主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

<   2009年 09月 ( 50 )   > この月の画像一覧

f0009381_2319446.jpg監督:エイドリアン・ライン
脚本:パトリシア・ノップ
    ザルマン・キング
撮影:ピーター・ビジウ
音楽:ジャック・ニッチェ

出演:ミッキー・ローク
    キム・ベイシンガー

       *       *       *

本来ストーリーだけなら☆ふたつでもいいんだけど、それにあまりある映像センスに☆ふたつ追加。だいたい映画がストーリーだけで見るものならキューブリックの『2001年宇宙の旅』は駄作だろう。そういう私は駄作だと思っているが、でも、ストーリーだけでみるものでもないと思っているのでこの映画はかなりおまけ。

ストーリーはいたってシンプル。現実離れした大人のファンタジー遊びをやってたが、ついていけなくなった女の話。ほら、終わってしまった。。

しかしこの映画は燃えるところは、エイドリアン・ラインのおしゃれな絵づくりの素晴らしさ。当時アラン・パーカーとかリドリー・スコットとか、イギリス出身の映像派の監督がハリウッドのその仕事場を移したのだけど、このエイドリアン・ラインもその一人。ほかの二人はやっぱり映画を撮りたいひとだったけど、エイドリアン・ラインは「映像を撮りたいんだけど、そのためにストーリーがあればいいや」みたいなタイプ。なので映画としてはシャローと言われることも多いだろうし、映画評論家には受けがよくない買った。しかし、映像だけみるならお洒落な画面連発ですばらしい。見る側のスタンスさえ変えればこの映画、素晴らしい映画なのだ。

以下、この映画にみる映像的なポイントを画面であつめてみた。
<望遠で街のなかをスケッチ>
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<露出アンダー:奥を明るく、手間を黒く>
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<鏡面効果のある床や水溜り>
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<透明感のあるものを描く・透明感のあるものを画面のなかに配置する>
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<逆光で服や髪を透けさせる>
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<人工のライティング・雨やスモークを使い光を見せる>
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<無機質なアイテムをカットとカットの間にはさみこむ>
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by ssm2438 | 2009-09-30 23:01 | エイドリアン・ライン(1941)

ストーカー(1979) ☆☆☆

f0009381_1191062.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アルカージー・ストルガツキー
    ボリス・ストルガツキー
撮影:アレクサンドル・クニャジンスキー
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ

出演:アレクサンドル・カイダノフスキー
    アナトリー・ソロニーツィン
    アリーサ・フレインドリフ

        *        *        *

実はタルコフスキーの映画の中でかなり好きな映画である。

もとちろんタルコフスキーの映画なので誰も明確な答えなどだせないだろう。本人さえ出せてるかどうか疑問である。そのときはそれでいいと持っていたが、後になって考えると「あそこはああするべきじゃなかった」「あそこはこうするべきだった」などという箇所はかならず出てくるもであって、完成した映画に作り手が100%満足することなどありえないものだし・・。
なのでこれはあくまで私のかってな解釈。かなりシンプルなのできっともっと真剣に考えておられる方ならいろいろいいたいこともあるかもしれませんが、ま、私の戯言なので・・。

f0009381_1243422.jpg「ストーカー」とは、別れた女をつけまわす男のことではありません。この映画の「ストーカー」は、ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域があり、その地域に足を踏み入れることをゆるされた道案内人のこと。誰にゆるされたかといえば、多分ゾーンにだろう。
ゾーンの奥地には、そこに行けばどんな望みをかなえられるという不思議な部屋があるという。政府はその地域に軍隊を送ったが、だれも生還しなかった。そしてその地域は立ち入り禁止区域になっていた。そこに二人の男がストーカーの男をたずねてくるところから物語りは始まる。その二人の男とは、ひとりが学者、一人は作家であった。

いくつか問題点、思考ポイントを整理してみました。今後見る人の参考になればよいのだが・・。

◇そもそもその人たちは(あるいはどの人でもいいのだが)、人はいったい何を望んでいるのか?

f0009381_1251931.jpg普通の人間は、自分が望んでいることはいくつもあり、どれが一番だなんてなかなか決定付けられない。ましては、ホントはそれを心が望んでいたとしても、理性がどう判断するかは微妙な問題。つまり・・、このゾーンの設定がどういう設定なのかはかなりアバウトなわけだ。ただ、もし、この物語の設定を鵜呑みにするのなら、ゾーンの中心部にあるといわれるその部屋に行くまでに「自分がなにをのぞんでいるのか?」ということを明確に整理しておく必要があのかもしれない。・・・しかし、それが可能な人間がはたしているのだろうか?


