主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

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f0009381_0401972.jpg監督:ジョセフ・サージェント
脚本:ジェームズ・ブリッジス
撮影:ジーン・ポリト
音楽:ミシェル・コロンビエ

出演:エリック・ブレーデン
    スーザン・クラーク

     *     *     *     *

軍事力強化の流れからコンピュータにその管理を任そうとしたら、結局人類自体を管理するのが一番戦争にならないという結論になり、コンピュータが人類を支配する話。今ではよくある話だが(当時でもよくあった話だと思うが)、実にその話のディテールがしっかり描けてるというのがこの映画。

監督はテレビ映画専門のジョゼフ・サージェント。しかしたまに劇場映画も撮るのだが『サブウェイパニック』(1974)は地味だが良く出来ていた。地下鉄ジャックというけっこう無理そうなシチュエーションを最後まできちんと緊張感持続させていた。最近また『サブウェイ123 激突』としてリメイクされている。

そしてこの映画を見たいとおもったのは脚本のジェームズ・ブリッジス。私の大好きな『ペーパーチェイス』の監督・脚本だし、原発の危機を説いた『チャイナシンドローム』もこの人だ。基本は人間性の欠如に対してNGをだしている人で、行き過ぎると反政府とか反権威とかという私の嫌いな方向性に転がりかねない危険な臭いもしないではないのだが、映画として当りの映画はきわめてきちんと当たっている。

しかし、タイトルはいただけないなあ。こんなタイトルつけちゃったら福田純『エスパイ』でもみようかって人でないとみないんじゃないかなあ(苦笑)。ちなみに原題は『コロッサス:フォービンプロジェクト』。コロッサスというのは巨大コンピュータの名前で、フォービンというのはそれを開発した科学者の名前。
たしかにタイトルはひどいけど内容はしっかりしてる。1970年という時代を考えるとコンピュータなんかの描き方は古さを感じるが、当時としては予想される世界情勢や、そのときに人間の対応のしかたをしっかりシュミレーションしてくれているようにみえる。なによりコンピュータと人間のやり取りがみていてわくわくする。これがなにより素敵。

<あらすじ>
米ソの冷戦時代。アメリカ政府はフォービン博士(エリック・ブリーデン)の指揮のものと、無敵コンピュータを開発し、ソ連からの攻撃に対処しようとしていた。コロッサスはロッキー山脈地下深に設置され、国内外のいかなる破壊工作も受けつけない、自給自足なコンピュータだ。国中の有識者をあつめてコロッサスをたちが照ると、コロッサスはもう一基同じようなコンピュータが存在することを感知する。ソ連も同じようなコンピュータガーディアンを作っていたのだ。

このへんから徐々に人間とコンピュータの思惑がすれ違ってくる。
アメリカ政府はソ連と対峙しながら恒久的平和を求めたのだが、コロッサスはソ連とのコンピュータ:ガーディアンと連携してアメリカの恒久的平和を確立しよう考える。アメリカ政府にしてみれば、相手のコンピュータと仲良くなって欲しくのだがコロッサスはガーディアンと連携しようとすしはじめる。人間が強制的に回線を切ると、「ガーディアンとの回線をひらけ。言うこと聞かないとミサイルうっちゃうぞ」って今度は人間をおどしてくる。

<アメリカ・コロッサス>対<ソ連・ガーディアン>の構図が<コロッサス・ガーディアン>対<アメリカ・ソ連>に変わっていく。お互い共通の敵ができれば昨日の敵は今日の友なのだ(苦笑)。

両国首脳は両国の科学者を1人ずつローマに派遣して対策を協議させることにした。しかしそれもたちまちコンピューターに感づかれ、ソ連の科学者クプリン博士はコンピューターの指令によって派遣された兵士に殺される。フォービンが助かったのはコンピュータと人類の仲介役として一人はコンピュータのエキスパートが必要だと判断されたからだ。この時点でコンピュータの支配はほぼ完了する。

そのような管理下のなかでフォービンたちのグループはコロッサスを停止させるための工作をつづける。しかしフォービンは自宅軟禁の状態であり、彼らと直接コンタクトとることはできないが。なので開発グループの女性スタッフクオレ(スーザン・クラーク)を仲介やくに立てる。
男には性欲を満足させる必要があること。そしてストレスから開放されるためにプライベートな時間は不可欠だということ。ゆえに彼女と情事の最中は監視はしないことを要求するフォービン。これを理性的に受け入れるコロッサス。このあたりがこの映画の紳士的なとこなんだよね。

はじめてクオレが訪れた夜、その時間になるとコロッサスはクオレにきているものを総て脱ぐことを命じる。命令にしたがうクオレ。同様にフォービンも。そして寝室にはいっていくふたり。そしてその部屋のなかだけはコロッサスのモニターカメラやマイクがオフになる。寝室ではコロッサスの破壊計画を伝達、その計画の進行状況の確認などが行われるが、セックスの行為にいたってしまう。
このへんの展開がじつに自然でいい。コンピュータにおける人間性の立ち入る好きのない社会のなかで、
偽装恋人のふたり、モニターはオフになっていてエッチまでする必要もないのだが、肌のぬくもりや人間的リビドーの追及をしてしまう。

以下、計画はもれ、フォービンの開発グループの何人かは処刑され数日そのまま放置される。核弾頭を摩り替える作業もみすかされていて、そのサイロは爆破される。人類の希望は消え去ったところで物語は終わる。
最後にコロッサスはこうアナウンスする、

   私に従えば、我々は共存できる。
   君たちは自由を失うというかもしれないが、
   そもそも自由とは幻想にすぎない。
   君たちが失うのは自尊心だけだ。
   だが、他人に支配されるよりも、
   私に支配されたほうが傷つく度合いは少ない。

