVDは出てないのかな。
ヒロインのリンダ・ヘイズは知る人ぞ知る東宝特撮『緯度0大作戦』(1969)の金髪のおねーさん。

<あらすじ>
1973年。8年におよぶ北ベトナムの捕虜生活から解放されたチャールズ・レインズ少佐(ウィリアム・ディベイン)が、故郷テキサスへ帰ってくる。地元の歓迎を受けるものの、自分の感性を殺すことで拷問の屈辱と苦痛の中で生き抜いた彼は、精神的に何かが壊れていた。それは共に帰国したジョニー(トミー・リー・ジョーンズ)も同様だ。
チャールズの妻は彼が生還しないものと思い、町の悪漢から彼女を護ってくれた、若い保安官と関係を結んでいた。やりきれないが、そんな感情すらもなにあるのかないのかわからないチャールズ。そんな彼に贈られた慰安金の銀貨を狙って強盗が押入る。そのありかを決して吐かないチャールズはキッチンのシュレッダーで右腕を砕かれるが、無言で耐えていた。父を助けたい一心のマークは、銀貨のありかを話すが、銀貨がみつかると妻も子も共に殺されてしまう。
一方、瀕死の状態で病院にかつぎこまれたチャールズには義手がつけられた。回復すると義手を練習する毎日が続く。リンダ(リンダ・ヘインズ)酒場女が彼にやさしくしてくれる。体が回復した彼は彼女と共にメキシコに向かう。彼らの本拠地はエル・パソ。
そこで再会するジョニーとチャールズ。彼もまた平穏すぎる日常には、なじめないのだ。チャールズの話を聞くとジョニーも手伝うことを申し出る。命の躍動がもどってくる。
「今度こそは負け戦にしない」。二人はカタキのたむろする淫売宿へ向かった。逃げまどう素っ裸の女たちの間を、1 人、1人冷徹にと血まつりにあげていく。ベトナムの戦野でのあの興奮がよみがえる。傷ついたチャールズは、血みどろに横たわるジョニーを助けおこし、「さあ、家へ帰ろうぜ」と、その場を去っていくのだった。
by ssm2438 | 2009-06-25 19:51
f0009381_16334317.jpg監督:フェルナンド・メイレレス
脚本:ジェフリー・ケイン
撮影:セザール・シャローン
音楽:アルベルト・イグレシ

出演:レイフ・ファインズ
レイチェル・ワイズ

     *     *     *

アスアカデミー賞の5部門にノミネートされたこの映画、ドキュメンタリーチックは空気のただようすっごく良く出来たポリティカル・サスペンスです。それに夫婦の人間ドラマを加味している感じ。もとのストーリーも映画も技術的にすごく出来ているのでおもしろいのだけど‥‥ある種の嫌なにおいがする映画でもある。
なので、良いほうはみなさんいっぱい書かれてると思うので、その潜在的に臭う嫌な臭いのほうをここでは語ろう。

まずこの映画を見てかんじることは「あれ、これドキュメンタリーじゃないの?」って勘違いさせられること。
その昔ジェームス・ソ-ダスバ-グ『トラフィック』を観た時にけっこう似てる。わざとハンディカメラをつかって手ぶれ効果をだしたりして、かなり意図的にドキュメンタリーぽい画面をつくっている。その時はあまりに映画のテクだけが見えてしまったうさんくさくなって途中で辞めてしまった。実はこの映画も同じうさんくささを感じて途中でやめたのだが、フィクションとしてはすっごく出来てるし、その存在感のあじつけはとってもよくできてるので次の日また見直してなんとか終わりまで言ったのでした。
ドキュメンタリー性ってのはドラマに本物っぽい雰囲気をつくることに関してはとってもいいことなんだけど、自然にとってドキュメンタリーっぽくなりました‥‥っていうのならいいんだけど、意図的にそうされるとなんだか嫌らしさを感じてしまう。作り手の意図が出しゃばりすぎるのである。それがかなり不快感をそそる。
そしてドキュメンタリーってのは、そのフィルム自体はニュートラルなものだけど、それで構成されたフィルムとなるとかなり制作者のプロパガンダ的要素をもってくる。ニュートラルな振りをしてすっごく意図的に思想を押し付けて来る、その卑怯さが嫌い。この映画はこのての悪臭をぷんぷんまき散らしているので作り手として嫌悪感を覚える。