◇物語の初めと終わりで何か違ったことはあったか?

f0009381_1254715.jpg物語はその二人の男をストーカーの男が案内してゾーンのその場所へと案内していく。この二人が現れる前と、彼らがゾーンから帰って来た後では、どんな変化が起きたのか? つまり、それがソーンに行った人の願いということになるのではないだろうか・・(あくまで私の推測ですか)。・・では、なにが起きたのか? 

彼らがゾーンに向かう前=「列車の揺れで水のはいったコップが動いた」
彼らがソーンから帰った後=「少年の念力(?)で水のはいったコップが動いた」

◇ゾーンの中の進み方

ストーカーは、ナット(だったかな)に白いリボンかハンカチのようなものをつけて、それを投げ、その落ちたところに進みます。でも、その行為はいったい何? ちなみにそのコースを外れると・・・なにやら行けないような雰囲気におちいるみたいです。
「ストーカー」に関する記事をネットであら捜ししてると「あれは卵子にむかう精子にみえる」といった発言がありました。おお、確かにそうかも・・・。しかし、卵子は精子一人しか受け付けないものだけど・・、どうなるんだ??

f0009381_1273641.jpg3人はその部屋の入り口にたどり着きます。しかしその一人は爆弾をもっていて、そこを破壊するために来たと言います。もし邪悪な心を持った人がここを訪れて、彼の望みが叶うようならそれは世界の滅亡をいみする。ここは破壊したほうがいいというのが彼の考えでした。ストーカーの男はそれを止めます。
「俺にはここしかない、これが壊されたら、自分の存在価値がなくなってしまう」
結局3人は何もしないまま・・・帰ったのでしょう(帰りに段取りは描かれていない)。


そして最後に水の入ったコップを動かすストーカーの男の子供のカット。

誰が、何を望み、どうなったのでしょう・・・。
それは皆さんが勝手に考えてくださいって映画。


そういう私は、人の<進化>を肯定したいかな・・・って思った。
誰かにとって都合のいいこととか、都合の悪いこととか、その人の望むことであって、人の、あるいは生命の根本的な望みというのは・・、進化かなって。

ま、これはあくまで私の解釈ですが・・・。
by ssm2438 | 2009-09-29 01:29 | A・タルコフスキー(1932)
f0009381_22322621.jpg監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ニーノ・ロータ

出演
マーロン・ブランド (ドン・ヴィトー・コルレオーネ)
アル・パチーノ (マイケル・コルレオーネ)
ジェームズ・カーン (ソニー)
ジョン・カザール (フレド)
ダイアン・キートン (ケイ・アダムス・コルレオーネ)
ロバート・デュヴァル (トム・ヘイゲン)
タリア・シャイア (コニー・コルレオーネ・リッジ)

        *        *        *

ギャング映画不滅の金字塔。これから先もこれを越えるギャング映画はでてこないだろう。
個人的にはヤクザ映画とかギャング映画とか、こういう生産性のない暴力が支配する世界の映画は嫌いなのだけど、やはりこの映画はすごい。「威厳」をいうものを表現した映画としては図抜けている。ゴードン・ウィリスのカメラもすごいし、マーロン・ブランド扮するドン・コルレオーネの重厚さもすごい。
でも、この映画はすごいのは、非情なギャング社会を背景に家族愛(家族の誰かをひいきすることを強引にとおす)が描かれたところなのだろう。社会と己の感情のせめぎあい、そのなかで犠牲にするものも出てくる。それを犠牲にしても譲れないもの・・、そういうものが描かれるからこの映画はす重厚なのだ。

小学生のころこれをみて、大人の世界は恐ろしいものだと恐怖したものだ。なかでもあの馬の首はほとんどトラウマ状態。シーツをめくってみたら愛馬の首がベットにいれてあるなんて恐ろしすぎる。
しかし、昔はきちんと映画って怖かった。映画館のあの暗がりも怖かった。この怖さに耐えられる精神力があってはじめて大人になれるのだなあって当時思った。子供にとって映画というのは、大人社会を疑似体験できる貴重は時間であって、映画がお子様向けというお題目で怖くなくなったら終わりだ。映画は、子供にとっていつまでも怖いものであり続けてほしいと願うものである。