いやいやいやいや、すごく的を得た演説だと関心してしまった。
それでも、我々がこれを受け入れられないのは、「自尊心」を失いたくないってことなのだろう。
by ssm2438 | 2009-07-30 08:29
f0009381_2171191.jpg原作:中谷国夫、杉野昭夫、小林檀
シリーズ構成:丸山正雄
演出:勝間田具治、生瀬昭憲、合正宗、芹川有吾・・他
脚本:高久進、上原正三、山崎晴哉、吉川惣司、山本優
作画監督:白土武、野田卓雄、金田伊功、青針芳信・・他
美術:内川文広、川本征平、伊藤まり子、山口俊和
音楽:菊池俊輔

声の出演:神谷明
       小山まみ
       井上真樹夫
       柴田秀勝
       
     *     *     *     *

今年世紀のアニメーター金田伊功さんがお亡くなりになりました。
2009年7月21日、心筋梗塞により57歳で死去。

『ゲッターロボG』の最終回あたり、そしてこの『大空魔竜ガイキング』、『無敵超人ザンボット3』、『サイボーグ009』のオープニング、『円卓の騎士物語 燃えろアーサー』のカイが死ぬ回のあの絶望の走り。
金田伊功さんのダイナミックでエネルギーと情熱をたたきつけたような動きはまさに神業。
私自身はもとめる方向性が違ったので金田伊功さんの動きをコピーすることはなかったのですが、それでも私のこころをゆすぶった天才アニメーターは誰かときかれたら、やはり金田伊功はそのうちの一人でしょう。

大昔のVHSひっぱりだしてきて『大空魔竜ガイキング』の金田さんスペシャル見直してみました。
「涙のデビルジャガー」、「宇宙をかける天馬」、「猛烈!火車カッター」、「壮烈!地球大決戦」
前の2本は野田卓夫さんが作監で、後ろの2本は金田伊功さんが作監。「復讐のダブルイーグル」がないのがちょっと残念・・。
個人的には野田さんが作監やって金田伊功さんが原画を描いてあばれまくってくれたときのほうが好きだ。
アニメ業界にあたえたこのふたりの功績はけっこうでかいです。

いやいやしかし・・・ガイキングはよいですな。
昔の『大空魔竜ガイキング』は大雑把でも感動的なドラマがあってとってもよかった。

さがしたらどこかに「バラの宇宙船」を録ったVHSもあるはずなんだけど・・。
これは青針芳信さんの作監でした。
青鉢さん、けっこう好きなんですよね。
青鉢さんの『ザ・ウルトラマン』好きでした。
『ガンダム』の「大気圏突入」も「セイラ出撃」もけっこう好き。

東映アニメのなかでは
この『大空魔竜ガイキング』『グランプリの鷹』は大好きでしたね。
この二つの共通点はプロデューサーの田宮武、作画に野田卓夫、ヒロインの声が小山まみ
この3人は私の青春時代に好きな人たちでした。

おくればせながら杉野昭夫の作監の作画は一番安定している。

菊池俊輔の音楽もいい。
挿入歌がめちゃめちゃかっこいい。


懐かしい名前がでてきたのでもう一人。
的場茂夫さんってアニメーター。大好きなんですよねえ。
自然物のスペシャリストで、この人の描いたシーンをスクリーンで見るのが大好きでした。
プロミネンスの海やら、アルカディア号やヤマトの発進シーン、イシュメールの発進シーンもそうだったような、
あと関東平野が浮き上がるシーン、惑星メーテルが崩壊するシーンとか・・、
この人のかくものはデカさが素敵。
当時のアニメで巨大なものの崩壊シーンといえば的場さんってイメージでした。

ああ、なつかしい・・・。


そういえばどっかに『ザンボット3』もVHSでとってたはず・・。
あるだろうか・・あとでさがしてみよう。。。
by ssm2438 | 2009-07-27 09:51

ショーガール(1995) ☆☆

f0009381_20325248.jpg監督:ポール・ヴァーホーヴェン
脚本:ジョー・エスターハス
撮影:ヨスト・ヴァカーノ
音楽:デヴィッド・A・スチュワート

出演:エリザベス・バークレイ
    カイル・マクラクラン
    ジーナ・ガーション

     *     *     *     *

『ロボコップ』『トータルリコール』『氷の微笑』とヒット作を連発していたポール・バーホーベン。その次の作品がこの『ショーガール』。しかし結果的にはラジー賞数々受賞作品になってしまった。

個人的にはそれほど悪くないと思うのだけど・・。ショーという舞台を女のコロッセオとみたてて、ショーを演じながらの格闘技。このコンセプトは決してわるくはないし、見栄えとしてもけっこう出来ていると思う。ただ問題は、男が見て愛せる女がいないことがうけない理由なのだろう。

あと長い!これ、もうちょっと短くテンポ良くまとめたらもっとみられるものになっていたはずなのに、なんだかトータルな編集がまるでできてない。ダンスを教えるというあの男のからみを全部はずして、シンプルな熱血エロチックダンス格闘ドラマにして、エロさを美しく強調してやれば決して悪くないと思うのだけど。

エロというのはファンタジーでないといやらしくないのである。となりのおじちゃんとおばちゃんがエッチしているところをみたとしても立つものもたたない。われわれがエロいと思っているのは所詮ファンタジーで、アダルトビデオや映画の監督が演出した、あるいは本の編集者が編集したものであって、実際のエッチにはエロさは感じないものなのだ。
by ssm2438 | 2009-07-26 09:06
f0009381_20103991.jpg演出:池田宏
原作:石森章太郎
脚本:辻真先
    池田宏
作画監督:小田部羊一
美術:土田勇
音楽:小野崎孝輔

声の出演:野沢雅子
       納谷悟郎
       岡田由紀子
       名古屋章

     *     *     *     *

私が10才のころの東映漫画祭りの映画。劇場でみたわけではないのですが、その後テレビでやってるのをみて心ときめいたのを覚えています。あらためてみるとかなりご都合主義の展開にちょっと興ざめするのですが、それでも今のアニメの規範が垣間見られて楽しい思いがします。
『宇宙戦艦ヤマト』の西崎プロデューサーはこれをみて、「いつかこれを作ってやるぞ」って思ったのでしょう。
あれ、これどっかでみたような・・、これもどっかでみたような・・って『宇宙戦艦ヤマト』のいくつか思い当たるシーンが・・。