原作者のジョン・ル・カレの原作に関しては『リトル・ドラマー・ガール』『ロシアハウス』は映画でみたことがある。自らもMI6につとめてたりしてスパイ物系のポリティカルサスペンスは得意とするのだけれど、エンターテーメントのフィクションなのだ。

しかし この映画はフェルナンド・メイレレスがかなりアフリカの貧困を全面にだしてきている。どっちかというとドラマをネタにアフリカの問題を提示している感じ。サラダにドレッシングをかけたら、ドレッシングの味しかしない‥‥みたいな。
ジョン・ル・カレには文句はないのだが、どうもこのメイレレスには一言いいたいかな。
ドラマを作る人がひとたび弱い物探しをはじめたどうなる?
それって一番大切なスピリットを失う事になるのではないのか?

私はこの映画のなかに「クジラ保護の法則」を見いだしてしまうのだ。
「クジラ保護の法則」とは、競争が激しい社会に置いて弱者に位置づけられた者が、その環境の外にさらに弱者(この場合クジラを意味してる)を見つけ、クジラに危害を加えるさらなる第3者を攻撃することで自分の本来所属している世界での無力感のうさ晴らしをする行為をもって、精神の安定と自分の存在意義をみいだす‥‥という、一件博愛主事の正しい行いに見えるが、ある種のうさん臭さをもっている思考のこと。

仏陀云うところの『天上天下唯我独尊』は一番の基本だと思うのだ。まず、自分。自分とは何なのか? 何を求めるから自分なのか? その自分こそをもっとも敬わなければならない。そういった自分発見の旅こそが人生の一番大切な部分であると思っている。
しかし<弱い者探し>を始めると、自分ではない部分が自分を支配してきてしまう。トキでもクジラでもアフリカの餓えた子供たちでもいいや、実際今回はその<餓えた子供たち>がかなりプロパガンダとして使われているのだが‥‥、今の自分で弱いものを助けて上げられる部分に自分の存在意義を持っていってしまったら、実は自分でなくても良い人間になってしまう。それは誰かに愛されて、嫌われなくて、必要とされて、誰かに役立って実に気持ちのいいことかもしれないけど、自分自身が心の奥底で「こうしたい!」って思っていた子供の頃の憧れなんかを実は裏切ってしまうことになりかねない。

自分を弱者にみたて、自らを安心させるために、弱者を迫害する者を糾弾するだけならそのへんのころがっている活動家や宗教家にやらせておけばいい。 しかし<ドラマ道>を志すものにとってはそれではアマアマなのだ。その程度の浅瀬で、大衆にこびをうってはいかんのである。
<自分より弱いもの為に‥‥>っていう言い訳をまず排除して、<自分は何を求めているのか?>っていうことをきちんと見つめてやる事。もちろんそれはかなり醜い自分だと思う。が、それでもそれをきちんと認めてあげること。まずそこから歩みださなければ自分を失ってしまう。男性・女性は別にして、少なくともドラマの書き手なら、ここから始めなければならないのではないか??って思うのだ。そしてどれだけ自分をあばけるのか??がドラマの書き手の力となる。

私がこの映画から感じ取るのは、そういった<強者グループの中での弱者に属する者>がもつ強者へのひがみ根性なのだろう。じつはそれこそが全ての進化を浸食するもっとも有害な毒物なのだ。その目に見えない有害物質にこの映画は汚染させている。まるでこの映画なかで描かれた強大医薬品会社提供する新薬のように‥‥。この薬に侵されたものは、知らず知らずのうちに自らを強くする意志と願望を失い、<強さ>を批判する事に酔い、やがて衰弱して死んでいく。


私の基本スピリットは、自分を<弱き者>に設定し、それが自分にとって都合いいか悪いかを考える。もしそれが自分<=弱き者>に都合よく働くならそのシステムは間違っていると判断する事にしている。
弱者が弱者のまま、弱者に都合のいい状態が与えられることは否定する。弱者にとって都合わる環境を否定するよりも、弱者が努力して強くなる精神と可能性を支持する。それしかほんとの意味での救いはないと思っている。だからそういう自分を実行していく自分を見せる。くそ勉強して TOEIC の900点だってとってやる。で、取った。「ほら、こうすれば出来るよ」ってその方法を提示していくこと、その可能性を提示していくことしか私には出来ない。私にとっての弱者救済はそこにいきつく。
結局大切な事は、自分にとって<=弱者にとって>都合の悪い事を否定することではなく、それも許せる事なのだと思う。自分を消費するシステムをも許す事。それを含めて全システムの成長を願うことが<理性>なのかなって思う。