・・・しかし、技術的には最高の出来だとしても、生理的にこの手の映画も登場人物も好かん。
映画100本持って無人島にいけるとしても、この映画は入らない。

<あらすじ>
コルレオーネ(マーロン・ブランド)の屋敷では、彼の娘コニー(タリア・シャイア)の結婚式が行なわれていた。ボスのドン・ビトー・コルレオーネは、書斎で友人たちの訴えを聞いている。ファミリーのものが貧しく微力でも、助けを求めてくれば親身になってどんな困難な問題でも解決してやった。それはイタリア移民が、多民族社会で生きていくための集団安全保障条約のようなものだった。
歌手として成功したが今は落ち目になっているジョニー・フォンテーンもその1人だった。新作映画で彼にきわめつけの役があり、俳優として華々しくカムバックできるに違いないのだが、ハリウッドで絶大な権力を持つプロデューサー、ウォルツからその主役をもらえずにいた。フォンテーンの窮地を知ったドンは静かにうなずいた。ある朝、目を覚ましたウォルツは60万ドルで買い入れた自慢の競走馬の首が、ベッドの上に転がっていたのだ。それからしばらくしてフォンテーンの許に、その新作の大役があたえられた。

末の息子マイケル(アル・パシーノ)は、一族の仕事には加わらず正業につくことを望んでいたが、父の狙撃が伝えられるや、家に駈けつた。ドンの家では長男のソニー(ジェームズ・カーン)が部下を指揮し、ドンの復讐を誓ったが、一家の養子で顧問役のトム・ハーゲン(ロバート・デュヴァル)は、五大ファミリーとの全面戦争を避けようと工作していた。
ソロッツォ殺しは危険だが失敗は許されない。マイケルがこの大役を果たし、シシリーへ身を隠したが、ソニーは敵の罠に落ち殺された。ドンは和解を成立させた。ドンにとっては大きな譲歩だが、マイケルを呼び戻し、一家を建て直すための決断だった。2年後、アメリカに帰ったマイケルは、ドンのあとを継ぎ、ボスの位置についた。マイケルの才能は少しずつ開花し、ファミリーの勢力を拡大しつつあった。ある日曜日の朝、孫と遊んでいたドンが急に倒れた。しかしマイケルの天才的な頭脳で練られた計画によって五大ファミリーのボスたちは次々に殺され、その勢力は一向に衰えなかった。彼の横顔は冷たく尊大な力強さにあふれ、部下たちの礼をうけていた。“ドン・マイケル・ゴッドファーザー”の誕生である。
by ssm2438 | 2009-09-28 21:49 | ゴードン・ウィリス(1931)
f0009381_23213838.jpg監督:フランシス・フォード・コッポラ
原作:マリオ・プーゾ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:カーマイン・コッポラ、ニーノ・ロータ

出演
アル・パチーノ (ドン・マイケル・コルレオーネ)
ロバート・デ・ニーロ (若き日ヴィトー・コルレオーネ)
ロバート・デュヴァル (トム・ヘイゲン)
ダイアン・キートン (ケイ・アダムス・コルレオーネ)
ジョン・カザール (フレデリコ・“フレド”・コルレオーネ)
タリア・シャイア (コニー・コルレオーネ・リッジ)

        *        *        *

実に不可思議な構成の映画だ。
パートⅠから過去と未来へストーリーは展開、映画では過去と現代が耕作しながら描かれていく。現代のギャング社会でファミリーのドンとなってしまったマイケル(アル・パチーノ)の苦悩と、ビトー・コルレオーネがドンとなるまでをデ・ニーロ・主演で描いた前世代部。これを一緒こたにして映画として成り立つのか??と思ったが、まあまあ見えるものになっていた。ただ、二分極化してしまった話というのはどうも個人的には好きにはなれない。しかし、マイケルの時代とビトーの時代のコントラストをつけるという意味では、「あり」なのだろう。実際その効果もでている。仮にこれを世代順に描いたとしたらそれほど感動するのか?という問題なってくる。時間軸解体はある種の卑怯なテクであることはまちがいない。

ファミリーの生い立ちは、アメリカ社会にやってきたイタリア移民たちが、なんとか自分たちの利益を集団防衛するためにはファミリーという組織が必要だったんだろうな。そしてそのときにビトー・コルレオーネは、みんなから愛されていた。そんなファミリーだったが、マイケルの時代では既にギャングというのは既に時代のはみ出しものであり、世間から忌み嫌われる存在となっていった。環境がちがうなかで、後戻りもできないマイケルのドンとしての立場。そんな状況下でも、古のおきてにしたがい、裏切りものである兄を始末する決断をつだすマイケル。