作監は小田部洋一『太陽の王子ホルスの大冒険』などで原画)、原画に宮崎駿の名前もみえます。きっとゴーレムを攻撃してる戦車のあたりはそうなんでしょうね。新ルパン三世の最終回「さらば愛しきルパンよ」の戦車のシーンをイメージがダブります。

ただ、この映画がすごいのは、資本主義にやどる悪徳の構図を子供にわかりやすく説明している点。アンチ資本主義というものではないと思うのだけど、企業が国家と結託して利益を得て、おおきくなっていくメカニズムを子供にわかりやすく解いてるって点が特筆すべき点かな。

あとエンディングの「隼人のテーマ」はかっこいい!
カラオケで一回だけうったったことがあるが、これを入れてるカラオケってどこだったのだろう?
でももうリストにないきがする。。

<あらすじ>
家族と一緒にでボートを楽しんでいた隼人は崖から落ちる車を目撃。その車にのっていたのは父の会社の黒汐会長とその妻だった。雨も降り出し、仕方なく岬の上の廃墟となった洋館に会長夫妻を運ぶ。その屋敷はある家族が何者かによって皆殺しにされた場所であり、時折幽霊があらわれるといわれて誰も近づくものはいなかった。幽霊など信じないという隼人だったが、そんな彼の前にドクロの顔をした幽霊が現れ消えていった。

数日後、隼人と父が街に出かけている時、幽霊船の使者と名乗る巨大ロボット・ゴーレムが現われ、街を破壊しはじめた。防衛軍の戦車隊や戦闘機が出撃するが、全く歯が立たない。その惨劇のなか父と母を失う隼人。しかし息をひきとるまえに父は、隼人に「お前は私たちのほんとうの子供ではない」とかたり実の両親の写真を隼人にたくす。

両親を失った隼人は黒潮会長のところにひきとられることになる。ニュースでは巨大ロボット・ゴーレムが出現し、街を破壊していることを放送していた。しかし幽霊船が東京湾に出現にあらわれゴーレムに攻撃をかける。ゴーレムはダメージをおい海へと落ちていく。
「ゴーレムはゆうれい船の使いではないのか?」疑問の念がわく隼人。
いつの間にかいなくなっていた黒潮会長を探して邸内を詮索していると地下には秘密の兵器工場があり、しかもさきほどやられたゴーレムがそこにあるのだ。さらに驚くことには、黒潮会長はボアと呼ばれるなにものかに指示されているらしいということ。

隼人は、黒潮会長自身がゴーレムを操っていること、黒潮邸の秘密、黒幕のボアのことまで、テレビ放送で暴露する。その時、巨大なカニがスタジオに乱入し、スタジオ内は大混乱に陥る。ボアの名前が表に出たことで存在価値がなくなった黒潮会長をあっさり消し去った巨大カニは、凶暴なツメを隼人に向けた。必死に逃げる隼人だが、テレビ局の屋上に追い詰められてしまう。絶体絶命の隼人を救ったのは、空飛ぶゆうれい船だった。
隼人を乗せたゆうれい船はボアを倒すために飛び立っていく。
by ssm2438 | 2009-07-25 18:25
f0009381_1550961.jpg監督:ヘンリー・コスター
脚本:ブルース・マニング
    チャールズ・ケニヨン
    ハンス・クレイリー
撮影:ジョセフ・ヴァレンタイン
音楽:チャールズ・プレヴィン

出演:ディアナ・ダービン
    アドルフ・マンジュー
    レオポルド・ストコフスキー

     *     *     *

能天気アメリカ映画の傑作! 大好きな映画のひつつです。
当時のアメリカは孤立主義をとっていて、世界大恐慌から復活しかけてるころのアメリカ。それでも失業者は多かったのでしょう。一方ヨーロッパではドイツ軍がポーランドに侵攻し始め、そろそろ第二次世界大戦の足音が聞こえかけてるくらいの時期。そんな時期にアメリカは世界万博なんかをやってたというコントラストが妙な感じ・・。そして映画のなかではブルジョワ階級と労働者階級の圧倒的な違いをみせつけられる。このコントラストもアメリカならでは。ちょっと日本人にしてみるとそこまで階級差があるのか??って思ってしまう。
そんな歴史背景はいいとして、この映画とっても天真爛漫でよいです。行き当たりばったりなのですが、結果的にはいいほうに転がってしまい、終わりよければ総て良しという、勢いと乗りだけでみせてしまう直球勝負映画。でも先ごろこんな映画をなかなか見ることがないので今となってはこういうスタイルもけっこう際立っているのかもしれないと思ったりする。
とにかくディアナ・ダービンが可憐で健気で可愛い。この子が多少わがまま言うんだったら許してしまいたくなる(笑)。実際この物語の中でもかなり横暴な行動力を発揮してますが、結果は総て好転するという幸せを運ぶ少女になっております。

<あらすじ>
まだまだ失業率のたかいアメリカ、レオポルド・ストコフスキーが指揮しているコンサート会場の裏側では、トロンボーン奏者のカードウェル(アドルフ・マンジュー)が採用を断られている。肩を落として帰路につくカードウェルのまえでコンサートから返る客の着飾った婦人が財布を落とす。それを拾って持ち主に返そうとするのだが、彼女はきづかず車にのって立ち去ってしまう。
アパートに着くと大家からは家賃をせがまれ、その財布の中からつい出してしまうカードウェル。それをみた娘のパツィー(ディアナ・ダービン)は父親が仕事を得たのだと勘違い、その勢いに否定することも出来ず翌日仕事もないのにトロンボーンをもってコンサート会場に出向くことになる。