‥‥と、うさん臭い部分は腐るほど在るのだが、それでもかなりの力作である。ドラマの存在感はめちゃめちゃある。この映画のいい面をとらえるなら、これもまた腐るほど書ける。が、ま、これは他の誰かがいっぱい書いてそうなので私はパスしよう。
というわけで、薬物にあまり酔わない程度に節度をもって鑑賞するのがよろしかろう。


PS:この原作者のジョン・ル・カレは、どうやら「その女が私のホームである」が好きらしい。『ロシアハウス』でも同じような台詞をショーン・コネリーに言わせていたような気がする。
by ssm2438 | 2009-06-25 00:11
f0009381_5235316.jpg監督:ヴァレリアン・ボロヴツィク
脚本:ヴァレリアン・ボロヴツィク
撮影:ベルナール・ダイレンコー

出演:シルヴィア・クリステル、ジョー・ダレッサンドロ

        *        *        *

『エマニエル夫人』以外でなにかシルビア・クリステルを見たいと思い、当時レンタルビデオヤでVHSを借りた作品。・・・しかし、やっぱりあんまりかわらんかな。ま、こっちのほうが一応ドラマっぽいものはある。彼女の顔は趣味ではないのだが、彼女の乳首は透きとおってるようなピンク色なのがとても素敵。フランス人の人ってこういう乳リンの人多いとおもう。

<あらすじ>
南フランスのとある田園地帯。シジスモン(ジョー・ダレッサンドロ)は、若く美しい妻セルジーヌ(ミレーユ・オーディベル)と一人息子のエリー、そして召使いのフェリーヌと幸せな日々を送っていた。伯父の仕事の代理人としてパリに出るシジスモン。彼はとあるバーで知りあった娼婦ディアナ(シルヴィア・クリステル)と一夜を共にした。
翌日、彼はフェリーヌからの手紙を受け取った。セルジーヌが自殺したというのだ。妻の死を信じまいとする気持がディアナにふたたび近づける。妻セルジーヌと娼婦ディアナの区別がつかなくなっているシジスモンは、また再度ディアナを求めて来た。しかしディアナは彼の愛を拒み、別れを言うのだった。
ホテルに戻ったシジスモンはフェリーヌの手紙を再び開封した。プールに落ちたボールを取りそこねたエリーが溺死したために、セルジーヌが後を追ったのだった。彼は故郷に向けて車を走らせた。妻と子の遊びたわむれる姿が目に浮かぶ。ブローニュの森を過ぎて、彼は車を止め、やがて、一発の銃声が、夜空に余韻を残して消えた。

エッチシーンのためのドラマにしてもいまいち納得しづらい展開。ま、そんなことは大した問題ではないのだけど。ただ、もうちょっとエロチックな撮り方をしてほしかったなあ。『エマニエル夫人』もそうだけど、ソフトポルノの分野の映画はどうもエッチシーンもとりあえず撮っただけという感じがしていかん。裸がでるからエロいんじゃなくて、シチュエーションなのだから。本質的な欲望を、その罪悪感から開放するまでの期待と不安のあいまいな感情なのだから。
by ssm2438 | 2009-06-24 05:02
f0009381_16154214.jpg監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
撮影:トーマス・マウホ
音楽:ポポル・ヴー

出演:クラウス・キンスキー
    クラウディア・カルディナーレ

     *     *     *

先の『フレンチ・コネクション』、そのキーワードは「執念」と「ドキュメンタリー的リアリズム」であろう。しかしこの2つの言葉を共有するまったく別のテイストの映画があることを知ってる人は‥‥、実はあまりいなかったりする。この映画『フィッツカラルド』、ニュージャーマンシネマの旗手ベルナー・ヘルツォークが撮った実に壮大な愛すべきド阿呆映画である。