本来そのファミリーに所属するものと、その組織を守りための掟だったはずが、掟だけが一人歩きし、それに人が支配されはじめたた状態と理解するべきなのかも。

<あらすじ>
マイケル(アル・パチーノ)の父、ビトー・コルレオーネはシシリー島で生まれた。ビトーが9才のとき、父と母と兄が土地のマフィアの親分チッチオに殺された。彼は移民団の群れにまじって単身ニューヨークへ渡った。1901年のことだった。ニューヨークに着いたビトーは天然痘の疑いで3ヵ月間病院に入れられた。リトル・イタリアで成長したビトー(ロバート・デ・ニーロ)は、あらゆる職業を経て、次第に頭角を現し、移民の信望を集めるようになってきた。彼のもとには弱い人々がさまざまな願いをもって訪れる。その街を牛耳る悪玉ボスのファヌッチを仕とめたのは町をあげてのお祭りの夜だった。
ビトーと妻との間には4人の子供が出来た。汽車がシシリー島のコルレオーネ村に着き、多勢の村人が一家を迎えた。ビトーは両親の仇、チッチオを襲って、自分の手でチッチオの腹を十字に刺して殺した。

マイケルはネバダ州のタホー湖畔に新居を構えていた。ラスベガス進出を狙うにはその近くが適しているとふんだからである。ある教会ではマイケルの一人息子アントニーの聖さん式が行われていた。そのあと城のような大邸宅では大パーティが催されるが、パーティが終わりるとその夜、マイケルの部屋に何者かが機関銃を乱射した。犯人はマイアミの大ボス、ハイマン・ロスの腹心ロサト兄弟だった。更に驚くべきことに、兄のフレドーまでもが、コルレオーネ家の情報をハイマン・ロスに流していた。
そんなある日、マイケルは、犯罪調査委員会に呼び出されたが、マフィアについてのあらゆる容疑を完全に否定した。その夜、妻ケイはマイケルに離婚話をもちだした。マフィアの恐ろしさと、子供の将来を想う気持ちからだった。ニューヨークに隠れていたフレドーも呼び戻された。葬儀のあともフレドーはタホー湖畔にとどまって幼いアントニーと遊んだ。フレドーはマイケルに許されていると思ったのだ。だが、船で湖へ釣りに出たところを、マイケルの命令で殺された。

初老に達したマイケルは、一人湖畔の椅子に座り、亡き父ビトーの愛情に充ちた偉大な生涯を想い、自分の孤独に胸を痛めるのだった。
by ssm2438 | 2009-09-27 20:34 | ゴードン・ウィリス(1931)
f0009381_2394523.jpg監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:カーマイン・コッポラ、ニーノ・ロータ

出演
アル・パチーノ (ドン・マイケル・コルレオーネ)
ダイアン・キートン (ケイ・アダムス)
アンディ・ガルシア (ビンセント)
タリア・シャイア (コニー)
ソフィア・コッポラ (メアリー・コルレオーネ)

        *        *        *

さすがに三作目になるとちょっと刺激はなくなってきてるかな。作品自体のカリスマ性も薄らいできているのでここまでくるとただの暴力の大行するヤクザ社会というだけの話。決して作品の質が落ちているわけではないのだが・・今ひとつときめきはなかった。個人的にアンディ・ガルシアブリジット・フォンダが嫌いってのもあるんだろうけどが、ロバート・デュヴァルがいないのはなんか・・ヤだなあ。これでかなり見る機がうせた。なんでもギャラでもめたとか。当時ソフィア・コッポラはかなり酷評されていたが、個人的には全然悪くないとおもったよ。

<あらすじ>
ファミリーのドンの地位を継承したマイケル(アル・パチーノ)が、ファミリーの存続のため兄フレドを殺してから20年を経た1979年。マイケルはバチカンのギルディ大司教と手を結び、ファミリーの永続的な繁栄を図ろうとする。マイケルのカトリック教会からの叙勲を祝うパーティーの席上で、10年前に別れた妻ケイ(ダイアン・キートン)と再会、そしてマイケルの妹コニー(タリア・シャイア)がファミリーの後継者にと思って連れてきた長兄の故ソニーの息子ヴィンセント(アンディ・ガルシア)の姿もあった。マイケルの娘メアリー(ソフィア・コッポラ)はヴィンセントに恋心をいだきはじめる。

犯罪から手を引き、合法的な仕事に移ることを宣言していたマイケルに対して、そして犯罪行為を引き継いだのはジョーイ・ザザ。しかしアトランティック・シティのペントハウスで行われた友好ファミリーの幹部会の最中にジョーイ・ザザの手下がヘリコプターを使い襲撃を行う。マイケルとヴィンセントはからくも難を逃れたものの、この襲撃により多くの友好ファミリーの幹部が暗殺されてしまう。マイケルの妹コニーの支援を受けたヴィンセントは、アトランティック・シティの襲撃の復讐とばかりにジョーイ・ザザを射殺してしまう。しかし実はこの襲撃は、ジョーイ・ザザが単独で行ったわけではなく、ヴァチカンとの関係を深めていたマイケルの追い落としを狙ったドン・アルトベッロの方針で行われたものであった。