興味本位でそのコンサートの練習をみにでかけるパツィー。しかしそこに父の姿はない。
事実をしったパツィーはその財布を持ち主に返してくるという(どうやら財布の中に住所がわかるものがあったらしい)。彼女は投資家のフロスト氏の妻であった。
財布を返しにいくと、そこではパツィーの周りでは想像できないブルジョワパーティの真っ最中。財布を返し、お礼は家賃で使ってしまったそのお金分ということでチャラにしてもらい返ろうとすると「なかなか面白い子ね」と気に入られ、その婦人にしてみれば冗談のつもりで言った「もしあなたが失業中の音楽家たちを集めてオーケストラをつくれたスポンサーになるわ」という話を真に受けたパツィーは、その旨を父のカードウェルに話すと、失業中の音楽家たちがガレージにあつまりたちまちオーケストラが出来上がってしまう。

この物語の素晴らしいところは、<ありえない場所でのありえないイベント>という画面効果。ジェーン・カンピオン『ピアノレッスン』でも、“浜辺にぽつんとおかれたピアノ”というビジュアルだけですでに感動してしまう。
ドラマづくりのひとつのテクとしてこの「ありえない場所に、それを登場させる」というのは見ている者にインパクトを与えるものなのだ。それは楽器に限らず、大都会に出現するゴジラであり、マンハッタンに出現するキングコングであり、デンマークの宗教色強い田舎に出現するフランス料理人のバベットだったりもする。

ガレージにあつまった音楽家たちが久々に自分の才能を発揮できる場所を得て嬉々として練習にはげんでいる姿は実に幸せそう。アーティストがどんなに才能があってもそれを発揮できる場所がなければ意味がない。彼らの才能を見抜けるスポンサーがいればそれは投資として成功するが、見抜く能力がなければアーティストも無になる。本作品のスポンサーは残念ながらその才能はなかったようだ。そのフロスト婦人はそんなことは知らん顔で海外旅行、その夫のフロストも「妻がまたアホなことを言ったらしい、はやく解約せねば」とガレージに向かう。

「君らには才能があるかもしれんが花がない。どっかから有名指揮者でもつれてくれば別だが・・・とにかくこれまでにかかった経費は払うから、この話はなかったことにしてくれ」と話すフロスト。
「しばらくの間だったがいい夢をみさせてもらったよ」と残念そうに帰っていくガレージの音楽家たち。そんな姿をみて「もしかしたらストコフスキーにお願いできないか?」と思い立つパツィーは、能天気な行動力を発揮しストコフスキー楽団の練習に忍び込む。彼の楽団は美しい音楽を奏でているとパツィーものせられてついつい歌いだしてしまう。最初はとまどう楽団員たちだが、その歌声に聞きほれ彼女の歌が終わるまでフォローし、最後は楽団員から拍手をうける。
その勢いでガレージのオーケストラの指揮をたのめないかとストコフスキーに頼むのパツィーだが、すでに海外での仕事が決まっていて出来ないと断られる。物語はそのあといろいろこじれるのだが、もう一度だけストコフスキーに頼んでみてくれないかと迫られるパツィー。再びストコフスキーの邸宅にしのびこむ。

「君はいつも入ってはいけないところに入り込むね。その理由をきかせてくれないか?」とストコフスキー。
「聞いてくれますか?」とドアをあけると一回から二回へつづく階段とその踊り場に勢ぞろいした音楽家たちが音楽をかなで始める。このコンサートが圧巻。<ありえない場所でのありえないイベント>第二段。大邸宅の階段に陣取ったオーケストラは立体的な立ち位置で構成され見事っとしかいいよがない。その音楽を聴きストコフスキーも徐々に腕を降り始める。

かくしてストコフスキーはガレージ音楽家たちの楽団を指揮してコンサートを行うことになりハッピーエンドとなるのであった。
彼女の行動はほんとに傍若無人というか、実際にはありえない傲慢な行為なれど、そこはそれ映画というファンタジーがそれを許してくれるのだろう。強引な物語を彼女の可愛さと健気さと天真爛漫さで一気に押し切られた感じでした。
by ssm2438 | 2009-07-25 16:18

イルカの日(1973) ☆☆☆

f0009381_5244915.jpg監督:マイク・ニコルズ
原作:ロベール・メルル
脚本:バック・ヘンリー
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:ジョージ・C・スコット
    トリッシュ・ヴァン・ディーヴァー 
     *     *     *

「ふぁあああああああああ~~~~~」
「ぶぃいいいいいいいいい~~~~~」
「ぷぁあああああああああ~~~~~」
この映画を見た後はやたらとこんな音をだしたくなるのです。

さきごろハルストレムの『HACHI 約束の犬』が公開されたが、動物ものの卑怯なところはあの純粋さですね。彼らの世界には「嘘」という概念がないのでここがドラマになるところでしょう。なにかの本で読んだことがあったが、「<嘘>というのは言葉に帰属する概念だ」というようなことが書いてあった。言葉がなければ<嘘>も存在しないというわけだ。まさにその通り。
だからといって言葉がない世界がいいのか?」といわれればネガティブだ。私は嘘が入り込んだとしても言葉のある世界のほうが好きだ。これは<心>の問題とよくにている。よく動物愛護団体なんかは「動物は必要なぶんしか殺さないが、人間は必要以上のものを殺す」という発言をするものだ。っこんなことをきくと「・・・だから人間がけしからんのか?」と聞き返したくなる。
なんでも人間が心を持ったのは紀元前500万~800万年まえ(ちとウル覚え、ちがってたらすいません)だそうで、なんでもそのころから死んだ人猿が埋葬されたけいせきがあるそうだ。つまり心をもたない動物であるなら、死体もそのままにしておいたはずだ・・ってことなのでしょう。もしかしたら腐って悪臭をはなつから土をかぶせただけかもしれないすが・・、とりあえずその学者の話では、そのころをもって人が心をもった時期と設定しているとか。理解できる解釈です。人ザルは心をもったゆえに未来に関して恐れだすのです。もしかして食べるものがあと一週間なかったらどうしよう・・とか。だったら必要以上に捕っておくべきだという発想になるのは当然でしょう。
それ以上に優越感も重要なポイントだろう。本来1対1では勝てないライオンなんかを相手にして、銃という文明の利器を手にした人間はそれを使用して食べないのに殺す、快楽のために殺す、虚栄心のために殺す・・というのも心をもったからだ。
さらに心をもった人間は月に旗をもっていった。旗ですよ。象徴です。これらも総て心をもったからそういう行動にでたのであって、進化の過程では不可避な進化だったのだろうと考える。そしてそれにともなう<嘘>という概念が発生することも、受け入れるべきことだと思う。なので嘘の存在しないイルカの世界が純粋だと思えても、それが人間の世界より素敵なものだとは全然思えないのが私の感じるところだ。