「出来る事で映画を作る」というのはある意味リアリズムの基本ではあるのだが、それではスケールの大きなものは映画に出来ないことになる。そこで我々はその昔は<特撮>と呼ばれ、現在では<CG>と言う言葉に変わり、それをもって架空のスケール感を表現する小細工をするのである。しかし所詮は嘘の造形物であり、よほどの技術者でなければそれ本来在るべき重量感として演出することは出来ないものだ。どんなにリドリー・スコットが頑張っても、ルドガー・ハウワーに指を折られたハリスン・フォードフォードが鉄骨にぶら下がっててもその高さから来る恐怖は描ききれてはいないし、その高さなどはほとんど感じない。観てる側が「ああそうなんだ」と理解して上げる事によって成り立つ画面なのだ。
しかしこれが一昔まえのスペクタクルものだと意地で器を大きくしてそのスケール感をだしている。『ベン・ハー』の戦車(馬車の戦車のことだか)のトラック競技には度肝をぬかれる。よくこんな画面が撮れたものだと感動さえ覚える。そこには決してCGでは表現出来ない本物感がある。
それでも「ピラッピッドを作る映画を作ろう!」といって実物大のピラミッドを造ってそれを映画にとる馬鹿はいない。映画とは実際それをしないでそれらしく見せるのが映画なのだから。
しかし‥‥ここに一人の大バカ者がいた。彼の名はベルナー・ヘルツォーク。こいつは、実際それをやってしまってそれを撮るのである。在る意味映画作家としては無能とも言えるし、これが正統派の映画の撮り方だとは決して思えない‥‥が、ひとりくらいこのような大バカ者がいてもいいだろう。その代表作が『アギーレ/神の怒り』でありこの『フィッツカラルド』なのだ。

私も映画ファンの端くれ、在る程度の映画はみているのだが、知っていても観ていない有名な映画というのも腐るほど在る。その中のひとつがヘルツォークものだったのだ。で、『アギーレ/神の怒り』のDVDが発売されると早速買ってみた。みてみるとやたら同じタイミングで画面が乱れる。なんで??? これ不良品???と思いむかついて捨ててしまった。後に分かった事だが、DVD→ビデオデッキ→TVと直列に繋いであったのでコピーガードが働いてそうなっていたのだ。
そんな事をしていると吉祥寺のバウスシアターというマイナーな映画を良くやる映画館でなんと『フィッツカラルド』をやるというではないか。よくこんなのやるなあ、誰か見に行くやからがいるのだろうか?と思ったりしつつ見に行ったのがこの映画だった。はじめは映画だったような気がしたが、途中からドキュメンタリーを見せられているような感覚に陥った。

「フィッツカラルド」というのは、「フィッツジェラルド」というこの物語の主人公(クラウス・キンスキー)の名前なのだが、現地の人たちはきちんと発音出来ないらしく彼を「フィッツカラルド」と呼んでいる。それがこの映画のタイトルになっている。

時は19世紀末。ブラジルのある街に有名なオペラ歌手エンリコ・カルーソが公演にくる。オペラの大ファンの主人公フィッツカラルドははるばるペルーからこボートを漕いでやってくる。一応紳士らしい身なりではあるがもう汗と泥でよごれたしわしわの服を着たこの男。これだけでもアホである事が分かる。そんな彼はこの南米の地に文明を開くことを夢をみて、このパルーに入植しアンデスに鉄道を敷設しようとして努力していた。しかし計画は失敗に終わり破産した。今はペルーの田舎町で水上生活をし、氷り屋を営んでなんとか生計を建てていたが現地の白人社会では彼のことを奇人とみなしていた。
そんなフィッツカラルドはそのオペラを聴き、ペルーにもオペラ・ハウスを建てようと決意した。現地にはゴムブームでもうけた成金たちがブルジョワな生活を営んでいた。そんな彼等に支援を要請したが成功する見通しもなく断られる。そこで彼は、前人未踏のジャングルを切り拓いてゴム園を作り計画を立て、誰も手を付けていないジャング奥地の土地の購入した。資金と川をのぼる中古船を買う金は彼の良き理解者でじもとで売春宿を経営するモリー(クラウディア・カルディナーレ)が出してくれた。