マイケルの長男アンソニーのオペラデビューの日、家族でその舞台を見に来ていたいマイケルを狙って敵が忍び寄る。オペラと同時進行して舞台うらでは血で血を洗う抗争が展開されていた。そして上演後の拍手喝采のあと、外に出たマイケルに向けて銃が放たれた。だが狙いははずれ、撃たれたのはメアリーだった。マイケルの叫び声が響く。
それから数年後、愛するものがつぎつぎと自分のもとを去って孤独になったマイケルは、家の庭に腰かけてい静かな最期を迎えるのだった。
by ssm2438 | 2009-09-27 19:22 | ゴードン・ウィリス(1931)
f0009381_18211262.jpg監督:リチャード・ブルックス
脚本:リチャード・ブルックス
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:アーティ・ケイン

出演:ダイアン・キートン
    リチャード・ギア
    トム・ベレンジャー

        *        *        *

はじめてダイアン・キートンを劇場でみたのがこの映画。マリアンンヌ・フェイスフル似のおっきなたれ目がとってもチャーミング。それ以前に『ゴッドファーザー』でテレビではおめにかかったことはあったのですが、妙にきになってた女優さんのひとりでした。いまでも大好きな女優さんですが、ウディ・アレンとであってからはあんまり暗い役は似合わなくなりましたね。そういう意味ではこの頃のアイアン・キートンはけっこう貴重かもしれない。ヌードみせてるし・・。

そして、私のお気に入りのウィリアム・A・フレイカーが撮影。彼の画面は白系、青・赤系、黒系とどれを取らせてもダイナミック色使いになる。この映画は黒系のウィリアム・A・フレイカーが担当してます(笑)。
特に昔のフィルムは感度がいいわけではないので暗いところはとことん暗くなるので、見ているわれわれにとってはとても気持ちがいい。やっぱりこのくらいべったり見えないところは黒くおとしてほしいものだ。最近の映画はやたらと感度が良くなってしまい見えてしまうからつまらない。
同じ黒系ウィリアム・A・フレイカーだとバート・レイノルズ『シャーキーズマシン』がそうですね。あれもいらない空間を黒くべっとりおとしてあって、とてもかっこよかった。
ちなみに白系フレイカーは『天国から来たチャンピオン』 。青赤系フレイカーは『ウォーゲーム』あたりが一番有名かな。

<あらすじ>
6歳の時小児麻痺にかかったテレサ(ダイアン・キートン)、11歳の時に手術をうけて歩けるようになったが、いつ再発するかもしれないという不安をつねにかかえていた。昼はろうあ学校の先生になる教習所に通い、夜は酒場という生活を送る生活。なじみの酒場に行き、行きずりの男を求める所。孤独と絶望感。そんなテレサはある晩トニー(リチャード・ギア)という若者より誘いを受け、激しいSEXを味わう。薬も覚える。不妊手術をうける。トニーに絶縁する彼女。
クリスマスがやってきた。そのとき彼女に好感をもっていた好青年のジェームズはプレゼントを持って訪問し、ふたりでひさびさにテレサの実家に帰った。両親はまじめな彼を歓迎するが、それはテレサの気持はさめていた。その晩、彼女のアパートで彼とねることになるが、そんな彼が避妊具を持っているのに、彼女の気持は一層冷えていった。笑い飛ばす彼女にあきれて出て行くジェームス。
ある日、彼女が酒場でゲーリー(トム・ベレンジャー)という男とである。彼はホモの中年男に囲われている男だった。テレサの誘いでアパートにいった彼だがいざセックスとなると立たない。劣等感を感じる彼は些細な言葉のやり取りから彼女をなぎるつけた。血まみれになった彼女におそいかかる彼。ナイフを持って彼女の胸をさしつづけテレサは絶命する。

彼女の人生なんだったの??っていうような映画です。同じデカダントな映画でも『愛の嵐』シャーロット・ランプリングは一緒に死んでくれる男がいたなあって思ってしまった。彼女にはほんとに誰もいない。。
by ssm2438 | 2009-09-27 18:25 | W・A・フレイカー(1923)
f0009381_7132368.jpg監督:エドワード・ズウィック
脚本:チャールズ・リーヴィット
撮影:エドゥアルド・セラ
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:レオナルド・ディカプリオ
    ジャイモン・フンスー
    ジェニファー・コネリー