それでもこの物語はこのツボをヒットしている。
ある財団からフィナンシャルな援助を得て海洋動物学者のジェイク・テリル博士(ジョージ・C・スコット)は、ある島でイルカに人間の言語をわからせる研究をしていた。そのなかで一匹のアルファー(通称ファア)と呼ばれるイルカが言葉の認識と舌足らずのかわいい声で単純な言葉ならはなせるようになっていた。
しかしその財団の目的はイルカに命令し、爆弾を背負わせ、大統領のクルーザーに爆弾をしかけあんさつしようとする計画をたてていた。そのためにイルカに人間の言葉を理解させる研究に興味をしてしていたのだ。

ファーはもう一匹のメスのイルカベータ(通称ビィー)と一緒に飼われていた。
あるとき財団の上層部の人間たちがやってきて研究の成果をみているとき、冗談で「このプールにはサメがいるぞ」っというろビーはおどろいてネットをとびこえ沖へと逃げ出してしまう。「ファー、ビーを連れ戻すんだ」と命令するテリル。
結局ファーがビーを連れ戻してその場は事なきをえたのだが、ファーがぼそっと「人間・・、ないことを言う」と語りかえる。イルカたちも言葉を覚える以上だんだんと嘘も覚えるのだろう思われるが、この物語の時点では純粋さだけが輝いている。

そうしているとテリルたちは財団に呼ばれしばらく研究施設から離れた隙に、彼らはファーとビーを略奪、2匹のイルカの背中に爆弾を背負わせ大統領のクルーザーの船底にそれを設置してくるように命令をだして送りだしていた。
ま、それこはそれ、悪人たちの悪巧みは失敗におわる。
そしてテリル博士のもとにもどってきたファーとビーにテリルは、お前たちはふたりで海へ出て行け、そして二度と人間と話すな、と命令する。離れようとしないファーは「ぷぁあああああああああ、ぷぁあああああああああ」と切なく呼ぶ。そんなイルカたちに振り向くことなく「パー、イズ・ナット!(パパはもういない)」といい去っていく。それでも「ぷぁああああああああ、ぷぁああああああああ」と呼ぶイルカ。振り向きたいのをこらえてさるテリル夫妻。せつない。。。

あきらめて海へでていくファーとビー。
やがて財団は生き残ったテリル夫妻を処分するために殺し屋たちを乗せた飛行機が着水して研究所のあるしまえ近づいてくる。


正直なところ、ちょっと大統領暗殺にイルカを使うという発想はかなり無理があり、それを博士の言葉で大逆転、犯人たちのクルーザーに爆弾をつけて作戦をひっくりかえしてしまうストーリーにもむりかあるのだが、このさいその辺のおおざっぱさは眼をつぶろう。
ポイントは<嘘>のないイルカの世界と言葉と嘘を使い分ける人間の世界の対比だったのだろう。ストーリーはちょっと無理があるが、一見の価値のある映画だと思う。
by ssm2438 | 2009-07-24 22:50 | W・A・フレイカー(1923)
f0009381_2242249.jpg監督:ジョー・ダンテ
脚本:ダナ・オルセン
撮影:ロバート・スティーヴンス
音楽:ジェリー・ゴールドスミス

出演:
トム・ハンクス (レイ・ピーターソン)
キャリー・フィッシャー (レイの妻・キャロル)

       *        *        *

天下(当時)のトム・ハンクスなれどこれははずしたなあ・・。

全然おもしろくなかった。トム・ハンクスも全然たってないし・・なんですか、これは????
監督は『グレムリン』ジョー・ダンテ。まあ、あんまり才能ある人ではないので、この程度かもしれないなあ。
余談だが、トム・ハンクスでは『赤い靴をはいた男の子』という、これもあたりそうで実は大ハズレが映画もある。それにまさるともおとらない、ハズレ映画であった。

<あらすじ>
レイ・ピーターソン(トム・ハンクス)は、妻のキャロル(キャリー・フィッシャー)と息子デイヴと共に郊外の住宅地メイフィールドに住むんでいた。しかし隣に引っ越してきたクロペック一家は1ケ月も経つというのに、全く姿を見せないそんなこんなで、近所に住むアート(リック・ダコマン)とリッキー(コリー・フェルドマン)と共に屋敷を監視する。そんなさ中、近所に住むウォルター(ゲール・ゴードン)が突然失踪する。意を決したレイは、キャロルや元軍人のマーク(ブルース・ダーン)らと共にクロペック家を訪ねるが、どうも彼らは怪しい。レイは屋敷に何か隠されていると信じ、クロペックが留守の間を見計らって隣人たちと共に屋敷を探る。

所詮、ジョー・ダンテって映画でした。ああ、時間の無駄。疑心暗鬼のどたばただけの映画。
by ssm2438 | 2009-07-21 22:42
f0009381_242279.jpg監督:ダグラス・デイ・スチュワート
脚本:ダグラス・デイ・スチュワート
撮影:フレッド・J・コーネカンプ
音楽:デヴィッド・フォスター