彼のゴム園用地は急流で途中に激しい瀬のあるウカヤリ川(ペルーの奥地からアンデスの南側を流れブラジルに入りアマゾン川に合流する)上流にあった。船で直接行くことはできず、今まで用地が売れていなかったのもそのためだ。彼は船をパテリア川(ウカヤリ川と並列にならんでい川。アマゾン川の支流の一つ)に進めるよう船長に命じる。
フィツカラルドは、ウカヤリ川に急流があって船が上れないのなら、パテリア川を上り、途中で2つの川がもっとも近くなっている場所で山を越えて船をウカヤリ川に戻してやれば良いと考えていた。実にたわけた考えである。で、実際にこの映画では、南米奥地の山をダイナマイトで切り開きレールを敷き、現地人を雇い、貨車を作り人力で船を引きずり上げる。もうここまで来るとフィクションなのかドキュメンリーなのか分からなくなって来る。映画にためにやってるはずなのにそれ自体が目的になり、それをカメラが撮っている。
半年以上の時間を費やしレールと滑車が完成、まるでピラピッドを作るファラオの奴隷のように現地人たちがよってたかって巨大な滑車を人力でまわし、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお~~~、あの船が山登っとおる登っとおる! ジワリ、ジワリと船が山の中を引きづり上げられていくのである。そしてついに船は反対側のウカヤリ川に浮ぶのだった。

祝杯をあげるフィッツカラルドたち。その夜船で寝ていると原住民たちはその船のともづなを斬りウカヤリ川の激流に流してしまう。その作業において死者も出していた原住民たちは自然の荒ぶる魂を抑える為にその船を生け贄として川に返したのだ。
激流の中を木の葉のように流されて戻っていく。船体は岩に何度となく激突しぼろぼろになっていく。
それでもなとか地元の街に戻ったフィッツカラルド。計画は水の泡とかしたが、彼はその船を地元の成金白人に売り、その金でオペラ一座をやとい、一度だけの船上オペラを上演する。自己陶酔のフィッツカラルドであった‥‥。


この物語の主人公も気狂いなら、それを演じたクラウス・キニスキー(実はナスターシャ・キニスキーの父)も気狂いであり、この監督のフェルツォークも気狂いである。

パテリア川を昇る時、現地民に恐れすスタッフをよそにフィッツカラルドはでっかい蓄音機でエンリコ・カルーソのオペラの歌声を流しながら川を上っていく。自然の力は強大であると理解した上で、さらにそれに挑む魂がそこにあるのである。たとえ打ち負かされても挑まないと気がすまないのである。「人は大自然には勝てない、自然に抱かれて生きるものだ」なんておきまりの概念はどうでもいいのである。「それが巨大な力なら、文明がそれに挑んで何故悪いのだ、やってやる!やってやる!やってやる!!」とこの物語の魂はそう叫んでいるのである。
燃える!!
なんとすごくて、アホで、素敵な映画だ!
by ssm2438 | 2009-06-22 16:08
f0009381_16443938.jpg製作総指揮:アーロン・ソーキン
脚本:アーロン・ソーキン

マーティン・シーン(バートレット大統領)
ジョン・スペンサー(レオ・マクギャリー主席補佐官)
ブラッドリー・ウィットフォード(ライマン次席補佐官)
リチャード・シフ(トビー・ジーグラー広報部長)
アリソン・ジャネイ(CJ・クレッグ報道官)
ロブ・ロウ(サム・シーボーン広報部次長)
デュレ・ヒル(チャーリー・ヤング私設秘書)
ストッカード・チャニング(バートレット大統領夫)
ジャネル・モロニー (ドナ・モス=ジョシュの秘書)

     *     *     *

『アリー my Love』の次にはまったのが『ザ・ホワイトハウス』(原題:The West Wing)(1999~2003)にすることにしました。年代は実は第4シーズンまでの年代の表記にしてあります。というは、脚本・総指揮のアーロン・ソーキンが第4シーズンまでで降りてしまったので、このドラマもそこまでで良いかなって思って。

原題になっているウエスト・ウィングというのは、ホワイトハウスの本館の西側の棟。大統領執務室 (Oval Office)、閣議室、国家安全保障会議室のほか、副大統領、首席補佐官、大統領補佐官、報道官、法律顧問、上級顧問などの上級スタッフのオフィスなどが入っており、ここがアメリカ政府の中枢になる場所。
ちなみに東の棟はイーストウィングと呼ばれ、ファーストレディー執務室とそのスタッフのオフィス (The Office of the First Lady)、およびホワイトハウス社会事業室 (White House Social Services) が入っている。また地下は核シェルター機能を備えた大統領危機管理センター (Presidential Emergency Operations Center) となっている。
中央のメインハウスは「レジデンス (Residence)」とも呼ばれ、大統領とその家族が暮らす公邸であるほか、外国首脳や議会関係者など要人との会談や、条約や重要法案の調印式、上級公職の任命会見、重要な記者会見、招待者との会見、晩餐会やレセプション、その他の公的な行事が行われる場所でもある。(ウィキペディア参照)
ちょっと気になって調べてみたのだが、ホワイトハウスの南側は円形のバルコニーがあり、通りに面した北からみると四角い入り口になっている。どちらも正面に噴水が在るので似通ったイメージがあるのでちょっと迷うのだが、丸いバルコニーの見える時にはウエストウィングは左側にある棟ということになる。