        *        *        *

エドワード・ズウィックってどんどんすごい監督になっていくなあ。私がこの人をはじめて知ったのは『きのうの夜は・・・』を見たときだったけど、すっごくバランスがよくって上手いなあって感心した。

何が上手いと説明するのはとても難しいんだけど、<見せる技>と<浸らせる技>のバランスがとてもいい。たとえば、これが黒澤明とかキューブリック、オリバー・ストーンなら、<見せる技>はあるんだけど、浸らせる部分がない。これでもか、これでもかとカロリーたっぷりな情報を与え続けるだけ。だから見ている側も一杯一杯になってしまう。彼らは映画作りが下手なんだ。情報っていうのは与えることと同時にそれを観客に消化・吸収させてあげる時間をあたえないといけない。エドワード・ズウィックという監督さんはそれが絶妙に上手いのだと思う。
『レジェンド・オブ・フォール』という映画があったが、あれも大河ドラマであれを黒澤明がとったら仰々しいだけの退屈な映画になっていただろう。それがエドワード・ズウィックの大河ドラマは実に見ごたえがあった。私自身、大河ドラマ系の映画は面白いともなんとも思わないんだけど『レジェンド・オブ・フォール』には感動した。
もっとも浸らせるだけで、「な、判かるだろ」っていうタイプのアンドレイ・タルコフスキーってのもいるが・・(苦笑)。

<あらすじ>
内戦が続くアフリカ、シエラレオネ共和国。漁師ソロモン(ジャイモン・フンスー)は、反政府軍RUF(革命統一戦線)の襲撃により家族と引き離され捕虜にされてしまう。彼はRUFの資金源となっているダイヤモンドの採掘場で強制労働をしいられる。そこで大粒のピンク・ダイヤを発見したソロモンはそのダイヤを地面にうめて隠す。
ダイヤの密輸業者、アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)は、刑務所でそのピンク・ダイヤの話を聞き、ソロモンに接近、家族を探す手伝いをする代わりにピンク・ダイヤの在り処を教えてくれと取引を持ちかける。
また、ジャーナリストのマディー(ジェニファー・コネリー)は RUFの資金源となっている「ブラッド・ダイヤモンド」の真相を追ってアーチャーに接触してくる。
アーチャーのおかげでソロモンは難民キャンプで家族と再会する。しかし息子RUFが連れ去られたことを知り愕然とする。それぞれの思惑を秘めて3人はピンク・ダイヤも求めてRUFのダイヤ採掘場へと向かうのだった。


この映画、すっごく出来がいいんだけど、それでも☆五つにはしがたい何かがある。これも考えてみるべき重要な課題だ。・・・それはなんなんだろうって考えた。で、思った。・・・たぶん、現実にある人の不幸を少なからずデフォルメして社会派のエンタテーメントのドラマに仕立ててるところが、ちょっと心にひっかかってるのかなって気がした。

ちなみに、正規のダイヤは、それを獲得・精製するまでの労働者に報酬が支払われている。しかしこの紛争ダイヤというのは、政治的に不安定な地域でRUF(革命統一戦線)のような団体が暴力で人を脅し、強制労働を強い、安く手に入れたダイヤんことである。一般的には、このような紛争ダイヤを買い取ることは禁止されているが、彼らは闇ルートを使って市場に流通させているといわれている。この物語のデカプリオ演じるアーチャーは現地のバイヤーである。
そのむかしSASに関する小説を読んだときにシエラレオネが出てきたのだが、こういう背景があったのですね。RUF(革命統一戦線)は2000年から武装解除をおこない、2004年に完全武装解除が完了したという。
by ssm2438 | 2009-09-27 07:09 | E・ズウィック(1952)

マレーナ(2000) ☆☆

f0009381_1312058.jpg監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
撮影:ラホス・コルタイ
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:モニカ・ベルッチ
    ジュゼッペ・スルファーロ

        *        *        *

モニカ・ベルッチが美しい! しかし、エレガントさとコメディ的な部分のバランスが良くない。コメディ要素排除してくれてたら憧れの青春妄想映画になっていたのに・・。なんでああいう作りにしたかなあ。 ・・・テレ? だとしたら最低だけど。でもイタリア人の気質だとあれもありなのかもしれないが・・・。