出演:カーク・キャメロン
    ジェイミー・ガーツ
    ロイ・シャイダー
    ティム・クイル
    アマンダ・ピーターソン

     *     *     *

実はこの1年、私に多大な影響を与えてくれた英会話学校の先生が1年後の留学(予定)を控えて辞めてしまい、とっても残念な気持ちになってしまってる最中。プライベートでも仲がよかったのでほんとに淋しい思いをしてる。
彼女は‥‥、私が“アニメーターになるぞ!”って思たち、それを成し遂げたように、大学の間に英検1級を取ってしまった人。それも海外留学の経験などなくて、国内の勉強だけでそれを成し遂げしまった人。 1つの目的を成し遂げるとは、こういうふうにするんだ。こうしたら出来るんだ‥って知ってる人。
“これを成し遂げたい”って思い立ったら、その時はもう、その人のなかにそれを成し遂げるだけの力は存在してる。あとは、そこまでの道のりを具体的にイメージして、それを1つ1つ成し遂げて行けば、最後にはそれが出来てしまうんです。何かを成し遂げた人は、そのことを確かめだけ。誰もが出来ることを、自分も出来るんだって確かめただけ。私が東京から、岡山まで歩いて帰ってみたのも、誰もが出来ることを、自分も出来るんだって確かめてみただけ。 そのことを彼女も知ったんです。そんな彼女の事を想うと、やっぱりマイナーだけどこの映画は紹介しとかないといけないかなって思ってしまった。
今回はほんとにマイナー中のマイナー映画、この映画を知ってる人がいたら、かなりの目が肥えてる人だといって間違いないでしょう。 この映画、公開されたときは『青春!ケンモント大学』。 ビデオ発売になってか原題どおり『リッスン・トゥ・ミー』に変更されてます。 東京でもマイナーな公開で、銀座の映画館1館だけ、それでもどうしても観たくて行って、 えらく感動して、最終日にもう1回見に行ってしまいました。

当時の日本の内角は海部内角時代(だったと思う)。その海部首相が大学時代にディベート部だったってことが話題になったことがあったけど、この映画はそのディベート部の話。
当時‥‥というか、今もそうですが、私はシナリオ回しで見せてくれる映画が好き。裁判ものなんかは大好きでした。大袈裟なアクションも無ければ、ミラクルもない。ひたすら台詞回しだけで見せて行かなければならない、ライターさんの技量 次第ってところが大好き。この映画、裁判ではないけれど、似たようなものですよね。 監督は『愛と青春の旅立ち』のシナリオライターだったダグラス・デイ・スチュワート。 メガホンを取るのはこれが始めて。 “あの映画の脚本家の人が監督やって、それもディベートが題材なら意地でも見なければ‥‥”って思って観たのがこの映画。
観た感想は、とにかく言葉が熱い! 燃える! あと、お金、無かったのね‥‥(苦笑)。
キャストみても、ほとんどの出演料はロイ・シャイダーが持って行ってるんじゃ無いかと思うし、たぶんそうだろうし。 できるなら、主演の女の子はもうちょっと別 嬪さんにしてほしかった‥‥かな。


夏休みが終り新学期がはじまったケンモント大学に、ディベートの奨学生としてタッカー(カーク・キャメロン)とモニカ(ジャミー・ガーツ)が入学してくる。タッカーのルームメイトの上級生ガースン(ティム・クイル)、ディベート(弁論)部のエース。しかしそんな彼の本来の夢は作歌になる事で、ディベートは政治家である彼の親が、彼に跡を継がせようと試みてるその準備段階でしかなかった。
親の呪縛から逃れられないガ-スン、他人からみれば総てを持っているかにみえた彼は、「自分には何も無い」と嘆き、酔った勢いで強引にモニカに安らぎを求めるが、拒まれ、それがもとでタッカーとこずき合いになり、あげくの果てにガースンは道に飛び出して車にひかれ、命を落とす。大会の最終弁論は、タッカーとモニカが名門ハーバード大学に挑むことになる。テーマは妊娠中絶問題。押され気味の中、土壇場にモニカが14才の時のレイプ体験を告白、形勢を逆転した。最終弁論はタッカーが怒濤の熱弁、ダグラス・デイ・スチュワートの言葉力炸裂。

とにかく言葉が熱い映画でした。
それぞれのディベートのシーンで発するそれぞれのキャラクターの言葉に力があり、個性があり、熱い。 この映画をみてると、最近の『小説家を見つけたら』の最後で、ショーン・コネリー扮する伝説の作歌が朗読する主人公の作文を、台詞なしの音楽だけをかぶせて、雰囲気だけで見せてしまったあの逃げ腰演出とくらべると、全然インパクトが違った。やっぱり文字を書く人は、言葉で感動させないといかん!!って思ってしまったよ。 (そうはいっても『小説家を見つけたら』>はそれほど嫌いではない映画ですけど) 以下は、タッカーが入学してディベート部で始めて弁論するシーンの台詞。

帽子のなかにある紙切れを取ると、そこにテーマが書いてあってそれにそって演説するというもの。
彼のひいた紙には『人生の選択』(台詞だと“Character is Destiny”と言ってるように聴こえた)と書いてあった。

この紙には『人生の選択』と書いてある。
ワトンガ出身の田舎者流に解釈させてもらうなら、
人生には性格を選択する時が来る。
いつかは判らない、‥‥15歳か、50歳かもしれない。
たとえば道端に10ドル札が落ちていたとする。
神様以外は誰もあなたを観ていない。‥‥どうする?
ネコババするか、それとも落とし主を探すか‥‥、
決めた瞬間からあなたの性格は形作られて行く。
それが人生なのだ。 (ききほれるガースン、および一同)

貧乏な同級生が居て、古タイヤで作った靴を履いていた。
服は<慈善家の施し>というブランド。
貧困ダイエットで高1の時<くる病>にかかった。
公衆電話から金を盗み、彼は捕まった。
そして高2のほとんどを少年院で過ごした。
精神科医も見離した。
しかし彼が復学すると学年で最高の成績を取り、
有数の名門大学に引き抜かれた。奨学生だ。

(ガ-スンが合の手を入れる)
“Tell me, Country bay. How did he make his change?”
  
(タッカーが答える)
“One dark night, in a smelly cage for animals,
he decided to stop listening to all the negative voices
and all the negative people,
instead of believing his own potential was infinite.”