脚本・総指揮のアーロン・ソーキンはそれほど多くの映画にからんでいるわけではないようだ。『ア・ヒュー・グッドメン』『冷たい月を抱く女』『アメリカンプ・レジデント』くらい。基本的には政治・裁判モノが好きらしい。この3つの映画全部みているのだが、どれもそれほどぱっとする訳ではなく、やはりデビット・E・ケリーと同様、映画ベースよりもテレビベースのほうが馴染む人だ。少なくともこの『ザ・ホワイトハウス』はすごいドラマになった。エミー賞4年連続取っただけのことはある優れものだ。
ドラマのシナリオはシーズン4まではソーキンが書いているのだが、それぞれの話数のディレクターは何人かで持ち回っている。が、やはりトーマス・シュラムが演出した話数は良い。何気ない会話のはずが思わずぞわぞわっとこみ上げて来る感動が在る。間がいいんだ。私もコンテマンにコンテをお願いする時に、「それぞれのキャラを台詞のたびにUPで撮らないように、UPで撮るなら黙っている時にしてくれ」と良く云うのだが、これをみてるとつくづくそう思ってしまう。黙ってる男のUPは良い。

このドラマのポイントは「プライド」の扱いなのだろう。アメリカ人の持つ、お互いのプライドを認めつつのせめぎ合い、これが日本人にはやたらとかっこ良く見えるだと思う。相手のプライドを傷つけないように退かせる交渉術。うむむ~~、大人の世界。
どうしても日本の社会だと、「能力のない人間はプライドも高く持つべきではない」という認識があるようだが、あちらのドラマ、社会というのは、「あなたはいっぱい勉強して判断を下す立場にいるけど、あなたが偉いわけではないのよ。もちろん社会のなかではその判断を下す人ということリスペクとはするけど‥‥」という共通認識があるような気がする。『アリー my Love』なんかをみてもそう思うかな。<弱者もプライドを持つ! 弱者にもプライドがあることを認める>ということがアメリカ社会ではとっても大事な事なんだなあって思う。
これが出来ないうちはまだまだバーバリアンのうちなのかもしれない。

ちなみに今日見たのはシーズン3の2話。いよいよバートレットが選挙戦に打って出る話。行く手にはMS(多発性硬化症)の隠蔽疑惑に関する諮問委員会が待っている中、どう考えても不利な状況で再選を目指して一同が団結する。話数の前半では新しく選挙運動に加わったスタッフとの確執やら、MSを隠されていた事へのスタッフの中にある不信感やら、バートレット大統領とそのファーストレディとのぎくしゃくやらがあって、こりゃたいへんそうだなあ‥‥っていうのを見せつつ、選挙戦はじまるぞ!っていう最初のイベントの前に、バートレットはスタッフを前にMSを隠していた事をスタッフに正式に謝罪する。そしてこう続ける。

You can win if you run a smart disciplined campaine.
...if you studiously say nothing.
Nothing that causes you trouble, nothing that's a gaffe,
nothing that shows you think a wrong thing,
nothing that shows you think...
But it isn't worthy of us, is it?

It isn't worthy of us or America. It isn't worthy of a great nation.
We're gonna write a new book, right here, right now.
This very moment today.

勝つ為には、抜け目のない戦略をたてる事ともうひとつ、‥‥なるべく口を開かない事だ。
トラブルや批判を招くような事は云わない。
何を考えているのか明かさないようにする。そうすれば勝てるだろう。
‥‥だが、それは我々にふさわしい闘い方か?

そうとも、我々にも、アメリカにもそんな闘い方はふさわしくない。
歴史の1ページを今日、ここから作ろう。たった今、この瞬間からだ!