ベルッチをよってたかってぼこぼこにするくだりから、夫婦ふたりで人々の目線のなかを颯爽とあるく・・のくだりはデビット・リーン『ライアンの娘』をやってみたかったのだろう。あれはアイルランドでの宗教的な根深い対立が背景にあるのだが、本来父親がうらぎりものだったのを娘がそれを封印、かわりに村のものにぼこぼこにされるというもの。大衆の面前で服を破かれ、裸にされ、髪をきられる。それ以前に彼女は若いイングランド兵と不倫の関係にありそれがばれて夫婦仲はぎすぎすしたものだったのだけど、リンチのあともその彼女をささえたのは神父の夫であり、最後はふたりしてその町を出て行くという話し。「出て行く」と「帰ってくる」は若干違うのだが、基本構成はおんなじ。
このトルナトーレ、映画が好きで、いっぱい見てて「あれもやってみたい」「これもやってみたい」「自分だたらこうする」という引き出しはとても豊富なひとなのだろう。

<あらすじ>
第二次世界大戦がはじまったころのシチリア。12歳の少年レナート(ジュゼッペ・スルファーロ)は、村一番の美しい女マレーナ(モニカ・ベルッチ)に心ひかれていた。彼女は夫を兵役にとられ、ひとりでくらしていた。そんなマレーナのおっかけをやるレナード。夜になると彼女の家の木に登りマレーナを観察するのが日課になる。ある日マレーナに夫の戦死が伝えられる。経済的にもいきづまっていた彼女は、かねてからマレーナにいいよっていた弁護士の愛人となり、やがては次にナチ将校を相手をする売春宿ではたらくようになる。戦争が終わるとナチと寝た女として村の女連中からリンチにある。広場にひきずりだされ、裸にされ、髪をきられぼこぼこに蹴られる。その日のよるマレーナは村をでる。戦死したはずのマレーナの夫が帰還すると彼の家にはマレーナはいない。かわりに帰還兵の仮の宿舎になっていた。暴行され辱められたマレーナのことを聞くと愕然となる彼に、レナートは、彼女が愛していたのはあなただけだったという手紙を送るのだった。その手紙をもらった彼はマレーナを実家に迎えにいくのだった。
by ssm2438 | 2009-09-27 04:46 | G・トルナトーレ(1956)

鏡(1974) ☆☆☆

f0009381_2522158.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アレクサンドル・ミシャーリン
    アンドレイ・タルコフスキー
撮影:ゲオルギー・レルベルグ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ

出演:マルガリータ・テレホワ
    オレグ・ヤンコフスキー

        *        *        *

まったく・・・意味不明映画である。それでなくても睡魔を誘うとよく言われる(実はわたしは全然ねむくなったことおがないのだが世間ではそうらしい)タルコフスキーのなかで、もっともわけの分らない映画である。わけの分らないところは私も同感である。

実はこの映画、私がはじめて買ったDVDであった。よりにもよってよくこんなわけの分らないものを買ったものだと思う。そしてそのご3~4年は放置してからなんとなく見た映画、もっとも始めてみたのは〇〇ロードショーで、そのときの解説の人はだれだったか・・、忘れたが一番基本的なことを教えてくれていた。
「この映画を判りづらくしているひとつの原因は、一人の人が二つの役を演じているからだ。それも二人」・・だそうだ。・・ほら、もう判らない(苦笑)。

この映画現実の世界で<妻と息子><昔の母と子供の頃の自分>を同じ女性と子役がやっているのだ。・・ほら、これでもまだ判らない。なんでこんなことをしたのか・・というところがポイント。

f0009381_3201186.jpgその鍵を私はあるアメリカのポルノ映画に発見した。
ポール・トーマスという監督がとった『シークレット・パーティ』という映画だ。この映画の主人公は既に結婚して妻(ジュリア・アン)もいるが、いつもあこがれの女性の夢をみる。ビーチを歩いていると向こうからシースルーのなかいドレスをきたスタイルとのよさそうな、美しそうな若い女性がこちらに歩いてくる。かなり近づくのだがいつも彼女の顔は確認できない。そんな彼がホームパーティをやり家のそこらウ中でエッチをしている人がいる。そんなホームパーティもおわって妻とのエッチ。妻が彼のものを咥える。結合してピストン運動し、フィニッシュは顔射をしたいと強引に彼女の顔を引き寄せるが拒否される。そんな妻がしばらく出張で家をあけることになると、友達のホームパーティに行く主人公、そこでまたエッチをするが、やっぱり彼の欲求はみたされない。実はそのなかには妻も仮面をつけて参加してたりもするが・・これはあまり関係がない。主張(嘘)からかってきた妻が帰ってきて、へたってる主人公をみるとやさしくなぐさめて、フェラチオをしてくれる。のときいあのイメージの人がだんだんと近づいてくる。その女性とは・・・シースルーの衣をまとったその向こうには美しい裸体がみえる。主人公の男は妻(ジュリア・アン)の顔に射精する。そしてビーチの女をカメラが足元からパンアップしていくと・・・・、自分をみおろす母の顔があった。