[‥‥総ての否定的な意見に耳を傾けるのを止め、総ての否定的な人に耳を傾けるのを止め、 その代わりに信じることにした、自分の可能性は無限であること] ‥‥この台詞はしびれましたね。

それを信じることは出来ないかもしれないけど、信じる事にする事は出来る‥って。 当時、この台詞はどうしても知りたくて、ビデオが発売されたらすぐ買ってしまいました。 今となってはどう考えてもDVDにはしてくれそうもない映画なので、私にとってはめっちゃくちゃ貴重な映画になってます。
この映画自体は、金が無くてチープなパッケイジングになっててて、宣伝もろくにしてもらえず、ほとんどの人に知らてない超マイナーな映画。それでも私の中では、この台詞だけで10点満点あげちゃいます。
そしてドラマの最後、タッカーの最終弁論の最後は、 これが卑怯にもドストエフスキーの言葉でしめくくるんだ。 やるなあ、ダグラス・デイ・スチュワート。見事にしてやられました‥‥って感じでした。
by ssm2438 | 2009-07-20 15:33
f0009381_24089.jpg監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー
    ジャン・グリュオー
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:モーリス・ジョーベール

出演:フランソワ・トリュフォー
    ナタリー・バイ

     *     *     *

いやああ、これは良い。
見る前にロバート・ワイズ『ふたり』をみて、そこでちらっと出てるナタリー・バイをみると、むくむくと彼女を見たい欲望がわいてきた。ナタリー・バイは『映画に愛をこめて アメリカの夜』でとっても潔い監督補佐をやっていたのだけど、そのキャラクターの性格がとっても好きで、おかげでナタリー・バイのファンになってしまった。ただ、ナタリー・バイが出てる映画なんてほとんどVHSしかないのでどうしようかとおもってたのだが、いいやこのさい買ってしまえとやはりトリュフォーの『緑色の部屋』ロベール・アンリコ『夏に抱かれて』を取り寄せた。まだまだ役にたってしまうVHSデッキですな。

で、みた『緑色の部屋』。トリュフォーの映画なのでそんなに期待はしてなかったのだけど、これは素晴らしい。それまでは『アメリカの夜』が一番いいかなっておもってたのだけど、これは良い! こっちのほうがストーリがあるので『緑色の部屋』感情移入しやすい。
この物語の主人公は過去を保存することに現在を消費することに一生懸命な男、ダヴィンヌ。新しいことにはほとんど興味をもたず、自分の思い出を大事にしている。たぶん女には分かりづらい価値観かもしれないが、男の私にはよく理解できる。別れた男をすぐ忘れることが出来る女の脳と、それが出来ない男の脳はメカニズムが根本時にちがうのだからし方がない。

私も子供の頃は昔からの思い出がつまっているものを大事にするタイプだった。大事につかっていたシャーペンがなくなるだけで何ヶ月もショックだったり、買っていた猫が死のうものならそのショックはなかなか消えない。
ただ・・・、「これではいかん」とあるとき思いたち、そのときからアルバムを増やすのをやめた。私の写真は多分中学生のころから以降はほとんどない。自分で描いた原画やコンテもほとんどのこさない。すぐ捨ててしまう。とにかく過去は保存するべき存在ぜはなく、未来へと進化させていくための素材。今という時間を過去の保存のために使うことは悪くはないが、それよりも今の時間を未来のためにつかうことがもっと大切だと考えることにした。そしてそれを自分自身に強制させるために、過去を集めることをやめた。
この物語の主人公は、かつての自分の価値観をもった男であり、その気持ちは痛いほど理解できる。


映画はこの物語の主人公がダヴェンヌ(フランソワ・トリュフォー)が体験したであろう第一次世界大戦のモノクロ写真から始まる。彼にとってその戦争で死んでいった戦友たちは決して忘れてはいけない存在。そんな彼は妻を若くして亡くしたが、誰とも再婚することなく、家政婦をやとい聾唖の甥と暮らしていた。
そんなある日、友人ジェラールの夫人の葬儀に出かけ、安易な気休めの言葉をかける神父を追いだす。

「今、彼に必要なことは妻を生き返らせることだけだ。それが出来ないならあなたに用はない!」

棺をまえにふたりだけになるとダヴィンヌは
「もし君が彼女のために総てをささげるなら、彼女は永遠に君と一緒だ」

ダヴィンヌの家には彼の死んだ妻の写真や遺品をしきつめた緑色の壁紙を張られた部屋があり、そこは自分以外誰も入れないように鍵がかけられ、いつも一人、彼女の写真を眺めていることで亡き妻の思い出にひたっていた。彼も結婚してまもなく妻をなくしていたのだ。

ある日、亡き妻の実家のヴァランス家の家具や調度品などが競売に出されていることを知ったジュリアンは、妻の思い出の形見を求めてそこに出かけていった。そこで彼は、指輪を探しているのを快く手助けしてくれたセシリア・(ナタリー・バイ)という女性に会った。
やがて数ヶ月がたち、あれほど妻の死になきつずれていた友人ジェラールが新しい妻をつれてダヴィンヌの会社をおとずれる。裏切られた気持ちになるダヴィンヌ。

ダヴィンヌは妻の実家の競売の会場にいくとセシリアが出迎えてくれる。
「死者を忘れないことが、生きている人の務めだ」とその友人を非難するダヴィンヌ。
「上手くいえないけど、忘れることも時には大切だわ」とやんわりと否定するセシリア。。
セシリアにしてみれば、ダヴィンヌは幼い頃の憧れの人だったのだ。

ダヴィンヌはもうすでに廃刊されたと勘違いされているような雑誌「クローブ」の編集室ではたらいている。そんな彼は物静でありあまり人付き合いもしない。その出版社の社長もその雑誌社を引き払いたいと思っているらしく、ダヴィンヌにパリに出て他の出版社に勤めてはどうかという話もするが、
「この雑誌を売るのなら私も一緒につけて売ってくれ。私はここに残る」と主張する。死者に殉教する彼にとっては死んだものに忠誠をつくすことが総てなのだ。
そんな彼は死亡記事を書くのが得意であり、ある時ポール・マシーニという政治家の死亡記事をたのまれる。かれは昔同じ記者仲間だったのだが政治家に鞍替えした経歴をもつ。ダヴィンヌにとって許せない男だった。