     *     *     *     *

いや~~~、いいですねえ。そうだそうだ、ソクラテスなんてくそくらえだ!って思ってしまったよ。
きっとソーキンも嫌いだと思うなあ。
議論に勝とうと思ったら自分は何もしゃべらず、相手に発言させどっかでぜったい失言するからその時に揚げ足をとればいい。
だけどじゃ、相手がいなかったらお前は何を語るのだ!?
というわけで、個々に<ソクラテスは嫌い@西澤=ソーキン同盟>が成立したのでした。

しかし、ここは以外と日本語のほうがかっこ良く聞こえたりした。
『ザ・ホワイトハウス』(原題:The West Wing)に関してはけっこう日本語訳っていうのは大事なのである。事が事だけにかなり内容が複雑なので字幕だとちょっと思考が追いつかない事が在る。かといって、日本語音声だけだとほんとの内容が解らない。私はこのドラマのDVDを見るときは最初に日本語音声+日本語字幕にしてみて、それから日本語音声+英語字幕、最後に英語音声+英語字幕にしてみる。なんかい見ても飽きないからいい(笑)。
by ssm2438 | 2009-06-22 14:11

七人の侍(1954) ☆☆☆☆

f0009381_23503818.jpg監督:黒澤明
脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄

出演:
志村喬 (勘兵衛)
三船敏郎 (菊千代)
千秋実 (平八)
宮口精二 (久蔵)

        *        *        *

長い! それも長く感じた。 いろいろ詰め込みすぎ。 若侍と農民の娘の恋愛事までいれちゃうし・・、もうちょっと内容省略して2時間半くらいまでにしてほしいなあ。一シーン、一シーンきっちり撮っているけど、だからこそモタっとした感じがするし・・、もうちょっとさらりと流すこところは流して見やすくしてほしいものだ。
それでも、黒澤映画のなかでは見られるほうだな。ダイナミズムは文句なし!

最後の戦闘シーンでは、地面に何本も刀をさしておいて、一人きったら新しい刀を使うあれ・・リアルなところをつくなあ。日本刀って、人を一人か二人きったらもう血のり刃こぼれと脂で使い物にならなくなる。なのでああやって何本も刀を用意しとかないといけない。この「刀は2人までしか斬れない」の法則をきちんと描いたのは貴重。
その昔近藤正臣主演で『斬り抜ける』というTVドラマがあったが、あれもこの「刀は2人までしか斬れない」の法則をきちんと採用してて、敵が4人のときは2人まで刀で斬るとして、あとの2人はどう片付ける・・?というような展開をいつもしていた。竹やぶのなかで戦うと、相手と一緒に竹も鋭角的にばっさり斬って、そこに残りの敵を押し倒して串刺しにするとか・・。

しかし、この映画の三船敏郎はじつにかっこいい。最初はなんだか役立たずの侍もどきだとおもっていたが、いざ戦いになるともっとも頼れる男であることがわかる。村人とは心情的に距離感があるほかの侍たちと違って三船敏郎演じる菊千代は村人たちにもとけこみ、戦闘時でも、果敢に実行力と具体性を発揮する。
あと宮口精二演じるストイック・久蔵も素敵。

<あらすじ>
麦の刈入れが終わる頃、農村では野武士たちの襲来を前に恐怖におののいていた。百姓だけで闘っても勝ち目はないが、麦を盗られれば飢え死にしてしまう。百姓たちは野盗から村を守るため侍を雇うことを決断する。やがて、百姓たちは食べるのもままならない浪人たち7人をスカウトし、野武士に対抗すべく立ち上がる
by ssm2438 | 2009-06-21 23:09 | 黒澤 明(1910)
f0009381_22325798.jpg監督:木村大作
原作:新田次郎
『劔岳 点の記』(文春文庫刊)
脚本:木村大作
    菊池淳夫
    宮村敏正
撮影:木村大作

出演:浅野忠信
    香川照之

     ×     ×     ×

不覚にもエンディングテロップで泣かされてしまった。
映画作りに携わってる人は、あのエンディングで私と同じようになけるかもしれない。。。
あれは木村大作、とってもいい仕事をしたなあって思ったよ。

絵はみなさんが言われてるように素敵です。すごい。山の絵だけで感動してしまう。
さすがに私が崇拝してる木村大作、ここにあり!です。おそれいりました。
最後の剣岳の登頂の瞬間の演出の下手さも文句のつけようのないくらい下手。編集でなんとかしようとした形跡があるけど、悲しいかなどうにもなってない。
もっとなんかあるんじゃないかって思うけど、まあ、そんなことはどうでもいいかなとも思わされてしまう。