・・この映画をみたとき、すげえと思った。
所詮は男の理想の女性は母なのだ。多少不満があったとしても、それを後天的にモディファイドしていったものであって、所詮は母親ベースでしかない。そして男は母のように愛してくれる女を求めているものだ。この赤裸々な暴露をしたポール・トーマスはえらいと思った。


・・・で、話をタルコフスキーの『鏡』にもどすが、やはり彼も妻も子供もあるのだろうが、その妻には母親を重ねてみているのだろう。でもそれは決して重なることのないイメージ。
男が女を愛するのは、その女自身をあいしているわけではない。男が愛しているのは、自分の中にある理想の女性=母、もしくは母からの進化系のなにか。そして自分の理想・母をその女に投影して、もしかしたらこの人が母になってくれるかもしれない・・と期待している間は夢をみられる生き物なのだ。
その女が、きっと自分の理想なのだと期待できるときはその女を愛していると思うのだが、その期待が消え去ると愛は消える。
(※実はそれもちょっとちがうのだが(苦笑)。男も場合は女とそんなことで別れたとしても「もしかしたら・・接し方が違えば彼女こそが・・その人なのかもしれない」と勘違いしなおしたりする)

この『鏡』という映画は、たぶんそういうことをベースにして作られた映画なのだろう・・と私は思う。でも、それを露骨にはかけないので、母の回想とか、自分のもっている母のイメージを今の妻に重ねているって映画になったのだと思う。
タルコフスキーはテレ屋さんなのだ。

・・あくまで私の解釈です。
この映画は10人いたら10人なりの解釈ができるだろうし、そのどれもが完全に正しいということはない映画なので、あまり真剣に考えずに映像ネタ映画としてみておけばいいのでは・・。
by ssm2438 | 2009-09-27 03:35 | A・タルコフスキー(1932)

みんな元気(1990) ☆☆

f0009381_2350113.jpg監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
    トニーノ・グエッラ
撮影:ブラスコ・ジュラート
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:マルチェロ・マストロヤンニ

        *        *        *

『ニュー・シネマ・パラダイス』の次の作品ということで、当時わざわざ銀座までみにいきましたよ。しかし・・・映画の出来はもうひとつだったかな。精気があまりかんじられなかったというか・・・どういう意図でこの映画つくったんでしょうね? いまいちそれが見えない映画でした。ほかの映画はよしあしは別にして本人の煩悩がかなり映画にでててそれなりにわかるのですが・・・これはいったい・・・・。

実はこの映画の脚本、トニーノ・グエッラである。クレジットで脚本トルナトーレとグエッラとなっているので、グエッラが書いたものトルナトーレがいじくったと思われる。彼は知る日とぞ知る地中海の巨匠脚本家。不kるくはミケランジェロ・アントニオーニ『赤い砂漠』『情事』『欲望』ビットリオ・デ・シーカ『ひまわり』トリュフォー『アマルコルド』フェリーに『ジンジャーとフレッド』タルコフスキー『ノスタルジア』、そして最近はテオ・アンゲロプロスのほとんどの作品を書いている。巨匠中の巨匠です。
・・・しかし、だからといっても商業映画としておもしろいわけではない(苦笑)。
ただ・・、トルナトーレと合うかなあ・・。ぱっとみ違うような気がするけど。。。

<あらすじ>
休みだというのに子供たちはだれも里返ししてくれない、だったらワシがでむいていっちゃる!とばかりマッテオ・スクーロ(マルチェロ・マストロヤンニ)はイタリア中に散らばる自分の子供たちを訪ねて廻る旅に出る。みんなそれなりに幸せな暮らしをしてるものだとばかり思っていた子供たちは、誰もぱっとしない人生をおくっている。自分のたいせつな子供たちが世間ではこんなにも冷遇されているのか・・と。そしてその一人はすでに自殺していた。シチリアに帰るマティオ、丘の上に眠る妻の墓には「みんな元気だったよ」と報告する。

多分この映画のマティオの子供たちはみた、煩悩にしたがって挑むことができない立場にいるひとばっかりなのだ。それで映画に精気がないんじゃないかと思うのだが・・・。
by ssm2438 | 2009-09-26 22:58 | G・トルナトーレ(1956)