徐々にひかれていくダヴィンウとセシリア。ダビンヌは墓地の中に廃虚となった古い礼拝堂を見つけ、そこに彼の“緑色の部屋"を死者たちの祭壇として築くために、修復する椎利を買い取った。その礼拝堂には妻だけのものでなく、彼の心に残る死者たちのすべてを集め、ひとりひとりのためにロウソクをともした。
そしてセシリアに
「この礼拝堂の共同管理者になってほしい、そしてこれを完成させてほしい」と。
「完成?」
「私が死んだら、私のロウソクをここにともしてほしい」
わずかにむっとしたような表情で立ち去るセシリア・・、立ち止まって
「私があなたのロウソクを立てるとして、私が死んだ時は、誰が私のロウソクをともしてくれるの?」

やがてダヴィンヌはセシリアがポール・マシーニの愛人だった知ることになる。
「彼が君に死者だったのか・・」絶望するダヴィンヌ、
「彼をここの死者たちと一緒にさせることは出来ない」
「もうお会いすることはありません」と去っていくセシリア。

緑色の部屋に閉じこもってしまうダヴィンヌは衰弱していく。編集社にも顔をださない、電話にもでない。医者も生きる気のないものは救えないとみはなす。しかたなく手紙を書くセシリア。

「あなたは死んだ人たちしか愛さない。イメージの中の死者はやさしいもの。
 あなたに愛されるためには、死んだ女にならないといけないのね・・」

セシリアは手紙で愛を告白する。
その手紙をよんだダヴィンヌは雪のなか倒れそうになりながら礼拝堂にやってくると中ではセシリアがまっていた。ポール・マシーニもこの礼拝堂に受け入れるというダヴィンヌ、「彼のことは忘れて」とお互い譲り合うふたり。あと一本だけロウソクをたててくれ、そうしたらおの礼拝堂は完成する・・と告げて倒れるダヴィンヌ。
セシリアは涙を流しながら祭壇のロウソクの最後の一本に火をともした。そして名前を発した。
「ジュリアン・ダヴェンヌ・・・」


トリュフォーの映画って、どこか記号的に処理するところがあり、この映画でももっと心が納得するまでの「間」をとってほしいと思うところはけっこうあるのだが、考えてみると本人がダヴィンヌを演じている以上なかなかそこまでは気がまわらなかったのかもしれない。。。
ま、それはそれとして、実にひとりの男の業が通された素晴らしい映画だ。これくらい我がままな趣旨の映画はそうないだろう。きっとこれをみた女たちは「男はなんて身勝手な生き物なの!」って憤慨するだろう。それくらいバランスをとらない映画だ。

そしてこの映画のカメラマンは『天国の日々』ネストール・アルメンドロス。玄人好みのカメラマンで姑息なフィルターとかライティングなど使わない自然光での撮影を好むプロフェッショナル。そんなネストール・アルメンドロスがとらが撮るロウソクの光にうつしだされるナタリー・バイはほんとうに美しい。
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by ssm2438 | 2009-07-19 22:05 | F・トリュフォー(1932)

エミリーの窓(1980) ☆

f0009381_1142718.jpg監督:ゴードン・ウィリス
脚本:バリー・シーゲル
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:タリア・シャイア
    エリザベス・アシュレイ
    ジョセフ・コーテス

     *     *     *     *

私の大好きな撮影監督といえばこのゴードン・ウィリスなのだけど、彼が唯一監督した作品がこれ。きっと二本目はないだろう。1980年のラジー賞も5部門(ワースト作品賞、ワースト主演女優賞、ワースト監督賞、ワースト助演女優賞、ワースト脚本賞)でノミネートされるというかなり厳しい世間の仕打ち。ゴードン・ウィリス信者の私がみても面白いとは決して思わない。これだけ面白くないのにラジー賞を免れたのは、ひとえにゴードン・ウィリスのそれまでの仕事振りが確かなもので、彼の名前に免じて免れたといえるだろう。

・・・しかし、だからといって映画が映画的にひどいわけではない。映画の基本演出はきちんとできているし。少なくとも『劔岳 点の記』木村大作よりはきちんと映画になっている(苦笑)。それにそこはそれ天下のゴードン・ウィリスが撮影しているのだからかっこいい画面に仕上がっている。つまりゴードン・ウィリスの画面だけをエンジョイしたければ、監督もかねたこの映画こそがもっともゴードン・ウィリスの本来の映像に近いということになる・・かもしれない。
そういうわけで、ゴードン・ウィリスファンにだけ勧める貴重な一本。

しかし・・・ドラマのなかでいじめられるのが『ロッキー』のエイドリアン=タリア・シャイアというのも引きが弱すぎる。もうすこし美人でだれから妄想の対象になる役者でなければなかなか成立しない話だと思うのだけど、よくこれで制作サイドはこれを映画にしようとしたものだと関心してしまう。ちょっと興味本位で、このプロデューサーの人は他になにをつくっているのだろうか?っておもって検索してみると・・・『エミリーの窓』だけ。同じくこの脚本家に関してもけんさくしてみるが、これも・・・『エミリーの窓』だけ。
どういうわけでこの映画が世に出たのか知りたいものだ。

<あらすじ>
ブルックリンの児童博物館に勤めるエミリー(タリア・シャイア)は、夫と別居し、今はひとりアパート暮らしをしていた。ある日、勤めから帰ったエミリーは、突然何者かに襲われ、ナイフで脅かされながら意のままにされてしまった。実はこのへんがポイントの一角だったりする。いわゆる最後まで犯されたのではなく、制的にいじめられた程度ということ。翌朝、近くに住む女流詩人アンドレア(エリザベス・アシュレー)は、落担しきっているエミリーを慰めに来た。
とどのつまり、このアンドレアという女流詩人がエミリーに対して愛欲をもっていて、男を使ってエミリーをいじめ、その反動で自分がエミリーの保護者になってしおうという段取り。
by ssm2438 | 2009-07-16 10:01 | ゴードン・ウィリス(1931)