あと、編集の乱れがちょこちょこ気になるかな。
・・みてて気持ちはわかるんだ。
スタッフの人に苦行をしいて撮ったのに、それを欠番には出来ない監督心裏といいましょうか・・、
あれがプロの監督さんなら「スタッフに嫌われた分だけフィルムを良くするのが監督の仕事だ!」っていえるけど、木村大作は監督としては素人で、その辺が徹しきれてない部分が見え隠れしたかな。
でも、それも最後のエンディング・テロップで「ま、これはこれでいいか・・っておもわせてしまった。
だってテロップ上は監督いないんだもの。みんな肩書きないんだから・・。
やられたね、あれには・・・。
だからこの映画は素人っぽくていいんだよ、きっと・・・。

あとこの映画をみてて思い出したのはヴェルナー・ヘルツォーク。
『フィッツカラルド』を思い出してしまった。
自然と対峙する人間ものといえばこの監督さんだけど、同じように演出なんて出来やしないそのまんまやってそれを撮影する映画。
贅沢なつくりだ。

そしてCGなしのとっても素敵な画面。
やっぱ映画はこうでなくちゃ!
くそCGでお茶を濁す映画はいかんよ。あれはスタッフの努力が見えない。
宇宙戦艦ヤマトのまわりこみもCGでやったってつまんない。あれは「おれたちはこんなことができるんだぞ!」ってやってみせてくれたアニメーターの苦労がそこにあるのが感じ取れてはじめて「おおおおおおおお!」って思えるもので、CGでやったら芸がない。

まあ、見る前はきっと画面だけの映画だろうなあって思ってたけど、
実際そういうふうにも見えるけど、
いやいや、見てよかった映画だったよ。
映画愛といいましょうか、職人愛といいましょうか・・。

もひとつ、子供のころ、小学校のころだけど臨海学校で手旗信号ならったのだけど、
徐々に感覚がもどってきて、最後読めた自分に感動した。
おおおおおおおおおおおおおおお! すげえ、もう40年ちかく前の記憶なのによみがえってる・・って。
でも、あれはカタカナの字幕にしてほしかったかな・・・。

とまあ、いろいろあったのだけど、なかなかたのしませてもらった映画でした。。
木村大作は日本の映画界、いや世界の映画界の至宝だ!!
でも監督はやらないほうがいい・・。
でも至宝だ!!
by ssm2438 | 2009-06-21 01:47 | 木村大作(1939)

ジャッカル(1997) ☆

f0009381_1833016.jpg監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ
脚本:チャック・ファーラー
撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ
音楽:カーター・バーウェル

出演:
ブルース・ウィリス (ジャッカル)
リチャード・ギア (デクラン)
シドニー・ポワチエ (プレストン)
マチルダ・メイ (イザベラ)

       *        *        *

初めてこの映画を見る人にとっては普通のハリウッドのエンタメ映画でしょう。しかし、フレッド・ジンネマンの『ジャッカルの日』を知ってる人にとってはクソ映画です。

チェチェン・マフィアのボスから米国の情報機関の要人暗殺を依頼されるブルース・ウィリス。この情報をつかFBI副長官プレストン(シドニー・ポワチエ)とMVD[ロシア情報局]のコスロヴァ少佐(ダイアン・ヴェノーラ)はジャッカルの足取りを追うために、元IRA幹部のテロリスト、デクラン・マルクィーン(リチャード・ギア)を召喚する。彼は仮釈放とジャッカルの素顔を知るイザベラ・ザンコーナ(マチルダ・メイ)を協力者にすることを条件に捜査に加わる。イザベラとデクランはふたりの間の子供をジャッカルに殺されたという因縁があった。
ブルース・ウィリスは、遠隔操作が可能な究極兵器を入手しカナダ経由で米国へ潜入。ジャッカルの標的が実は大統領夫人であると知ったデクランは、先回りして遊説先の会場でジャッカルを待ち受ける。

ああ、クソ映画クソ映画。ジャッカルがリモコン操作の大口径の重機なんか使うかっ!? こんなジャッカルなんてみたくなかった。がさつすぎる。ジャッカルはもっと、クールで繊細でストイックで頑固でないと。こんなクソ映画に栄光ある「ジャッカル」の名前をつけないで欲しい。クソリメイクの象徴のようなクソ映画である。もうマイケル・ケイトン=ジョーンズはクソ監督の一人であると断言する!
by ssm2438 | 2009-06-19 18:33